エピローグ~幸せになることが~
『咲花ちゃぁあああああああああああ』
電話に出た途端、華の泣き声が耳に突き刺さった。大泣きだ。かなりパニックになっていることが、電話越しでもわかる。
平日の午後三時過ぎ。仕事の真っ最中。
咲花が手にしているのは、私用のスマートフォンだ。娘と孫から緊急の連絡が入る可能性があるから、所持と使用について許可を得ている。
隊長である咲花に許可を出したのは、課長だ。咲花が隊長になるのと同時に出世した、藤山。
咲花は隊長席で、次回の実戦訓練の組み合わせを作っているところだった。亜紀斗と誰を戦わせるかが、悩みの種だった。彼と互角に戦えるのは、道警本部には咲花しかいない。
電話の向こうから、華の絶叫が続いた。
『秀人がぁ! 熱出しててぇ! 凄い熱出ててぇ! 私ぃ、どうしたらいいか分からなくてぇ!』
どうやら、秀人が体調を崩したらしい。咲花が家を出るときは、元気だったのだが。まだ五歳の子供だ。ちょっとしたことで体調を崩すこともある。とはいえ、華がこれほど取り乱しているのだから、よほどの高熱なのだろう。
華は現在、咲花の養子になっている。法的な手続きも、当然済ませている。今の彼女は、四谷華ではなく笹島華となっていた。
秀人は、華が産んだ息子。金井秀人の血を引く、五歳の男の子。
秀人を産んでから、華の一人称は「華」から「私」になった。彼女なりに、一生懸命母親になろうとしているのだ。その方向性が正しいのかはともかくとして。
『麻衣ちゃんに電話しようと思ったけどぉ、麻衣ちゃん、今、お腹に赤ちゃんいるからぁ、迷惑かけたくなくてぇ』
麻衣――佐川麻衣。旧姓は奥田。亜紀斗の妻だ。現在、二児の母。三人目を妊娠している。
咲花は小さく溜め息をついた。こんなに慌てている華にどんな指示を出しても、正確に理解することは難しいだろう。まして電話越しでは。
「華。いい、よく聞いて」
『うん、聞くぅ』
慌てていても、華は素直だ。金井秀人の最後の言葉を、忠実に守っている。
――何かあったら、こいつらを頼れ。簡単に他人を信じないで、まずはこいつらに相談しろ。お前は馬鹿だから、難しいことをゴチャゴチャ考えなくていい。こいつらなら、信用できる――
遺言にも等しい、金井秀人の言葉。
「秀人は話せる? それとも、眠ってる?」
『起きてるぅ。ベッドで苦しそうでぇ、熱なんてぇ、三十九度四分もあってぇ』
想像以上に高熱だった。もしかしたら、インフルエンザかも知れない。
「秀人に電話替わって。私が、直接秀人に指示出すから」
『う゛ん』
華が鼻を啜る音が聞こえた。電話の向こうで、ガサゴソという音。電話を替わっているのだろう。背景のように、猫の鳴き声が聞こえる。飼っている五匹の猫。
『……咲花さん?』
幼い男の子の声。幼いが、かすれた声。笹島秀人。法律上では、咲花の孫。
『ごめん、仕事中に。母さんは滅茶苦茶慌ててるけどさ、俺なら大丈夫だから』
五歳の子供とは思えない口調。
秀人は――笹島秀人は、周囲の誰もが驚くほど賢い子だった。五歳にして、すでに微分積分も理解できる。三カ国語を話せる。あらゆる漢字を読める。知能は実の父親譲り。外見も、父親そっくりだった。父親を幼児化させたような、愛らしい外見。黙って座っていたら、人形のようにすら見える。
『だから、とりあえず、母さんに病院行くように説得してくれないかな? 俺から感染ったかも知れないし。感染ってなかったら、俺から母さんを隔離してほしい』
加えて、母親思いで優しい。
優しいが、子供らしくない。咲花は少し強めの声を出した。
「華もだけど、あんたも病院に行きな。その熱なら、インフルかも知れないし。で、あんたがインフルだったら、華にも検査させな」
『いや、俺のことはいいから、母さんを――』
「秀人」
声をワントーン低くして、咲花は、秀人の話を遮った。
「いいから、あんたも病院行きな」
電話の向こうから、「ひっ」と息を飲む音が聞こえた。秀人は、咲花を少し恐れている。そこだけが父親と違う。
「わかった?」
『……はい。でも………』
「何? まだ何かあるの?」
『さっきも行ったけど、俺から母さんを隔離してほしい。んで、仕事終わった後でいいから、母さんの面倒を見てくれると助かるんだけど……』
「何言ってるの。華も、自分のことくらいは自分でできるでしょ?」
『いや、もし母さんに感染ってたら』
「ああ」
もし華がインフルエンザになっていたら、面倒を見る者が必要だろう。できれば今すぐ帰って、二人の面倒を見たい。咲花は少し考え、秀人に指示を出した。
「佐川をそっちに向かわせる。あいつ、今日、非番だから」
『いや、亜紀斗さんは駄目だろ。麻衣さん、妊娠中なんだろ? 亜紀斗さんに感染ったら、麻衣さんにも感染るし』
「大丈夫。あんた達の面倒見たら、何日か野宿するように言っておきな。そうしたら、間違っても麻衣には感染らないから」
『……いや、それ、あんまりじゃないか?』
「そう? あいつなら、一、二年野宿しても問題ないでしょ? むしろ、しばらく野宿したら野生に返るんじゃない?」
『猛獣じゃないんだから』
「同じようなものでしょ? まあ、麻衣には異常なほど懐いてる猛獣だけど」
『麻衣さん、猛獣使いかよ』
電話の向こうで、秀人が少しだけ笑った。
「私も、今日はできるだけ早く帰るから。それまでは、佐川を好きなように使いな。麻衣には私から謝っておく」
『……なあ、咲花さん』
「何?」
『亮哉さんって、今日は非番じゃないの?』
亮哉――川井亮哉。咲花の、元婚約者。
咲花は、少しだけ言葉に詰まった。五歳の子供に、自分の心を見透かされているようで。
「さあ。あいつのシフトまでは把握してない。所属も違うし」
『俺は、亮哉さんが爺ちゃんになってくれて、咲花さんと一緒に母さんを助けてくれたら嬉しいよ』
咲花と川井の関係は、五年前と変わっていない。ただの元婚約者。時々、ホテルに行く仲。恋人ですらない。
「……秀人」
『ん?』
咲花は声を低くした。
「せめて熱があるときくらいは、子供らしくしな」
短い悲鳴の後、秀人が「はい」と返答してきた。
「じゃあ、佐川には私から連絡しておく。華には、病院に行く準備させて。あと、あんたも」
『わかった』
「じゃあ、よろしく」
『咲花さん』
「何?」
『迷惑かけてごめん』
「子供が余計な気を回さないの」
咲花は電話を切った。電話帳アプリを開いて、亜紀斗の名前を表示した。
そのまま、通話アイコンを押そうとして。
一旦、指を止めた。
五年前。金井秀人が、自分の意思と罪を告白し、亡くなった後。
世間に、三十年前の事実が公表された。警察官一家惨殺事件。その真相と、五味親子の所業。事実が隠蔽され、偽りの内容が公表されたことにより、被害者一家がどのような扱いを受けたか。
秀人の復讐以外の全てが、公開された。
五味親子や政界の五味派は、大きく批難された。事実を捻じ曲げて公表した警察上層部も、同様に。
結果として、政治批判が大きく広がった。国中で、政治に対する抗議運動が活発になった。
といっても、昭和の時代と違い、暴動という形での抗議運動ではない。正式な手続きを踏んだ請願書の提出。不当な判決に対する再審請求。各地方公共団体での、住民発議。
生前の金井秀人は、都心部で、テロとも呼べる凶悪犯罪を起こしていた。その結果、都心部から地方へ散る人々が多くなっていた。
地方へ散った人々が、移住先で住民発議を行った。合わせて、移り住んだ場所では平和で豊かな生活しようと、様々な活動を行う人が増えた。地方の経済や生活が、どんどん発展した。経済面はもちろん、治安の面でも。
地方の発展は都心部にも影響を及ぼし、国内情勢が大きく変わった。
秀人が起こした、多くの凶悪犯罪。テロとも呼べる行為。それらが結果として、現在の発展のきっかけとなっている。都心部のみが栄えるのではなく、地方が栄え、地方の発展が都心の発展を促しているというように。
全国的に見て、犯罪の件数も激減した。秀人が事件を起こす前よりも、はるかに。
今の国内を見ていると、つい、思ってしまう。
もしかしたら、と。
もしかして秀人は、復讐に走りながらも、心のどこかで祈っていたのではないか。この国で生きられることが幸せであるように、と。彼の家族が生まれ育ったこの国が、安らかな国であるように、と。
今の国内情勢は、秀人自身の償いにも見えた。壊してしまったから、壊す前以上のものを作り上げる。それこそ、亜紀斗が語る償いのように。
秀人の本心を聞くことは、もうできないが。
咲花のスマートフォンに表示された、亜紀斗の名前。アドレス帳の画面をひとつ戻した。登録者一覧の画面になった。
スマートフォンを見つめながら、咲花は少し考え込んだ。
金井秀人は、この国が平穏に向かう爪痕を残した。
金井秀人は、最後に、咲花の罪も被ってくれた。
姉の仇は、今や全員死んだ。
それなら、自分はこれからどう生きようか。
件数が少なくなったとは言え、犯罪は起こる。被害者も出てくる。
被害者に寄り添いたい気持ちは、もちろん今もある。
姉に報いる道を、当然、今でも探している。
では、自分はどう生きるべきか。姉がもし生きていたら、何を願っただろうか。
亡くなった人は、何も答えてくれない。
ただ、それでも……。
小さな秀人の願いが、咲花の耳に蘇った。まだたった五歳のくせに、父親そっくりで頭が良く、父親そっくりで綺麗な顔をしていて、父親そっくりで周囲の心を動かす、愛情に満ちたクソガキ。
父親の秀人は、かつて、咲花の心を動かした。子供の秀人は、たった今、咲花の心を動かした。
咲花は、スマートフォンを操作した。アドレス帳に登録されている人物から、一人を選択した。表示した名前は、川井亮哉。
咲花の元婚約者。今は、恋人ですらない。でも、互いに気持ちが残っている。未練と言うには強すぎるほどの気持ち。たぶん彼なら、喜んでお爺ちゃんになってくれるだろう。
表示された、川井亮哉という名前。名前の横には、通話アイコンがある。
咲花は、スマートフォンの画面をタップした。
(終)
※最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本編はこれで完結ですが、この後、おまけを投稿いたします。
もう少しお付合いいただけると嬉しいです。




