第九話③ 成功させなければならない。でも、失敗すればいいと思っている(後編)
「話を戻すよ」
昔話を終わらせて、藤山は続けた。
「四谷華さんを気遣ってのことだろうけど、秀人君は、今、一つの場所から離れることなく住み続けてる。もちろん、四谷華さんと一緒にね。場所は、豊平区にある一軒家。まあ、その家の名義人は、秀人君じゃないんだけど」
神出鬼没だった秀人が、ひとつの場所に定住している。こんなにも早く彼の居場所を突き止められた理由を、亜紀斗はようやく理解できた。
「つまり――」
藤山の目が鋭くなった。普段の彼とは違う、本来の彼の顔。
「――四谷華さんが、秀人君の弱点だ」
「……」
亜紀斗も咲花も押し黙った。秀人を討伐するために何をするのか、簡単に分かった。
華を人質にして秀人を誘き寄せ、殺す。非人道的としか言いようのない策略。
「腑に落ちないですね」
藤山が本題に入る前に、咲花が口を挟んだ。
「何がだい?」
「秀人さんが一カ所に定住しているなら、わざわざ人質なんて真似をしなくても、殺す方法はいくらでもあるはずです。私の無罪放免を認めてまで、私達に戦わせる必要なんてないんじゃないでしょうか?」
「殺す方法って、どんなんだい?」
「家の通気口から硫化水素でも吹き入れるとか、水道管に毒を入れるとか。四谷華も犠牲になりますが。国にとっては、私の無罪放免を認めるよりも小さい痛手で、秀人さんを殺せるはずです」
「……咲花君。君、なかなか過激なことを言うね」
「論理的な事実です」
「まあ、そうだろうけど」
ポリポリと、藤山は頭を掻いた。苦虫を噛むような顔になっている。
「まあ、答えは簡単だよ。国のお偉いさん達は、皆、自分の身が可愛いから」
「でしょうね」
「……いや、あの、まったく話が見えないんですけど」
藤山と咲花の会話がまったく理解できず、亜紀斗は手を差し出しながら訊いた。
「どういうことなんですか?」
咲花は溜め息をついた。
藤山は苦笑しながら説明を始めた。
「えっと、ね。じゃあ、亜紀斗君。一つ聞くけど、毒ガスや水道管に毒を入れて秀人君を殺せる確率って、どれくらいだと思う?」
「いや、いくら金井秀人でも、毒を盛られたら死にますよね?」
「うん。死ぬだろうね。でも、秀人君なら、致死量に達するほど体に入れる前に、気付く可能性が高い。そう思わないかい?」
「まあ、確かに」
「でも、毒ガスにしても水道管に毒を入れるにしても、一緒に暮らしてる四谷華さんは死ぬだろうね。彼女は、普通の――公安の報告によると、知能に少し障害がある子みたいだし。秀人君ほど、危機管理や危機対策ができない」
「ええ」
「じゃあ、ここで質問だよ。国の策略によって、自分の子を妊娠した恋人が殺されたら、秀人君は何を考えると思う? ただでさえ、昔、自分の家族が殺されてるのに」
「……復讐に拍車がかかる」
「そう。とりあえず、毒なんて策略を立てた人を突き止めるだろうね。それで、確実に暗殺する」
「でしょうね」
「じゃあ、秀人君の暗殺を食い止められる人間が、この国にいると思う? 暗殺を防ぐのは、ある意味で、秀人君を殺すより難しいんだよ」
「いないですね。国内どころか、世界中探してもいないかも知れないです」
「だからだよ。秀人君を殺したい。でも、自分の安全は確保したい。だから、秀人君の討伐に僕達を使うんだ。咲花君の罪に目を瞑ってでも、自分の身の安全を確保したいから。仮に失敗したとしても、狙われた怒りの矛先は、とりあえず僕達に向くわけだしね」
「……」
秀人の家族を惨殺した、五味秀一。その父親の、五味浩一。彼等を含む、国の重要人物。その薄汚さに、亜紀斗は吐き気を覚えた。国を動かす身でありながら、国民の犠牲よりも自分の欲と保身を重要視する。
「……その四谷華って子は、金井秀人がしていることを知ってるんですか? 金井秀人が国中で凶悪事件を起こして、数え切れないほどの犠牲者を出してる、って」
「たぶん知らないよ。少なくとも公安は、そう判断してる。産婦人科や道端での彼等の会話からね」
「じゃあ、四谷華は、ただ金井秀人が好きで、大切なだけなんですよね? 金井秀人の子供を妊娠して、凄く幸せで」
「そうだろうね。産婦人科での、秀人君と四谷華さんの写真も見たんだよ。公安が盗撮したものだけどね。四谷華さんは二十三歳らしいけど、童顔で、可愛らしい子でね。もの凄く幸せそうだったよ」
強く、亜紀斗は拳を握った。自分の感情が分からない。悲しいのか、苦しいのか、辛いのか。苛立ちなのか、怒りなのか、やり切れなさなのか。
間違いなく言えるのは、胸を裂かれるような感情だということ。こんな感情を抱かせるものが、正しいことのはずがない。
「そんなことが許されるんですか?」
「そんなこと、とは?」
「何も知らない、ただ金井秀人が好きで、幸せで――そんな女の子を人質にして。一人の女の子を不幸する方法が、許されるんですか?」
「正しいとは言わないよ」
藤山の声が、少し低くなった。憤りを堪えるように。
「でも、ね。秀人君がまた動き出したら、どうなると思う? 今は沈黙してるけど、四谷華さんが出産して、また動き出したら。間違いなく、また数え切れないほどの犠牲者が出るんだよ」
「……」
「それも、ただ犠牲が出るだけじゃない。国内情勢をさらに不安定にして、海外にその情報を流してる。この国を、他国に侵略させようとしてる。つまり、この国が戦火に包まれる」
「……」
「そうなる前に、秀人君を止められる? 亜紀斗君、言ってたよね。僕達三人でも、秀人君を殺すのは不可能だ、って。その通りだと思うよ。だから、やらなきゃいけない。多くの犠牲を出さないために、一人の犠牲に目を瞑る。そんなこと、絶対に正しくない。でも、それしか方法がないんだよ」
「……」
血が出るほど歯を食い縛って。胸の痛みを堪えて。ふと、亜紀斗は思いついた。
「そうだ! 五味親子ですよ!」
「はい?」
「金井秀人の恨みの根本は、五味親子なんですから! だったら、あいつらを犠牲にすればいいんですよ! 引っ捕らえて、金井秀人に差し出して、交渉すれば……」
亜紀斗の話の途中で、咲花が大きな溜め息をついた。
藤山は、我が儘を言う子供を諭すように、亜紀斗に訊いてきた。
「亜紀斗君。君、奥田さんを巻き込んでもいいの?」
「は? なんで今、麻衣ちゃんの名前が出るんですか?」
「以前に言ったよね? 君が下手なことをすれば、君の周囲の人にも危害が及ぶって。政界には、五味派の人達が多くいる。五味親子も、自分の身を守ろうとする。じゃあ、君が五味親子に危害を加えようとしたとき、彼等はどうすると思う?」
「……」
答えは火を見るより明らかだ。麻衣を人質にして、亜紀斗を制御しようとする。華を人質にして、秀人を殺そうとするように。
「五味秀一は、秀人君の家族を殺した。しかも、散々痛ぶって、陵辱して。そんな奴に奥田君が人質に取られたら、どうなると思う?」
怒りと同時に、亜紀斗は身震いした。麻衣が、秀人の家族と同じような目に遭うかも知れない。五味に笑いながら犯され、屈辱的な行為をさせられ、心に一生消えない傷を負う。あの優しい笑顔と包み込むような温もりが、永久に失われるかも知れない。
考えただけで、涙が出そうだった。想像しただけで、気が狂いそうだった。
「まあ、五味親子を差し出した程度で秀人君を止められるなら、その役割を僕がやってもいいんだけどね。幸いなのか何なのか、僕には身内がいないし」
「そうなんですか?」
訊いた咲花に、藤山は、表情を変えずに頷いた。
「僕は母子家庭でね。祖父母は僕が子供の頃に亡くなったし、母も八年前に亡くなったんだ。従兄弟も叔父伯母もいない。完全に天涯孤独だからねぇ」
身の上を語る藤山に、悲壮感はなかった。孤独の寂しさなど、一切感じていないようだ。やはり表情を変えないまま、彼は続けた。
「でも、今さら五味親子を差し出したところで、秀人君は止められないんだよ」
「どうしてですか?」
全ての諸悪の根源は、五味親子なのに。亜紀斗は、藤山の方に身を乗り出した。
「秀人君は、国民全員を恨んでる。当時の国の人達は、五味浩一が流した情報に踊らされて、秀人君の家族を滅茶苦茶に批難してたからね。家に放火までされたんだ。秀人君の家はほぼ全焼して、家族の写真とかも全部駄目になったらしいよ」
「……」
亜紀斗は何も言えなくなった。乗り出した体を引っ込めた。ただ、悔しさに肩を震わせた。五味親子の所業を考えれば、秀人だけを批難することはできない。たとえ、彼がどれほど多くの人を殺していても。
だが、秀人は止めなければならない。止めなければ、この国自体が終わる。この国に住む人達の人生も。秀人の家族が惨殺されたときに、まだ生まれていなかった人達もいるのに。何も知らない人達もいるのに。
「佐川」
咲花に名前を呼ばれて、亜紀斗は彼女を見た。
普段は冷たい印象を抱かせる、咲花の綺麗な顔。今は、どこか優しく見えた。同時に、悲しそうにも見えた。彼女はきっと、分かっているのだ。秀人の気持ちが。彼と同じように、大切な家族を惨殺された人だから。
「あんたが正しいことをしたいのは分かる。五味親子が全ての元凶なのも、間違いない。正直なところ、私だって、五味親子は殺してやりたい。あいつらは死ぬべきだと思う。どれだけ政界で強い力を持っていても」
大切な人を失った悲しみや苦しみは、心に大きな変化をもたらす。それが、いい方向にしても悪い方向にしても。咲花ですら、絶望して、復讐に走った。姉を思う気持ちより、怒りと絶望が上回ってしまった。
「でも、今の秀人さんがやってるのは、復讐を超えた破壊行為なの。どんなことをしても止めないといけない。止めないと、あんたも、また大切な人を失うことになるんだよ」
秀人を止めないと、大切な人を――麻衣を失う。そりゃあそうだろう。国そのものが危うくなれば、麻衣の平穏を確保することも困難になる。
咲花から目を逸らし、亜紀斗は俯いた。こぼれ落ちそうになる涙を、必死に堪えた。ギュッと目を閉じて、大きく息を吐く。目を開け、再び顔を上げた。
意思を固める。どんなに辛くても、どんなに汚れても、大切な人を守る。今度こそ、必ず。
「わかりました。正直、五味親子はいつか潰したいと思いますが。今は金井秀人です」
「ごめんね、亜紀斗君」
藤山の謝罪を聞いて、亜紀斗は罪悪感を覚えた。彼も、やり切れない気持ちを抱えているのだ。
「いえ。大丈夫です。それで、どうやって四谷華を人質に取るんですか?」
「簡単だよ。常に秀人君の周囲を張って、秀人君が四谷華さんから離れるのを待つ。四谷華さんは、現在妊娠六ヶ月。出産のために入院を開始するのは、概ね妊娠九ヶ月目から十ヶ月目に入ったくらいから。つまり、四谷華さんを捕えられる期間は、あと三ヶ月くらいだね」
「金井秀人は、四谷華をかなり気遣ってるんですよね? 離れることなんてあるんですか?」
「今のところ、常に一緒に行動してるらしいね。秀人君が一人で外出することもないし、四谷華さんが一人で外出することもないみたい」
「そうですか」
もし秀人が一人で行動しなければ――華を一人にすることがなければ、この作戦は失敗に終わる。
秀人を止めなければならい。それは、亜紀斗も分かっていた。けれど、この作戦が失敗すればいいと思う自分も、確かにいた。
たぶん、藤山も咲花も、そう思っている。
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