第十八話 彼女がもし、独りで生きられない人ならば
六月七日。
深夜午前一時五十分。
郊外にあるプレハブ。
咲花に手錠を架けて、亜紀斗は、藤山に電話を架けた。
『んー? どうしたのぉ? 亜紀斗くぅん』
どうやら藤山は、夜勤ではないようだ。寝ぼけた声を出している。いつも以上に間延びした喋り方。自宅で眠っていたのだろう。
そういえば、と思う。最近、藤山と話す機会がほとんどなかった。彼は、少し前から、業務中でも度々席を外していた。
亜紀斗は口を少し開き、言葉に詰まった。今の状況を伝えようとしたが、声が出なかった。説明が難しいのではない。むしろ簡単だ。磯部と南を殺したのは咲花だ。彼女が、最後に高野を殺そうとしたところで、現行犯で捕えた。
簡単に伝えられる事実。ただ、伝えたくない。このまま咲花の手錠を外し、全てをなかったことにしてしまいたい。不可能ではないはずだ。高野の口止めも難しくない。この手のクズ野郎は、脅しておけば決して秘密を漏らさない。他人の痛みには鈍感でも、自分の痛みには敏感だから。
すみません、間違って架けてしまいました――そう言って、電話を切ってしまいたかった。事実よりも言いやすい嘘。声にしてしまいたい嘘。
亜紀斗は、ちらりと咲花を見た。彼女と目が合った。
咲花は無言だ。無言で、亜紀斗を見つめている。無言で、亜紀斗に指示している。
「隊長に、ちゃんと事実を伝えなさい」
亜紀斗は一旦口を閉じ、唾を飲み込んだ。ゴクリと喉が鳴った。再び、薄らと口を開く。
「隊長、あの……」
『んー?』
「……捕まえ、ました」
『はい? どういうことぉ?』
亜紀斗の目から、また涙が流れてきた。言いたくない。伝えたくない。
咲花を犯罪者にしたくない。
涙で視界が歪んでいる。それでも、咲花の姿ははっきりと見える。言い淀む亜紀斗を叱りつけるような、彼女の強い視線。
亜紀斗はきつく目を閉じた。瞼で圧迫された涙が、頬を伝った。
「磯部と南を殺した犯人を、捕まえました」
突き刺さる咲花の視線。亜紀斗はいつも、彼女と啀み合っていた。言い争っていた。反抗し、対抗し、対立してきた。それなのに今は、彼女に逆らえなかった。
「犯人は笹島でした! 笹島を捕えました! 高野も殺そうとしてました!」
涙声で、無理矢理言葉を吐き出した。言いたくないことを強引に口にしたせいか、必要以上に大きな声が出た。
電話の向こうで、藤山は、しばらく無言だった。
沈黙。
亜紀斗が藤山に事実を伝えると、咲花の目が優しくなった。いつも冷静で冷徹な彼女が、初めて優しい目を見せた。
数秒の沈黙の後、電話口から藤山の声が聞こえた。
『亜紀斗君』
低い声だった。ごくたまに聞く、いつもとはまったく違う藤山の声。
『咲花君を捕まえたこと、まだ誰にも言ってない?』
「はい。最初に、隊長に連絡しました」
『分かった。すぐにそっちに行く。場所を教えて』
亜紀斗は、現在地とアクセス方法を簡潔に伝えた。咲花を待ち伏せするために、自分が走ってきた道。
『結構遠いね。でも、一時間以内には行くから。このことは誰にも報告しないで、そこで待ってて』
「……はい」
電話を切る。
藤山が「誰にも報告しないで」と言った意図など、亜紀斗には分からない。殺人および殺人未遂事件だから、捜査一課の誰かに報告すべきだとは思う。けれど、どうでもよかった。今は何も考えたくない。何もしたくない。このまま意識を失ってしまいたい。
脱力して、亜紀斗はその場に腰を落とした。
ちらりと、咲花を見た。彼女はもう、亜紀斗を睨んでいなかった。目を閉じ、横たわっている。眠っているのだろうか。それとも、ただ目を閉じているだけだろうか。声を掛けたかったが、何を言っていいのか分からない。彼女とは三年の付き合いになるが、言い争う以外の会話を、ほとんどしたことがなかった。
もしも、と思ってしまう。どうしても考えてしまう。もし、咲花の姉が殺されていなかったら。彼女は、どんな人生を歩んでいたのだろうか。
亜紀斗は咲花を、尊敬できる人だと思っている。たとえ、自分と考え方が真逆でも。では、咲花に悲しい過去がなく、普通に大人になり、普通に刑事になっていたらどうだっただろうか。そんな彼女と出会っていたなら。
亜紀斗は間違いなく、今以上に咲花を尊敬していただろう。彼女は今以上に、尊敬できる人物になっていただろう。それこそ、先生と同じくらいに尊敬できるほどの。
あんな事件さえなければ。
隅で倒れている高野を見た。彼は未だに、体を丸めて震えている。両手足を拘束され、ガムテープで簀巻きにされた姿。股間付近のガムテープの色が変わっていた。失禁しているのだと気付いた。
高野は、咲花の姉を惨殺した四人の、主犯格だ。つまり、全ての元凶と言える。咲花が幸せを捨てたのは、高野のせい。咲花が凶悪犯を殺し続けていたのも、高野のせい。咲花が苦しんでいるのも、高野のせい。咲花が犯罪者となってしまったのも、高野のせい。
――全部、あのクソ野郎のせいだ。
ゆらりと、亜紀斗の心で炎が揺れた。揺れた炎は周囲に引火し、大きく膨れ上がった。すぐに、燃えたぎる業火となった。
――あいつさえいなければ。
ゆっくりと、亜紀斗は立ち上がった。視線は、高野を捕えている。恐怖し、涙を流し、命乞いをし、失禁した高野。
――自分は、身勝手な欲求で人を惨殺したくせに。出所しても、また罪を犯しているくせに。
暴力性と凶暴性の炎が、亜紀斗を突き動かした。高野は死ぬべきだ。生きる資格どころか、楽に死ぬ資格すらない。苦痛と恐怖と絶望の中で、死を懇願するほどの地獄を味わって、泣き叫びながら死ぬべきだ。
――だったら、俺が殺してやる。
「佐川」
咲花の声が耳に入って、亜紀斗の足が止まった。高野の方へ踏み出そうとしていた足。見ると、彼女は目を開けていた。咎めるような視線だった。
「やめなさい」
亜紀斗は咲花から目を逸らした。彼女の声で冷静になって、気付く。いつもと逆だな、と。殺そうとした亜紀斗と、殺しを止めた咲花。
「あんたがそんなことをしたら、悲しむ人がたくさんいるんじゃないの? 大事な人達に、顔向けできなくなるんじゃないの?」
「……」
ドカッと、亜紀斗はその場に座り込んだ。あぐら。目元を押さえた。また涙が出てきた。
再び、プレハブ内は沈黙に包まれた。長い沈黙だった気がする。短い沈黙だった気もする。
沈黙を破ったのは、外から聞こえてきた走行音だった。車が走り、停まった音。バタンと、車のドアが閉まる音。
プレハブのドアが開けられて、亜紀斗は、目元から手を離した。手の平が、涙で濡れていた。
プレハブの入り口に立っていたのは、藤山だった。亜紀斗が電話を架けたとき、やはり彼は眠っていたようだ。ジャージ姿で、頭に寝癖がついている。
「亜紀斗君。高野は?」
亜紀斗は、プレハブの隅を指差した。
「わかった。あとは僕がやるから、亜紀斗君は一旦帰って。隈がひどいよ。最近、あまり寝てないんじゃないのかい?」
亜紀斗は、藤山の質問に答えなかった。反対に、質問を返した。
「笹島はどうなるんですか? 高野はどうするんですか?」
「それは、明日にでも話すよ。とにかく、咲花君と高野は僕が連れて行く。君は帰りなさい」
藤山の声には、反論を許さない強さがあった。
「分かりました」
立ち上がり、亜紀斗は出口に足を運んだ。中に入る藤山とすれ違う。
すれ違い様に、藤山が注意喚起してきた。
「あと、このことは誰にも口外しないように。もし誰かに喋ったら、何もかもが駄目になるから」
「?」
藤山の言葉の意味が分からない。分からないが、亜紀斗は頷いた。
「……はい」
藤山の声は、いつもとまったく違う。人を馬鹿にするような、間延びした口調ではない。亜紀斗も一、二回だけ見たことがある、真剣な様子の藤山。
出入り口から一歩だけ外に出て。亜紀斗は、プレハブ内を振り返った。横たわっていた咲花を、藤山が立たせていた。
一瞬だけ咲花と目が合って、亜紀斗はすぐに視線を逸らした。
外に出る。プレハブの裏に停めていた車に乗り込む。発進。
深夜の道をどうやって走ったのか、亜紀斗自身にも分からなかった。ただアクセルを踏み、ただハンドルを切った。何も考えずに、目的地に向かった。
早朝の、午前三時五十分。まだ空は暗い。
目的地に着いて、亜紀斗は車を停めた。麻衣のマンションの前。どうやってここまで来たのか、まったく覚えていない。
車から降りた。路上駐車。マンションの中に入り、オートロックを解除した。三階まで階段で昇って、家の鍵を開けた。玄関に入る。
当たり前だが、家の中は真っ暗だった。当然、麻衣は眠っているだろう。こんな時間なのだから。
馬鹿かよ、俺は。胸中で吐き捨てる。その場でしゃがんで、蹲った。また涙が出てきた。
麻衣は寝ている。今日も仕事だろう。起こしてはいけない。亜紀斗は必死に、嗚咽を堪えた。それでも、「ひっく、ひっく」としゃくり上げる声が漏れた。
麻衣に甘えたかった。抱き締めて欲しかった。先生や元婚約者を失ってから、独りで生きる覚悟をしていたのに。それなのに、もう、独りでは立ち上がれそうにない。独りでは生きて行けそうにない。
カッ……チャン……と、小さな音が嗚咽に混じった。
亜紀斗は顔を上げた。
フライパンを持った麻衣が、目の前にいた。顔が強張っている。不審者が侵入してきたと思ったのだろうか。フライパンを武器に、撃退しようとしたようだ。
麻衣を起こしてしまった。怖がらせてしまった。申し訳ない、という気持ちが込み上げてくる。
パジャマ姿の麻衣が、両手で、フライパンを強く握っている。その姿が可愛らしくて、申し訳ないと思っているはずなのに、少しだけ笑ってしまった。涙を流しながら口の端が上がって、すぐにまた笑みが消えた。
「……ごめん、麻衣ちゃん……」
しゃくり上げながら、謝った。
「怖がらせて、ごめん」
声を絞り出す。
「起こして、ごめん」
言葉が詰まる。
麻衣は、フライパンを床に置いた。座り込んでいる亜紀斗の頭を引き寄せ、抱き締めてくれた。
「おかえり、亜紀斗君」
咲花を追跡していたから、もう一ヶ月ほども麻衣に会えていなかった。久し振りの、彼女の感触。全てを包み込んでくれるような、彼女の温もり。
もう、堪え切れなかった。堰を切ったように、亜紀斗は大泣きした。先生を亡くしたときのように。元婚約者を失ったときのように。
泣きながら、思ってしまった。
咲花にも、自分にとっての麻衣のような人がいたなら。
姉が殺された過去は変えられなくても。それでも、全てを包み込んでくれる人がいたなら。
今からでも、咲花は幸せになれるのだろうか。
※次回更新は明日(4/29)を予定してします。




