第一章 日常と非日常の欠片(1)
「あ、司紗。おはよー!」
バスから降りた途端、朝のけだるい空気をものともしない明るい声が響いた。たった、と元気な足音が近づいてくる。
振り返らなくても、その相手が誰なのかは迷う余地もない。
「おはよ、梓。今日も朝から元気いっぱいだねー」
そう言って右手を挙げれば、わたしの一番の友人である一ノ瀬梓は嬉しそうに飛びついてきた。ギャルというのは、なかなか距離感が近い。
「ちとせ君も、おはよー。そっか、今日は巫女服の日か。やっぱり似合うねー。ねぇねぇ、その顔にお化粧させてくんない? 絶対合うって!」
「提案は嬉しいけど、僕は必要ないと思ってるから」
ずばっと切り捨てる、容赦ないちとせの返答。しかし、梓は気にした様子もない。「ちぇっ、残念ー」と、明るく笑う。
「梓さんは、今日もおしゃれだね」
少しは悪いと感じたのか、珍しくつかさが梓の服装を褒めた。
「ふっふーん、そうでしょ。今月のバイト代でマネキン買いしちゃった。マジ上がるよ」
イケメン(但し巫女姿)のつかさに褒められて、素直に鼻を高くする梓。
胸元にひらひらとした飾りがついているブラウスに、紺色のショートパンツ。短めの靴下とつやつやのローファー。……うーん、ファッションは詳しくないけれど、確かに梓によく似合う恰好だとは思う。
ちとせが袴で登校していることからもよく分かる通り、うちの高校は制服を強制していない。常識のラインさえ守れば、好きな格好で学校に通えるのだ。
……といっても、それでウキウキするのは一部のギャルたちだけ。基本的には皆、学校の推奨する準制服を大人しく着てきている。
かく言うわたしも、毎日準制服だ。親友の梓からいろいろアドバイスはもらったものの、未だにおしゃれに興味を持つことができないでいる。
ショートカットの黒い髪も履き古した運動靴も、すべて動きやすさ重視で身につけているもの。「自分を磨く」という行為が、いまいちぴんと来ないのだ。
梓には「司紗は恋をすれば変わるタイプだと思う」と言われているけれど……もし本当にそうだとしても、いつになったらその恋は訪れるのやら。今のところ、その予定はまったくない。
一方の梓はおしゃれに敏感で、毎月のバイト代をつぎ込んでいつも違う服を着てきている。綺麗に染めた明るい茶色い髪も、爪の先までキラキラしているネイルも手を抜いたところを一度も見たことがない。
わたしとは正反対のキャラクター。それなのに梓とわたしの相性は、周囲が驚くほどに良い。
チャラチャラした外見をしているけれど、梓はわたしと違って実のところかなり気遣いができる女の子だ。
周囲の人間全員と明るく絡み、誰とでも仲良くする。そうしながら、誰かがそこから零れ落ちていないか常に気を配っている。
学校内で男女問わず人気の梓。その人に好かれる秘訣は、他人の嫌がるポイントをしっかりと把握していて、その一線を決して超えない点にもあるのだろう。
そのくせ、自分の悩みを抱え込んでしまうところは親友として心配ではあるのだけれど。
「進路調査票の提出って今日っしょー? マジ萎えるわぁ……家業を継げとか、いつの時代の話だっつーの」
高二の夏。
そろそろ、来年の大学受験に向けてじわじわとプレッシャーがのしかかって来る時期だ。
「まだ家族と揉めてるの? 大丈夫?」
「んー? いや、まぁもう納得したんだけどね。そりゃウチだって、県外の大学とか行ってひとり暮らしして彼ピ作って……って夢見てたけど、よく考えたらそこまで勉強好きじゃないし? 受験勉強しなくて済むからラッキー、みたいな?」
だから全然大丈夫だよー、と軽い調子で手を振る梓。
一時期彼女は進路のことで相当荒れていたので心配したのだが、杞憂だったみたいだ。その表情に嘘はなさそうに思える。
「気にしてくれて、あんがとね。司紗も進路悩んでるって言ってたけど、ウチと違って頭良いんだしさ、やっぱり県外の大学とか行くと良いんじゃない?」
そんな感じで梓と話をしていると、やがて教室の予鈴が鳴った。荷物も置かずにおしゃべりに夢中になったことに気づいて、慌てて席へと戻る。
――朝の出来事を忘れたわけじゃない。でも、非日常はあっという間に日常に流されて。
気がつけば、変わらぬ学校生活を送っている自分が居た。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
こうして、長い一日はいつもと同じように過ぎていく。
いつもより少しだけ疲労が濃いのは、朔日という日付のせいだ。
というのも、自分の出席番号は一番。そして、先生というものは授業で当てる生徒を日にちで決めることが多いのだ。
皆が口を揃えて、「今日は朔日だから……天生」とわたしを当てる。その所為で、おちおち居眠りも内職もできやしない。
毎度思うけれど、出席番号三十二番以降の人間はそれだけでも随分と得をしている。いや、贅沢は言わない。三十一番だって構わないから、その出席番号を譲ってほしい……!
特に本日の時間割は嫌いな文系授業の比重が大きかったため、疲弊感が半端無かった。大きなため息をついてリュックを背負い直し、空を見上げる。
朝よりも少し風が重い。湿気をはらんだ空気は、少しだけ初夏の匂いを漂わせている。
風に煽られ、頭上の雲が流されて行くのが目に入る。
もしかすると、家に帰る前にひと雨来るかもしれない。そう考えて、足を急がせる。
バス停では、ちとせだけが静かに佇んでいた。少しうつむき加減で手にとった文庫本に目を落としている。
他の生徒は、もう居ない。駅へ行くバスは頻繁に出ているため、先に行ってしまったのだろう。
待ち時間が短いのは、羨ましい。わたし達の家に向かうバスとは大違いだ。何せこちらは、一本逃せば次に来るのは一時間後なのだから。
「やっほー、ちとせ」
声をかけると、ちとせは本から目をあげる。
「ああ、つぅちゃん。お疲れさま」
「うんうん、本当に今日は疲れたよ。ちとせが巫女服着てるのを見ると、『ああ、今日は先生にいっぱい当てられる日だ』って思っちゃう」
あーあ、と大きな伸びをしてみせると、ふっとちとせが柔らかく微笑む。
「あ、そういえばさ、駅の方に新しくうどん屋さんができたらしいよ。今度の土曜授業のとき、行ってみない?」
「――――」
帰りの道でも、朝と同様に『ちとせが釣れる話題を掘り当てようゲーム』を仕掛けてみる。
今回はいくつか空振りをしながらも小当たりは引くことができ、会話はそれなりに弾んだ。
どうやらちとせは、うどんよりもその隣のクレープ屋さんの方が気になっているらしい。ひとしきりフランス発祥のそば粉クレープ、ガレットの歴史について豆知識を披露してくれた。
おそらくわたしがハムチーズクレープを「せっかくのクレープ屋でそんなもん頼む人の気が知れない」とディスったのが気に入らなかったのだろう。クレープはもともとはお菓子ではないと、軽く怒られてしまった。