第七話① 死ぬまで一緒にいたかった。死ぬまで一緒にいたい(前編)
「や、佐川君。こうして話すのは久し振りだな」
道警本部の十六階。エレベーター前。
約四ヶ月ぶりに、亜紀斗は川井の声を聞いた。
十月。明確に秋を感じる季節。
時刻は、午後七時。
仕事を終えてエレベーターまで足を運んだところで、亜紀斗は、川井に遭遇した。
川井は、どこか疲れた顔をしていた。目の下に、くっきりとした隈がある。
「お久し振りです」
言いながら、亜紀斗は軽く頭を下げた。
「川井さんは、今帰りですか?」
「まあ、そうだな。でも今日は、早めに仕事を終わらせたんだ。で、佐川君を待ってた。話をしたくてね」
「話、ですか? 俺と?」
「ああ。佐川君は車通勤? それとも地下鉄か?」
「地下鉄です」
「じゃあ、車で送るから、少し付き合ってくれないか?」
「……はぁ」
亜紀斗は生返事をした。川井が、自分に何の用なのか。
南や磯部の殺害事件以来、亜紀斗と川井は接触がなかった。捜査一課からヘルプを求められるような事件が、発生しなかった。違う業務をしているから、ほとんど関わることもない。それなのに、突然声を掛けられた。
川井の意図が、亜紀斗にはさっぱり分からなかった。
二人でエレベーターに乗り、一階まで降りる。一階について、道警本部から出た。
外はすっかり暗くなっていた。仕事帰りと思われる人達が、たくさん歩いている。空は晴れていて、星と月が見えていた。少し風が冷たい。
「駐車場、こっちだから」
川井が指差す。彼と一緒に歩いた。徒歩で二分ほどの駐車場に辿り着くまで、会話はなかった。
駐車場に着くと、川井が車のロックを解いた。
「じゃあ、乗って」
「はい。お邪魔します」
助手席のドアを開けて、亜紀斗は車に乗り込んだ。
川井も運転席に腰を下ろした。エンジンをかける。
「佐川君の家はどの辺? 住所を教えてもらえるかな?」
「ああ、えっと、確か――」
今日は自宅に帰らない。麻衣の家に泊りに行く。彼女の家の正確な住所を、亜紀斗は覚えていなかった。
「――岸平駅の近くです。住所は、確か、岸平三条……七丁目、だったかな……」
「え? いや、あの、自分の家の住所だよ? 覚えてないのかい?」
「あ、いや。今日は、自分の家に帰るんじゃなくて、人の家に行くんで」
「ああ」
何かを思い出したように、川井は声を上げた。
「奥田さんの家?」
「えっと……はい」
以前、藤山に指摘されたことがある。亜紀斗と麻衣が付き合っていることは大勢に知られている、と。どうやら本当らしい。
「そっか。じゃあ、まあ、岸平駅付近まで適当に走らせるから、そこからはナビしてもらえるかな?」
「はい」
川井が車を発進させた。駐車場から道路に出て、一旦は国道に向かう。
「それで、話って何ですか?」
車を走らせる川井に、聞いてみる。亜紀斗には、彼の要件が想像もつかなかった。
聞いた途端に、川井は表情を曇らせた。
「咲花のことだよ」
「……」
言われて、亜紀斗は納得した。
咲花の扱いは、表向きは行方不明となっている。クロマチン能力者が罪を犯した場合、その犯罪は表に出ない。秘匿され、殺処分される。咲花も、本来は殺処分されるはずだった。
「単刀直入に聞くけど、咲花がどこにいるのか、心当たりはないかい?」
「……いえ」
できるだけ自然に、亜紀斗は答えた。上手く出来た自信はないが。
一度話し始めると、川井は止まらなくなった。
「何て言うか、こう……おかしいことが多過ぎるんだ。磯部が殺されて、南が殺されて、咲花に疑いがかかった。その疑いが晴れたと思ったら、突然、磯部や南の事件の捜査が、打ち切りになった。しばらくしてから、高野が犯人だとして逮捕された」
クロマチン能力者の――咲花の犯罪を隠すために作られたシナリオ。事実を知る人間以外には、川井が語った内容が公表されている。高野が二人を殺した犯人。動機は、金銭トラブル。
「じゃあ、高野を逮捕したのは誰だ? 俺達の捜査は、理由も聞かされずに打ち切りになった。それがいきなり、高野が逮捕されて。しかも、間もなく、高野は留置所で自殺した。咲花に関連のある奴等が、ことごとく死んだんだ。あまりにも不可解な状況で」
少しずつ、川井の感情が露わになってきた。口調は静かだ。静かだが、発する声には、疑問と、苛立ちと、憤りと、苦しさが滲み出ている。
「さらに、神坂も刑務所で死んだ。自殺らしいけど、何かおかしい。咲花に関連のある奴等が、短期間に、まとめて死んだんだ」
ハンドルを握る川井の手には、力が込められている。事故を起こしても不思議ではない気持ちの乱れを、明確に感じる。それでもアクセルを踏み過ぎないのは、彼が理性的な人間である証だ。
一呼吸置いて、川井は、絞り出すように呟いた。
「咲花のお姉さんを殺した奴等が、まとめて死んだ」
呪詛とも言える言葉。呪いの矛先は、間違いなく死んだ四人だろう。咲花の姉を殺し、彼女の人生を大きく歪ませた男達。間接的に、川井の幸せも壊した男達。
磯部や南の捜査をしているとき、川井は、咲花の過去について一切語らなかった。捜査一課の面々は知っていただろうが、亜紀斗は別の課だ。彼女の過去を、不必要に吹聴しなかった。
それなのに、今、川井は、咲花の過去を語っている。根拠がなくても、感付いているのだ。四人が死んだ事件と咲花の失踪には、関連性があるのだと。
川井の勘は、決して的外れではない。それどころか、しっかりと的を得ている。
「なあ、佐川君」
赤信号にぶつかって、川井は車を停めた。
「どんなことでもいいから、教えてくれないか? 咲花のこと、何か知らないか?」
高野達のことを語るとき、川井は怒りを滲ませていた。咲花のことを語るときは、声に涙を滲ませていた。
信号が青になって、川井は車を発進させた。どんなに感情が乱れていても、運転中はしっかり前を見ている。それだけ責任感が強い人なのだろう。けれど、彼の目は、苦しそうに歪んでいた。
一緒に捜査をしていたときから思っていたことを、亜紀斗は改めて感じた。川井にとって、咲花は誰にも代え難い人なのだ。だから結婚しようとしていた。別れてからも独身を貫いている。彼女を想い続けている。
咲花が――大切な人が突如目の前から消えて、川井は、自分なりに、これまで色々と調べたのだろう。彼の疲れた顔が、この四ヶ月間の苦労を物語っていた。咲花が行方不明になってからの、四ヶ月。しかし、成果はまったくなかったのだ。だから、藁にも縋る思いで亜紀斗を尋ねてきた。
今の川井の気持ちが、痛いほど理解できる。亜紀斗も、過去に大切な人を亡くした。掛け替えのない人が消えてしまう苦しみを、よく知っている。
咲花のことを話してあげたい。彼女は生きていて、これからも生きられる可能性がある。全てが無事に終われば、再び川井の前に姿を現すだろう。無事に終わる可能性は、限りなく低いのだが。
『笹島は生きてます。元気かどうかは分からないですけど、無事です』
喉まで出かかった言葉を、亜紀斗は慌てて飲み込んだ。言ってはいけない。もし、自分が秘密を漏らしたらどうなるか。自分一人なら、どうなってもいい。けれど、麻衣が巻き込まれる可能性がある。それだけは、どんなことがあっても避けたい。
「すみません」
腹に力を込めて、拳を握り締めて、亜紀斗は嘘を絞り出した。
「俺も、何も知らないんです。力になれなくて、申し訳ないんですが……」
ハンドルを握る川井の拳から、少しだけ力が抜けたようだ。
「そうか」
溜め息とともに、川井は言葉を返してきた。そのまま、苦痛を吐き出すように続けた。
「実は、咲花が行方不明になる何日か前に、あいつに会ったんだ」
「そうなんですか?」
「ああ。たぶん、もう気付いているだろうけど――俺と咲花は、昔、付き合ってたんだ。婚約もしてた」
「はい。そんな気がしてました」
川井がしているのは、苦痛の吐き出し。だから、亜紀斗の相槌など、ほとんど耳に入っていないようだった。
「咲花の本心は分からない。でも俺は、あいつが嫌いで別れたんじゃない。だから、何度も復縁を持ちかけた。その度に断られたけどね」
「……」
咲花の気持ちが、亜紀斗には分かる。地獄の中で死んだ姉を差し置いて、自分だけ幸せになんてなれない。自責の念が、幸せを遠ざけていた。麻衣と付き合い始める前の亜紀斗と、同じように。
「でも、最後に咲花に会った日。あの日は、咲花の方から俺を誘ってきたんだ。俺の帰りを待っていて、それで……」
川井は言葉を濁したが、二人が何をしたのか、簡単に想像できた。川井を誘った咲花の気持ちも。
あの時、咲花は死ぬつもりだったのだ。復讐を果たした後、自らの命も捨てるつもりだったのだ。だから、最後に川井のもとに行った。愛している人のところへ。好きな人の温もりを、体に刻み込むために。好きな人の感触を抱いたまま、人生を終えられるように。
亜紀斗は何も言えなかった。適当な相槌すら返せなかった。川井の気持ちも、咲花の気持ちも、痛いほど分かる。単なる理屈ではなく、実感として。大切な人の側にいたい気持ちと、大切な人だから離れたい気持ち。




