第七章 花火大会(2)
どぉん、という大音響とともに、火花が夜空に光を散らした。
いつまでも空にあると感じていた太陽も、気づけば呆気なく山の向こうへと沈み、細い月が代わりに宵の守護者となる。
昇り龍さながらの勢いで空へと昇り詰める花火は、その月まで落としそうな勢いだ。
追いかけて、もうひとつ轟音が鳴り響く。これで大玉だけで三十は上がったことだろう。そろそろ首が痛くなってきたけれど、そんなことでわたしの気持ちが萎えるわけがない。
「たぁまやー!」
八叉様と掛け声が重なる。二人で目を合わせて笑い合う。
まだ気恥ずかしさは残るけれど、祭りの盛り上がりに突き動かされて自然とその距離はぐっと近づいていた。わたしのテンションは未だ最高潮を維持したままだ。
空いっぱいに拡がった小さな火が、尾を引きながらすぅっと切なく消えていく……と見せかけて、ひと呼吸置いて火の粉は地面に降る直前にもう一度鮮やかに輝いた。意外な仕掛けに、おぉ、と観客席がどよめく。
田舎の強みで近くに高い建物は殆ど無く、目に映るすべての空がパノラマとなって華々しい星の種を蒔く。体の内側までずん、と響く重低音。そのたび濃紺の深い空は明るく映し出され、それを見上げる人々の顔を刹那輝かせる。
この特別な景色を八叉様と二人で見ているという幸せに、わたしはひたすらに酔いしれる。いつまでも、この楽しい時間が続けば良いのに……。
『それでは第十七回奥木町花火大会、最後の演目となります。フィナーレを飾る夜空の芸術をどうぞお楽しみください――』
そんな願いが通じるわけもなく、やがて大会本部からのアナウンスが無情に鳴り響いた。その音を背に、薄闇の中で八叉様がこちらを向く。
「ああ、見事な花火だったな。もう終わってしまうのか……」
名残惜しげなため息をつき、ゆっくりと首を振る。
「終わる前に、司紗に……伝えたいことがあるんだ」
そっと見上げた彼の夜空を湛えた瞳に、わたしの視線はどうしようもなく惹きつけられた。
きゅっと引き結ばれた薄い唇、やや朱が差した色白の頬、黒ガラスのように光る潤んだ瞳。それらが一体となった泣きそうな、苦しそうな苦悩の表情。
上がり始めた花火の色とりどりの光が、彼のそんな顔を入れ代わり立ち代わり照らし出す。
ひゅぅ、と大きく息を吸い込んで、八叉様は口を開く。
「司紗、我は――」
その瞬間。
だん、だん、だん、と三つ続けて大玉の花火が上がり、覚悟の籠もった八叉様の声をかき消した。
フィナーレを飾る花火はどんどん色鮮やかに、惜しげもなく夜を照らしていく。話の腰を折られた八叉様ですら、それを忘れたように視線が空へと攫われた。
最後の見せ場とばかりに、滝のように絶え間なく光の粒が降る。そのさらに上で大きな花火が続けざまに、競い合うように空を鮮やかに彩っていく。どんどん近づいてくるかのような轟音がいくつも重なり合い、怖いくらいに身体を内側から揺さぶる。
その鳴動に、すべての観客は恐怖を覚えながらも魅了されてやまない。恐怖と憧憬は根源的には同じなのだな、とわたしは花火に見惚れながらぼんやりと思う。
「――――」
わたしの目を捉えたまま、八叉様の唇がわずかに動いた。しかし、その声は空から響く轟音にかき消されて聞こえない。
「……っ、八叉様?」
必死に訊き返すが、八叉様はそっと口を閉ざしてしまう。ただ言葉にならない想いをすべて籠めたような強い彼の視線だけが、わたしに何かを訴え続けていた。
目の前にいるのに決して触れられないと感じてしまう、二人の確かな距離。
最後の花火が、ひときわ明るくわたしたちを浮かび上がらせた。
やがて夢が醒めるようにあっさりと、周囲に喧騒が戻った。
花火の終わりを知らせる事務的なアナウンスがスピーカーから流れ、あちこちの街灯が一斉に点灯しはじめる。人工的な明かりが、容赦なく現実をあらわにしていく。
現実に引き戻された人々は立ち上がり、花火の感想を口にしながら帰り支度を始める。もうしばらくしたら、帰路につく人々の長蛇の列ができることだろう。
「ねぇ八叉様、さっきは……」
わたしの声に、彼は無言のままゆっくりと頭を振った。
――もしかしたら、届かないのをわかっていて伝えたのかもしれない。
穏やかな笑みを浮かべる八叉様に、わたしはそんな意図をうっすらと察する。それならきっと、今更蒸し返したところで答えは返ってこないだろう。それ以上は口を噤んで、荷物をまとめはじめる。
支度を終えて会場の出口に目をやると、そこにはシャトルバスを待つ人々の列ができ上がっていた。優に百メートルはありそうな長い行列。あれに並んだら、家にたどり着くのは一体いつになるだろう。
幸い、家までは歩いても三十分程度。勝手知ったる地元ということもあって、ぐだぐだと列に並ぶよりは良いかとわたしは気軽な気持ちで歩いて帰ることを選択した……のだけれど。
「っ……」
歩きはじめて、十分も経たないうちに。わたしは足の痛みにひそかに顔を顰めていた。
……そう、すっかり忘れていたのだが、今日のわたしは浴衣姿。そして、浴衣に合わせて足元も可愛らしい下駄を履いている。履きなれていない、鼻緒の食い込む下駄を。
そのいつもと違う不自然な歩行は確実にわたしの身体を蝕んでいて……いつの間にか、足には大きな靴擦れができてしまっていた。
「きゃっ」
「司紗、大丈夫か⁉︎」
少しでも靴擦れの接する場所を減らそうと足を庇いながら歩いていたところで、小さな窪みにつまずいて身体がぐらりとかしいだ。少し先を歩いていた八叉様が、慌ててわたしの肩を抱き止める。
――至近距離で、ばっちりと目が合った。
「あっ、ごめん。大丈夫……!」
焦りながら身体を離すが、八叉様はそのままの姿勢でわたしの様子をじっと窺う。そしてしばらくしてから、何かに気づいた様子で足元に身を屈めた。さらりとこぼれ落ちる銀髪が、宵闇の中で淡く光る。
「ケガをしてるじゃないか。どうして、早く言わないんだ」
「えっと、そんな大したことないと思って……」
あははーとワザとらしい笑い声を上げるわたしを無視して、八叉様は手拭いを取り出す。そして躊躇うこともなく、ビリリと歯でそれを裂いた。
「肩に、手を」
短く告げられ、八叉様の両肩に手を掛ける。
屈んだ八叉様が、そっとわたしの右足に触れる。素足に直接感じる、彼のひんやりとした手。その感覚にくすぐったさだけではなく、胸がキュゥっとなる切なさを覚えた。
そんなわたしの感傷など知る由もなく、テキパキと八叉様は迷いない手つきでわたしの足に手拭いを巻いていく。
「これで、どうだ。痛みはないか? 歩きにくくは?」
「……うん、大丈夫そう。ありがとう」
その場で足踏みをしてみるが、包帯のようにしっかりと巻かれた手拭いのおかげで靴擦れの痛みはほとんど消えている。元気よく頷いたわたしを見て、八叉様は満足げに頷いた。
「それなら良かった。……ほら、行くぞ」
立ち上がって、八叉様はわたしに向かって右手を伸ばす。それを見て一瞬固まってしまったわたしに、八叉様はぶっきらぼうに言葉を足した。
「また転ばれても、かなわんからな」
ぶっきらぼうな口調とは裏腹の、優しさに満ちた言葉。
「……うん!」
戸惑いは一瞬だけ。差し出された手を強く握り、八叉様と肩を並べて歩きはじめる。
最初のうちは、わたしの手を包むように握られていた八叉様の手。それがやがて自然な様子で姿勢が変わり、彼の細い指がわたしの指を絡めとっていく。気がつけば二人の指は絡み合い、密着するようにつながる形となっていた。
無言のまま、並んで歩く。
自分の手のひらの汗ばんだ感触が、無性に気になった。でも、今更それを振りほどくことはできない。一度ほどいてしまったら、もうこの形には戻れる気がしなかった。
八叉様の方に視線を向けられず、わたしはひたすら前を向いて歩き続ける。小さな感情のさざ波、自分でも定義できない感覚が一瞬わたしの内面をざわざわと走り抜けて、握り締める手にわずかに力が籠もった。
祭りの喧騒も遠くなり、虫の声と二人分の足音が夜の沈黙に溶けていく。
――二人で歩いている。ただ、それだけ。
それなのに、わたしの胎内を刻む花火の残響は、鳴り止まない。




