第一章 出会い(2)
そうして狛犬の方に振り返ることなく本殿へと足を進めると、わたしは神饌を台の上に載せた。
二礼、二拍手、一礼。
現代に生きる、それほど信心深いとは言えない女子高生。そんなわたしでも、最後の一礼をするときは静粛な気持ちになる。
神主の子として、それくらいの誠実さは持ち合わせておきたい……なーんて考えながら顔を上げて、手早く片づけをする。
――そうして振り返ったところで。
かしゃん、とわたしの手から回収したばかりの食器が滑り落ちた。
軽い音と共に、食器が転がっていく。拾わなきゃ、と頭の中では冷静な声が呟いたが、目の前の光景に身体が凍りついたように動かない。
唯一めいっぱい開かれたわたしの瞳が、脳内処理の追いつかない景色をただ網膜に映していた。
まず目に入ったのは、はしゃぎまわる狛犬たちの姿であった。
尻尾をぶんぶんと振り大地を転げ回って喜びをあらわにするその姿は、大好きな飼い主が帰って来たときの犬のよう。今まで彼らが、鳥居の前から離れたことなんてなかったのに。
そして、それだけではない。わたしにしか見えないはずの、その生きた狛犬の傍らには。
――彼らに飛びつき、全力で戯れる少年の姿があった。
思考を失ったわたしの目は、佇まいすら美しいその少年に釘付けになる。
黒目がちのくりくりした瞳。わたしの肩を少し越すくらいの、小さな背。
色白の肌はどこまでも透き通るようで、しかしふっくらとした頬には活発さを示すような朱がさしている。
陽の光を透かして輝く銀色の髪は、わたしよりやや長めくらいだろうか。ひとつに束ねられるくらいの長さの銀糸が、風にサラサラと戯れて光をこぼした。シャンプーのCMですか、と聞きたくなるような美しい光景だ。
姿形だけ見れば、中学生くらい。しかし妙に自信に満ちた表情と達観した気配のために、少年は年齢不詳の雰囲気を漂わせている。
嬉しそうにじゃれつく二頭の狛犬を抱きしめ、撫で回し、驚くほど自然に彼らと触れ合っている正体不明の美少年。
――驚いた時は硬直して動けなくなるというけれど、今がまさにそれだった。
動けない身体を置き去りに、目はとりあえず映るものを事細かに情報として送り込む。……その情報のほとんどが、少年の端整な見た目についてだったけれど。
吸い寄せられた視線はその銀色の髪の少年に釘付けになったまま、引き剥がすことができない。
時間にして、僅か一秒。
でも、こんなにも長い一秒をわたしは今まで知らなかった。
その一秒をたっぷりと使い、少年は頬ずりしていた狛犬の背から顔を起こした。
彼の双眸が、立ち竦んだわたしを射抜く。まるで本当に貫かれたかのように、わたしの心臓が凍りついた。
彼の瞳が、微かに驚きに見開かれて。
――二人の目が、しっかりと合った。
凍りついたように動けないわたしを前に、少年はゆっくりと姿勢を直す。そして、余裕たっぷりにニッと笑った。
「よぅ、司紗」
――それは、あまりにもあっさりした挨拶と、屈託のない笑みだった。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「神饌を捧げに来たのだろう? 結構、結構。司紗の家の米は美味くて良い。酒もなかなかのもんだ。……ただ、それを持ってくる神官の娘が色気もなんもないってのは、不満だけどな」
失礼なことを口にしながら、少年は抱きついていた狛犬たちから身体を起こす。
さっと手で合図をすると、少年にじゃれついていた二頭の狛犬は名残惜しそうにしながらも自分の居場所へ帰っていく。
それに小さく手を振ってから、少年は無造作にこちらに向けて歩き始めた。ひく、と思わず後退りする。
裸足の足が白砂をきゅ、きゅ、と踏むのを目の端に捉える。
彼の耳から下げられた小さな鏡の装飾が、陽の光を反射してきらりと輝く。
神主が着る狩衣によく似ている、裾のゆったりした着物。
首には勾玉をはじめとした首飾りを重なるようにいくつも下げており、言うなればシャーマンのような出で立ちだ。
すっと少年の瞳がわたしを映す。まだ子供なのに、魔性すら感じられるその美しさ。
どう見ても、まともな人間ではない。
というか、この雰囲気は人間というよりも、寧ろわたしが時折見ている「神霊」の類に近いように思う。
わたしの目の前まで来て、やっと返事がないのを訝しく思ったらしい。
少年は、きょとんと首を傾げる。
「どうした、今日は一段と呆けた顔をしているな。まさかこの我がわからないのか? ここ奥木神社の祭神、八叉彦命が?」
「あはは……やっぱりそうなんです……?」
背中に冷や汗を感じながら、必死で言葉を返した。
阿呆を見るような少年の見下した視線が気に障るが、ここで余計なことを言って正体不明の存在の怒りを買うつもりはない。そろり、そろりと後退りしながら「いつもお世話になっていますー……」と作り笑いで引き攣った挨拶を口にする。
そんな時間稼ぎにもならない反応を返しながら、わたしは胸の裡で激しい後悔の念に襲われていた。
いつか本当の神様に出会うかもしれない――普段から様々な神使を目にしていたのだから、そんなことも予想して然るべきだったのだ。それなのに、そこまで考えが及んでいなかったことが、自身の宗教観を如実に表している。
結局、神様、もしくはそれに近いものを見ていても、自分にとってそれはいわば景色のようなものでしかなかった。
――見える。感じる。でも、それだけ。
神様を否定するつもりは勿論ないけれど、だからといってその存在が自身に影響を与えるとも思わない。
……恐らく、日本人の大半が似たような考えだろう。
神々とは、手の届かない高みにおわすもの。言葉の通じるような卑近な存在であってはならないのだ。
そういった点で、目の前のこの存在は異端で……。
目の前で、パンッと手が打ち合わされた。
そんな猫騙しでびくりとするほど、気づかぬ内に物思いに耽っていたらしい。
はっと意識を引き戻し、自分より大分背の低い少年をまじまじと見下ろす。
「おい、司紗! 神を前にして何を自分の考えに夢中になっている!」
わたしがあまりにも長く固まっていたために、拗ねてしまったらしい。偉そうに腕組みをして、口を尖らせて抗議の声を上げる自称「神様」。
上目遣いで必死にガンを飛ばしてくるその姿は、特異な格好と偉そうな態度を除けばいたって普通の……いや、普通ではないほどの美形だけど、でもそれだけの少年だ。
心持ち踵を上げて背伸びをしているのは、少しでも目線を高く合わせようとしているためだろうか。そんなところに彼のプライドが見えるようで、微笑ましい。
「ごめんなさい、八叉彦命様」
そんな失礼なことを内心考えながらも、一応カタチだけは丁重に詫びを言う。
「えぇと……」
何か言わなければならないと口を開いたけれど、何を言えば良いのだろう。