第十五話② 解放された者からのメッセージ(中編)
華は椅子に固定されている。背もたれが高い椅子。
立っていることさえ辛くて、秀人は、椅子の背もたれに手を添えた。
「ひで……とぉ……」
華は、涙で顔をグチャグチャにしていた。鼻水も出ている。可愛い顔が台無しだなと、秀人は苦笑した。
「秀人、お腹から血が出てるよ? ナイフが刺さってるよ? 死んじゃうよ? 病院行ってよ……」
震える唇で、華は必死に訴えてきた。
つい本音が出そうになって、秀人は唇を噛み締めた。これからは、スマートフォンのマイクに届く声量で話さないといけない。腹の痛みを堪え、秀人は息を吸い込んだ。
「本当に馬鹿な女だな、お前は。おかげで、俺の計画も人生も台無しだ」
絞り出した秀人の声。
華は目を見開いた。明らかにショックを受けている顔だ。
――それでいい。俺のことなんて、嫌いになれ。嫌いになって、忘れて、これから幸せに生きろ。
「まあ、元はといえば、俺の脇の甘さが原因か。馬鹿だから上手く利用してやろうと思ったのに、人は殺せないし。とんだ計算違いだ」
「秀人……何言ってるの?」
「言葉の通りだよ。お前は俺を優しいなんて言ったけど、大間違いだ。人なんて、大勢殺してきた。お前と出会う前から、何人も殺してきた」
「嘘……」
「本当だよ。たくさん殺した」
あらゆる人間を利用し、大勢の人を殺させた。自分の手でも、大勢殺した。
「たくさん、殺したんだ……」
ふるふると、華が首を横に振った。信じられない、という顔。首を振った勢いで、涙が散っていた。
秀人は笑って見せた。嘲るような笑みを浮かべたつもりだが、上手くできているだろうか。
「お前は人を殺せなかった。お前を弄んだテンマですら、殺せなかった。だから、せめてお前の体で楽しんでやろうと思ったんだよ。やりたい放題にセックスしてやろう、って」
「……秀人……華のこと、好きじゃないの?」
「……」
秀人は言葉に詰まった。腹の苦痛のせいではない。たとえ嘘でも、言いたくない言葉。でも、言わなければならない言葉。
唇を噛んで、秀人は一度、目を閉じた。思い浮かべる、華の幸せな未来。そこに、自分はいない。いてはいけない。息子と手を繋ぎ、歩く華。息子の手を、自分は握れない。握ってはいけない。
「好きなわけないだろ」
目を開け、秀人は声を絞り出した。スマートフォンのマイクに、しっかり入るように。
「お前みたいな馬鹿なんて、好きになるわけないだろ」
華の目から、さらに大粒の涙が出てきた。
彼女の泣き顔を見るのが辛くて、秀人はまた目を閉じた。
「好き勝手に――避妊もしないでセックスしてたら、妊娠して。本当に、俺も馬鹿だ。俺としたことが、可愛い女に溺れて、自分の目的も見失ってた。自分に呆れたよ。自分に失望したんだ。だから、もういい。俺はもう、ここで死ぬ」
天才のプライドに見えるものを、言葉にした。女に溺れ、妊娠させ、道警本部に誘い出された。自分の失態に、プライドが傷付いた。自分の失敗を許せなかった。だから、ここで人生を終わらせる。そんな最後を、秀人は演じた。
おそらく公安は、秀人と華の動向も探っていただろう。間違いなく、秀人達の仲睦まじい姿も見られている。
とはいえ、仲睦まじく見えるというのは、あくまで公安の見解に過ぎない。第三者の意見など、犯人の――秀人の自白に劣る。この国では、未だに「自白は証拠の女王」という傾向があるのだから。
秀人が華を弄んだと証言すれば、それが事実となる。華は、秀人に騙された被害者。知能に障害がある、可哀相な子。彼女がどれだけ秀人への愛情を訴えても、間違いなく、ただのストックホルム症候群として扱われる。
「秀人ぉ」
涙の混じった声を、華は絞り出した。相変わらずしゃくり上げながら。
「ごめんなさい、秀人。ごめんなさい」
「!?」
つい、秀人は目を開けてしまった。すぐ近くに、悲しそうな華の顔があった。
どうしてこんな顔をするのか。好きじゃないと、はっきり伝えたのに。馬鹿と罵ったのに。本来なら、怒る場面のはずなのに。
「ごめんなさい、秀人。秀人の邪魔してごめんなさい。華、馬鹿でごめんなさい。華、頑張るから。馬鹿じゃなくなるように、頑張るから。だから、華のこと、好きになって。嫌いにならないで」
――馬鹿だな。
胸中で呟く。馬鹿だな、華は。本当に馬鹿だ。
秀人は大きく息を吐き、大きく吸った。
この天使のように優しい馬鹿な子は、あまりに愛情深すぎる。秀人と一緒にいる限り、平穏な人生など望めない。だが、秀人が死んで一人になったら、また誰かに騙されるだろう。
華には、味方が必要だ。彼女を守ってくれる味方が。
「ねえ、藤山さん」
「あ……えっと……なんだい?」
呆けた藤山の声。秀人に呼ばれて、こちらに歩いてくる。姿を見なくても、足音で分かる。
聞こえる足音は、一つではない。もう一人の足音。咲花もこちらに近付いてくる。
秀人のすぐ側で、二人の足音が止まった。右側に藤山。左側に咲花。
「あの、さ。藤山さん。どうせ死ぬから、せっかくだから自白もしてあげる」
「……何の自白だい?」
「南と磯部、神坂を殺した罪。あと、高野を殺そうとしたこと。全部、俺がやったんだ」
「……は?」
「何言ってるの? 秀人さん」
藤山と咲花が、同時に声を上げた。
構わず、秀人は続けた。南や磯部、高野を調べ上げた資料の原本は、まだ秀人の自宅にある。咲花に渡した資料の原本。状況証拠としては十分だろう。秀人が二人を殺し、高野を殺そうとしたとする状況証拠。
「あいつら、薬売ったり、俺の対抗勢力として詐欺をやったり……邪魔だったんだ。だから、俺が殺した」
「いや、秀人君。それはいくら何でも……」
「俺が高野を殺そうとしたところで、咲花が止めに入った。高野を連れて、俺から逃げた。まあ、佐川君は勘違いして、咲花が高野を殺そうとしてる、なんて思ったみたいだけど」
秀人は目線を右に向けた。藤山をじっと見て、彼に目で訴えた。いいから話を合わせて、と。
藤山は少し苦い顔をして、大きく息を吐いた。秀人の意思に従うように、小さく頷いた。
秀人は、今度は左に顔を向けた。目に映る、咲花の綺麗な顔。けれど、彼女にしては珍しく、戸惑いと困惑が表れている。
「咲花。お前は、大した女だと思うよ。自分のお姉さんを殺したクズですら、俺から守ろうとしたんだから。そんなお前なら、これから、たくさんの人を守れる。守れるし、守らないといけない。そうだろ?」
姉の仇が全員死んで、咲花がどんな気持ちになっているか。秀人には、概ね想像がついていた。姉の事件が終わって、心の重荷が下りた。同時に、生きる意味もなくした。
それなら、咲花には生きる意味を持ってもらう。秀人の代わりに、華を守ってもらう。華と、産まれてくる息子を。
どうせなら、藤山と亜紀斗も巻き込んでやろう。三人に、華の面倒を見てもらおう。テンマのような男が、華に近付かないように。
咲花から視線を外し、秀人は再び華を見た。彼女と目が合った。
「いいか、馬鹿女。何度もセックスした仲だし、死ぬ前に教えてやる」
「やだ……やだよ……」
椅子に固定された体を、華は必死に動かそうとした。秀人に手を伸ばそうとしていた。椅子がガタガタと音を鳴らしている。
「秀人、死んじゃ嫌だ。華のこと、嫌いでもいいから。だから死なないで。病院行って」
「いいから聞け」
強い目線で、秀人は華を睨んだ。彼女にこんな目を向けるのは、たぶん初めてだ。利用しようとしていたときは、彼女を操るために優しくした。彼女の面倒を見始めてからは、本心から優しくしたかった。
 




