表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
罪と罰の天秤  作者: 一布
第四章 この冷たく残酷な世界でも
151/176

第五話② それでも不可能(後編)


 亜紀斗が動き回り始めてから、二分ほど経った。


 亜紀斗の攻撃を防いだ藤山が、大きく息をついた。疲労の色が見える。もう少し体力を削れば、攻撃が当たり始めるだろう。


 ペースは、自分の方に傾き始めている。亜紀斗がそう感じた直後だった。


 藤山は大きく後退し、訓練室の隅まで移動した。逃げ場のない袋小路。


 亜紀斗はやはり、藤山の行動が理解できなかった。劣勢に立たされているのに、なぜ、さらに不利な状況に自分を追い込むのか。


 藤山の意図など、自分に分かるはずがない。亜紀斗は思考を止め、藤山を追い詰めにいった。大きく左右に動きながら、藤山との距離を詰めてゆく。


 藤山が攻撃の姿勢を見せた。左拳を打ち出す予備動作。


 亜紀斗は距離を詰めつつ、左に動いて避けようとして――


 ――ドンッ


 亜紀斗の左肩が、壁にぶつかった。部屋の隅に移動したため、動ける範囲が狭くなっていた。


 藤山は、打ち出した左拳の軌道を変えた。真っ直ぐから、横薙ぎの軌道へ。壁にぶつかった亜紀斗に向かって、左フックを振ってくる。


 今の体勢で、このパンチは避けられない。亜紀斗は咄嗟に、右腕でブロックした。重く鋭い衝撃が、右腕を貫いていった。


 藤山に打たれた衝撃で、亜紀斗は壁際に押し込まれた。身動きが取りにくい。


 藤山は、このチャンスを逃さなかった。追撃を仕掛けてくる。右のストレート。


 ここは一旦、防御に徹する。追い込まれたこの状況では、分が悪い。本来なら、そう考えるべきだ。そう考えるべきだが、亜紀斗の本能が反論した。


 ここで守りに回ったら、一気にペースを持っていかれる。スピードとパワーなら、絶対に自分の方が上だ。それなら、多少不利な状況でも迎え撃つべきだ。


 藤山が右を打ち出してから一瞬遅れて、亜紀斗は右拳を突き出した。


 グシャッと、何かが潰れるような音がした。頭の中に響く、破壊的な音。亜紀斗の視界が、グニャリと大きく揺れた。足がもつれて、壁に背中が当たった。


 亜紀斗の右拳にも、確かな手応えがあった。


 見ると、藤山もフラついていた。右と右の相打ち。亜紀斗の方が遅れて打ったのに、ほとんど同時に当たった。それは、スピードでは亜紀斗が上回っているという証明だった。


 亜紀斗はダメージを受けた。

 藤山もダメージを受けている。


 防弾ヘルメットがなければ、二人とも失神していただろう。互いに無傷ではない。


 相手にダメージを回復させる時間を与えてでも、自分のダメージを回復させるべきか。それとも、ここで攻めに出るべきか。


 亜紀斗は一瞬で判断した。判断とすら呼べない、感覚での行動だった。


 一気に攻める。藤山は、年齢差や戦力差を覆すことができるくせ者だ。回復させたら、またペースを握られる。


 亜紀斗は踏み込み、自分のパンチが当たる距離に入った。ダメージが同じだとしても、若い自分の方が動けるはずだ。


 踏み込んだ亜紀斗に対し、藤山も踏み込んできた。体勢を極端に低くして。先ほどと同じように、亜紀斗の腰に抱きついてきた。そのまま亜紀斗を持ち上げ、また放り投げてきた。今度は上空ではなく、大きく後方へ。


 投げ飛ばされた亜紀斗は、藤山から六メートルほど離れた場所で床に落下した。手を着いて体を反転させ、上手く着地した。


 大きく離れた場所で、藤山が初めて構えた。左足を前、右足を後ろにして、斜の体勢になっている。着地した亜紀斗を見て、大きく息を吐き、大きく息を吸った。


 藤山には、明らかな疲労の色が見て取れた。当然だ。道警本部で――それどころか、全国でも屈指と言える亜紀斗と戦っているのだ。四十代中盤の、体力が衰えている肉体で。


 でも、藤山なら、また何かしてくるかも知れない。亜紀斗が予想もできない、何かを。


 訓練開始のときにあった、亜紀斗の油断。藤山に惨めな思いをさせずに終わらせようという、思い上がり。そんな気持ちは、もう完全に消え去っていた。目の前にいるのは、積み重ねた経験と卓越した頭脳を持つ、未知の獣だ。


 藤山の体力を回復させてしまっては、また翻弄されるかも知れない。危機感が、亜紀斗を突き動かした。構えた彼に向かってゆく。


 藤山は、ゆったりとした動作で迎え撃ってきた。ゆったりとしながら、突如速く動く。極端過ぎるほどの緩急。その緩急が、彼のスピードを速く感じさせていた。


 藤山の速さの正体が――カラクリが理解できた。理解できたが、打開策は思い浮ばない。それでも亜紀斗は、若さ故の体力でペースを譲らなかった。


 一進一退の攻防。互いの攻撃が、時折クリーンヒットする。だが、完全な決め手にはならない。


 決め手がないまま、時間が過ぎていった。


『それまで! 時間です!』


 スピーカーから声が響いて、亜紀斗は動きを止めた。藤山に接近し、右拳を打ち出す直前だった。


 藤山も、亜紀斗に向かって伸ばしていた手を止めた。大きく息を吐き、大きく吸う。また大きく息を吐いて、ペタリとその場に尻餅をついた。よほど疲れたのか、座った途端に呼吸が細切れになった。ハアッ、ハアッと肩を大きく動かしていた。


「いやぁ。やっ、ぱり、強いねぇ、亜紀斗君」


 藤山は防弾ヘルメットを脱いだ。顔に、滝のような汗をかいていた。脱いだヘルメットからも汗が滴り落ちている。荒い呼吸が、彼の疲労度を物語っていた。


 亜紀斗もその場に座り込んだ。疲労はあるが、明らかに藤山ほどではない。肉体的疲労は、だが。反面、精神面の消耗が尋常ではなかった。内容的には五分五分だったかも知れないが、常に追い込まれているような感覚があった。


「隊長」


 単刀直入に、亜紀斗は聞いてみた。単純に興味があった。


「昔の隊長と金井秀人、どっちが強かったんですか?」


 藤山は、現時点でも十分過ぎるほど強かった。今すぐ隊員として現役復帰しても、他の隊員よりはるかに上の働きができるだろう。


 経験を積み重ね、戦闘時の頭脳が向上している。とはいえ、昔よりは衰えているはずだ。


 では、若い頃の藤山と秀人は、どちらが上だったのか。


「そりゃあ、秀人君だよ」


 当然と言うように、藤山は回答した。


「秀人君は天才だからねぇ。しかも、努力家の天才だから。昔から強かったよ」


 藤山の答えは、亜紀斗の想像通りだった。


「さらに、今の秀人君は、たぶん僕と一緒に働いてた頃よりも強いよ」


 藤山の話によると、今の秀人は三十六歳。年齢的に、体力は衰えているはずだ。それでも、訓練を重ねていれば、衰えは最小限に食い止められる歳である。かつ、経験と知識は増やすことができる。


 藤山の話には、信憑性があった。総合力で言えば、今の秀人は、藤山が知っている秀人よりも上だ。


「それで、だ。亜紀斗君」

「何ですか?」

「どうだい、僕は」

「どう、とは?」

「秀人君と対峙した場合、君達の戦力になれそうかい? それとも、僕でも足手まといかい?」


 足手まといなはずがない。むしろ、経験と頭脳だけで亜紀斗とこれだけ戦えるのだから、重要な戦力と言える。


「すみません。俺、隊長のこと舐めてました。正直、開始前は、やり過ぎないようにしようなんて考えてました」

「まあ、僕ももう四十四だしねぇ。無理もないよね」

「すみません」

「仕方ないよ。で、僕の質問に対する回答は?」

「……」


 亜紀斗は口を噤んだ。正直な感想を言うのは、少し気が引ける。だが、ここで嘘をつくわけにもいかない。下らないお世辞を真実だと思われたら、秀人と対峙したときに死ぬことになる。


「戦力にはなります。どんなに少なくとも、足手まといにはなりません。それどころか、金井秀人を相手にするのに、絶対に欲しい戦力です」


 これは正直な感想だ。秀人と対峙した際に、どんな戦い方が選択できるか。亜紀斗が近接戦闘。咲花が、遠距離から攻撃する。藤山は二人を指揮しつつ、必要に応じて援護もする。亜紀斗の頭の中に、鮮明に浮かぶイメージ。咲花と二人だけの場合よりも、はるかにまともな戦いができるはずだ。


「それでも、金井秀人には及ばないと思います」


 まともな戦いはできるだろう。だが、戦えるだけだ。勝つことはできない。間違いなく、三人とも殺される。


 絶望的とも言える亜紀斗の感想に、藤山は危機感のない顔を見せた。むしろ、想像通りとでも言わんばかりに笑っていた。


「まあ、そうだろうねぇ」


 言葉に、笑い声を混ぜる。


「正直なところ、秀人君とまともに戦って勝てる人なんて、地球上に一人二人いるかいないか、ってレベルだから」


 楽観的に言い放つ藤山に、亜紀斗は、眉間に皺を寄せた。


「じゃあ、どうするんですか? 金井秀人をどうにかできないと、笹島は殺処分される。それ以前に、金井秀人に殺されるんですよ?」

「まあまあ。そんなに焦らないでよ」


 藤山は笑いながら、パタパタと手を振った。


「実力で勝てないなら、相手の弱点を突くしかないよね。で、秀人君だって人間なんだから。どこかに弱点くらいあるはずだよ。それは、これからゆっくり探していこうか」

「ゆっくり、って……」


 亜紀斗は顔を歪ませた。藤山が悠長過ぎるように見えた。そもそも、秀人に弱点などあるのだろうか。


 咲花を生かす道は見えている。しかし、そのための障害はあまりに大きい。彼女を生かすどころか、彼女を含めて全滅する可能性だってある。むしろ、全滅する可能性の方が高い。


 亜紀斗は額を押さえ、大きな溜め息をついた。

 絶望しか見えない。生き残る可能性が見出せない。


 でも。それでも。


 必ず生き残らなければならない。必ず生きて帰る。

 咲花を生かしたうえで、麻衣のところに帰る。


 訓練の疲労を抱えながら、亜紀斗は、頭の中でイメージした。秀人と戦うイメージ。咲花と、藤山と、自分。三人がかりで秀人に向かってゆく。


 接近して仕掛ける亜紀斗を、秀人は、片手か片足だけで捌いている。咲花が隙を見て弾丸を放つが、秀人はあっさりと払い落とす。藤山が的確な指示をし、さらに彼自身も仕掛ける。だが、秀人の頭脳は、藤山の経験や知識の上を行く。


 徐々に追い詰められ、ダメージを負い、明らかに不利になってゆく。一人が戦えないほどのダメージを負い、二対一になる。三対一でも不利だった状況が、さらに不利になる。すぐに一人やられ、一対一になる。


 一対一で秀人に勝てるはずがない。

 そして、全滅。

 三人とも死ぬ。


 鮮明に浮かぶ、自分達の敗戦。自分達の死。余裕のある、秀人の綺麗な微笑。綺麗で、冷酷で、残酷な微笑。


 亜紀斗は首を横に振り、死の予感を振り払った。


 ――絶対に生きて帰るんだ。


 絶対に。何があっても。どんなことをしても。


 そう、何度も自分に言い聞かせた。


※次回更新は5/10の夜を予定しています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ