第五話② それでも不可能(後編)
亜紀斗が動き回り始めてから、二分ほど経った。
亜紀斗の攻撃を防いだ藤山が、大きく息をついた。疲労の色が見える。もう少し体力を削れば、攻撃が当たり始めるだろう。
ペースは、自分の方に傾き始めている。亜紀斗がそう感じた直後だった。
藤山は大きく後退し、訓練室の隅まで移動した。逃げ場のない袋小路。
亜紀斗はやはり、藤山の行動が理解できなかった。劣勢に立たされているのに、なぜ、さらに不利な状況に自分を追い込むのか。
藤山の意図など、自分に分かるはずがない。亜紀斗は思考を止め、藤山を追い詰めにいった。大きく左右に動きながら、藤山との距離を詰めてゆく。
藤山が攻撃の姿勢を見せた。左拳を打ち出す予備動作。
亜紀斗は距離を詰めつつ、左に動いて避けようとして――
――ドンッ
亜紀斗の左肩が、壁にぶつかった。部屋の隅に移動したため、動ける範囲が狭くなっていた。
藤山は、打ち出した左拳の軌道を変えた。真っ直ぐから、横薙ぎの軌道へ。壁にぶつかった亜紀斗に向かって、左フックを振ってくる。
今の体勢で、このパンチは避けられない。亜紀斗は咄嗟に、右腕でブロックした。重く鋭い衝撃が、右腕を貫いていった。
藤山に打たれた衝撃で、亜紀斗は壁際に押し込まれた。身動きが取りにくい。
藤山は、このチャンスを逃さなかった。追撃を仕掛けてくる。右のストレート。
ここは一旦、防御に徹する。追い込まれたこの状況では、分が悪い。本来なら、そう考えるべきだ。そう考えるべきだが、亜紀斗の本能が反論した。
ここで守りに回ったら、一気にペースを持っていかれる。スピードとパワーなら、絶対に自分の方が上だ。それなら、多少不利な状況でも迎え撃つべきだ。
藤山が右を打ち出してから一瞬遅れて、亜紀斗は右拳を突き出した。
グシャッと、何かが潰れるような音がした。頭の中に響く、破壊的な音。亜紀斗の視界が、グニャリと大きく揺れた。足がもつれて、壁に背中が当たった。
亜紀斗の右拳にも、確かな手応えがあった。
見ると、藤山もフラついていた。右と右の相打ち。亜紀斗の方が遅れて打ったのに、ほとんど同時に当たった。それは、スピードでは亜紀斗が上回っているという証明だった。
亜紀斗はダメージを受けた。
藤山もダメージを受けている。
防弾ヘルメットがなければ、二人とも失神していただろう。互いに無傷ではない。
相手にダメージを回復させる時間を与えてでも、自分のダメージを回復させるべきか。それとも、ここで攻めに出るべきか。
亜紀斗は一瞬で判断した。判断とすら呼べない、感覚での行動だった。
一気に攻める。藤山は、年齢差や戦力差を覆すことができるくせ者だ。回復させたら、またペースを握られる。
亜紀斗は踏み込み、自分のパンチが当たる距離に入った。ダメージが同じだとしても、若い自分の方が動けるはずだ。
踏み込んだ亜紀斗に対し、藤山も踏み込んできた。体勢を極端に低くして。先ほどと同じように、亜紀斗の腰に抱きついてきた。そのまま亜紀斗を持ち上げ、また放り投げてきた。今度は上空ではなく、大きく後方へ。
投げ飛ばされた亜紀斗は、藤山から六メートルほど離れた場所で床に落下した。手を着いて体を反転させ、上手く着地した。
大きく離れた場所で、藤山が初めて構えた。左足を前、右足を後ろにして、斜の体勢になっている。着地した亜紀斗を見て、大きく息を吐き、大きく息を吸った。
藤山には、明らかな疲労の色が見て取れた。当然だ。道警本部で――それどころか、全国でも屈指と言える亜紀斗と戦っているのだ。四十代中盤の、体力が衰えている肉体で。
でも、藤山なら、また何かしてくるかも知れない。亜紀斗が予想もできない、何かを。
訓練開始のときにあった、亜紀斗の油断。藤山に惨めな思いをさせずに終わらせようという、思い上がり。そんな気持ちは、もう完全に消え去っていた。目の前にいるのは、積み重ねた経験と卓越した頭脳を持つ、未知の獣だ。
藤山の体力を回復させてしまっては、また翻弄されるかも知れない。危機感が、亜紀斗を突き動かした。構えた彼に向かってゆく。
藤山は、ゆったりとした動作で迎え撃ってきた。ゆったりとしながら、突如速く動く。極端過ぎるほどの緩急。その緩急が、彼のスピードを速く感じさせていた。
藤山の速さの正体が――カラクリが理解できた。理解できたが、打開策は思い浮ばない。それでも亜紀斗は、若さ故の体力でペースを譲らなかった。
一進一退の攻防。互いの攻撃が、時折クリーンヒットする。だが、完全な決め手にはならない。
決め手がないまま、時間が過ぎていった。
『それまで! 時間です!』
スピーカーから声が響いて、亜紀斗は動きを止めた。藤山に接近し、右拳を打ち出す直前だった。
藤山も、亜紀斗に向かって伸ばしていた手を止めた。大きく息を吐き、大きく吸う。また大きく息を吐いて、ペタリとその場に尻餅をついた。よほど疲れたのか、座った途端に呼吸が細切れになった。ハアッ、ハアッと肩を大きく動かしていた。
「いやぁ。やっ、ぱり、強いねぇ、亜紀斗君」
藤山は防弾ヘルメットを脱いだ。顔に、滝のような汗をかいていた。脱いだヘルメットからも汗が滴り落ちている。荒い呼吸が、彼の疲労度を物語っていた。
亜紀斗もその場に座り込んだ。疲労はあるが、明らかに藤山ほどではない。肉体的疲労は、だが。反面、精神面の消耗が尋常ではなかった。内容的には五分五分だったかも知れないが、常に追い込まれているような感覚があった。
「隊長」
単刀直入に、亜紀斗は聞いてみた。単純に興味があった。
「昔の隊長と金井秀人、どっちが強かったんですか?」
藤山は、現時点でも十分過ぎるほど強かった。今すぐ隊員として現役復帰しても、他の隊員よりはるかに上の働きができるだろう。
経験を積み重ね、戦闘時の頭脳が向上している。とはいえ、昔よりは衰えているはずだ。
では、若い頃の藤山と秀人は、どちらが上だったのか。
「そりゃあ、秀人君だよ」
当然と言うように、藤山は回答した。
「秀人君は天才だからねぇ。しかも、努力家の天才だから。昔から強かったよ」
藤山の答えは、亜紀斗の想像通りだった。
「さらに、今の秀人君は、たぶん僕と一緒に働いてた頃よりも強いよ」
藤山の話によると、今の秀人は三十六歳。年齢的に、体力は衰えているはずだ。それでも、訓練を重ねていれば、衰えは最小限に食い止められる歳である。かつ、経験と知識は増やすことができる。
藤山の話には、信憑性があった。総合力で言えば、今の秀人は、藤山が知っている秀人よりも上だ。
「それで、だ。亜紀斗君」
「何ですか?」
「どうだい、僕は」
「どう、とは?」
「秀人君と対峙した場合、君達の戦力になれそうかい? それとも、僕でも足手まといかい?」
足手まといなはずがない。むしろ、経験と頭脳だけで亜紀斗とこれだけ戦えるのだから、重要な戦力と言える。
「すみません。俺、隊長のこと舐めてました。正直、開始前は、やり過ぎないようにしようなんて考えてました」
「まあ、僕ももう四十四だしねぇ。無理もないよね」
「すみません」
「仕方ないよ。で、僕の質問に対する回答は?」
「……」
亜紀斗は口を噤んだ。正直な感想を言うのは、少し気が引ける。だが、ここで嘘をつくわけにもいかない。下らないお世辞を真実だと思われたら、秀人と対峙したときに死ぬことになる。
「戦力にはなります。どんなに少なくとも、足手まといにはなりません。それどころか、金井秀人を相手にするのに、絶対に欲しい戦力です」
これは正直な感想だ。秀人と対峙した際に、どんな戦い方が選択できるか。亜紀斗が近接戦闘。咲花が、遠距離から攻撃する。藤山は二人を指揮しつつ、必要に応じて援護もする。亜紀斗の頭の中に、鮮明に浮かぶイメージ。咲花と二人だけの場合よりも、はるかにまともな戦いができるはずだ。
「それでも、金井秀人には及ばないと思います」
まともな戦いはできるだろう。だが、戦えるだけだ。勝つことはできない。間違いなく、三人とも殺される。
絶望的とも言える亜紀斗の感想に、藤山は危機感のない顔を見せた。むしろ、想像通りとでも言わんばかりに笑っていた。
「まあ、そうだろうねぇ」
言葉に、笑い声を混ぜる。
「正直なところ、秀人君とまともに戦って勝てる人なんて、地球上に一人二人いるかいないか、ってレベルだから」
楽観的に言い放つ藤山に、亜紀斗は、眉間に皺を寄せた。
「じゃあ、どうするんですか? 金井秀人をどうにかできないと、笹島は殺処分される。それ以前に、金井秀人に殺されるんですよ?」
「まあまあ。そんなに焦らないでよ」
藤山は笑いながら、パタパタと手を振った。
「実力で勝てないなら、相手の弱点を突くしかないよね。で、秀人君だって人間なんだから。どこかに弱点くらいあるはずだよ。それは、これからゆっくり探していこうか」
「ゆっくり、って……」
亜紀斗は顔を歪ませた。藤山が悠長過ぎるように見えた。そもそも、秀人に弱点などあるのだろうか。
咲花を生かす道は見えている。しかし、そのための障害はあまりに大きい。彼女を生かすどころか、彼女を含めて全滅する可能性だってある。むしろ、全滅する可能性の方が高い。
亜紀斗は額を押さえ、大きな溜め息をついた。
絶望しか見えない。生き残る可能性が見出せない。
でも。それでも。
必ず生き残らなければならない。必ず生きて帰る。
咲花を生かしたうえで、麻衣のところに帰る。
訓練の疲労を抱えながら、亜紀斗は、頭の中でイメージした。秀人と戦うイメージ。咲花と、藤山と、自分。三人がかりで秀人に向かってゆく。
接近して仕掛ける亜紀斗を、秀人は、片手か片足だけで捌いている。咲花が隙を見て弾丸を放つが、秀人はあっさりと払い落とす。藤山が的確な指示をし、さらに彼自身も仕掛ける。だが、秀人の頭脳は、藤山の経験や知識の上を行く。
徐々に追い詰められ、ダメージを負い、明らかに不利になってゆく。一人が戦えないほどのダメージを負い、二対一になる。三対一でも不利だった状況が、さらに不利になる。すぐに一人やられ、一対一になる。
一対一で秀人に勝てるはずがない。
そして、全滅。
三人とも死ぬ。
鮮明に浮かぶ、自分達の敗戦。自分達の死。余裕のある、秀人の綺麗な微笑。綺麗で、冷酷で、残酷な微笑。
亜紀斗は首を横に振り、死の予感を振り払った。
――絶対に生きて帰るんだ。
絶対に。何があっても。どんなことをしても。
そう、何度も自分に言い聞かせた。
※次回更新は5/10の夜を予定しています。




