第一章 ちとせ(1)
「――ぅちゃん、つぅちゃん、」
ちとせの声に、はっと意識が引き戻された。
一瞬、驚きのあまり完全に思考が停止してしまっていた。慌てて周囲を見回す。
「ちとせ、八叉様のことを何で……」
「? つぅちゃん、寝ぼけてる? バス来たけど?」
「――っ!」
ちとせの言葉に、慌てて周囲を見回した。言われてみれば、わたしのすぐ隣に居たはずの八叉様の姿はどこにもない。
代わりに目の前にあるのは、わたしたちが乗るのを待っているいつもの通学用のバス。
「大丈夫?」
バスに乗り込みかけたちとせが、不審そうに振り向く。
「うん……、なんでもない」
頭の中は混乱しながらも、必死に平静を装う。
しかし息をととのえて定期を取り出しながらもつい、わたしは彼の姿を探して振り返ってしまう。
「……変なの」
不思議そうにつぶやいた後、ああでも、とちとせは何気なく言葉を続けた。
「なんでだろう。今日はつうちゃん、誰かと一緒だった気がするな」
「……そう、なの」
その台詞は、彼に八叉様が見えていたこと、そしてそれをすっかり忘れていることを端的に表している。
色々と思うところはあったけれど、ひとまず胸の内にしまい込んでひと言だけそう返した。
わたしの動揺に気づくことなく、ちとせはバスの後部座席へと足を進める。この非現実的な出来事を理解することを放棄して、わたしもその後を追ってバスへと乗り込んだ。
「ふぃー……疲れたー」
バスの後部座席にどっかりと腰を下ろすと、おじさんのような深いため息が出た。まだ一日は始まったばかりだというのに、なんだかもう帰りたい。
「いつもは元気なつぅちゃんがそんなこと言うなんて……本当に大丈夫?」
ちとせが気遣わしげにわたしの顔を覗き込む。
「うん、まぁ大丈夫、大丈夫」
もうちょっと自分の中で整理がついたら、ちとせに話を聞いてもらおう――そんなことを思いながら、わたしは笑顔を作ってみせる。
しかし、そう答えてもちとせはじぃっと不審な眼差しを緩めない。
「ちとせは今日、月次祭だよね? 朝からお疲れさま」
焦りつつも話題を変えようと声をかけると、うん、と頷いてちとせは小さくあくびを噛み殺した。
低血圧な彼の朝の姿は、無防備で本当に可愛い。妹がいたらこんな感じなのかな、とこっそり思う。
なにしろ幼馴染で泣き虫だった彼をガキ大将から守り、取っ組み合いのけんかをしていたのが、このわたしである。もうそんな子供じゃないとわかってはいるものの、子供のころからの関係性というのはなかなか改まらないのだ。
「あっ、ちとせ、寝癖がまたついたままだよ。せっかくの巫女姿がもったいない」
「えー? じゃぁつぅちゃん、直してよ」
「もうっ……しょうがないなぁ」
その関係性が染みついているのは向こうも同じようで、ちとせはいたって自然体の姿でわたしに甘えてくれる。
ひとつに括っている髪から、ひと房だけぴょこんと顔を出している寝癖。その見た目は、まるで尻尾のようだ。
そう思ったところで、その一房の尻尾のような寝癖の周囲に本当に尻尾が見えた気がして目を凝らす。
「……!」
そこで目に入った思いがけない光景。その微笑ましい状況に、わたしはつい噴き出してしまった。
椅子に座ったちとせが、不審げにこちらを見やる。
「……どうかした?」
「ふふっ、だって、小さなお稲荷さんが……必死にちとせの寝癖を直そうとして飛びついてるんだもん……めっちゃ可愛い……」
堪えられない笑いにむせながら、ちとせの頭上の状況を実況する。
――目の前では、親指大の小さな狐が必死にちとせの寝癖に挑み、髪をととのえてやろうと健気な格闘を繰り広げていた。その懸命な姿が妙に愛らしい。
随分と頑固な寝癖なのか、お狐さんは何度挑んでも跳ねた髪を直すことができない。
全身で飛び掛かっていくその姿は、ただちとせの髪にじゃれているだけのようにも見える。
この可愛らしい光景をスマホで撮れないのが、残念でならない。動画投稿したら、絶対バズるのに!
「ほら、お稲荷さん困ってるから、寝癖直そ? もうちょっとこっち寄って」
「……うん」
カバンから櫛を取り出して、ちとせの髪を梳かしつけ始める。するすると櫛の間から、ちとせの男性にしては長い髪が流れていく。
横に並んだちとせの肩がわたしより高い位置にあることに気がついて、私は内心で驚きを覚えていた。いつまでも小さな男の子だと思っていたのに、いつの間にかこんなに大きくなっていたのか。
高校を卒業するころには、ちとせの巫女服も見られなくなるかもしれない――そんな悲しい未来予想図が頭に浮かぶ。まぁそうなったらそうなったで、彼の普通の着物姿も麗しいだろうけれど。
和服美人が、和服美丈夫になるだけだ。とはいえ、可愛い妹のような存在が居なくなるというのは、ちょっと寂しい。
櫛を通し始めると、狐は櫛にじゃれついたり手の下に潜り込んだりと、今度は櫛の動きにじゃれつきはじめた。可愛らしくていつまでも見ていたい光景だが、ちとせのストレートの髪はほんの少し櫛を通しただけであっという間にととのってしまう。
こぉん、と抗議の声を上げてわたしの指に噛みつく真似をしてから、狐はくるりと狐火の中へ消えていく。
もっと遊びたかったのに、という声が聞こえるようで微笑ましい。
ちとせの頭を仕上げにぽんぽん、と叩いて櫛を返した。
「ほら、寝癖直ったよ。お狐さんも帰っちゃった」
ありがと、と櫛を片づけながら、ちとせは不満気に口を尖らせた。
「僕だって、お狐さん見たいのに」
「何でわたししか見えないんだろうねー」
――そして何故、八叉様はちとせの目にも映ったのだろう。
後半の疑問はまだ話さないと決めたもの。胸の内に留めるだけにしておく。