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罪と罰の天秤  作者: 一布
第四章 この冷たく残酷な世界でも
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第一話 優先順位


 日差しが強い。太陽の光が、家の中にも差し込んでくる。エアコンを点けていなければ、室温は三十度以上に上がっていただろう。


 八月。


 分厚い壁と分厚い窓ガラスに包まれた秀人の家は、防音性も高く、外の音などほとんど聞こえない。もっとも、秀人の耳には、蝉の声がはっきりと届いていたが。


 秀人は、キッチンの拭き掃除をしていた。布巾を動かずリズムが、無意識のうちに、蝉の声に合ってしまっている。


 華は妊娠三ヶ月になった。お腹は、まだそれほど目立っていない。それでも、裸になると、中に赤ん坊がいると分かる。


 お腹が大きくなるのと並行するように、華の悪阻(つわり)が始まった。毎日苦しそうだ。食欲が湧かず、食べても吐いてしまう。ここ数日、彼女はアイスしか食べていなかった。かろうじて食べられるのが、アイスだけだったのだ。


 家の冷凍庫の中には、アイスが二十個近くも詰め込まれている。


 今朝も、華はアイスを食べていた。食べ終えてから、ずっとソファーに横になっている。


 猫達は、華を守るように彼女の周囲を固めている。決して、彼女の腹の上に乗ろうとしない。きっと、何かを感じているのだろう。


 妊娠すると、女性は気が荒くなる。苛立つようになる。秀人はそう認識していた。もちろん、個人差はあるだろう。それでも、悪阻の苦しさや体の重さを感じているだろうから、大なり小なり短気になるだろうと予想していた。たとえ、今までほとんど怒ったことのない華であっても。


 そんな秀人の予想は、見事に外れた。


 時刻は午前十一時半。


「……んっ……しょ……」


 苦しそうに声を漏らして、華がソファーから起き上がった。フラフラとした足取りで、こちらに向かってくる。


 秀人は慌てて、華に駆け寄った。


「華、どうした? 寝てなくて大丈夫?」

「うん、大丈夫」


 華の顔は血の気が引いていて、大丈夫そうには見えない。


「アイス食べたい? 言ってくれれば、持っていくのに」


 華は首を横に振った。


「違うの」

「じゃあ、どうしたの?」

「秀人のお昼ご飯、作らないと」


 悪阻がひどくなってきた数日前から、華は、家事を一切していなかった。秀人がさせなかった。こんなにフラフラになっている華に、家事などさせられない。


 華が何かしようとするたびに、秀人は彼女を止め、ソファーやベッドに寝かせていた。


「大丈夫だから。華は寝てな」


 今の華では、家事もまともにできないだろう。

 秀人の言葉に、華は首を横に振った。


「駄目だよ。だって、華、最近、何もしてないもん。華がやらなきゃいけないこと、全然できてないもん。秀人との約束だって、守れてないもん」


 約束って、何だっけ。自問して、秀人はすぐに思い出した。


 華が秀人とセックスをしたがったとき。秀人は彼女に、こんな条件を出した。


『レシピ本一冊分の料理を、本を見ないで作れるようになったらいいよ』


 秀人は、華とセックスをするつもりなどなかった。だから、彼女には無理だと思える条件を出した。


 華は必死に料理を頑張った。人より劣る知能で、一生懸命料理を覚えようとした。


 結局、秀人は、情にほだされて華を抱いた。


「秀人は、華とエッチしてくれて。赤ちゃんも作ってくれて。華がほしいもの、全部くれて。でも、華、秀人に何もできてない。だから、華、頑張りたいの。秀人に、何かしてあげたいの」


 知能が劣るから純粋で。けれど、知能が劣るのに利己的じゃない。ただただ秀人を想う気持ちで、華は秀人に尽くそうとしていた。


 秀人は華の頭を撫でた。


「いいかい、華。よく聞いて」

「何?」


 少し潤んだ目で、華が秀人を見上げている。


「華はね、もう、お母さんなんだ。お腹の中には、華の赤ちゃんがいる。華はお母さんだから、赤ちゃんを守らないといけない。分かる?」

「うん」

「華の具合が悪いってことは、お腹の赤ちゃんも大変ってことなんだ。華が無理をすると、お腹の赤ちゃんは、もっと苦しくなるんだ」

「……そうなの?」


 嘘である。悪阻が起こる原理は、赤ん坊が苦しんでいるからではない。けれど、嘘も方便だ。


「そうだよ。だから華は、ちゃんと体を休めて、できるだけ赤ちゃんが苦しくないようにしないと」

「……うん」

「華は、お腹の赤ちゃんを守ってあげて。お母さんなんだから。華のことは、俺が守るから。いい?」

「……わかった」

「じゃあ、ソファーに戻ろうか。それとも、ベッドに行く?」

「ソファー。横になってても、できるだけ秀人の近くにいたい」

「うん」


 秀人は華を支え、ソファーまで連れて行った。ゆっくりと寝かせる。


 華がソファーに横になると、秀人はキッチンに戻った。掃除も終わったし、昼食の用意でもするか。


 冷蔵庫を開けて、中にある食材を確かめる。合い挽き肉、人参、レタス、じゃがいも……。


 食材を眺めながら、秀人は、先ほどの自分の言葉を思い出していた。


『華のことは、俺が守るから』


 守る。華を守る。華のお腹にいる赤ん坊を守る。


 ――家族を、守る。


 今の秀人には、誰かを守れる力がある。知能、戦闘能力、経済力。全ての面において、あらゆる力がある。他の追随を許さないほど、圧倒的な力。


 そんな秀人でも、幼い頃は、どこにでもいる子供だった。小さく、弱かった。


 小さく弱かったから、誰も守れなかった。守られる側だった。決して強くない姉が、命を捨てて秀人を守ってくれた。


 姉も、あの時はこんな気持ちだったのだろうか。


 ――俺を守ってくれたとき、姉さんも……。


 思い浮ぶ、最後に見た姉の姿。恐怖で体が震えていた。目に涙を浮かべていた。それなのに、秀人を安心させるように、無理に笑顔を浮かべていた。そのまま、地獄の中で短い人生を終えた。


 八歳だったあの頃から、秀人の心には闇が住み着いている。怒り、恨み、憎しみ。復讐への思いは、何年経っても消えることはない。


 秀人の家族を惨殺しながら罪を逃れ、現在は防衛大臣秘書として生きている五味秀一。彼を守った、父親である五味浩一。五味が流した情報に踊らされ、秀人の家族を批難したこの国の人々。


 復讐への道筋は、はっきりと見えている。治安が悪化し、経済状況が不安定になり、確実にすり減っている国内情勢。ここでさらに、全国各地でテロとも言える暴動を起こせば。この国は、確実に大きく傾く。傾いたところで、他国を侵略したい国々に攻め込ませる。


 国内が戦火に捲かれたら、国中に公表してやろう。どうしてこんなことになったのか、を。国が沈むのは、復讐の的にされたからだと。国民の怒りは、五味親子に向くだろう。戦火の中で、五味親子は、歯止めが利かなくなった国民に嬲り殺しにされるだろう。

 

 秀人の家族を地獄に堕とし、魂を汚した者達が、醜く潰し合うのだ。


 地獄と化したこの国を、移住先のどこかの国で、笑いながら眺めてやろう。


 終幕を迎えるこの国の姿が、はっきりと見える。何をどうすればゴールまで辿り着けるのか、明確に分かっている。


 だが、秀人の活動は、現時点ですっかり停止していた。


 華がこんな調子だから、家から離れられない。彼女から目を離すわけにはいかない。仮に悪阻が治まったとしても、心配がなくなるわけではない。知能の劣る彼女が、何か危険なことをしてしまわないか。考えるだけで、気が気ではない。


 こんなとき、手を貸してくれる人がいれば。

 咲花が仲間になっていれば……。


 失敗した計画に、秀人は未練を残していた。


 成功した暁には、自分の仲間になる。そう条件をつけて、秀人は、咲花の復讐に手を貸した。彼女の姉を殺した三人の情報を集めた。拷問の末に殺す場所として、郊外のプレハブを提供した。アリバイ作りに利用するため、華名義で契約したスマートフォンを渡した。刑事の目を攪乱するために、秀人は咲花に変装して、彼女の家に出入りした。


 けれど、咲花の復讐は失敗に終わった。彼女は亜紀斗に捕えられた。


 今朝、ニュースで、高野祐二の自殺が公表された。咲花の姉の仇。主犯格。ニュースでは、高野が他の二人を殺害し、逮捕された後、留置所で自殺したと報道されていた。


 明らかな虚実。クロマチン能力者である咲花の犯罪を隠蔽するため、高野に全ての罪を被せたのだ。


 クロマチン能力者が罪を犯した場合、その罪は公開されることも裁判が行われることもない。秘密裏に殺処分される。


 おそらく、咲花はもう生きてはいないだろう。


 惜しい人物を亡くした、なんて言葉を耳にすることがある。秀人にとって、咲花はまさにそんな人物だった。彼女がいれば、華の面倒を見ながらでも復讐を中断することはなかったのに。


 昼食の肉じゃがを作りながら、秀人は小さく溜め息をついた。


 仕方ない。華が出産するまで、動くのは中断しよう。できるだけ家にいよう。外出するのは、華の調子がいいときだけにしよう。華が外出したがったときは、必ず同行しよう。


 秀人は、この国の寿命を、一、二年ほどだけ延ばしてやることにした。


※次回更新は明日(5/4)を予定しています。

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