第二話① 小さすぎる希望(前編)
「冷房点けたばっかりだから、少し暑いねぇ。でも、我慢してねぇ」
道警本部の十六階。小会議室。
亜紀斗の目の前に座った藤山は、いつも通りの胡散臭い笑みを浮かべていた。
八月。真夏のこの時期は、午後六時を過ぎても気温が高い。
亜紀斗は業後に藤山に呼ばれ、彼と一緒に小会議室に来た。表向きの要件は面談。だが、本題は違うだろう。
亜紀斗は最近、しっかりとニュースを見るようになった。昨日のニュースで報道された内容に、表現できない感情を抱いた。
『美人女性監禁虐殺事件の主犯が、他の二人の犯人を殺害し、逮捕された。動機は、仲間内での金銭トラブルと考えられている。主犯である高野は、留置所の中で自殺』
この報道が事実無根であることを、亜紀斗は知っている。美人女性監禁虐殺事件の犯人二人を殺したのは、被害者の妹。主犯である高野も、あと一歩で殺されるところだった。
二人を殺した真犯人――咲花の現状は、亜紀斗も知らない。
本来であれば被害者として扱われる高野が、犯人に仕立てられた。さらに、死んだという報道がされたのだ。それなら、真犯人である咲花の扱いに関し、何か進捗があったのだろう。それくらいのことは、決して賢くない亜紀斗でも想像がついた。
小会議室の長机。並べられた椅子。
亜紀斗は椅子に腰を下ろした。
藤山も、亜紀斗と向かい合うように座った。机に両肘をついて、両手を組む。組んだ両手を、口元に添えた。
藤山のこの姿を、亜紀斗は、すっかり見慣れた気がした。藤山が、胡散臭い中年ではなくなる瞬間。
「亜紀斗君。最近、ニュースは見てる?」
やっぱり。声に出さずに呟き、亜紀斗は頷いた。
「はい」
「じゃあ、高野が死んだのも知ってるよね?」
「はい。自殺、と報道されてましたが」
「うん。でも、自殺じゃない。分かるよね?」
「ええ」
「やったことは、秀人君の家族が殺されたときと同じだよ。犯人を作り上げて、自殺したことにして、全てを終わらせる。事実を知ってる人間が消えれば、色々とできるからね。隠蔽も捏造も」
高野に同情の余地はない。たとえ彼が殺されても、因果応報としか思えない。
ただ、それでも、亜紀斗は少なくない憤りを感じていた。国のために、事実を隠蔽する。真実を捏造する。藤山の言う通り、やったことは秀人の家族が殺されたときと同じだ。薄汚い権力態勢。嘘にまみれた情報操作。
だが、そんな憤りすらも、亜紀斗にとっては小さなことだった。もっと大切なことが、亜紀斗にはあった。
「それで、笹島はどうなるんですか? 笹島の犯罪を隠すために高野が殺されたのはわかります。でも……」
高野が殺されたからといって、咲花が生かされるとは限らない。彼女が殺処分されるにしろされないにしろ、高野の運命は変わらなかっただろう。いずれにしろ、咲花が二人を殺したことは隠蔽する必要があるのだから。
「まず、結論から言うよ」
咲花はどうなったのか。殺処分されたのか。生かされたのか。
「交渉は成功したよ。僕の意見が、概ね認められたんだ」
金井秀人を殺害する。そのためには咲花が必要。だから彼女を殺処分しない。それが、藤山の交渉材料。ということは――
「笹島は……」
「うん。咲花君は生きてる」
藤山の目は、普段の彼からは考えられないほど鋭い。しかし、少しだけ、その表情が柔らかくなった。
「咲花君の殺処分は見送りになった。秀人君を消すための重要人物として、ね。お偉いさん達も、やっぱり、咲花君の犯罪より、秀人君の家族の事件を重く見たんだよ。まぁ、この辺は、だいたい想像通りだったけど」
「そうですか」
亜紀斗は、フーッと大きく息をついた。亜紀斗が咲花を止めてから、約二ヶ月。彼女の身を案じて、気が気でない日々が続いていた。ようやく、少しだけ気が楽になった。
「それで、笹島は今どうしてるんですか?」
「まだ拘束されてるよ。秀人君の居場所が特定できるまでは、解放してくれないみたい。そのあたりは、僕の目論みがちょっと外れちゃったけど」
口元から手を離して、藤山は苦笑した。
「でも、成果はそれだけじゃないよ。拘束はされてるけど、収穫もある」
「収穫?」
「まず第一に、高野を犯人にしたことで、咲花君の行為は完全に隠蔽できる。事実を知ってるのは、お偉いさん達と、僕と亜紀斗君だけ。つまり、情報が漏れる可能性が非常に低い。だから、特別な恩赦がある」
「恩赦って、何ですか?」
「秀人君の殺害を条件に、咲花君は無罪放免になる。つまり、今まで通りに暮らせるし、今まで通りに働ける」
「道警本部に戻って来られる、ってことですか?」
「うん。そう。今は行方不明扱いだけど、最終的には病気療養って扱いにするみたいだね。まあ、咲花君が病み上がりの体を装えるかは分からないけど」
「そうですね」
薄汚い取引が、いくつも交わされている。国の都合で、事実を捻じ曲げた。権力者の愚行を隠蔽するために、秀人を殺そうとしている。
憤りは確かにある。それでも亜紀斗は、希望を見ていた。咲花を生かす道筋が見えている。
以前の藤山の言葉が、亜紀斗の心に染みていた。いい意味でも、悪い意味でも。
『大事なのは、綺麗なままでいることじゃない。汚れても、泥を啜っても、大事なものを守ることだ』
だから、憤りを覚えても、薄汚い者達を殴り倒したくても、希望を持てる。
とはいえ、問題はまだまだ山積みだ。何より、最大の問題は――
「それで、金井秀人の居場所は掴めそうなんですか?」
どうやって秀人の居場所を特定し、襲撃し、仕留めるか。
秀人が関連していると思われる銃犯罪は、全国各地で発生している。つまり、彼の居場所は極めて特定が難しく、かつ、特定したとしてもすぐに姿を消す可能性が高い。
「その点なんだけどね。今月から、公安が動き出してる」
「!」
亜紀斗は目を見開いた。
公安――公安警察。
公安は、一般的な警察官や刑事とは異なる職務に就いている。警察は、地域の生活や安全を取り締まる。刑事は犯罪を取り締まる。それらに対して、公安は、国家体制を脅かすものを取り締まる警察機関だ。そのため、通常の警察官には許されない盗聴や盗撮などの違法行為も、調査のために行うことがある。それだけに、機密事項が多い。
「咲花君の証言で分かったんだけど、秀人君は、高野達の情報と引換えに、咲花君を仲間にしようとしてたみたいでね。さらに、秀人君が、海外のマフィアと繋がってることも分ったんだ。それも、政府とマフィアが繋がっている国の」
「それって……」
「うん。秀人君は、この国の情報を他国に流してるんだ。それも、この国に攻め込んできそうな国に」
「……」
亜紀斗の背中に、冷たい汗が流れた。秀人の復讐の規模を、今になって知った。彼は、テロとも言える犯罪を発生させて、国に混乱をもたらしているだけではない。他国に侵略させて、この国そのものを潰そうとしているのだ。
「まあ、それで、国も、ようやく重い腰を上げたんだ」
「重い腰を上げた?」
藤山の言葉を、亜紀斗は疑問形で復唱した。
「国は、金井秀人の調査をしてなかったってことですか?」
「そうだね」
「じゃあ、金井秀人が銃犯罪を起こすと知っていながら、放置していたんですか?」
「そうだね」
咲花が生きられることに、亜紀斗は希望を持っていた。だから、憤りも抑えられた。けれど、苛立っていないわけではない。無意識のうちに低くなった声で、藤山に質問をぶつけた。
「どういうことなんですか?」
藤山は目を閉じた。ほんの一、二秒程度、黙り込んだ。再び開かれた彼の目には、怒りが混じっていた。
「簡単なことだよ。国は、秀人君の過去を知ってる。秀人君を刺激するのは、自分達にとって不都合なことが起こりえる。だから放置したんだ。調査したところで、秀人君を捕えるのも殺すのも困難――というより、不可能だからね」
「たとえ無関係な人が何人犠牲になっても、自分達の保身を図ったってことですか?」
「そうだよ」
「そんなことが許されるんですか?」
「許されるわけがないよ。だから、こんな事態になってるんだ。お偉いさん達が重い腰を上げる事態にね」
机の下で、亜紀斗は拳を握り締めた。力を入れ過ぎているせいで、ブルブルと震えている。
「亜紀斗君」
藤山の声も、ワントーン低くなっている。彼も憤っているのだ。ただ、亜紀斗よりも感情の制御が上手いだけで。
「もう机は壊さないでね。転んで頭をぶつけたなんて言い訳、何度も使えないから」
小会議室の机の一つは、最近、新調された。以前、亜紀斗が怒りに任せて殴り、亀裂を入れてしまったのだ。
亜紀斗は大きく息を吐いた。目を閉じ、自分に言い聞かせる。落ち着け、と。苛立つ自分を自覚しながら、頭の中で数をかぞえた。一、二、三、四、五、六。六秒数えた後、考える。今、どうすべきか。まずは藤山の話を最後まで聞くべきか。それとも、何か質問すべきことはあるか。
考えることで、怒りを沈静化させる。
拳の震えが小さくなってきた。憤りは消えないものの、亜紀斗は、自分が冷静になってきていることを自覚した。再度、自問する。藤山の話を最後まで聞くか。それとも、今のうちに聞いておくべきことがあるか。
「あ」
考えながら、亜紀斗は無意識のうちに声を漏らした。目を開ける。ふいに、頭の中に疑問が降ってきた。罪を犯したクロマチン能力者は、捕えられ、秘密裏に殺処分される。では、誰が、殺処分すべきクロマチン能力者を捕えているのか。
秘密裏に殺処分する以上、通常のSCPT隊員が捕えているとは思えない。かといって、クロマチン能力者でもない者が、クロマチン能力者を捕えられるとも思えない。不可能ではないだろうが、大勢の人員と武器が必要になるはずだ。
「どうしたの、亜紀斗君?」
声を漏らした亜紀斗の顔を、藤山が覗き込んできた。
「隊長。ひとつ、聞いていいですか?」
「何だい?」
「罪を犯したクロマチン能力者は、秘密裏に殺処分されます。では、罪を犯したクロマチン能力者を捕えているのは、誰なんですか?」
亜紀斗が咲花を捕えたのは、偶然と言っていい。彼女との関係性が今と違っていたら、亜紀斗は、そこまで彼女に執着しなかった。当然、体に鞭を打ってまで独自に調査もしなかった。
もし、亜紀斗が咲花を捕えなければ。その場合は、誰が彼女を調査し、捕えたのか。




