第十話 正反対で、同じでもあるから、彼女の気持ちがわかる
捜査一課の同行を終えて、亜紀斗は、道警本部に帰庁した。
午後七時半。
夜勤の隊員達が、すでに出勤していた。捜査一課のヘルプに出ていない隊員達。
十人もヘルプに出しているから、シフトに入る隊員の数は少ない。ここ最近は武装犯罪がほとんど発生していないので、複数の人員を要する緊急出動はないのだが。
亜紀斗は自席に腰を下ろした。業務報告書の作成を始める。
そう遠くない席に、咲花が座っていた。今日は夜勤のようだ。彼女の様子は、いつもと変わらないように見える。冷たい無表情。
咲花の姉を惨殺した犯人。そのうち、三人が死んだ。神坂の死は自殺とされているが、藤山の見立てでは他殺だ。
殺された三人に対して、咲花は、どんな気持ちを抱いているのか。落ち着いているように見える瞳の奥で、何を考えているのか。彼等が殺されたことを、どう思っているのか。
彼等を殺したのは、咲花なのか。
少し強めに、亜紀斗はパソコンのキーボードを叩いた。Enterのキー。業務報告書の作成が終わった。
報告書を、本部内のネットワークを通じて藤山に送った。彼は、今日は不在だった。休日だろうか。そういえばここ何日か、彼の姿を見ていない。
亜紀斗はパソコンを閉じ、席から立った。ちらりと、咲花を見た。彼女の様子に、やはり変わったところはない。
咲花から視線を外し、更衣室に足を運ぶ。私服に着替えて特別課を出た。
時刻は午後八時になっていた。
道警本部から出ると、亜紀斗は、すぐに麻衣に電話を架けた。情けないと自覚しているが、悩んだときは彼女に頼りたくなる。寄り掛かりたくなる。
今の亜紀斗にとって、麻衣は、心の支えだった。
『はい、もしもし?』
三回目のコールで、麻衣が電話に出た。
「お疲れ、麻衣ちゃん。今終わった」
『お疲れ様。じゃあ、晩ご飯作り始めるね』
亜紀斗と麻衣は、ほとんど同棲状態だった。亜紀斗が自宅に帰るのは、週に一回程度。一緒に暮らす家も探し始めていた。
「うん、ありがとう」
礼を言って、亜紀斗は言葉を詰まらせた。
亜紀斗が今、関わっている事件。咲花の姉を殺した犯人達が、殺されている事件。
当たり前だが、咲花は犯人達を憎んでいるはずだ。何度殺しても殺し足りないほどに。
でも、咲花は、憎しみに流されるほど弱い人間ではない。今の自分の状況に、どれほど絶望していても。
そう、信じているのに。
信じたいのに。
咲花が犯人だと疑っている自分がいる。
『どうしたの? 亜紀斗君』
電話から聞こえる、麻衣の声。心配そうな声だった。
麻衣は、亜紀斗の心情を正確に感じ取る。いつもそうだ。嬉しいとき。悲しいとき。落ち込んでいるとき。迷っているとき。どんなときでも察して、支えてくれる。
だからこそ聞いてみたい。咲花の身の上を麻衣に話して、今の事件の状況を洗いざらい伝えて、どう思うのかを聞いてみたい。
――犯人達を殺したのは、笹島だと思うか?
口から漏れ出しそうな言葉。漏れ出しそうだから、亜紀斗は口をきつく閉じた。咲花の過去は、安易に人に伝えていいものではない。
心が見透かされているのを分かっていて、亜紀斗は嘘をついた。
「何でもない。ただ疲れただけだよ」
『……分かった』
亜紀斗の嘘に気付いているだろう。それでも、麻衣の声は優しかった。
『じゃあ、今日は、晩ご飯食べたらゆっくり休んで』
「ああ」
電話を切った。
夜の空の下を、早足で歩く。職場は市街地に近いので、人通りが多い。多くの店やマンションが建ち並び、夜でも光に溢れている。
気温は上がってきて雪も溶けているが、それでもまだ寒い。緩く吹く風が、頬を冷やしている。
地下鉄に乗って、麻衣の家に向う。彼女に会いたい。胸に飛び込んで、甘えてしまいたい。胸の内にある悩みを全て吐き出して、彼女の意見を聞いてみたい。でも、詳細な事情は話せない。
地下鉄から降りて数分ほど歩き、麻衣の家に着いた。オートロックのマンション。家の鍵は持っている。
亜紀斗はオートロックを解錠し、マンションの中に入った。エレベーターはあるが、階段を昇った。麻衣の部屋について鍵を開け、玄関に入った。
「ただいまー」
リビングの方に声を掛ける。
「おかえりなさーい。晩ご飯、もうできるよ」
亜紀斗はリビングのドアを開けた。
エプロンを着けた麻衣がいた。
無言で、亜紀斗は麻衣に近付いた。何も言わずに彼女を引き寄せ、抱き締めた。コンロの火は点いていない。しばらくこうしていても大丈夫だろう。
麻衣は小柄だ。抱き締めると、亜紀斗の腕にすっぽりと収まってしまう。それなのに、いつも亜紀斗を包み込んでくれる。
麻衣も、亜紀斗の背中に手を回してきた。彼女の小さな手が、亜紀斗の背中に触れていた。
抱き締めたときの、柔らかくて温かい感触。触れられたときの安心感。
先生や元婚約者を失ったとき、亜紀斗は、人を好きになることなど二度とないと思っていた。たとえ好きな人ができても、想いを告げる気などなかった。一生独りで、先生や元婚約者に報いるためだけに生きようと決めていた。
だけど今、好きな人がいる。好きな人と、ほぼ同棲している。一緒に暮らす部屋を探している。好きな人がいて、幸せになっている。
麻衣を抱き締めて、実感した。自分は、もう、この女性がいなければ生きていけない。もしこの女性を失ったら、自分で自分の息を止めてしまうだろう。
麻衣の温もりを感じながら、亜紀斗は、咲花の心情を想像してみた。
大切な人が、無惨に殺された。悪夢のような現実は、覚めることなどない。消えることのない喪失感に、心が蝕まれる。それでも、怒りや悲しみを抱えながら、必死に生きてきた。安易な復讐に走ることもしなかった。
――もしも俺が、笹島の立場だったら――
咲花と同じように、大切な人が無惨に殺されたなら。
「なあ、麻衣ちゃん」
「何?」
「もしも、だけど」
「うん」
「もし麻衣ちゃんが殺されたとして、その時は、俺に仇を討ってほしいと思うか?」
「……」
麻衣は亜紀斗から少し離れ、両手を伸ばしてきた。亜紀斗の頬に、彼女の両手が触れた。少しだけ冷たい。
「逆に聞いてもいい?」
「何を?」
「亜紀斗君は、私のこと、好き?」
亜紀斗を見つめる、麻衣の瞳。亜紀斗の姿が映っている。
このまま、麻衣の瞳に映っていたい。永久に見つめられたい。永久に見つめていたい。それくらいに――
「好きだよ。滅茶苦茶好き」
「そっか」
少しだけ、麻衣が両手に力を込めた。亜紀斗の顔を押さえ込むように。
「じゃあ、私が殺されても、仇討ちなんてしちゃ駄目」
「何で?」
「恨みって、死にたいくらい辛い人にとっては、生きる力になるの。どんなに死にたくても、恨みがあるだけで生きていける場合もある。でも、仇を討って恨む人がいなくなったら、抜け殻になるから」
恨みだけで生きていた体から、その恨みが消えてしまったら。仇を討って恨みを晴らしたら、魂のない抜け殻になってしまう。亜紀斗は、麻衣の言いたいことをはっきりと理解できた。
「だから、どんなに憎くても、悔しくても、私の仇を討たないで。辛いだろうけど、頑張って生きて。生きてさえいれば、幸せになれることもあるから。だから、自分を殺しちゃうようなことは――仇討ちなんて、しないで」
「……」
亜紀斗は頷くこともせず、ただじっと麻衣を見つめていた。嘘をつきたくなかった。嘘をつきたくないから、頷かなかった。でも、彼女の望みを拒否もしたくない。だから無言だった。
罪を犯した者には、罪の重さに応じた償いをさせる。それが、亜紀斗の掲げている信念。先生の教えであり、亜紀斗の人生を変えた生き方でもある。
こんな信念を掲げているのに、身勝手だと思うが。
亜紀斗は断言できた。もしも麻衣が、身勝手な理由で殺されたら――咲花の姉のような殺され方をしたら、必ず仇を討つだろう。麻衣を殺した犯人を、思いつく限り残酷な方法で殺すだろう。
そして、麻衣の仇を討ったら、もう生きていられない。自殺するわけでもなく、ただ何もせずに死を待つだろう。食べることも寝ることも忘れ、ただ麻衣のことを思い浮かべて、ゆっくりと朽ち果ててゆくだろう。
咲花のことを考えた。
姉の事件の真相を知ったとき、咲花は、仇討ちに走らなかった。きっと、姉が大好きだったのだ。尊敬していたのだ。同時に、彼女の姉は、妹の幸せを心から願う優しい人だったのだろう。
だから咲花は、恨みを晴らすのではなく、姉に報いる生き方を選んだ。自分の手を汚しながら。姉のような被害に遭う人を、少しでも減らすために。恨みや悲しみに心を焼かれる人が、一人でも少なくなるように。
咲花は強い人だ。
――あいつは、俺よりもずっと強い。
心からそう思えた。
だからこそ、亜紀斗は確信した。
強い人が――咲花が、心の支えを失った。姉に報いる生き方が、できなくなった。姉に報いることで、仇を討ちたいという気持ちを抑えていたのに。
支えを失った咲花の心は、暴走したはずだ。強さを保ったまま。思いの強さが、姉に報いる生き方から、別の方向へ切り替わった。
どんな方向へ切り替わったのか。切り替わるとしたら、どの方向へ?
そんなのは決まっている。少なくとも亜紀斗には、ひとつの方向しか思い浮ばない。
姉の仇を獲る方向。
――間違いない。
亜紀斗の直感が、事実に気付かせた。
磯部や南を殺したのは、咲花だ。
咲花にはアリバイがある。でも、アリバイなんて、いくらでも作りようがある。
事実に気付いて。咲花が犯人だと確信して。
では、自分はどうすべきだ? 亜紀斗は自問した。
麻衣が咲花の姉のように殺されたら、自分は、間違いなく仇を討つ。可能な限り苦痛を伴う方法で、犯人を殺す。
そんな自分に、咲花を止める資格があるのか? むしろ、彼女のやりたいようにやらせるべきじゃないのか? もう彼女には、心の支えがないのだから。
でも……。
復讐を終えた咲花は、きっと、生きることを放棄するだろう。先ほど、亜紀斗が想像したように。自殺するでもなく、ただ何もせずに死を待つだろう。寝食も忘れて。もしかしたら、息をすることさえ忘れてしまうかも知れない。
――駄目だ!
亜紀斗は歯を食い縛った。
咲花は死なせない。
たとえ、考え方は違っても。実戦訓練では殺し合い同然の戦いをしていても。言葉を交わす度に、啀み合っていても。
それでも、背中合わせに戦っていたい人だから。背中を任せたい人だから。
亜紀斗は再び、麻衣を抱き締めた。勢いよく抱き締めたせいか、麻衣が「きゃっ」と声を漏らした。
「なあ、麻衣ちゃん」
「何?」
「これから俺、少し忙しくなると思う。あんまり家に帰って来れなくなるかも知れないし、もしかしたら、しばらく会えなくなるかも知れない」
「……うん」
少し暗い声で返事をして、麻衣も、亜紀斗の背中に手を回してきた。
「でも、誓って、絶対に、浮気とかじゃないから。俺、麻衣ちゃんのこと、滅茶苦茶好きだから」
言い訳のような亜紀斗のセリフに、麻衣は少しだけ笑った。
「分かってるよ。亜紀斗君のことは、だいたい分かる。私も、亜紀斗君のことが大好きだから」
「ありがとう」
麻衣を抱き締める腕に、亜紀斗は少しだけ力を込めた。
「それでさ、麻衣ちゃん」
「うん?」
「全部片付いて、落ち着いたらさ。本格的に、一緒に暮らす家を探そう」
「そうだね。中断しそうだしね」
「あと、さ」
一旦、亜紀斗は言葉を切った。麻衣の家のキッチン。色気のある場所ではない。でも、今伝えたい。
「全部片付いたら、麻衣ちゃんの両親に会わせてほしい」
たぶん麻衣は、全て気付いている。これから亜紀斗が、何をするのか。具体的には分からなくても、亜紀斗の覚悟は伝わっているはずだ。そんな彼女だからこそ、これから先も、ずっと一緒にいたい。
「結婚して、一生一緒にいてほしい」
プロポーズ。
しばらく、キッチンは沈黙に包まれた。
亜紀斗の腕の中で、麻衣が、再び小さく笑った。楽しそうに。嬉しそうに。
「亜紀斗君と結婚したら、私、いっぱい赤ちゃん産むことになりそうだね」
結婚を受け入れた麻衣の言葉に、亜紀斗は苦笑してしまった。
※次回更新は明日(4/18)の夜を予定してします。
 




