第十六話② 後悔するより守って下さい(中編)
亜紀斗は、麻衣と一緒にマンションに入った。
エレベーターに乗り、三階まで行って、麻衣の部屋に着いた。鍵を開けて、玄関の中に入る。
「どうぞ。遠慮なく入って下さい」
「えっと、じゃあ、お邪魔します」
女性の家に来るのなんて、いつ以来だろうか。
女性に関する自問をするとき、必ず元恋人に行き着く。その度に胸が痛くなる。
麻衣が、リビングのドアを開けた。
家の中は、ほぼ正方形の造りに見えた。入口から見て左側にダイニング。その奥に、浴室に繋がるドアがある。右前方には、正方形の敷地を一部占領するように作られた部屋。
割と広い家だ。
リビングには、座卓テーブルがある。ガラス張りの、綺麗なテーブル。テーブルのすぐ近くには座椅子。少し離れてテレビがある。
もう一つの部屋は、寝室に使っているのだろう。
麻衣は家に入ると、すぐにダイニングに足を運んだ。
「紅茶とコーヒー、どちらがお好みですか?」
「えっと、じゃあ、紅茶で」
「はい。座って待ってて下さい」
言われた通り、亜紀斗はテーブル近くに腰を下ろした。
今さらになって、考えてしまう。
――どうしてこんなことになった?
普段の自分なら、麻衣の家に上がらずに帰っていたはずだ。どんなに好意を寄せられようと、断っていたはずだ。
好きだと言われるのは、素直に嬉しい。自分の存在を肯定されているようで。あなたは間違ってないよ、と言ってくれているようで。だから断れなかったのだろうか。心が弱っているから、認めてくれる人に縋りたくて。
――馬鹿か、俺は。
自分に苛立った。好きな人を守れなかったくせに、好きになってくれた人に縋っている。甘えている。あまりの情けなさに、消えたくなった。
もう帰ろう。帰って、オナニーでもして、自分は独りなのだと自覚しよう。自分は、好きな人すら守れない情けない男だ。誰かと一緒になる資格なんてない。だからせめて、理想を実現するために生きている。大切な人に報いるために。
亜紀斗は小さく息をついた。腰を上げようとした。
「はい、佐川さん。紅茶です」
床から少しだけ尻を離したところで、麻衣が紅茶を運んできた。トレイに乗せて、二つ。そっとテーブルに乗せた。カップソーサーまである。砂糖の入っている瓶が、傍らに置かれた。
紅茶からユラユラと湯気が昇っていて、心が安まる香りが運ばれてくる。
麻衣は、テーブルを挟んで亜紀斗の正面に座った。紅茶の中に、砂糖を一匙。カチャリという陶器の音を立てて、かき混ぜた。
せっかく入れてくれたんだから、せめて飲んで帰ろう。亜紀斗は、上げかけていた腰を下ろした。砂糖は入れない。カップを口に運ぶ。紅茶の、やや渋く香り高い味が口の中に広がった。熱くて一気には飲めないが、少しずつ喉に通すことで、心が落ち着く気がした。
「佐川さん」
麻衣が、カップをソーサーに置いた。
「私ね、佐川さんのこと、好きですよ。でも、もともとは、佐川さんが嫌だったんです」
麻衣はいきなり、本題に入った。飲んだら帰ろうと思っていたが、話が終わるまで帰れなくなった。
「職場なのに下品なことばかり言ってくるし。大して親しくもないうちから、私の胸のサイズを聞いてくるし。私をオカズにするだの、今晩のオナニーは捗りそうだとか言ってくるし」
嫌われて当然の発言が、多数。亜紀斗は意図的に口にしていたから、狙い通りと言える。それがどうして、好きになってくれたのか。
麻衣の気持ちが気になって、亜紀斗は彼女をじっと見た。紅茶を一口。
「でも、佐川さんって、下品なことを言う割に、私を呑みに誘ったりしませんでしたよね。呑みどころか、食事にさえ。私だけじゃなく、他の人も。下品なことを考えて、イヤらしいことを狙ってるなら、呑みに誘うのが常套手段のはずなのに」
まあ、そうだろう。好意があるにしろセックス目的にしろ、呑みに誘うというのは一般的な手段だ。
「それで、少しだけ佐川さんを見る目が変わったんです。この人は、女の人を欲望の対象として見てるんじゃなく、ただ単に調子に乗って、下品なことを言ってるだけなのかな、って」
息継ぎをするように、紅茶を一口。カップから離した麻衣の唇は、苦笑を型取っていた。
「もちろん、この時点でも、佐川さんに好意なんてなかったんですよ。ただのお調子者で、調子に乗り過ぎて、どこかで失敗するタイプなんだろうなぁ、って」
麻衣が語っているのは、亜紀斗の意図した展開だった。下品な発言を繰り返し、女性職員から避けられる。あるいは、馬鹿なお調子者だと思われて、呆れられる。
どうしようもない人間だと思われていたら、誰にも好意を持たれることはない。
仮に、亜紀斗が誰かを好きになったとしても。
相手に好意を持たれなければ、両想いになることはない。
それでよかった。そうしたかった。
「でも、ね。違ったんだなぁ、って思うことがあったんです」
「何があったんだ?」
つい、亜紀斗は聞いてしまった。
麻衣は、男性職員に人気がある。彼女を狙っている者も多い。そんな彼女が、よりにもよって、どうして俺なんかを好きになった?
「江別署にいたときに、佐川さんを訪ねてきた人がいたんです。その人が誰か、当時の私には分かりませんでした。業務で直接犯罪に関わることは、特にありませんから」
麻衣は、警察行政職員だ。主な仕事は、来訪者対応や電話での問い合わせの対応、犯罪統計資料の作成、表彰や行事の運営、職員への各種手当ての手続きなど。直接犯罪に関わることはない。当然、犯罪者に関わることもない。
そこで麻衣は、また、クスクスと笑った。
「白状しちゃいますけどね。私、佐川さんが、裏でろくでもないことをしてるんじゃないか、なんて思ったんです。警察官なのに、裏で犯罪紛いなことをしてるんじゃないか、って」
これには、亜紀斗も苦笑するしかなかった。
「いや、何でだよ」
「だって、調子に乗って、ちょっと悪そうな人と仲良くなって、つい勢いで悪いこともしちゃいそうだな、って。そんな人だと思ってたんですもん」
「ひでぇ」
顔を見合わせて、笑い合う。まさか、職場の女性とこんな会話をする日が来るなんて、思ってもいなかった。
少しだけ笑い合うと、麻衣は、スプーンを紅茶の中で回し始めた。砂糖を入れたわけでもないのに。
「佐川さんを訪ねてきた人、元犯罪者の人だったんですね。佐川さんに会って、何度もお礼を言って。でも、『被害者の方には許してもらえてない』って俯いて。佐川さんは、『償いは、許されることを期待するものじゃない。自分が壊してしまったもの以上のものを作り上げることだ』って諭してて」
「受け売りだよ。俺の先生――俺を救ってくれた人の」
亜紀斗は、自分を元犯罪者だと認識していた。実際には、当時少年であったことや相手にも否があったことで、保護観察処分で済んでいる。それでも、償う必要がある犯罪者だ。償う必要があるから、壊してしまったもの以上のものを作り上げようとしている。
罪を犯した者が、償い、犯した罪以上のものを生み出せる世の中。それが、亜紀斗のつくりたいもの。亜紀斗が壊してしまったものより大きな、亜紀斗が作るべきもの。
そう、信じていた。
「それからですね。佐川さんのことが気になってきたのって。よく目で追うようになって。そうしたら、気付いたんです。仕事以外の時間に、出所した人と会う約束をしてたり。電話でも対面でも、問題を起こした人達の相談に乗ったりしてて」
亜紀斗は、誰とも付き合う気がない。結婚する気もない。好意を持たれたくない。
それなのに、嬉しかった。こんなふうに、自分を見てくれる人がいる。大切な人を亡くして、独りになったつもりだったのに。独りでいるつもりだったのに。
「不思議でした。こんなに一生懸命で真面目な人が、どうして、私達の――女の人の前では、あんなに下品でどうしようもない人なんだろう、って」
スプーンをソーサーに置いて、麻衣は紅茶を飲んだ。再びソーサーに置かれたとき、カップの中は空になっていた。
「色々と考えたんです。もしかしたら、下品なことを言うと女の人が喜ぶと思ってるのかな、とか。下品なことを言うのが格好いいと思ってるのかな、とか。本当の理由なんて分かりませんでしたけど」
当然だと思う。女性を遠ざけるために下品な発言を繰り返しているなんて、誰も考えないだろう。
「ただ、普段の態度がどうであれ、自分の時間すら削って相談に乗ってくれるのが佐川さんなんだな、って。本当の佐川さんに気付いたら、見る目が変わって。付き合ったら大変そうだけど、絶対に大切にしてくれそうだな、って」
「!!」
麻衣の発言を耳にして、亜紀斗の肩が震えた。
『絶対に大切にしてくれそうだな、って』
そんなことはない。俺は、そんな奴じゃない。
「そう思ってたら、いつの間にか、佐川さんが好きになってました」
麻衣の話は、そこで締めくくられた。彼女が、亜紀斗を好きになった理由。
亜紀斗の口から、言葉が突いて出た。
「俺は、好きな人を大切にできる人間じゃないよ」




