第十九話① 綺麗なままでは守れない(前編)
午前四時近くに麻衣の家に行き、ひと通り泣いて。
少しだけ眠らせてもらって、亜紀斗は、出勤のために家を出た。
「亜紀斗君、大丈夫? 今日は休んだ方がいいんじゃない?」
麻衣に心配されたが、大丈夫と答えた。ここ一ヶ月くらいは、毎日二時間程度の睡眠で過ごしていた。問題はない。
麻衣と一緒に出勤し、道警本部のエレベーター前で別れた。
エレベーターに乗り、十六階まで昇る。特別課に足を運ぶ。
時刻は、午前八時四十分。
「おはようございます」
特別課室内に入り、亜紀斗は挨拶をした。日勤の隊員が数名、すでに出勤していた。
課長は不在。隊長席には藤山がいた。
亜紀斗は隊長席に足を運んだ。
「おはようございます、隊長」
「おはよう、亜紀斗君。隈が凄いねぇ。大丈夫かい?」
「大丈夫ですよ。隊長こそ、大丈夫ですか?」
藤山の目の下にも、隈ができている。
「僕は問題ないよぉ。で、早速だけど、今日の予定について話すねぇ」
「はい」
「亜紀斗君は捜査一課に同行の予定だったけど、それは中止ね。シフト上は訓練にするけど、僕と面談してもらうよ。要件は、分かるよねぇ?」
「……はい」
咲花のことだろう。
「じゃあ、一旦席に着いてて。九時になったら小会議室に行くから。それまでは好きにしてていいよぉ。あ、でも、パソコンでエッチな画像検索とかしちゃ駄目だからねぇ」
「分かりました」
亜紀斗は苦笑してしまった。とてもそんな気にはなれない。昨夜――というより今朝――も麻衣と一緒に寝たが、セックスをする気にはなれなかった。疲れ切っていて、気を失うように眠った。
席につく。パソコンを立ち上げる。先日まで作成していた業務記録が、まだデータとして残っている。南と磯部殺害に関し、捜査に同行した記録。咲花が彼等を殺した事件。
咲花は二人殺した。この国においては、一般的に、二人以上殺害したら死刑になる確率が格段に上がる。
亜紀斗は唇を噛んだ。寝不足が続く頭で、思考を巡らせる。
咲花はどうなるのだろうか。
――笹島は、死刑になるのか?
確かに咲花は、二人殺した。けれどそれは、理由があってのことだ。彼女は、最愛の姉を奪われた。無惨に殺された。情状酌量の余地は十分過ぎるほどある。彼女の姉が殺されなければ、この事件は起きなかったのだから。
でも、と思う。
亜紀斗は、自分を馬鹿だと思っている。馬鹿だが、馬鹿なりに必死に勉強してきた。犯罪者に償いを促すうえで、必要な知識を詰め込んできた。だから知っている。犯罪者は、刑期を終えれば、法的には「償った」とされる。つまり、犯した罪に関して法的責任を果たしたとされる。もちろん、遺族に対する賠償問題とは別だが。
咲花に殺された磯部や南、殺されかけた高野は、刑期を終えている。法律上では、彼等の罪は精算されたものとみなされおり、犯罪者ではなくただの一般人として扱われる。
つまり咲花は、一般人を私怨から二人も殺害し、さらに、もう一人の一般人も私怨から殺そうとした犯罪者、ということになる。
今のこの状況で、咲花に、情状酌量の余地が認められるのか。むしろ、復讐殺人を助長しないようにと、厳しい判決が下るのではないか。
咲花を失いたくない。死んでほしくない。彼女には、自分の隣りにいてほしい。
何より、咲花には幸せになってほしい。
今後の流れを考えた。裁判の判決など、そんなに早急に出るものではない。これから咲花が起訴され、裁判が行われ、第一審の判決がでるまで、二、三年はかかるだろう。
亜紀斗の胸に、不安が募る。咲花を失うのではないか、という不安。これから二、三年も、こんな不安を抱え続けるのだ。眠気など吹き飛ぶほど不安なる。
九時になった。
藤山が席を立った。こちらに来る。
「じゃあ、亜紀斗君。行こうかぁ」
「はい」
亜紀斗も席を立ち、藤山の後ろに着いていった。特別課を出て、十六階にある小会議室に足を運ぶ。藤山がドアを開け、室内の明りを点けた。
亜紀斗も小会議室に入り、ドアを閉めた。
室内で二人だけになると、唐突に、藤山の口調が変わった。
「適当に座って」
藤山の変化に、亜紀斗は驚かなかった。もう、なんとなく気付いていた。この藤山が、本来の彼なのだと。
室内に並んだ長机。並べられた椅子。
亜紀斗は、二列目の席に腰を下ろした。
亜紀斗と向かい合うように、藤山も椅子に座った。
「さて、と。亜紀斗君。本題に入る前に、色々と前提を話すよ」
「前提?」
「そう。咲花君が、この先どうなるのか。咲花君に関して、僕がどうやって動こうとしてるのか」
「……どういうことですか?」
意味が分からない。亜紀斗の頭の中に、多くの疑問符が浮かんだ。逮捕された犯罪者は警察で取り調べを受け、検察に送検される。その後、勾留、起訴され、裁判が始まる。それは、どんな犯罪者でも同じはずだ。拘留中に検察が起訴しないということもあるが、今回の件は当てはまらないだろう。亜紀斗が捕えた時点で、咲花は高野を殺そうとしていた――殺人未遂――し、磯部と南の殺害も自白している。
「結論から言うけど、今回の件で、咲花君は起訴されない。裁判も行われない。犯罪者にもならない」
「は?」
意味が分からない。亜紀斗は間抜けな声を出してしまった。
構わす、藤山は続けた。咲花が辿る道を。
「ただし、咲花君は処分される――殺される。秘密裏にね」
「は……え?」
ますます意味が分からない。起訴もされず裁判も行われないなら、咲花に死刑判決が出ることもない。それなのに殺される?
「とりあえず、どうしてそうなるのかを話そうか。少し長くなるけどね」
藤山は、淡々と要点だけを語った。二十年ほど前に、某国のクロマチン能力者が凶悪な犯罪を起こしたこと。その事件を問題視した国連が、某国に、クロマチン能力を開花させる薬を提供しなくなったこと。国連の対応に慌てたこの国が、対応策を打ち出したこと。その対応策というのが、クロマチン能力者による犯罪を表に出さず、秘密裏に処理し、罪を犯したクロマチン能力者を弁明の余地なく殺処分するものだということ。
「端的に言えば、都合の悪いものを揉み消してるんだよ。国そのものがね」
「……」
亜紀斗の体が、ガクガクと震えた。思わず、机に拳を叩き付けそうになった。
「後出しみたいで悪いけど、この話は、もちろん他言無用だから。誰かに話そうものなら、君の身が危ない」
「!」
亜紀斗は藤山を睨んだ。睨みながらも、こんな腐った秘密は公開してやろうと決意した。国が罪を罪として扱わないなんて、馬鹿げている。何より、国の保身のために咲花が殺されるなんて、許せない。
藤山が、亜紀斗の顔を覗き込んできた。亜紀斗の考えを見透かすように。
「もちろん、危険なのは君だけじゃない。君の周囲の人にも危険が及ぶ。奥田君も例外なくね」
「!?」
亜紀斗は目を見開いた。
「隊長、知ってたんですか?」
「何が?」
「俺と、麻衣ちゃ……奥田さんが付き合ってる、って」
藤山はプッと吹き出した。突如、口調がいつもの彼に戻った。
「いやいやいやいや。むしろ、何でバレてないと思ってるのぉ?」
「いや、だって、俺、誰にも言ったことないですよ?」
そういえば、と思い出す。昨夜、咲花と話したときのこと。彼女も、亜紀斗に恋人がいることを知っていた。
「あのねぇ、亜紀斗君」
「はい」
「道警本部に、奥田君を狙ってた職員が何人いると思ってるの? はっきり言って、両手両足の指じゃ足りないんだよぉ? それだけ多くの人の目が、奥田君を見てる。ってことは、奥田君と一緒にいる亜紀斗君も見られてるわけなんだよねぇ」
「……」
亜紀斗は押し黙った。返す言葉がない。
「まあ、とりあえず、奥田君と付き合ったのが亜紀斗君でよかったのかもねぇ。特別課きっての実力者。そんな人の彼女をどうにかしようなんて人、まずいないだろうしねぇ。酒を飲ませてお持ち帰り、なんてことも含めて」
「……」
もし、麻衣が強引に酒を飲まされ、酩酊させられ、レイプされたなら。亜紀斗は犯人を殺してしまうかも知れない。簡単に人を殺せる力が、亜紀斗にはある。
「それはともかく。亜紀斗君は、そんな女の子をモノにしたわけだよ。色男だねぇ」
いつもの喋り方で茶化すように言うと、藤山の口調が戻った。真剣な口調。しかし、目元は優しかった。
「奥田君、大切にしてあげなよ。彼女、江別署にいたときから、誰にもなびかなかったらしいから。そんな女性を恋人にしたんだ。どんなに汚れても、守ってあげなよ」
言いつつ、藤山は苦笑した。
「まあ、そんな汚い秘密を亜紀斗君に漏らしたのは、僕なんだけどね。でも、どうしても、亜紀斗君には知ってもらう必要があったんだ。咲花君を生かすために」
「笹島を生かすため、って……どういうことですか?」
亜紀斗が聞くと、藤山は、机に肘をついて両手を組んだ。組んだ両手を、口元に持ってくる。彼の目は、亜紀斗をじっと見ている。




