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罪と罰の天秤  作者: 一布
第三章 罪の重さを計るものは
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第十八話 彼女がもし、独りで生きられない人ならば


 六月七日。

 深夜午前一時五十分。


 郊外にあるプレハブ。


 咲花に手錠を架けて、亜紀斗は、藤山に電話を架けた。


『んー? どうしたのぉ? 亜紀斗くぅん』


 どうやら藤山は、夜勤ではないようだ。寝ぼけた声を出している。いつも以上に間延びした喋り方。自宅で眠っていたのだろう。


 そういえば、と思う。最近、藤山と話す機会がほとんどなかった。彼は、少し前から、業務中でも度々席を外していた。


 亜紀斗は口を少し開き、言葉に詰まった。今の状況を伝えようとしたが、声が出なかった。説明が難しいのではない。むしろ簡単だ。磯部と南を殺したのは咲花だ。彼女が、最後に高野を殺そうとしたところで、現行犯で捕えた。


 簡単に伝えられる事実。ただ、伝えたくない。このまま咲花の手錠を外し、全てをなかったことにしてしまいたい。不可能ではないはずだ。高野の口止めも難しくない。この手のクズ野郎は、脅しておけば決して秘密を漏らさない。他人の痛みには鈍感でも、自分の痛みには敏感だから。


 すみません、間違って架けてしまいました――そう言って、電話を切ってしまいたかった。事実よりも言いやすい嘘。声にしてしまいたい嘘。


 亜紀斗は、ちらりと咲花を見た。彼女と目が合った。


 咲花は無言だ。無言で、亜紀斗を見つめている。無言で、亜紀斗に指示している。


「隊長に、ちゃんと事実を伝えなさい」


 亜紀斗は一旦口を閉じ、唾を飲み込んだ。ゴクリと喉が鳴った。再び、薄らと口を開く。


「隊長、あの……」

『んー?』

「……捕まえ、ました」

『はい? どういうことぉ?』


 亜紀斗の目から、また涙が流れてきた。言いたくない。伝えたくない。


 咲花を犯罪者にしたくない。


 涙で視界が歪んでいる。それでも、咲花の姿ははっきりと見える。言い淀む亜紀斗を叱りつけるような、彼女の強い視線。


 亜紀斗はきつく目を閉じた。瞼で圧迫された涙が、頬を伝った。


「磯部と南を殺した犯人を、捕まえました」


 突き刺さる咲花の視線。亜紀斗はいつも、彼女と啀み合っていた。言い争っていた。反抗し、対抗し、対立してきた。それなのに今は、彼女に逆らえなかった。


「犯人は笹島でした! 笹島を捕えました! 高野も殺そうとしてました!」


 涙声で、無理矢理言葉を吐き出した。言いたくないことを強引に口にしたせいか、必要以上に大きな声が出た。


 電話の向こうで、藤山は、しばらく無言だった。


 沈黙。


 亜紀斗が藤山に事実を伝えると、咲花の目が優しくなった。いつも冷静で冷徹な彼女が、初めて優しい目を見せた。


 数秒の沈黙の後、電話口から藤山の声が聞こえた。


『亜紀斗君』


 低い声だった。ごくたまに聞く、いつもとはまったく違う藤山の声。


『咲花君を捕まえたこと、まだ誰にも言ってない?』

「はい。最初に、隊長に連絡しました」

『分かった。すぐにそっちに行く。場所を教えて』


 亜紀斗は、現在地とアクセス方法を簡潔に伝えた。咲花を待ち伏せするために、自分が走ってきた道。


『結構遠いね。でも、一時間以内には行くから。このことは誰にも報告しないで、そこで待ってて』

「……はい」


 電話を切る。


 藤山が「誰にも報告しないで」と言った意図など、亜紀斗には分からない。殺人および殺人未遂事件だから、捜査一課の誰かに報告すべきだとは思う。けれど、どうでもよかった。今は何も考えたくない。何もしたくない。このまま意識を失ってしまいたい。


 脱力して、亜紀斗はその場に腰を落とした。


 ちらりと、咲花を見た。彼女はもう、亜紀斗を睨んでいなかった。目を閉じ、横たわっている。眠っているのだろうか。それとも、ただ目を閉じているだけだろうか。声を掛けたかったが、何を言っていいのか分からない。彼女とは三年の付き合いになるが、言い争う以外の会話を、ほとんどしたことがなかった。


 もしも、と思ってしまう。どうしても考えてしまう。もし、咲花の姉が殺されていなかったら。彼女は、どんな人生を歩んでいたのだろうか。


 亜紀斗は咲花を、尊敬できる人だと思っている。たとえ、自分と考え方が真逆でも。では、咲花に悲しい過去がなく、普通に大人になり、普通に刑事になっていたらどうだっただろうか。そんな彼女と出会っていたなら。


 亜紀斗は間違いなく、今以上に咲花を尊敬していただろう。彼女は今以上に、尊敬できる人物になっていただろう。それこそ、先生と同じくらいに尊敬できるほどの。


 あんな事件さえなければ。


 隅で倒れている高野を見た。彼は未だに、体を丸めて震えている。両手足を拘束され、ガムテープで簀巻きにされた姿。股間付近のガムテープの色が変わっていた。失禁しているのだと気付いた。


 高野は、咲花の姉を惨殺した四人の、主犯格だ。つまり、全ての元凶と言える。咲花が幸せを捨てたのは、高野のせい。咲花が凶悪犯を殺し続けていたのも、高野のせい。咲花が苦しんでいるのも、高野のせい。咲花が犯罪者となってしまったのも、高野のせい。


 ――全部、あのクソ野郎のせいだ。


 ゆらりと、亜紀斗の心で炎が揺れた。揺れた炎は周囲に引火し、大きく膨れ上がった。すぐに、燃えたぎる業火となった。


 ――あいつさえいなければ。


 ゆっくりと、亜紀斗は立ち上がった。視線は、高野を捕えている。恐怖し、涙を流し、命乞いをし、失禁した高野。


 ――自分は、身勝手な欲求で人を惨殺したくせに。出所しても、また罪を犯しているくせに。


 暴力性と凶暴性の炎が、亜紀斗を突き動かした。高野は死ぬべきだ。生きる資格どころか、楽に死ぬ資格すらない。苦痛と恐怖と絶望の中で、死を懇願するほどの地獄を味わって、泣き叫びながら死ぬべきだ。


 ――だったら、俺が殺してやる。


「佐川」


 咲花の声が耳に入って、亜紀斗の足が止まった。高野の方へ踏み出そうとしていた足。見ると、彼女は目を開けていた。咎めるような視線だった。


「やめなさい」


 亜紀斗は咲花から目を逸らした。彼女の声で冷静になって、気付く。いつもと逆だな、と。殺そうとした亜紀斗と、殺しを止めた咲花。


「あんたがそんなことをしたら、悲しむ人がたくさんいるんじゃないの? 大事な人達に、顔向けできなくなるんじゃないの?」

「……」


 ドカッと、亜紀斗はその場に座り込んだ。あぐら。目元を押さえた。また涙が出てきた。


 再び、プレハブ内は沈黙に包まれた。長い沈黙だった気がする。短い沈黙だった気もする。


 沈黙を破ったのは、外から聞こえてきた走行音だった。車が走り、停まった音。バタンと、車のドアが閉まる音。


 プレハブのドアが開けられて、亜紀斗は、目元から手を離した。手の平が、涙で濡れていた。


 プレハブの入り口に立っていたのは、藤山だった。亜紀斗が電話を架けたとき、やはり彼は眠っていたようだ。ジャージ姿で、頭に寝癖がついている。


「亜紀斗君。高野は?」


 亜紀斗は、プレハブの隅を指差した。


「わかった。あとは僕がやるから、亜紀斗君は一旦帰って。隈がひどいよ。最近、あまり寝てないんじゃないのかい?」


 亜紀斗は、藤山の質問に答えなかった。反対に、質問を返した。


「笹島はどうなるんですか? 高野はどうするんですか?」

「それは、明日にでも話すよ。とにかく、咲花君と高野は僕が連れて行く。君は帰りなさい」


 藤山の声には、反論を許さない強さがあった。


「分かりました」


 立ち上がり、亜紀斗は出口に足を運んだ。中に入る藤山とすれ違う。


 すれ違い様に、藤山が注意喚起してきた。


「あと、このことは誰にも口外しないように。もし誰かに喋ったら、何もかもが駄目になるから」

「?」


 藤山の言葉の意味が分からない。分からないが、亜紀斗は頷いた。


「……はい」


 藤山の声は、いつもとまったく違う。人を馬鹿にするような、間延びした口調ではない。亜紀斗も一、二回だけ見たことがある、真剣な様子の藤山。


 出入り口から一歩だけ外に出て。亜紀斗は、プレハブ内を振り返った。横たわっていた咲花を、藤山が立たせていた。


 一瞬だけ咲花と目が合って、亜紀斗はすぐに視線を逸らした。


 外に出る。プレハブの裏に停めていた車に乗り込む。発進。


 深夜の道をどうやって走ったのか、亜紀斗自身にも分からなかった。ただアクセルを踏み、ただハンドルを切った。何も考えずに、目的地に向かった。


 早朝の、午前三時五十分。まだ空は暗い。


 目的地に着いて、亜紀斗は車を停めた。麻衣のマンションの前。どうやってここまで来たのか、まったく覚えていない。


 車から降りた。路上駐車。マンションの中に入り、オートロックを解除した。三階まで階段で昇って、家の鍵を開けた。玄関に入る。


 当たり前だが、家の中は真っ暗だった。当然、麻衣は眠っているだろう。こんな時間なのだから。


 馬鹿かよ、俺は。胸中で吐き捨てる。その場でしゃがんで、蹲った。また涙が出てきた。


 麻衣は寝ている。今日も仕事だろう。起こしてはいけない。亜紀斗は必死に、嗚咽を堪えた。それでも、「ひっく、ひっく」としゃくり上げる声が漏れた。


 麻衣に甘えたかった。抱き締めて欲しかった。先生や元婚約者を失ってから、独りで生きる覚悟をしていたのに。それなのに、もう、独りでは立ち上がれそうにない。独りでは生きて行けそうにない。


 カッ……チャン……と、小さな音が嗚咽に混じった。


 亜紀斗は顔を上げた。


 フライパンを持った麻衣が、目の前にいた。顔が強張っている。不審者が侵入してきたと思ったのだろうか。フライパンを武器に、撃退しようとしたようだ。


 麻衣を起こしてしまった。怖がらせてしまった。申し訳ない、という気持ちが込み上げてくる。


 パジャマ姿の麻衣が、両手で、フライパンを強く握っている。その姿が可愛らしくて、申し訳ないと思っているはずなのに、少しだけ笑ってしまった。涙を流しながら口の端が上がって、すぐにまた笑みが消えた。


「……ごめん、麻衣ちゃん……」


 しゃくり上げながら、謝った。


「怖がらせて、ごめん」


 声を絞り出す。


「起こして、ごめん」


 言葉が詰まる。


 麻衣は、フライパンを床に置いた。座り込んでいる亜紀斗の頭を引き寄せ、抱き締めてくれた。


「おかえり、亜紀斗君」


 咲花を追跡していたから、もう一ヶ月ほども麻衣に会えていなかった。久し振りの、彼女の感触。全てを包み込んでくれるような、彼女の温もり。


 もう、堪え切れなかった。堰を切ったように、亜紀斗は大泣きした。先生を亡くしたときのように。元婚約者を失ったときのように。


 泣きながら、思ってしまった。


 咲花にも、自分にとっての麻衣のような人がいたなら。


 姉が殺された過去は変えられなくても。それでも、全てを包み込んでくれる人がいたなら。


 今からでも、咲花は幸せになれるのだろうか。


※次回更新は明日(4/29)を予定してします。

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