第五話① それでも不可能(前編)
九月下旬。
道警本部十六階の、訓練室。
今月二度目の実戦訓練。
その、最後の試合。
自分の出番が回ってきて、亜紀斗は、防弾ヘルメットと防護アーマーを着けて待機室から出た。
反対側の待機室から出てきたのは、藤山。道警本部SCPT部隊の隊長。
藤山は、先日、次回の実戦訓練には自分も参加すると周知していた。亜紀斗を相手に戦う、と。
彼の話を聞いたとき、隊員の誰もが驚いていた。
藤山はもう四十を超えた中年であり、かつ、隊員を退いてから長い。
四十を超えてSCPT隊員を続ける者は、それなりにいる。とはいえ、実戦での能力は、やはり若い頃より落ちる。四十台も後半になると、現役の隊員を退く者がほとんどだ。隊長以上の職位に出世するか、特別課よりも危険度が低い部署に異動となるか。
年齢を重ね、かつ、前線から退いて長い藤山が、亜紀斗と戦う。
他の隊員達は、皆、藤山を哀れっぽい目で見ていた。衰えを自覚できない愚者を見る目。
正直なところ、亜紀斗も、藤山の行動を少なからず愚かだと感じていた。
藤山が今回の実戦訓練に参加する理由は、ただ一つ。秀人を相手に戦力になれる、という証明。
けれど亜紀斗は、藤山の力にまったく期待していなかった。考えるべきは、自分と咲花の二人だけで、秀人を相手にどうやって生き残るか。どのようにして麻衣のもとへ帰るか。それだけだと思っていた。
訓練室で、藤山と向かい合う。互いの距離は、十メートルほど。
亜紀斗も藤山も、互いに内部型。開始時点でどれだけ距離があろうと、必ず接近することになる。
『え、っと……それじゃあ、始めて下さい』
スピーカーから聞こえた声。藤山の代わりに合図を任された隊員が、戸惑いながら開始の合図をした。
亜紀斗は構えた。しかし、本気で戦うつもりはない。たとえ戦力になれなくても、藤山の存在は大きいと思う。咲花を生かせる道を作ったのは、彼なのだから。そんな彼に、大怪我などさせたくない。
せめて、藤山が惨めにならない程度に圧倒しよう。惨めではなく、かつ、戦力にはなれないと自覚してもらえる程度に。
構えた亜紀斗に向かって、藤山は、無造作に歩いてきた。防御の構えを取るわけでもなく、かといって、攻撃的に踏み込んでくるわけでもなく。その辺の道を散歩するのと変わらない様子で、歩いてくる。
開始時点で、亜紀斗と藤山の距離は十メートルほどだった。内部型が攻撃するには、遠過ぎる距離。しかし、普通に歩けば数秒で縮められる距離。
藤山の様子に、亜紀斗は呆然としていた。戦いの最中で構えもしない。無造作に歩いてくる。彼の行動の意味が分からなかった。
だから、簡単に接近を許してしまった。
気が付くと、藤山の手が届く距離になっていた。
「――!?」
手が届く距離に入った瞬間、いきなり藤山が速く動いた。普通の人間が出せる速度ではない。明らかに、内部型クロマチンを発動させている。
亜紀斗は咄嗟に、大きくバックステップを踏んだ。瞬間的に内部型クロマチンを発動させ、全速力で離脱した。
藤山の右拳が、一瞬前まで亜紀斗がいた空間を切り裂いた。
二人の距離は、約二・五メートルまで広がった。
亜紀斗を混乱させたうえでの、不意打ち。藤山の意図を、亜紀斗は咄嗟に推測した。単純な戦闘能力で劣るから、奇策を練ったのだろう。
でも、もう二度と同じ手は食わない。今の攻撃が当たらなかった瞬間に、藤山のチャンスは全て失われた。
そう、思っていた。
だが――
ゆらりと、藤山が動いた。クロマチンを発動させていないような、常人と変わらない彼の速度。亜紀斗から見た右側に回り込もうとしている。
とりあえず、怪我をさせない程度に攻撃するか。亜紀斗は一瞬で踏み込み、藤山の腹に向かって拳を突き出そうとした。
次の瞬間、藤山の姿が亜紀斗の視界から消えた。
「!?」
殴ろうとした的が、突如消失した。亜紀斗は目を見開いた。視界の左端で、かすかに、何かが動くのが見えた。
本能的に、亜紀斗は再度バックステップした。
今まで亜紀斗がいた空間を、藤山の拳が通過していった。シュッという空気を切り裂く音が、防弾ヘルメット越しでもはっきりと聞こえた。
藤山はいつの間にか、亜紀斗の左側に回り込んでいた。一瞬とはいえ見失ってしまうほどの、圧倒的な速度で。
何が起こっているのか、さっぱり分からない。右側に回り込んでいた藤山が、どうして、唐突に左側に現れたのか。どうしていきなり、視界から消えたのか。
亜紀斗の背中に、冷たい汗が流れた。油断し切っていた心に、本能が警告してきた。
目の前の男は、危険だ。
亜紀斗がバックステップを踏んだことで、二人の距離は再び広がっている。約二メートル。パンチも蹴りも届く距離ではない。
藤山の動きは、相変わらずゆっくりだ。少し格闘技をかじりました、程度の動き。二メートルという手が届くはずもない距離で、左の拳を突き出そうとしている。亜紀斗にはスローモーションにすら見える速度。
藤山の左腕は、まだ伸び切っていない。伸び切ったところで、この距離では届かないのだが。
藤山の左腕が、半分ほど伸びた。
その直後。
唐突に、一瞬で、藤山が接近してきた。左腕を伸ばし切ると同時に。
亜紀斗は咄嗟に、右の掌で藤山の左拳を受け止めた。突き抜けるような衝撃が、亜紀斗の肩まで響いた。申し分ない威力の、藤山の左拳。亜紀斗がクロマチンを発動させていなければ、手の甲の骨が折れ、肩は外れていただろう。
藤山はさらに追撃を仕掛けてきた。右ストレートを放ってくる。
――この右を避けて、カウンターで左を当てる!
反射的に判断し、亜紀斗は藤山の右を避けた。すぐに打ち返そうとする。
しかし、撃てなかった。右を避けられた藤山は、亜紀斗が打ち返すより速く密着してきた。体を完全にくっ付けられたら、パンチを打てない。パンチを打つスペースがない。
密着してきた藤山は、亜紀斗の腰回りに抱きついてきた。そのまま、亜紀斗を持ち上げる。
亜紀斗の両足が床から離れた。
藤山はそのまま、亜紀斗を上空に放り投げた。クロマチンで強化した筋力があれば、人など簡単に投げ飛ばせる。ひねりを加えて投げ飛ばされたため、亜紀斗の体が反転した。足が天井の方を向いる。
五メートルほど浮かび、亜紀斗の体は落下を始めた。真下には藤山。彼の近くに落下してゆく。
藤山は攻撃態勢に入っていた。空中で身動きができない亜紀斗を狙っている。
どれほどクロマチンで筋力を強化しても、重力には逆らえない。空中では身動きが取れない。落下を待ち構える藤山から、逃げることはできない。
藤山が、落下してくる亜紀斗に右拳を放ってきた。
亜紀斗は両手の掌を突き出し、藤山の右拳を防いだ。
再度、亜紀斗の手に強烈な衝撃が走った。空中なので踏ん張ることもできず、そのまま五メートルほど吹っ飛ばされた。バンッという大きな音を立てて、床に落下した。体を反転させてすぐに起き上がり、体勢を整える。
藤山に向かって構え直した。
実戦訓練開始から、まだ一分も経っていない。それなのに亜紀斗は、全身に汗をかいていた。冷や汗。
わけが分からなかった。もう四十台中盤で衰えているはずの藤山が、亜紀斗の視界から消えるほど速く動いている。亜紀斗の反応が遅れそうなほど速く打ってくる。
藤山は、本当は三十そこそこの年齢で、歳をごまかしているのではないか。そんな馬鹿なことすら考えた。もちろん、そんなはずはないのだが。
亜紀斗と藤山の距離は、五メートルほど。
再び藤山が、無造作に歩いて近寄ってきた。
亜紀斗の本能が、再び警笛を鳴らした。近付かせるな。誤魔化されるな。どんなに速く見えても、もう四十代中盤の中年だ。自分より速いはずがない。自分より体力があるはずがない。自分よりパワーがあるはずがない。
運動量と体力で押し切るんだ!
亜紀斗の中の油断は、もう完全に消え去っていた。自分の本質が、目を覚ましてゆく。凶暴性と暴力性。幼い頃から暴力の中で育ち、磨かれた、生存本能。
亜紀斗は素早く左右に動いた。藤山の狙いを絞らせないために。高速で彼の周囲を動き回り、打っては離れてを繰り返す。ヒットエンドアウェイ。年齢的に体力が衰えた藤山では、この動きについてこられないはずだ。
打っては離れて、藤山にダメージを与える。彼に防御動作を取らせることで、体力を削る。
素早く動きながら、亜紀斗は、藤山との距離を一・五メートルほどまで縮めた。その距離を保ちながら、彼の周囲を動き回る。
予想した通り、藤山は、亜紀斗の速度についてこられない。かろうじて目で追えているものの、亜紀斗の攻撃を防ぐのが精一杯、という様子だった。
このまま今の動きを継続すれば、すぐに藤山の体力は削られる。じきに自分の攻撃が当たり始めるはずだ。




