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罪と罰の天秤  作者: 一布
第二章 金井秀人と四谷華
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第二十四話 再会


 九月。


 華が秀人と暮らし始めて、四ヶ月が経った。


 先々月まで、華は、秀人に毎日お小遣いを貰っていた。一日五百円。しかし、先月から、お小遣いの制度が変った。月一回で、額は三万円。


『好きなように使っていいけど、計画的にね。ちゃんと考えて、すぐに使い切らないようにね』


 お小遣いを貰うようになるまで、華は、秀人にたくさん計算を教わった。どれくらいお金を持っていて、どれくらい使ったら、残りはどれくらいになるのか。実際に通販サイトの商品を見て、値段を確認して、計算する練習をした。


 秀人に教えられた通り、華は、お小遣いでの収入と支出を必ず計算していた。ノートを購入し、最初に『30000』と書く。使った額を書き、引き算で残高を出す。それだけではなく、お小遣いの額を月の日数で割って、一日にどれくらい使えるかを計算した。使いすぎた次の日以降は、財布の紐をきつく締めた。


 秀人がお小遣いをくれるのは、毎月一日。今日は、二十二日。


 華は、今月のお小遣いを貰う前から、秀人に内緒で計画していた。以前失敗した、彼に美味しい料理を作る計画。


 二ヶ月ほど前に、華は、秀人に美味しい料理を振る舞おうとした。彼に秘密にして。いつも優しくしてくれる彼に、喜んでもらいたくて。だが、見事に失敗した。台所を滅茶苦茶に汚し、電子レンジを壊してしまった。


 秀人は怒らなかった。それどころか、華に礼まで言ってくれた。


『俺のために頑張ったんだろ? ありがとう。いい子だね、華は』


 あの日から、華は、秀人に料理も教えてもらうようになった。


 華は包丁が使えない。どうしてかは分からないが、大きい刃物を使うと、すぐに指を切ってしまう。だから、上手く使えるナイフで料理をするようになった。


 ナイフで肉を切るのは難しかったが、包丁を使ってするよりも簡単だった。少しずつ腕前が上がってきた。コンロの火も使えるようになった。電子レンジで、殻付きの卵やアルミホイルを温めはいけないことも学んだ。


 秀人と暮らし始めてから、華は、料理や計算だけではなく、色々なことを学んだ。彼の教え方は、今まで出会った誰よりも上手だった。彼に教えてもらえば、何でもできるようになる。そんな気さえしていた。


 秀人は、決して怒らない。そりゃあ、注意されることはある。でも、今まで出会った大人達みたいに大声で怒鳴ったり、『馬鹿』と罵ることはない。華のいいところを話してくれて、何が悪かったのかを分かり易く説明してくれて、どうすれば良くなるのかを教えてくれる。


 華は、秀人と暮らしたこの四ヶ月で、どんどん賢くなっているような気がした。もちろん、気のせいかも知れないが。


 優しくて、頭がよくて、教えるのが上手な秀人。


 夜になると一緒のベッドに入って、華は、秀人に抱きついて寝た。どうしてかは分からないが、彼には、初めて会った日から甘えてしまった。


 他の男の人に、そんなことはしなかった。立ちんぼで、華を買った男の人達。彼等は華とセックスをすると、満足そうに眠っていた。セックスの後に華を抱き締めてきた人もいた。でも、彼等に甘えたりはしなかった。


 秀人だけだったのだ。初めて会ったその日に、あんなにも甘えたくなったのは。テンマにすら、初めて会った日には、あんなに甘えたりしなかった。


 ――たぶん……。


 たぶん、秀人に甘えたくなったのは、彼が優しい人だからだ。凄く凄く、優しくて温かい人。


 そんな秀人だからこそ、喜ばせたい。喜んで欲しい。


 今日、秀人は、朝から出かけていった。用事があるらしい。帰りは夕方になると言っていた。


 チャンスだ、と思った。計画を実行する、絶好のチャンス。


 秀人が出かけてから一時間ほどして、華も家を出た。


 時刻は、午前十時。


 家を出るとき、五匹の猫が華の様子を伺っていた。「どこか行くの?」と聞かれている気がした。


「みんな、行ってくるね。秀人に喜んでもらえるように、頑張るね」


 リビングの出入り口に集まった猫達に、手を振る。


 この家に住み始めてから四ヶ月。猫達は、すっかり懐いてくれている。華がソファーに座ると、膝の上に乗ってきてくれる。家の中を歩いているときに、足に擦り寄ってきてくれる。体を舐めてくれる。


 華にとって、秀人の家の猫達は友達だった。華のことを馬鹿にしたりしない、大切な友達。


 家から出て、ドアの鍵を締めた。


「鍵、締めた」


 ドアを指差し、自分で自分に確かめる。こうやって行動の一つ一つを確かめて行うと、大切なことを忘れたりしない。この動作確認の方法も、秀人が教えてくれた。


 家を出てから、鞄に入れた財布の中味を確かめる。


「お金、持った」


 一切使っていないお小遣いが入っている。


「メモ、持ってる」


 秀人の家の住所が書かれたメモ。外出時に迷子になっても、このメモがあれば、最悪でもタクシーなどで帰宅できる。


 外は、先月に比べて明らかに涼しくなっていた。寒くはない。秀人が買ってくれた秋物の服を着ている。シャツの上にニット。チェック柄のパンツ。鞄も、落とさないように肩掛けのショルダーバックを使っている。


 地下鉄駅まで歩きながら、華は、大きく息を吸い込んだ。夏とは違う匂いがする空気。


 秀人と出会ったのは、春だった。まだ少し寒い季節で、一晩中、鳥々川の橋で立っていたとき。彼が声を掛けてきたときは、自分を買ってくれる人だと思い込んでいた。必死に、自分を売り込んだ。


 秀人は、華の体目的の客ではなかった。でも、華に仕事をくれて、お金を稼がせてくれた。勉強や運動、料理を覚える仕事。これらが何の仕事なのか、華には、未だに分からないが。


 華にとって、セックスは仕事だった。テンマの店に行くために、必死にお金を稼いでいた。セックスは嫌いだけど、頑張った。病気になるなんて知らずに、避妊具なしで体を売り続けた。


 秀人は、華に仕事をくれただけではなかった。病気も治してくれた。当時はまったく気ならなかったけど、病気が治ってからは、確かに、トイレで感じていた不快感がなくなった。


 地下鉄駅について、路線を確かめて、切符を買った。地下鉄の乗り方も、秀人に教えてもらった。


 市街地まで地下鉄に乗る。目的地について降りた。人通りの多い場所。店舗などに繋がる地下通りがある。地下街の造りは複雑で、何度か来たことがなければ、道に迷ってしまっただろう。実際に、華は、初めて秀人と一緒に来たとき、自分がどこを歩いているのかまったく分からなくなった。 


 一人で出掛けて、もし駅の中で迷ったら、駅員の人に相談すること。決して、通りすがりの男に道を尋ねてはいけない。これも秀人の教えだ。


 もっとも華は、何度か秀人と一緒に来たことで、地下街の道なりを概ね覚えていた。どこに行けば何を売っているのかも、だいたい分かる。


 目的地は、デパート地下の食料品売り場。大きな地下通り――地下遊歩道、通称はチユホ――の中に入口がある。チユホに繋がっている地下一階には、化粧品売り場や雑貨店がある。食料品売り場は地下二階。


 記憶にある道を通って、目的地に向う。


 歩きながら、華は、買い物をして帰宅した後のことを考えていた。帰宅して、料理をする。美味しい物をいっぱい作る。秀人はもの凄くたくさん食べるから、目一杯作る。


 料理がたくさん並んだ食卓を見て、秀人は何て言うだろう。美味しいって言ってくれるかな。喜んでくれるかな。大食いの彼のお腹を、いっぱいにできるかな。


 華の心は、期待で膨らんでいた。秀人の笑顔が、自然と思い浮ぶ。


 もちろん、以前のように失敗してしまうのではないか、という不安もある。けれど、あれから、何度も料理を作った。秀人に教わった。何も知らないまま作ろうとしていた頃とは違う。


 きっと、秀人に喜んでもらえる。


 そこまで考えて。


 ふいに、華は、別のことを考えてしまった。


 自分にとって、秀人は何なのだろう。


 秀人の家にいる猫達は、華にとって友達だ。初めての友達。


 では、秀人は? 友達なのだろうか?


 華には、今まで、人間の友達などできたことがなかった。小中学校の同級生は、華を「馬鹿」と見下す者達ばかりだった。就職した工場でも、友達などできなかった。同僚はいつも、華のことを「役立たず」「足手まとい」と罵ってきた。


 猫達に抱く感情と秀人に抱く感情は、明らかに違う。人間の友達と猫の友達とでは、抱く感情が異なるのだろうか。秀人は人間だから、同じ友達でも、猫達とは違う気持ちになるのだろうか。


 四ヶ月前から続く、秀人との同居生活。勉強や運動は大変だし、料理を覚えるのも苦労したが、基本的には楽しい思い出しかない。教えてもらったことをできたとき、秀人は、華を褒めてくれた。撫でてくれた。頭に触れる温かい手の感触が、たまらなく心地好かった。


 毎日一緒にお風呂に入った。湯船に浸かるときは、彼に寄り掛かった。温かいお風呂の中で、彼の体はさらに温かかった。


 夜は、一緒のベッドで寝た。彼に抱きつくと、心がじんわりと満たされた。彼の体から伝わる体温だけではなく、華自身の体も、内側から温かくなった。


 華は、セックスが好きではない。秀人に出会う前は、仕事だから我慢していた。毎日、名前も知らない男と寝ていた。痛いし、気持ちよくない。お金が貰えないなら、二度とすることはないだろう。


 それなのに。


 秀人との毎日を思い出して。風呂場で触れ合った、彼の体を思い浮かべて。体の内側から湧き出る、熱を感じて。


 華は、気付いた。


 ――秀人としたいなぁ。


 彼とセックスをしたい自分が、確かにいた。


 デパートに入った。華の目に映る、化粧商品売り場。雑貨屋。展開している店舗の性質から、女性客が圧倒的に多い。


 華は化粧をしたことがない。化粧の仕方も分からない。


 化粧をしたら、可愛くなれるだろうか。秀人に「可愛い」と言ってもらえるだろうか。


 つい足を止めて、化粧品売り場を凝視してしまった。化粧の仕方を知りたいと思った。でも、誰に教えてもらえばいいか、分からない。さすがの秀人も、化粧の仕方までは知らない気がする。彼自身、化粧などしないのだから。


 どうやったら、綺麗に化粧ができるようになるだろうか。化粧品売り場の店員に聞けばいいのだろうか。それとも、どこかで化粧の仕方を教えている人がいるのだろうか。


 考え始めると、止らなくなった。


 化粧をして綺麗になれば、秀人は、セックスしてくれるだろうか。


 秀人と一緒に暮らす期間は、当初の予定では半年。残りの期間はたった二ヶ月。その間に綺麗になったら。


 だが、そんな短い期間で、秀人以外の人に教わって、化粧の仕方を覚えられるとは思えない。


 秀人とセックスをしたいという気持ち。化粧をして、綺麗になった自分を彼に見せたいという気持ち。


 秀人に対する想いが、華に実感させた。今の生活を続けたいと。彼から離れたくないと。


 でも、残された時間は、あと二ヶ月しかない。


 華は、なんだか泣きそうになった。


 多くの女性が行き交う、デパートの地下一階。みんな、綺麗に着飾っている。可愛らしく巻かれた髪の毛。洗練されたメイク。いい匂いがする女性も多い。


 彼女達に比べて、自分は可愛くない。


 どうしようもない劣等感に襲われて、華は、この場から消え去りたくなった。周囲の女性達のようになりたい。それなのに、なれる気がしない。


 逃げ出すように、地下二階に降りるエスカレーターに向った。足取りは、自然と速くなっていた。


「華?」


 エスカレーター付近まで来て。唐突に、声を掛けられて。


 華は足を止めた。聞き覚えのある声だった。忘れるはずのない声だった。


 華は、声の方へ顔を向けた。


 見知った姿が、そこにはあった。誰かへのプレゼントだろうか、綺麗に包装された品物を小脇に抱えていた。


 かつて、華を助けてくれた人。一緒に暮らしていた人。華に、ソープランドの仕事や立ちんぼの仕事を教えた人。一つのホストクラブの、売り上げが中間くらいのホスト。


 好きな人。

 好きなはずの人。


 声を掛けてきたテンマが、華のところに駆け寄ってきた。


※次回更新は2/18を予定しています。

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― 新着の感想 ―
もう二度と出てこないと思っていたテンマがっ! この人がいったいどんな人なのか、まだよくわからないので、物語がどう動くのか、彼がどんな役割を果たすのか、先が読めなくてめちゃめちゃ気になります!
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