第一章 八節
「はあ……はあ……」
右手で手斧を引き摺りながら、洞窟の壁に半身を擦り付けるようにして、それでもテトは前へと進んでいた。
遺品の鞄に入っていた包帯で脇腹の傷口を塞いだが、所詮は応急手当。テトが通る度、地面に血痕が付く。
「く、来るなぁ!!」
突然、反響した声が聞こえた。次いで、重い衝撃音。
「あいつら……」
テトの重い足が、僅かに速くなる。真っ暗闇の中を、凸凹の地面に足を取られながらも必死に進む。
どれくらい歩いたか。ふと、暗闇の先に一筋の光が見えた。近付くにつれ光はどんどん大きくなり、やがてテトは広い空間に突き当たった。
そこはドーム状に開けており、中央が窪んでいた。ちょうど、半分に切った果物をスプーンでくり抜いたように。
それは働き蟻が回収してきた栄養エキスを貯蔵し、女王蟻に献上するための穴だ。もし落ちれば粘度の高いエキスに腰まで浸かる事になり、簡単には登って来れない。
「ロゼェ! その臭い袋をよこしなさいッ!!」
「い、嫌ですぅ!!」
仲間割れのようなやり取りが、テトの耳に届く。
見ればリカとロゼが、黒鎧と戦っていた。
窪みの外縁は鎧蟻が一体通れる程度の幅しかなく、そのおかげでリカロゼは正面の敵に集中出来ている。
また、外縁の壁には自ら光を発する光鉄結晶が密集しているおかげで、光源には困らない。
「どうする……」
しかし、テトは苦しげな顔で斜め上を見上げた。広間の空間は上にも広がっており、ちょうど劇場の二階席のように岩棚が迫り出している。
そして、岩棚の上には光鉄結晶の光をぼんやりと照り返す、無数の影。薄闇の中に、赤色の眼光が幾つも光っている。
すると岩棚から影が飛び降り、ロゼの背後を取った。たちまち、二人は前後から挟まれる形となる。
「ロゼェ! 早く! 早く寄越しなさいよ! そいつを何とかなさい!!」
黒鎧と力比べをしながら、リカが狂ったように叫ぶ。気を纏わせた槍でアギトと鍔迫り合っているが、徐々に押し込まれていた。
「いやあああああ!!」
ロゼはというと、最早リカの声も聞こえていないのか、悲鳴を上げ矢を乱射していた。魔弓は黒鎧に直撃し、爆発の連鎖を起こすがやはり巨体を止めるには至らない。
黒鎧は魔弓を食らいながらもロゼとの間合いを詰め切った。その体を両断せんと、アギトを振り上げる。
「いやあああっ!? 死にたくない死にたくない!! なんで私がこんな目にぃっ!?」
アギトがロゼを間合いに捉えた。最早逃げ場はない。弓使いは顔を背けると、両目を閉じた。
ズカッ!!
と、刃が肉を断つ音が、広間に響いた。
「……ッ!?」
リカが目を見開き、肩越しに振り返る。
そこにはうずくまるロゼの前で、地に倒れ臥す黒鎧の姿があった。
岩棚の上から、幾重にも重なった金属音が響く。鎧蟻たちのどよめきか。
「テト!?」
リカが名前を呼んだ相手は、鋼の骸からぬっと立ち上がると、頸椎から手斧を引き抜いた。
血糊も払わずに肩に背負うと、そこから飛び降りる。うずくまるロゼの前に立つと、
「……お前らが今まで切り捨てて来た奴隷たちは、死ぬ瞬間まで前を向いていたぞ」
そう言って、彼女の横を通り過ぎた。そのまま駆け出し、鍔迫り合うリカの元へ。槍の柄を踏み台にして飛び上がると、黒鎧の頭上を取った。
アギトがリカの首元まで迫る。もはや後数秒も持たないだろう。頭上へと跳んだテトに気を取られる様子もない。
ここからでは間に合わない――逡巡を噛み殺しながら、テトは空中から手斧を投げつけた。回転しつつ飛んでいった手斧が、見事首元の隙間に突き立つ。
鍔迫り合う黒鎧の力が一気に抜ける。リカはそのまま上体ごと突き上げると、露わになった首元へと一撃を叩き込んだ。すぐさま飛び退き、ロゼの元へと下がる。
テトも骸となった黒鎧に着地し、首元に突き立つ手斧へと駆け寄ろうとした。しかし、断念し飛び降りる。得物を回収させまいとタイミングを見計らったように、次の刺客が飛び掛かって来たのだ。
やむなくリカロゼの元へと下がると、彼女らが何か言うより早く畳み掛けた。
「予備の武器は!?」
「な、ないわよ! いっつも使わないから!」
「っ!」
苛立ちながらも、それをぶつける事はしなかった。今はそれどころではない。遺品の鞄から作業用のナイフを取り出すと、逆手に構えた。魔獣相手にはあまりにも頼りないが、ないよりはマシか。
再び、黒鎧二体が左右から迫る。
「ご主人が来るまで持ちこたえるぞ! 死にたくないなら死ぬ気で踏ん張れ!」
黒鎧と相対しながらも、残る力を振り絞って二人を叱咤する。相手もテトを警戒してか、安易には攻めてこない様子だ。
「テト、ありがとうね」
「……は?」
リカの言葉に思わず振り返る。彼女はあろうことか眼前の黒鎧に背を向け、テトを見据えていた。
そして、その右手には革袋が。何のためらいもなく、彼女はそれを投げつけた。
──真っ直ぐ、テトに向かって。
目を見開いたまま固まるテトの顔に、革袋の中身がぶちまけられる。臭い袋とも呼ばれるそれは、鎧蟻の攻撃フェロモンを液状に凝縮した物だ。透明だった液体は空気と触れる事で白く濁り、テトの顔を汚した。
「……え?」
言葉を失い、テトの手からナイフが落ちる。広間中に響き渡る鎧蟻の大狂騒も、最早耳に入っていなかった。
リカが腹の底から笑いながら、勝ち誇ったように吠えた。
「死ぬのはお前独りで十分よクソ奴隷!! ありがとうねぇ! 私のためにここまで生き残ってくれてさァ!」
言下にリカは、呆然と立ち尽くすテトを蹴り飛ばした。闘気で加速させた蹴りは、窪みの中央までテトを突き落とすのに十分過ぎる威力があった。
放物線を描いて、テトは栄養エキスの溜まる貯蔵庫へと頭から落下した。粘ついた液体の中から必死に顔を出すと、唖然とした様子でリカたちを見上げた。
彼女らもまた、テトを見下ろしていた。
その二人の表情を、何と表現すべきか。安堵と哀れみ、高揚と嘲笑──様々な感情が入り混じっているようだ。ただ一つ確かな事は、お前が悪いんだという他責の念が、歪んだ笑みにありありと現れているという事だった。
「こ、こんなのっ……」
くしゃり、とテトは年相応の泣き顔を浮かべた。
「こんなの、あんまりじゃないかっ……! オレは、オレはあっ……!!」
その言葉は、黒鎧たちの叫び声に掻き消された。赤眼をぎらつかせ、明らかに興奮した様子でテトを威嚇している。
窪みの中央にテトは一人突き落とされ、武器もなく身動きもまともに取れない。脇腹の傷は塞がらず、出血が続いている。
全方位を囲う岩棚には親衛隊がひしめきあい、その全てがテトを見下ろしていた。
今までは貯蔵庫を壊さないよう、黒鎧たちは慎重に侵入者の様子を窺っていた。彼らにとって、必ずしも侵入者を殺す必要はない。ただ女王蟻から外敵を遠ざける事が出来れば良い。
だがリカが臭い袋を投げた事によって、テトは最優先の抹殺対象に変わってしまった。最早彼らの目にはテトしか映っていない。
細い細い一縷の望み──リカとロゼに助けを求めるように、手を伸ばす。
しかし、リカはポケットから何かを取り出すと、テトに見せつけた。
それは──紫の花の髪飾りだった。
「そうそう、あの雌奴隷だけどさぁ、もう“処分”しといたから。だから、安心して死ねよ。あははははは!!」
シオがいつも身に付けている、紫の花の髪飾りだった。
笑い声を後に残して、二人はあっけなく姿を消した。
「…………な」
茫然自失、とはまさにこの事だろう。血の気が失せた唇を僅かに震わせ、テトは虚ろな声で何かを呟いていた。
「ふ…………るな……」
その時、テトの心をたった一つの感情が支配した。
「ふざけるなアアアアアアアアアッ!!!!!!」
それは、純然たる怒り。
だが、最早ぶつける相手もいない。
見える事のない天に向かって吼えた瞬間、無数の黒鎧が一斉に飛び掛かった。
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