第四章 幕間
――夢を、見ていた。
夢の中でわたしはまだ小学校にも上がっていない程の年齢の子供で、ひとりで山の中を黙々と歩いていた。
聞こえるのは、自分の少し上がった呼吸音と、風が吹くたびに揺れる木々のざわめきだけ。
その頃のわたしは子供にしては目端が利き要領が良く、大人に喜ばれるような立ち居振る舞いを心得ていて……まぁ要するに可愛くないガキだった。
キッと怒ったような顔をしているのは、ひとりの心細さに油断したら泣いてしまいそうになるから、そして泣いても何も解決にならないと幼いながらも計算したから。
その小さな背中を、夢を見ているわたしは少しだけ視点を引いて見ている。
わたしの思考を占めているのは『これは夢である』という自覚と、夢の中の幼いわたしが感じている感情が半分ずつ。
物の本に「夢に色はない」とあるのを読んだ事があるが、あれは嘘だ。わたしを取り囲んでいるのは、息苦しいほどの鮮烈な碧。
辺り一帯を覆うむっとするような生命の息吹は圧倒的な存在感で迫り、小さなわたしを塗りつぶそうとにじり寄る。
足を止めたらこの鮮やかな侵略者に飲み込まれてしまうのではないか――そんな恐怖に突き動かされ、わたしは道もわからないまま、ただひたすらに前へと進む。
一歩足を進めるごとに、足元の柔らかな大地はぐずぐずと湿った音を立てて沈んでいく。それがまた、山に引きずり込まれるイメージをいっそう増幅させる。
ここからすぐにでも逃げ出したいと思うものの、足場が悪くて走ることもできない。
いくら周りを見回しても目に入るのはひたすら草木ばかり。助けとなりそうなものは何もない。
小さい頃のわたしは自分が子供であるとしっかり弁えていて、そして周囲が守ってくれるという自身の境遇を当然のものとして受け止めていた。
そんな今までの常識が通用しない容赦無い世界に直面し、わたしは自分がいかに甘えた生き物だったのかを思い知らされる。
うっうっ、とくぐもった声が耳に入った。
一瞬その音に身を竦ませるが、すぐにそれが堪えきれず発した自分の嗚咽だということに気がついた。
それが、最後の砦だった。
圧し潰されそうな不安と心細さに、『わたし』は声を上げて泣き出していた――
場面が、少しの間途切れる。
いつの間にか、わたしは誰かに手を引かれて歩いていた。
前を歩くその人は、すぐ傍に居るのに何故か姿がきちんと捉えきれない。ただわたしの手を握る大きくて指の長い綺麗なその手は、憧れの高校生の従兄弟を思い起こさせた。
後ろ姿から見える、着物姿の男の人。厳しそうで近寄りがたいのに、頬擦りして甘えたくなる不思議な気持ち。
その手に導かれるがままに、わたしは歩みを進めていく。
無造作に前へ前へと進んで行くだけなのに、不思議なことにわたしたちは木にぶつかることも藪に道を遮られることもない。……まるで、見えない道が一本真っ直ぐ通っているかのように。
そう思ってぐるりと見回したわたしは、周囲の様子のあまりの変わりように息を呑んだ。
そこにあるものはさっきと同じ。木や草や、石。ただ、それだけ。
でも、その見え方はまるっきり違っていた。目に映るものすべてが、輝いている。
少し目を凝らしてみて、その理由に気がついた。辺り一帯を覆うように、きらきら輝く波のようなものが流れているのだ。
さらにその光る波をよく見ると、それは非常に細かい光の粒子でできているのだった。
初めて目にする光景にすっかり心奪われて、わたしはその素敵な世界に夢中になる。
茂みから、小さな虫が飛び立った。その虫が細かく羽ばたくごとに、金色の粉を一瞬だけぱっと散らす。黄金色の風が、虫の飛行する軌跡をすぅっとなぞって消えていく。
硝子の鈴が鳴るような、透き通った耳に快い反響音が聞こえた。音の方角を見ると、今にも花開こうとする一輪の小さな蕾が目に入る。
ぎりぎり聞き取れるような細くて高いその音は、花弁が綻ぶのに合わせて幾重にも重なり合っていく。
花が咲く時にそんな綺麗な音色を響かせるなんて、わたしは今まで知らなかった。蕾の花芯は明かりが灯っているように明るく、そしてその輝きは徐々に強さを増していく。
わたしの手を引くその人は歩く速度を一切緩めることがなかったので、その光景はどんどん後ろへ遠ざかって行った。
だからわたしは一生懸命首をひねって振り返り、花が咲く瞬間をこの目で見ようと待ち侘びる。
それでも引かれる手を振り払って、その場に留まろうとはしなかった。理由はなくても、この人から離れてはいけないと強く確信していたのだ。
やがて蕾は木の枝に隠され、見えなくなってしまう。
ぽっと太陽の光が差し込むような暖かな音が聞こえた気がしたが、もしかするとそれが花が開いた音だったのかもしれない。
「君は天生の子供だね?」
顔は前を向いたまま、その人はようやくぽつりと尋ねた。低く温かな声が、わたしの耳朶をくすぐる。
その声はわたしの知ってる誰かの声のような気もしたし、そうでないような気もした。
「はいっ、わたしは天生司紗です!」
迷子の礼儀を思い出してハキハキとそう答えると、からからと明朗にその人は笑う。若い外見には似合わない、どこか老成した笑い方だった。
「君は此処の神官の血を引いているから、ややもすると今日の影響で色々不思議なモノが見えるようになるかもしれない。でも、君は賢い子だからこれらが仇なすモノでないことはわかるだろう? 怖くはないね?」
わたしはお兄さんの言う「アダナスモノ」の意味が分からなかったが、「賢い子」と言われたことが誇らしくて大きく頷く。
するともう一度軽く笑って、その人はぽん、と軽くわたしの背を叩いた。
「ほら、お友達との感動の再会だ。もう、あまり危ないところに来るんじゃないよ」
指差された先を見ると、緑のトンネルは少し先でぽっかりと広くなっていて、その向こうにはわたしが幼馴染のちいとよく遊ぶ広場が見えた。
その広場で座り込んで花輪を作っているのは、ちいだ。泣き出したくなるくらい、いつもと同じ景色。
わたしは嬉しさのあまり思わず駆け出して、彼の名を呼んだ。
「ちいっ!」
「つぅちゃん?」
走り寄るわたしを見て、驚いた表情でちいは膝の上の花輪をどけ、立ち上がる。
わたしより、少し低いその目線。花輪を編むその姿は、髪が短くても可憐な少女にしか見えない。
そのまま突進して、わたしは勢い良く可愛い幼馴染に抱きついた。
「ただいま!」
その瞬間、わたし達の周りをぶわっと旋風が駆け抜ける。
一瞬その風に巻き上げられるように芝生から金色の光が舞い上がり、広場一面を輝くさざ波が走った。
――でもそれはほんの一瞬のこと。すぐに広場は元の姿へと戻る。
わたしを受け止めたちいの目が、驚きでくるりと大きくなった。それを見て、ちいもわたしと同じ景色を見たのだと悟った。
ふと、今来た方向を振り返る。……しかし、そこには先程まで一緒に居た謎のお兄さんはおろか、わたしが今まで迷っていたはずの深い山ですら影も形もなく消え失せてしまっていた。まるで今の風に溶けてしまったかのように。
でも、あまり驚きは感じなかった。何となく、そうなることが当然であるように感じていたから。
わたしは抱きついた腕を少し緩め、ちいの顔を覗きこむ。そしてにっこりと笑って言った。
「ちい、わたしは神サマに会ったよ」




