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罪と罰の天秤  作者: 一布
第一章 佐川亜紀斗と笹島咲花
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第十四話 滅茶苦茶にされて眠ってしまいたい


 小会議室を出た咲花は、そのまま特別課に戻った。


 亜紀斗が自席で待っていた。何をするでもなく、ただ呆然としている。事件現場にいたときと変わらない、落ち込んだ様子のままで。


 自分の信念を否定され、論破されただけで、心が折れかけている亜紀斗。


 咲花の胸に、再び、苛立ちが湧き出てきた。


 このまま亜紀斗の心が折れれば、咲花の邪魔をする者はいなくなる。彼の心が折れるのは、咲花にとっては好都合のはずだった。


 それなのに、苛ついた。


 自分の心情に戸惑いつつ、咲花は亜紀斗に声を掛けた。


「佐川」


 虚空を見つめていた、亜紀斗の視線。彼の瞳が、咲花の方を向いた。


「私の面談、終わったよ。次はあんたの番。小会議室に行って」

「……わかった」


 のっそりと、亜紀斗は立ち上がった。どこか不安定な足取りで、特別課から出て行く。


 無意識のうちに、咲花は舌打ちをしてしまった。その音が亜紀斗に届いていたかは、分からない。


 咲花はさっさと帰り支度をし、特別課を出た。エレベーターまで足を運ぶ。


 エレベーターの前には、川井がいた。捜査一課の刑事。咲花の、元婚約者。


「お疲れ」


 川井は、少し疲れている様子だった。捜査一課の仕事は激務だ。担当する事件があれば、疲れていて当然だろう。


「お疲れ様です」

「今帰りだろ?」

「そうですけど」

「一緒に帰らないか? 送るよ」

「無理しなくていいですよ。疲れてるんですよね?」

「疲れてるからこそ、咲花と一緒に帰りたい」

「……そういうの、やめませんか? 公私混同はよくないですよ」

「もう業務外だよ」


 帰す言葉がなかった。咲花はおとなしく、川井とエレベーターに乗った。


 一階に着いてエレベーターから降り、出口に向かう。


 出口付近に、女の子が一人、立っていた。警察関係者とは思えない、可愛らしい子だ。服の上からでも分かるほど、胸が大きい。誰かを待っているのだろうか。


 女の子に視線を向けつつ、咲花は、川井と一緒に道警本部から出た。


 夏の夜の、ぬるい空気を感じる。湿気を含んだような、緩い風。


「さっきのコ、知ってるのか?」


 道警本部を出てすぐに、川井が聞いてきた。


「知らないです。ただ、警察関係者には見えないな、と思っただけで」

「とりあえず今は業後だし、職場からも出たんだから、敬語はやめてくれないか?」


 やっぱり指摘されたか。以前にホテルに行ったときも、敬語をやめるように言われた。


 昔みたいに触れ合った、あの日に。


 咲花にとって、幸せな時間だった。

 それでも、もう、昔と同じ気持ちには戻れない。


「あなたは知ってるの、あのコのこと」

「知り合いじゃないけどね。割と有名だよ」

「そうなの?」


「ああ。特別課の佐川君と同じ時期に、江別署から異動してきたみたいだな。すぐに男共の人気者になってた」

「可愛かったからね」


 亜紀斗と一緒に江別署にいて、彼と一緒に異動してきたのか。それなら彼女は、亜紀斗を待っていたのだろうか。彼の恋人なのだろうか。


 確信とも思える推測を浮かべつつ、咲花は、突き放すように川井に言った。


「あなたも、ああいう可愛い子を狙ってみたら? あんな可愛い子と付き合って、結婚なんてしたら、仕事のモチベーションも上がるんじゃない?」

「それ、つい最近お前のことを口説いた奴に言うか?」

「言ったでしょ、私は無理だって。結婚なんてする気はない。子供を産む気もない。誰かと付き合う気もない」


 幸せになる気はない。幸せになりたくもない。幸せになることなんて許されない。


 咲花は、一生、今のように生きていくつもりだった。そんな生き方に、川井を巻き込みたくない。


 駐車場に着いた。


 川井に促されて、咲花は車に乗り込んだ。


 ライトを点けた車が、走り出す。交差点で国道に出て、右折した。咲花の家に向かっている。


「今日、大変だったみたいだな」


 会話を切り出したのは、川井だった。


「チユホの事件のこと?」

「ああ。銃の乱射で、八人も殺されたんだって?」

「まあね。犯人達のことはもう知ってるの?」

「小耳に挟んだ程度だけどな。犯人は、連続強姦犯だったんだろ? 俺の担当じゃないけど、捜査一課(ウチ)が騒がしくなってた」


 逮捕令状を請求する一歩手前で、犯人達がさらに大きな事件を起こしたのだ。騒がしくなって当然だろう。


「で、これも小耳に挟んだんだけど――」


 国道を真っ直ぐ進む車。昔はこうして、一緒に過ごしていた。互いの家を行き来していた。だから咲花も、川井の家の場所はよく覚えている。彼がまだ引っ越していなければ、の話だが。


「――主犯は左手を失って、右手もほとんど駄目になって、ひどく怯えていたらしいな」

「へえ」

「『仲間が殺された、俺も殺される』って言って、泣いてたって聞いた」


 赤信号にぶつかって、車が停車した。


 川井が咲花の方を見た。


「また、犯人を殺したんだな」

「殺しただなんて、人聞きが悪いんじゃない? 犯人達を一気に無力化しようとして、狙いが外れただけ」


 咲花の言葉を、川井は信じていないだろう。


「また、以前(まえ)と同じ質問をするぞ」

「だから、犯人を殺したのはわざとじゃないんだって。単なるミス」


 川井が質問を口にする前に、咲花は回答を出した。


「だから、犯人を殺す理由を聞かれても、ミスとしか言い様がない」


 嘘である。川井も、嘘だと気付いている。けれど、証拠なんてない。


 川井は少し考えるような顔をした後、再び口を開いた。


「じゃあ、これも以前と同じ質問だけど――」

「あんたとやり直すつもりもない」


 再度、咲花は、質問が出る前に回答を口にした。


「それに、こんな女とやり直しても、いいことなんてないでしょ? ミスとはいえ、何人も人を殺してる女なんて」


 信号が青になった。


「ほら。信号、青だよ」

「ああ」


 寂しそうに前を向いて、川井は車を発進させた。


「じゃあ、今度は別の質問をするぞ」

「以前もそうだったけど、今日もずいぶん質問が多いね」

「以前も言っただろ。こんなふうに二人きりになれることなんて、滅多にないんだから。だから、聞きたいことが溜まるんだよ」

「私は、あんたに聞きたいことなんてないけど?」

「それは、お前が、俺のことなんて気にしてないからだ。俺は、お前を気にしてるんだよ」


 そんなことはない。気にしていないはずがない。喉まで出かかった言葉を、咲花は飲み込んだ。本音が漏れてしまう前に、別の言葉を吐き出した。


「で、何を聞きたいの?」

「捜査資料でも見て、知ってたんだろ?」

「何を?」

「今日のチユホの犯人が、連続強姦犯だってこと」

「……誰に聞いたの?」


 咲花の質問に対して、川井は、吹き出すように小さく笑った。


「誰にも何も聞いてないよ。ただそんな気がしたから、聞いただけだ」


 簡単に誘導尋問に引っ掛かってしまった。咲花は小さく舌打ちした。


 川井の笑みが、苦笑に変わった。


「そんなに苛立つなよ」

「苛立ってない。ただ、誘導尋問に引っ掛かったのが面白くないだけ」

「じゃあ、苛立ってるのは別の理由か?」

「苛立ってない」

「とぼけるなよ。俺達が何年の付き合いで、俺がどれだけお前のことを見てきたと思ってるんだ?」

「私のことなら何でも分かるって言いたいの?」


 攻撃的に言い返しながら、咲花は、亜紀斗のことを思い浮かべてしまった。咲花の苛立ちの原因。彼が落ち込んでいる姿を見ると、なぜか苛々した。彼を落ち込ませたのは――彼の信念を真っ向から否定し、論破したのは、咲花自身なのに。


「何でも分かる、ってわけじゃないよ。エスパーじゃないんだから。ただ、見てる時間が長いと、一つ一つの仕草とか表情の変化に、気付けるようになるんだよ」

「ストーカーみたい」

「かもな」


 ははっと川井は、声を出して笑った。


「それで、だ。これも小耳に挟んだんだけど」

「小耳に挟み過ぎ」


「そりゃあ、お前は目立つからな。特別課のエースで、美人。問題行動も目立つ。異動してきた優秀な隊員とは、互いに嫌い合ってる。しかも、度々ぶつかり合ってる。色んな話題が出て当然だろ」


「そうなの?」

「そうだよ」


 再度笑い、川井は続けた。


「それで、だ。お前、現場で佐川君と言い争ったんだろ?」

「あれを言い争いっていうなら、そうなのかもね」

「それで今、佐川君は落ち込んでる」

「そんなことまで話題になってるの?」


「お前達の仲の悪さは有名だからな。どんな会話があったかまでは聞いてないけど。佐川君が、お前と言い争った後に落ち込んでる、ってのは知られてるぞ」

「みんな暇なの? そんなどうでもいいことを気に掛けて」

「それだけ話題性があるんだよ」

「ふうん」


 どうでもいい、というように咲花は返答した。もっとも、心中は穏やかではなかった。話題になっているのが気に食わないのではない。言いたい奴には言わせておけばいい。


 咲花を穏やかでなくしたのは、亜紀斗の様子だ。周囲が気に掛けるほど――咲花以外の人にも気付かれるほど、亜紀斗は落ち込んでいる。


 罪に見合う罰を与えるよりも、罪に見合う償いをさせる。それが亜紀斗の信念。咲花に否定された信念。


 少し否定されたくらいで、崩れ落ちる信念なのか。論破されたくらいで、揺らぐ信念なのか。


 腹立たしかった。そんな下らない信念なんて、どうでもいいはずなのに。どうでもいいことに苛立つ自分が、腹立たしい。


「もしかして、認める部分があるんじゃないのか?」


 思いも寄らない川井のセリフに、咲花は首を傾げた。


「何が?」

「仲が悪くても、意見が合わなくても、度々ぶつかり合っても、認めてる――認めたい部分があるんじゃないのか? だからこそ、(いが)み合ってるんじゃないのか?」

「誰が? 誰を?」

「分かってるんだろ?」


 川井が何を言いたいのか、咲花は分かっていた。


『真逆の信念を持っていても、咲花は、心のどこかで亜紀斗を認めている。認めていると同時に、認めたい気持ちがある』


 咲花の頭の中で、以前の実戦訓練が思い起こされた。亜紀斗と初めて戦った、実戦訓練。


 あのとき咲花は、本気で、亜紀斗を潰してやろうと思っていた。身体的にも、精神的にも。だから防具を脱いで、挑発した。力の差を見せつけて、嘲笑ってやるつもりだった。


 亜紀斗のことを、他人の痛みも想像できない馬鹿だと思っていた。自分が痛みを知ったら、簡単に意見を変える愚か者だと思っていた。


 だが、違っていた。肋骨を骨折し、呼吸困難に陥りながらも、亜紀斗は咲花に向ってきた。自分の信念を振りかざしてきた。


 亜紀斗には、亜紀斗なりの覚悟があるのだ。信念を口にする覚悟。苦痛を伴う覚悟。


 咲花の心の中で、苛立ちが大きくなった。


 ――そんなはずない!


 胸中で、怒鳴るように吐き出した。あんな甘いだけの信念なんて、認めるはずがない。あんな信念を持っている奴を、認めたいはずがない。


 昔見た、姉が殺された事件の捜査資料。あまりに凄惨な光景。変わり果てた姉の姿。綺麗で、優しくて、自分よりも咲花のことを大切にしてくれた姉。そんな姉が、気が狂うほどの陵辱と暴行を受け、殺された。


 私利私欲で人を傷付け、命を奪う畜生共。あんな奴等が、更生なんてするはずがない。償う気持ちなど抱くはずがない。


 だから咲花は、決意したのだ。この国から、下衆共を一掃してやると。法律がそれを許さないなら、自分が、法の編み目をかいくぐって殺してやると。


 姉の命を犠牲にして得た、揺るぎない真実。この世には、生かしておくべきではないゴミ共が、確実に存在する。


 優しかった姉の死を無駄にしないために――自分のような人間を増やさないために、咲花は、畜生共を駆逐している。


 それが、咲花の正義。真実を知り、真実から得た教訓をもとに、繰り返している行動。


 だから咲花は、復讐には走らない。姉を殺した奴等の、顔も名前も知っている。調べれば、犯人全員の現在の居場所を知ることも可能だろう。でも、調べない。


 復讐とは、死者のための――姉のための行動ではないから。自分が抱える恨みを晴らす、自分のための行動だから。


 咲花は、姉に報いるために生きたかった。


 姉の死によって、悟った真実。それを貫くことが、彼女への報いになるから。


 姉への報いになると、信じている。

 信じているのに。


 亜紀斗の信念は、咲花の真実とは真逆のはずなのに。彼の全てを否定し、彼の信念を叩き潰したいと思っているのに。彼の信念ごと、彼を殺したいとさえ思っているのに。


 それなのに……。


 咲花は、音が鳴らない程度の舌打ちをした。胸の奥がザワつく。心が、不快感で掻き乱された。痛いような、苦しいような、圧迫されるような、言葉では表せない不快感。


 どこかで――何かで、発散したかった。何かに溺れて、滅茶苦茶になってしまいたい。何も考えられないくらい、深い眠りについてしまいたい。何も考えられなくなれば、この苛立ちも不快感も、感じずに済む。


 でも、このままじゃ、とても眠れそうにない。仕事で疲れているはずなのに。


 咲花は隣りを見た。車を運転している川井。元婚約者。今は、ただの同僚。でも彼は、咲花との復縁を望んでいる。


「ねえ、亮哉」


 咲花は久し振りに、彼を名前で呼んだ。何年振りだろうか。先日、一緒にホテルに行ったときでさえ、名前で呼ばなかったのに。


 川井は目を見開いた。久し振りに名前で呼ばれたことに、驚いているのだろう。


「何だ?」


 驚きながらも、川井は、呼び名を指摘しなかった。野暮なことはしない。黙って受け止めてくれる。こんなところは、昔と変わらない。


 包み込んでくれるような、彼の優しさ。


 ――その優しさに、つけ込ませて。


「このまま、ホテルに行って」


 川井の表情に出る驚きが、強くなった。


「どうしたんだ? 急に」

「私としたくないの?」

「そりゃあ、したいけど」

「じゃあ行って」

「その前に、理由を聞かせろよ。いきなり過ぎて、正直、少し戸惑ってる」


 滅茶苦茶にされたい。でも、その相手は、誰でもいいわけじゃない。


 本心を隠して、咲花は吐き捨てた。


「私だって、まだ二十代の女だから。性欲くらいあるの」


 咲花の回答に、川井は何も言わなかった。ただ、どこか寂しそうな顔をしていた。


 車はそのまま、走り続けた。


※次回更新は7/21を予定しています。


亜紀斗の様子に苛立つ咲花。


彼女の知らないところで、亜紀斗は何を思っているのか。

信じていたものが否定され、信念に亀裂の入った彼は、何を思うのか。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 亜紀斗と咲花、どちらも正しくて間違っている。 と、こんな感じでしょうか?違ってましたらすみません。 川井さん優しいですね。あえて聞かないところとか素敵ですね。 自分は幸せになってはいけない…
2024/07/14 16:25 退会済み
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