第十四話 暴力性も凶暴性も発揮できない
道警本部の訓練室。
椅子に縛られた華の横で、亜紀斗は彼女を見張っていた。
華は、ボロボロと涙を流していた。大きなお腹。秀人の子を妊娠しているという。
半開きになっている、待機室のドア。あの影に、咲花が隠れている。秀人を仕留めるために。
訓練室の扉が開いた。藤山が、秀人を連れて入ってきた。
秀人はなぜか、スマートフォンを立てかける三脚を手にしている。
「秀人!」
秀人の姿を目した途端に、華が大声を上げた。
「秀人! ごめんなさい! ごめんなさい!」
華の目から、さらに大粒の涙が流れた。まるで滝のような涙。
華には、軽い知能障害があるらしい。そんな彼女が、秀人の子を妊娠している。
秀人にどんな目的があるのか、亜紀斗には分からない。ただ、何らかの目的があって華を騙し、彼女の心を掌握し、彼女の体を弄んで妊娠させた。亜紀斗はそう推測していた。
だが、その推測は、瞬く間に霧散した。華に呼び掛ける秀人を見て。
「華! 大声出さないで! 赤ちゃんがビックリするから!」
優しい声だった。優しい顔だった。とても、あの金井秀人だとは思えなかった。人の命をゴミのごとく踏み潰してきた彼が、華にだけは、慈しむような表情を見せていた。
秀人に忠告されて、華は口を一文字に結んだ。しゃくり上げながら、必死に声を押し殺している。
秀人は、隣りにいる藤山に視線を向けた。
「藤山さん」
「何?」
「華と、大声を出さずに話せる位置まで近付きたい。いいだろ?」
「じゃあ、僕がストップって言うまで進んで」
「わかった」
秀人と藤山が、こちらに向かって進んでくる。待機室のドアの前を通り過ぎた。そのまま、しばらく進んだ。待機室のドアが死角になる位置まで。咲花が、狙いやすい距離になるまで。
「はい、秀人君。ストップ」
藤山に指示されて、秀人は足を止めた。亜紀斗や華から、十メートルほど離れた場所。
「藤山さん。これじゃあ、少し遠いよ。もう少し近付けない?」
「駄目だよ。これ以上近付いたら、秀人君が一瞬で華さんのところまで行けちゃうからね」
「人質まで取ってるのに、ずいぶん用心深いね」
「秀人君を相手にするんだ。慎重にもなるよ」
「そう」
秀人から亜紀斗まで、約十メートル。秀人を相手にするなら、警戒が必要な距離だ。怪物としか言えない彼の能力を、亜紀斗は身をもって知っている。
それなのに亜紀斗は、なぜか、気を張ることができなかった。今の秀人の様子が、あまりに優しかったから。あの金井秀人だとは到底思えなかったから。
秀人は少し大きな声で、華に話しかけた。
「華、普通に話して大丈夫だから。俺なら、この距離でも華の声が聞こえるから」
亜紀斗の隣りで、華がコクコクと頷いた。頷くたびに、涙がこぼれ落ちていた。
秀人から目を離さないようにしつつも、亜紀斗は、華の姿に心が痛んだ。何も知らない女の子を、人質にしている。いくら秀人を始末するためとはいえ、こんなことが許されるのか? こんなことが正義と言えるのか?
胸を痛める亜紀斗を尻目に、秀人と藤山が話していた。
「ねえ、藤山さん」
「何だい?」
「華を誘拐したのは、佐川君なの?」
「違うよ。公安の人達」
「そう。で、その公安の人達は?」
「警備部で待機してるよ。もし秀人君と戦うことになったら、邪魔だから」
「……」
藤山との会話を終えた秀人は、目を閉じた。ここは、彼にとって敵地だ。それなのに、こんな隙を見せている。明らかに彼らしくない。もしかして、何かの罠なのだろうか。
目を閉じた秀人は、大きく深呼吸をしていた。大きく息を吸い、大きく吐く。それを数回繰り返し、再び目を開けた。
「……」
目を開けた秀人の姿に、亜紀斗は心を奪われた。
亜紀斗の知っている秀人は、美しい姿をした悪魔だ。それも、異常なほど賢く、恐ろしく強い悪魔。笑いながら他人の心を操り、思い通りにコントロールする。思い通りに人を殺させる。彼自身も、笑いながら人を殺す。彼の笑顔は、対峙する者に恐怖と絶望を抱かせる。
それが、金井秀人だった。
それが、金井秀人だったはずなのに。
「華」
秀人は微笑んでいた。優しく、温かい微笑み。その美しさも手伝って、亜紀斗の目には、聖母のようにすら見えた。彼は男なのだが。
「なに?」
鼻水を啜りながら、華は、普通の大きさの声で秀人に聞き返した。彼の言うことをしっかりと守っている。
「具合悪くない? お腹は張ってない? 吐き気とかはない?」
「だいじょーぶ。でもね、華、また秀人に迷惑かけちゃって……。馬鹿でごめんなさい。駄目なお母さんでごめんなさい」
えぐ、えぐっと華はしゃくり上げている。
今の秀人の姿を見て。秀人を信じ切る、華を見て。二人の会話を聞いて。二人が、強い絆で結ばれているように見えて。
亜紀斗の毒気は、完全に消え去った。
亜紀斗の本質は、凶暴性と暴力性だ。身につけた理性で、普段はそれらをコントロールしている。敵を前にしたら、理性という枷を外して本質を解放する。凶暴性と暴力性を駆使して、目の前の敵を殲滅する。
亜紀斗の凶暴性と暴力性は、幼い頃から暴力の中で育ったことにより身についたものだ。父親の暴力に晒され、染みついた本質。暴力から身を守り、目の前の暴力を駆逐するための性質。
誰かを慈しむ者に向ける凶暴性や暴力性は、亜紀斗にはない。
今の秀人は、華への優しさに満ちている。愛情に満ちている。とはいえ、その立ち振る舞いには、一分の隙もない。先ほど、目を閉じていたとき以外は。
ポスッと、気の抜けたような音が亜紀斗の耳に届いた。咲花が秀人を狙撃したのだ。
直後、秀人の笑顔の形が変わった。クスクスと、含み笑いをしている。
「やっぱりね」
狙撃されたのに、秀人に殺気はなかった。小さな悪戯っ子に向けるような笑顔。
「たった二人で俺を殺せるはずがないからね。それどころか、華を奪われないことだって、たった二人じゃ不可能だ。それなら、伏兵がいると思ってたよ。絶対に、背後から狙ってくるって思ってたんだ。だから、そこだけに防御を集中した」
秀人は後ろを振り向き、待機室に向かって声をかけた。
「そこの人、出ておいで」
待機室のドアの影から、咲花が姿を見せた。
「咲花だったんだ。生きてたの?」
秀人の声には、少しだけ驚きが混じっていた。
「まあね。残念だけど、幽霊じゃない」
「そっか。うん。なるほどね」
すぐに納得したように、秀人は小さく頷いた。
「咲花が殺処分されなかったのは、俺を殺すためだよね? 公安が俺の行方を探ってたってことは、国が本格的に俺を殺そうとしていることを意味してる。たぶん、国側は、天秤にかけたんじゃないかな? 俺を殺すために咲花を生かすか、従来通り咲花を殺すか」
秀人の声に、少しだけ彼らしさが戻った。もっともそれは、殺意でも害意でもない。
「で、国側は、俺を殺す方が重要だと考えた。俺は、国が隠蔽した事件の被害者遺族だから。しかも、隠蔽した事実を知っているから。さらに、この国に復讐しようと――この国を潰そうとしてるから」
秀人の推測は、あまりに的確だった。間違っている部分が一つもない。
「どう? 合ってるだろ?」
「うん。何一つ間違ってない」
咲花は苦笑していた。
「秀人さん」
「何?」
「そこまで頭がいいと、もう気持ち悪い」
「ひどい言い草だね。これでも一応、咲花の先輩だよ。まあ、元先輩だけど」
亜紀斗も、咲花と同意見だった。どんな頭をしていたら、あそこまで的確に言い当てられるのか。
秀人は体の向きを変えて、周囲に目配せした。咲花や亜紀斗、藤山に視線を送る。やはり少しの隙もない。だが、同時に、殺気もない。
「わかってると思うけど、三人いても俺を殺すのは無理だね。今の不意打ちは、なかなか惜しかったけど。でも、真っ正直から俺と戦うんだったら、戦力が全然足りないよ」
この点においても、秀人の言うことは正しい。
咲花は大きく溜め息をついた。
「秀人さん」
「何?」
「ひとつだけ、頼みがあるんだけど」
「うん。じゃあ、後で聞くよ。今から色々用意するから、少し待ってて」
「用意?」
聞き返した咲花を無視して、秀人は、手にした三脚の足を広げた。三脚をその場に立たせる。ポケットから自分のスマートフォンを取り出して、三脚にセットした。
「ねえ、藤山さん」
「なんだい?」
秀人は、三脚に立てたスマートフォンを操作している。
「俺のスマホね、画面ロックの設定がしてあるんだよね。暗証番号は八七八七だから。覚えておいて」
「はい? どういうことだい?」
「だから、俺の画面ロックの暗証番号。ハナハナって覚えておいて。簡単だろ?」
「いや、秀人君の画面ロックの暗証番号を覚えて、どうするの?」
藤山は、秀人の意図がまるで分からないようだ。もちろん亜紀斗にも分からない。
秀人の表情は、ここに来てからコロコロと変わっている。微笑んでいることに変わりはない。だが、そこに感じられる様子が違う。華と話しているときは、聖母とも思える微笑み。国側の意図を言い当てたときは、皮肉と嘲りが交じった微笑み。
今の秀人は、どこか寂しそうだった。寂しそうに、微笑んでいた。
「今に分かるよ」
秀人は、三脚に立てたスマートフォンを操作した。ピッと音が鳴った。写真撮影の音か。あるいは、動画撮影の音か。
スマートフォンの操作を終えると、秀人はコートを脱ぎ捨てた。コートの下に着ていたタートルネックも、その下のTシャツも脱いだ。上半身が裸になった。
秀人の体は、細身ながらも鍛え上げられていた。間違いなく、訓練を欠かしていない体だった。彼が、復讐のために作り上げた体。腰のベルトには、シースに入ったナイフが固定されている。
凶器と言えるほど鍛え抜かれた、秀人の体。その見た目に反しない、圧倒的な彼の強さ。かつて彼は、手を抜きながらも亜紀斗を圧倒した。左足一本で。
秀人の強さも恐さも、亜紀斗は知っている。それでも、今の彼に殺意を抱けない。闘争心が湧き上がらない。
上半身裸になった秀人が、シースからナイフを抜いた。普通の人間が手にしていたなら、人の命を奪える凶器。秀人にとっては、オモチャに過ぎないだろう。彼自身が、何にも勝る凶器なのだから――彼に殺意があるのなら、だが。
ナイフの刀身が、光を反射している。
秀人は手の中で、ナイフをクルクルと回した。柄を持ち、鉛筆回しのように器用に扱っている。
やがて、ナイフの回転が止まった。
刃を小指側にして、秀人はナイフを握った。
秀人は、何をするつもりなのか。何を考えているのか。何が目的なのか。
常人離れした知能を持つ、秀人。彼の考えなど、亜紀斗には想像もつかない。ただ、その動きに注目するしかない。
秀人がナイフを振り上げた。ずいぶんとゆっくした動作に見えた。それが本当にゆっくりとした動作なのか、それとも、ゆっくりと見えただけなのか。自分が目にしている動きなのに、亜紀斗には判断できなかった。
だが。
次の秀人の動きは、速く見えた。目で追えないほど速く。本当に一瞬だった。
秀人が手にしたナイフは、深々と突き刺さった。
彼自身の腹に。
※次回更新は明日(5/29)を予定してします。
 




