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罪と罰の天秤  作者: 一布
第四章 この冷たく残酷な世界でも
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第十五話① 解放された者からのメッセージ(前編)


 もういいや、と思った。


 大切だった家族の顔を、思い出せなくなって。

 今守るべき者が誰なのかを悟って。


 秀人は、全てを終わらせることを決意した。


 全てを終わらせて――復讐を終わらせて、華の幸せだけを考える。彼女が、平穏で幸せに生きられる未来を考える。


 華が幸せな人生を送るには、どうしたらいいか。彼女が、産まれてくる息子と平穏に生きるには、どうしたいいか。


 海外への移住など論外。とはいえ、産まれてくる息子は、海外の言葉に馴染むことができるだろう。物心ついたときから異国の世界にいるのだから。


 では、華は?


 秀人も、本当は分かっていた。華の知能では、どんなに頑張っても、どんなに英語に馴染ませても、日本語と同じレベルで理解することはできない。日本語と同じレベルで話すこともできない。


 だから、海外へ移住することなどできない。


 それなら、このまま国内で一緒に暮らし続けるか? 秀人と、華と、生まれてくる息子。三人で平穏に生きられるのか?


 この答えも、否だった。


 秀人は、この国の情報を海外に流している。将来的に、外国に攻め込ませるために。これは、外患誘致罪(がいかんゆうちざい)に該当する。死刑のみが法定刑とされている罪。秀人自身がそんな罪人になるのだから、華や息子も、幸せに生きることなどできないだろう。


 残された方法は、ひとつだけだった。


 華を、秀人に騙された被害者にする。息子を、悲劇の結果生まれた赤ん坊にする。


 華と息子が幸せになれるシナリオはできた。


 では、そのシナリオを成立させるにはどうしたらいいか。


 この答えも、簡単に出せた。


 藤山に連れてこられた、訓練室。斜め後ろには、秀人を狙っていた咲花。前方には、華と亜紀斗。


 秀人の話を聞く証人が、華を除いて三人もいる。この場の光景を録画もしている。()()としては十分だ。


 秀人は上半身裸になり、サバイバルナイフを手にした。華に使わせていたナイフ。当初は、彼女に人を殺させるため、訓練させていた。今では、彼女の料理の道具になっているが。


 秀人は、手の平でクルクルとナイフを回した。


 藤山や亜紀斗、咲花は、秀人の動向に注目している。


 ナイフを回しながら、外部型クロマチンを発動させた。薄く、細く。ミクロ単位の糸状にした、数え切れないほどの外部型クロマチン。誰かを攻撃するために発動させたのではない。誰かを殺すために発動させたのでもない。


 ほんの少しだけ、自分の命を永らえるためのクロマチン。


 ナイフの回転を止め、強く握った。刃を小指側に向けて。


 大きく深く、秀人は息を吐いた。


 今まで、数え切れないほどの人を殺してきた。何人殺したかなんて、もう覚えていない。この手は、血で真っ赤に染まっている。


 最後に奪うのは、自分の命だ。華が、誰も憎まないように。彼女が、誰も恨まないように。自分で自分の始末をつける。


 秀人はナイフを振り上げ、思い切り振り下ろした。自分の腹に。


 ドカッという、重い手応え。


 内部型クロマチンで、耐久力の強化はしていない。外部型クロマチンの防御膜も張っていない。ナイフは、秀人の腹にあっさりと突き刺さった。深く、深く。確実に胃まで突き刺さった。


 強烈な痛み。体内に異物が侵入してきた、不快感。声が漏れそうなほど苦しいのに、激痛で声も出せない。


 苦痛に集中力を削がれながらも、秀人は冷静に外部型クロマチンを維持した。目的に沿って利用する。


 ミクロ単位の糸状に伸ばした、数え切れないほどの外部型クロマチン。ナイフと同時に腹の中に入れ、切り裂いた血管に巻き付けた。クロマチンの糸で血管を瞬時に縛り、止血する。体内にある無数の血管の位置を、一瞬で把握して。


 ナイフが刺さったにしては、出血量は信じられないほど少ない。皮膚を数針縫う程度の出血で抑えた。


 だが、ナイフは確実に胃まで貫いている。経験したことのない痛みに、秀人は顔を歪めた。腹の筋肉まで突き破ったせいで、体の中心部に力が入らない。バランスが取りにくい。


「秀人……君?」


 藤山が、震える声を出した。彼にしては珍しい表情を見せている。明らかに狼狽している顔。


 藤山を見て、秀人は笑いそうになった。腹に力が入って激痛が走り、とても笑えなかったが。


「冗談、だよね? それ、何かの手品だろう? そんなに血も出てないし……」

「秀人さん……なんで……」


 藤山と咲花が、口々に戸惑いの言葉を吐いた。秀人を殺すつもりだったのに、どうしてそんな様子になるのか。


 秀人は少しだけ笑ってしまった。笑った途端に激痛が走った。


「残念、だけど、手品、じゃないよ、藤山さん。血は、外部型、クロマチンの、応用で、止めてるだけで」

「嘘でしょ?」


 震える咲花の声。どうやら彼女には、外部型クロマチンで止血するという発想がなかったらしい。近距離砲を体現できたのだから、他の応用方法だって考えつきそうなものなのに。


「残念だけど、本当。なんなら、少しだけ、外部型クロマチンを、緩めて見せようか?」


 秀人はほんの一瞬だけ、外部型クロマチンでの止血を緩めた。


 腹に刺さったナイフの隙間から、プシュッと血が吹き出た。すぐに止血する。


 ――あ……。


 強烈な目眩が秀人を襲った。貧血症状。フラリと体が揺らいだ。強引に意識を保って、秀人は集中力を維持した。気絶したら、外部型クロマチンが解ける。止血ができなくなり、一気に出血する。やるべきこともやれずに死ぬことになる。


 秀人は華を見た。


 椅子に固定された華は、涙を流しながら顔を歪ませていた。唇が震えている。その様子で、彼女の気持ちが痛いほど分かった。


 でも、華には、もっと辛い思いをしてもらう。秀人のことが嫌いになるような思いを。


 秀人はゆっくりと、華に向かって足を進めた。彼女との距離は、約十メートル。普段の秀人なら、瞬きするよりも早く近付ける距離だ。


 けれど、今は遠い。果てしなく遠い。


 バランスが取りにくい体。一歩踏み出すごとに襲ってくる激痛。傷から考えると少ないとは言え、それなりに出血もした。貧血症状での目眩。ふらつき。この十メートルは、たぶん、今までの人生で一番長い十メートルだ。当然だろう。外部型クロマチンで止血していなければ、とっくに意識を失っているほどの傷なのだから。


 そういえば、と思い出した。外部型クロマチンでの止血を初めて試みたのは、華を引き取った直後だった。当時は、テンマに騙されていた彼女を利用してやろうと考えていた。


 一歩、一歩、足を進める。今の秀人の足取りは、家にいる猫達よりもぎこちない。人間に虐待され、体に障害が残った猫達。


 華は、猫達に初めて会ったとき、必死に訴えていたな。怖がる猫達に、怖くないよ、って。馬鹿だな。人間の言葉なんて、あいつらには通じないのに。


 華に出会ったとき、秀人は、彼女に姉の面影を見た。顔立ちなんて、全然似ていないのに。どうして華に姉の面影を見たのか、当時は分からなかった。華を見て大好きな姉を思い浮かべたことに、苛ついてさえいた。だから、華を「馬鹿」と吐き捨てた。心ない言葉で、彼女を傷付けた。


 今なら分かる。どうして華に姉の面影を見たのか。


 自分の命すら省みず、秀人を守ってくれた姉。自分のことよりも、秀人や赤ん坊のことを思いやっている華。


 彼女達への想いが、秀人の足を動かした。何よりも大切な人達。誰よりも愛しい人達。


 やがて、長く永い十メートルを歩き切って。


 秀人はようやく、華の側に辿り着いた。息切れが激しくなっている。苦しい。


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