第十五話① 違うけれど同じ(前編)
咲花が、特別課に戻ってきた。藤山との面談を終えたのだろう。
「私の面談、終わったよ。次はあんたの番。小会議室に行って」
「……わかった」
指示されて、亜紀斗は小会議室に向かった。足が重い。心が重いから、足も重い。
亜紀斗を呼びに来たとき、咲花は、なぜか苛ついていた。小会議室に向かう亜紀斗を見ながら、舌打ちまでしていた。
どうして咲花が苛ついていたのか、亜紀斗には、まったく分からない。藤山との面談で、手厳しいことでも言われたのだろうか。反発し合う亜紀斗を論破できたのだから、彼女にとっては、悪いことばかりではないはずなのに。
小会議室に着いた。
「失礼します」
一声かけて、亜紀斗は、小会議室のドアを開けた。
「はい。お疲れ様、亜紀斗く――ええっ?」
亜紀斗の顔を見るなり、藤山は間の抜けた声を上げた。彼にしては珍しく、驚いた顔をしている。
「亜紀斗君、どうしたの!? そんな顔してぇ」
藤山は、一列目の席に座っている。二列目の長机に向かって。
「亜紀斗君、とりあえず座って。っていうか、本当に大丈夫? なんか、すっごい暗い顔してるけど」
「大丈夫です」
ボソッと返事をして、亜紀斗は、藤山の向かいの席に座った。座った途端に、溜め息が出た。
「えっと……亜紀斗君?」
藤山は、亜紀斗の顔を覗き込んできた。
「なんですか?」
「どうしたの? もしかして、具合悪い? それとも、今日の仕事で、どこか怪我でもしたの?」
「いえ、怪我はしてません。怪我をするような場面もありませんでしたから」
「まあ、そうだろうけど。それなら、体調でも崩してるの? もしかして、風邪でもひいた? もし辛いなら、面談は後日にして、もう帰る?」
「いえ。大丈夫です。風邪もひいてないです」
「それならいいけど」
藤山は、背もたれに体を預けた。
「じゃあ、面談するけど。まあ、この面談の目的は、現場でも話した通りだよ」
「ええ、分かってます」
亜紀斗と咲花は、啀み合っている。互いの信念が真逆だから。まるで違う正義を信じているから。しかし、その感情を事件現場にまで持ち込むのは、愚かしい行為だ。まず第一に考えるべきは、人質の安全を確保すること。第二に、犯人の捕縛。
今日の現場で、犯人の捕縛と人質の安全を確保をする前に、咲花と言い争ってしまった。これは反省すべきだ。
咲花と言い争っているときに、主犯に銃を向けられた。銃口の先にいたのが咲花で、彼女が主犯の発砲を防いだから、問題はなかった。
だが、もし、主犯が人質に銃口を向け、発砲させてしまっていたら。
取り返しのつかないことになった可能性もある。
「任務を果たす前に、不必要な啀み合いをしてしまいました。そのせいで、下手をすれば、人質の命を危険に晒したかも知れません。本当に申し訳ありませんでした」
「いや、あの、まぁ……」
藤山は、今度は困った顔をした。いつもの薄ら笑いがない。
「反省してるならいいんだけど。でも、本当に大丈夫?」
「何がでしょうか?」
「いや、亜紀斗君自身がだよ。大丈夫なの?」
再度聞かれて、亜紀斗は俯いた。体調は問題ない。怪我もしていない。
大丈夫と言えないのは、心理面だった。
亜紀斗には、ずっと目標にしている人がいた。自分を更生させてくれた、少年課の刑事。
昔の亜紀斗には、暴力がもっとも身近にあった。喧嘩ばかりして、何人も病院送りにした。許しを請う相手を鼻で笑いながら、不必要に重傷を負わせていた。
あの頃の自分は、どうしようもないクズだった。救いようのない人間だったと自覚している。
もちろん、亜紀斗に絡んできた相手にも否はあった。しかし、逃げようとする相手を追い、捕らえ、馬乗りになり、気を失うまで殴る必要などなかった。泣いて土下座をする相手の頭を、踏みつける必要もなかった。顔中の骨を骨折し、手術までした相手もいた。
亜紀斗が恩師と仰ぐ少年課の刑事は――いつの頃からか「先生」と呼ぶようになった人は、亜紀斗に色んなことを教えてくれた。
道徳の教科書に載っているような、薄っぺらな文面の倫理ではない。
動物の保護団体に連れて行ってくれた。生き物の愛らしさと、捨てられたり虐待される悲しさを教えてくれた。保護団体から引き取られた犬や猫のもとにも連れて行ってくれた。愛されることの尊さや、嬉しさと温かさを教えてくれた。
自分も他人も、痛みを感じる生き物なのだと知った。
同時に、喜びも幸せも感じるのだと知った。
亜紀斗は、クズのような父親に育てられた。酒浸りで、暴力は日常茶飯事だった。亜紀斗自身が成長し、強くなって、いつの間にか忘れていた。殴られるのは痛いのだと。理不尽な暴力に晒されるのは、苦しく、悲しいのだと。不条理な虐待は、怒りと恨みを生み出すのだと。
自分のしていたことは、もっとも嫌う父親と同じ事だった。
亜紀斗は、大怪我をさせた一人一人に頭を下げに回った。相手は、自分にも否があったことを認めていたが、同時に、亜紀斗を恐れていた。
『俺が悪かった。謝るから、もう関わらないでくれ』
誰もが怯えながら、そう言っていた。
許して貰えなかったことを先生に伝えたとき、言われた。
『償いは、許されることを期待するものじゃなく、自分が壊してしまったもの以上のものを作り上げることだ』
彼等の心の傷がいつ癒えるのか、亜紀斗には分からない。ただ、それでも、自分の謝罪がその手助けになればいいと思えた。
同時に、自分の理想と目標を持てた。先生の言葉で言えば――自分が壊してしまったもの以上のものを、作り上げる。
自分のような人間が、現れない世の中にしたい。同時に、自分のような人間を、まっとうな道に進ませたい。先生のように。
先生は、自分のようなクズを、まともな人間にしてくれた。
こんな自分でさえ、生き直そうと思えた。
だから自分も、先生と同じく、自分のようなクズを生き直させるんだ。
先生のようになりたかったから、警察官を目指した。勉強して、警察学校に入った。
警察学校の最後のカリキュラムで、クロマチン素養が認められた。憧れている先生とは、別の道に進むことになった。
それでも亜紀斗は、腐らなかった。自分に特別な才能があるなら、それを活かそう。自分にできることを精一杯しながら、同時に、先生のように生きよう。
かつての自分からは考えられない生き方をするようになった。尊敬する人がいて、目標があって、一生懸命だった。
もっと自分にできることはないか。もっと頑張れることはないか。今の自分はまだまだだけど、いつかきっと、理想とする人間になれるんじゃないか。
モチベーションが尽きることなく湧き出ていた。やりたいことが山ほどあった。一日が二十四時間では足りなかった。もっと、もっと。毎日、そればかり考えていた。
けれど、ある日。
亜紀斗の気持ちが、プツリと切れた。
「隊長――」
小会議室の中。亜紀斗に「大丈夫?」と聞いてきた藤山が、目の前にいる。
亜紀斗は、俯いていた顔を上げた。
「――ひとつ、聞いてもいいですか?」
藤山は首を傾げた。
「なんだい?」
答えてもらえないかも知れない。それでも知りたかった。
「笹島は、どうして犯人を殺すんでしょう? 間違いなく、明かに、意図的に殺してます。本人が言うようなミスとは思えません。少なくとも俺は、笹島が、何度も同じミスをする馬鹿だとは思っていません」
咲花を見て、彼女と争って、気付いたことがあった。彼女には、明確な目的意識がある。ネットリンチのような「こいつには何をしてもいい」という気持ちから犯人を殺しているのではない。方向性はまるで違うが、咲花は、亜紀斗と同じなのだ。目的があって、目標があって、必要なことをしている。
「うーん。そうだねぇ」
普段の口調で唸りながら、藤山は、自分の顎に手を当てた。口元には、いつもの薄ら笑いが戻っていた。反面、眉はハの字になっている。
「たぶんこれが原因、と言えることはあるんだけど。もちろん、咲花君自身がそう言ったわけじゃないよ。さらに、少し辻褄が合わないこともあるし」
「なんですか?」
「話せば長くなるし、痛々しい話だよぉ?」
「構いません」
亜紀斗は藤山に、話を促した。重く気怠くなっていた心が、少しだけ引き締まった。
「教えて下さい」
「うーん。そうだねぇ」
藤山は小さく息をつくと、机の上で両手を組んだ。




