第十六話③ 後悔するより守って下さい(後編)
麻衣は首を傾げた。
「どうしてそう思うんですか? 昔の彼女を大切にできなかったとか?」
「大切にできなかった、なんて程度の話じゃない」
亜紀斗は紅茶を口にした。少し温くなっていた。カップをソーサーに戻す。
「俺は、彼女を守れなかった。俺のせいで、彼女が死んだんだ」
自分でも、表情が曇ってゆくのが分かる。今思い出しても、泣きたくなる。もう何年も前なのに。自分の情けなさと弱さに、腹が立つ。
けれど、自分の弱さを自覚できたから、立ち上がることができた。自分のせいで、大切な恋人が亡くなった。自分がこんなふうに塞ぎ込まなければ、彼女は死ななかった。だったらもう、立ち上がらなければならない。
恋人を失ったときに思い出したのは、先生の言葉だった。
『償いは、許されることを期待するものじゃない。自分が壊してしまったもの以上のものを作り上げることだ』
だから、どんなに悲しくても、どんなに苦しくても、どんなに心が痛くても、無理矢理立ち上がった。壊してしまったもの以上のものを、作り上げるために。
自分を信じてくれた彼女に、報いるために。
「……」
麻衣は無言で立ち上がった。亜紀斗の隣りに来て、座り込んだ。
「もし嫌じゃなければ、話してくれませんか?」
そっと、亜紀斗の手を握ってきた。
「私に話して、それで、少しでも楽になるのであれば」
麻衣の表情は優しい。
「もちろん、今から聞くことは誰にも言いません」
優しい表情のまま、亜紀斗を和ませるように笑いかけてきた。
「って言うより、好きな人の秘密は、自分だけ知っていたいんです。だから、私だけに話してほしいです。私に話して楽になって、気持ちが私に傾いてくれたらな、なんて」
亜紀斗の心を縛り付ける、固く重い鎖。自責の念という鎖。それが、少しだけ柔らかくなった気がした。麻衣の表情のように。
少し呆れた気分になって、亜紀斗は息をついた。
「なんで俺なんかがいいんだ?」
「それは、話した通りです」
亜紀斗の手を握る、麻衣の手。少しだけ、力が込められた。
「江別署で佐川さんが異動になるって聞いたとき、実は私、泣きそうだったんですよ。そのときは、まだ、私も異動するって知らなかったんで」
麻衣のことを可愛いと思う。今までは恋愛対象として見ていなかったが、これからは見てしまうだろう。
そして、間違いなく、すぐに好きになるだろう。
――でも俺には、そんな資格なんてない。
「……俺さ、昔、ひどく荒れてたんだよ」
ゆっくりと、亜紀斗は話し始めた。自分の家庭環境のこと。そのせいで荒れて、喧嘩ばかりして、何人も病院送りにしたこと。保護観察処分になったこと。その時に出会った少年課の警察官――先生に、諭されたこと。先生を尊敬するようになり、目標にしたこと。先生の影響で、警察官を目指したこと。
「真面目に生きるようになって、彼女もできたんだ。俺にはもったいないくらい、しっかりした女だったんだ」
「その人が、守れなかった彼女さん?」
「ああ。目標があって、彼女も応援してくれて、嬉しかった。俺の親父はクソみたいな奴だから紹介しなかったけど、向こうの両親には紹介してもらえた。若かったけど、結婚の約束もしてた」
彼女は、亜紀斗と違って優秀だった。道内では難関で知られる大学に進学した。
警察学校に進んだ亜紀斗は、最終カリキュラムの検査で、クロマチン素養が確認された。SCPT隊員としての訓練を受けることになった。
ちょうどその時期だった。先生が事故で亡くなったのは。
尊敬する人の死が信じられず、亜紀斗は、葬儀の場に駆けつけた。
いたのは、たくさんの警察関係者と、先生の家族。
冷たくなってもう動かない、先生。
尊敬する人が、いなくなってしまった。亜紀斗の前から去ってしまった。永久に。
亜紀斗の中で、何かが壊れた。目の前にあった道が、全て消えたように思えた。周囲が真っ暗になり、何も見えなくなった。何も見えないから、動くことさえできなくなった。
人生の道標を失って、亜紀斗は動かなくなった。完全に塞ぎ込んだ。
彼女は、そんな亜紀斗を責めることもなく、ただ献身的に面倒を見てくれた。クロマチン素養があるからという理由だけで見捨てなかった、警察学校や訓練施設の人達とは違う。亜紀斗自身を見て、いつか立ち上がると信じてくれた。
亜紀斗の自宅に、いつも足を運んでくれた。食事を作ってくれた。食べさせてくれた。体の心配をしてくれた。
でも、そんな彼女も亡くなった。先生と同じく、事故だった。亜紀斗の食事の、食材を買いに行ったときの事故。
「あいつは、俺の世話をしてくれた。俺を信じてくれた。見守ってくれた。それなのに、俺は腑抜けて、あいつに甘えてばかりで」
自分が腑抜けていなければ。塞ぎ込んでいなければ。一緒に買い物に行っていれば。
繰り返される、「~だったら」「~していれば」という言葉。自分が、塞ぎ込むような弱い人間じゃなければ、という後悔。
思い浮かべる仮定のひとつでも現実になっていれば、彼女は死ななかった。
思い浮かべる仮定を現実にしなかったのは、自分だ。自分自身の弱さだ。
「俺が弱いせいで、あいつは死んだんだ」
「……」
麻衣は、何も言葉を返してこなかった。佐川さんのせいじゃないよ――そんな、ありきたりの慰めも言わなかった。もしそんなことを言われたら、亜紀斗は、未練など微塵もなく、麻衣を振ることができただろう。
「俺は、惚れた女を守れなかった。だから、誰とも付き合わない。誰とも結婚しない。孤独に生きて、自分がやるべきことをやるんだ」
先生のようになる。それが目標だった。だから、目標に向かって生きる。
彼女は、目標に向って生きる亜紀斗を支えてくれた。だから、彼女に報いる。それが亜紀斗にできる、ただ一つの償いだから。
「佐川さん」
麻衣は、握った亜紀斗の手を引っ張ってきた。そのまま、彼女の胸に当ててきた。
つい、亜紀斗は、裏返った声を出してしまった。
「ちょっ!? 奥田さん!?」
驚く亜紀斗を無視して、麻衣は、亜紀斗の手を、強く胸に押し当てた。
「私の心臓の音、わかりますか?」
正直なところ、少し分かりにくい。麻衣の胸が大き過ぎて、心臓の鼓動が伝わりにくい。それでも、かすかに伝わっている。
「あ……うん」
「私ね、生きてますよ」
「いや、まあ、そりゃあ……」
当たり前のことを言う麻衣に、亜紀斗は間抜けな返事をした。彼女が何を言いたいのか、さっぱり分からない。
「私は、生きて、佐川さんと一緒にいたいんです」
麻衣の顔は、真剣そのものだった。自分の気持ちの告白。でも、照れた様子も、恥ずかしがる様子もない。童顔に似合わない、強い意志を感じる表情。
「佐川さんは、彼女さんを守れなかったんですよね?」
「……うん」
「じゃあ、私のことを守って下さい」
「……は?」
「彼女さんの代わりっていうなら、それでもいいです。彼女さんを忘れられないなら、それでもいいです。ただ、守れなかったことを悔やみ続けるなら、悔やむより先に、守って下さい」
「あ……」
亜紀斗の口から、声が漏れた。何かを言いたい。でも、何を言っていいか分からない。
先生を失って、動けなくなった。彼女を失って、悔やんで、後悔を取り戻すように動き始めた。
自分のせいで大切な人を失って、孤独に生きると決意した。失った大切な人達に、報いるために。償いをするために。それだけに、人生の全てを捧げるつもりだった。
大切な人を守れなかったから、幸せになることを放棄した。守れなかった罪悪感から、幸せを放棄した。
言葉にできない気持ちが、亜紀斗の胸の中で溢れた。堪えきれず、涙がこぼれた。
「……俺が……俺が腑抜けていなければ……あいつは、今も……今も生きてたはずなんだ……」
「うん」
「俺のせいで、あいつは死んだから……だから……」
だから、自分が誰かを好きになるなんて、許されない。こんな、好きな女を守れない俺が。
麻衣は、優しく亜紀斗を抱き締めてきた。
「じゃあ、私が死なないように守って」
言葉だけなら、単なる要求。でも麻衣は、言葉とは裏腹に、亜紀斗を優しく包んでくれた。壊れそうな亜紀斗の心を、守るように。
「私を守ることを、報いにして。私を守ることを、償いにして」
亜紀斗の後悔も、痛みも。言い訳も、弱さも。
麻衣が、優しく包んでくれて。
亜紀斗は、強く彼女を抱き締めた。
※次回更新は8/4を予定しています。
自責の念に囚われていた亜紀斗を、包み込む麻衣。
咲花の側には、彼女の心を汲み取ろうとする川井がいる。
互いに影響しあって、でも互いに嫌い合って、側にいようとしてくれる人がいる亜紀斗と咲花。
彼等の知らないところでは、秀人が動いている。
たった一人で怒りと破壊に囚われる秀人が。




