第2話 仮面
刺さるような水の冷たさを地肌に感じ、私は目を覚ました。
死んでいない。
全身に伝わる気だるさが、私に生の実感を与えてくれていた。
周囲には薄暗闇が広がっており、ここがどこなのか見当もつかない。レンガの壁があり、足元には水が流れているのが分かった。
そしてなにより臭気が物凄く、吐き気が止まらない。
「うぅっ……!」
おそらくここは水路だろう。イオスクリア王国では上下水道が整備されており、王宮を頂上としてそこから低い場所に向かって生活排水が流れていき、やがてこのような水路に排出されていく。
橋から転落した後、運よくここまで流されてきたのだろう。
奇跡を喜びたいところだけど、とてもじゃないがこんな場所で命のありがたみを感じることはできない。
それに生きていたとして、これからどうする?
公爵家に戻るか。
いや、戻っても異母妹たちから虐げられる日々が続くだけだ。
かといって黒髪の女の私が1人で生きられるほど、この世界は甘くはない。
「ともかく……ここにはいたくない」
私は汚水まみれの赤いドレスを引きずりながら、とにかくこの場所から一刻も早く立ち去ろうと歩を進めた。すると足元になにかが転がっていることに気がついた。
ゴミだろうか。しかし私はそれを無視することができず、拾い上げてしまう。
昔から好奇心だけはどんな状況でも失うことはなかった。
「……仮面?」
拾い上げたそれは黒色の仮面だった。黒薔薇の柄をしており、薄暗闇の中で金色の装飾が煌めく。
この場所には似つかわしくない気品が、仮面から漂っていた。
貴族の落とし物とは考えにくい。
こんな場所に足を踏み入れる貴族などいないだろうし、だとすれば地下で密かに信仰されているという宗教団体が儀式に用いるものだろうか。
いずれにせよ、私が持っていてよいものではない。
そう考え、仮面を足元に置こうとしたその時だった。
『君を待っていた』
後ろから声が聴こえた。青年の声だ。
だが今さっきまで自分の近くには誰もいなかったはず。
気のせいか。
溺れてびしょ濡れになったせいで、体の震えが止まらない。きっと自分で思っている以上に体は不調だ。だからこそ現れた幻聴。
そう思って私は返事をしなかった。
『その仮面は君の運命を変えてくれる』
しかし青年の声は続いた。
まるでそこに存在しないはずなのに、私にだけ聴こえているかのような透き通った声。反響することも濁ることもなく、ありのままのかたちで私の心に問いかけてくる。
「……あなたは、誰、ですか」
最初に感じたのは恐怖。薄暗闇のなか、知らない男が後ろにいる状況だったので仕方がない。優しく包み込むような声調に騙されてはいけない、と自分に言い聞かせる。
『違う。君は自分を押し殺している。本当の君はもっと“強い”はずだ』
「ッ! あなたは誰なの……!」
その言葉に引き出されたかのように、私は強い口調で言い直して振り返った。
すると薄暗闇をかき消すような青い炎が周囲に現れ、灯りが1人のシルエットを浮かび上がらせる。
『俺の名はアザゼル。君の手にした〈黒の仮面〉の精霊とでも言おうか』
アザゼルと名乗る青年は美しく艶やかな黒の長髪をしており、今どき趣味の悪いと言われるであろう黒一色のジャケットを着ている。吸い込まれるような漆黒の瞳を宿した顔立ちは端正で、どこか中性的な雰囲気も感じ取れた。
背丈は非常に高く、その影は小さな私の体から伸びた影を飲み込んでいた。
「せ、精霊?」
『魔法の仮面に憑いている霊体のことさ。知らないのかい?』
知るわけがない。
幽霊はともかく、この世界に魔法など存在しないはずだ。
しかし青い炎が現れた原理は分からないし、これを超常現象の類と考えるのなら、魔法というものの存在も受け入れなければならない。
意外なことに、そこまで考えられるぐらいに私は冷静だった。
『どうやら俺は思った以上に長い時間眠っていたようだ。今は魔歴何年だ?』
「まれき?」
『暦も変わってる……ああ、そうか。あの後――』
「それよりも、この仮面はいったいなに? 魔法だのなんだの言ってたけど」
私はまだ手に持っていた黒薔薇の柄の仮面を前に出して、アザゼルに尋ねた。
『黒の仮面。それを着けた者は、自分以外の人間に変身することができる』
「は、はぁ」
『信じていないようだね。じゃあ試してみるといい。変身したい人物の顔を思い浮かべながら、その仮面を着けるんだ』
半信半疑ではあったが、試してみるしかない。
私は脳裏に浮かんだ【エリシア】の顔を思い浮かべながら、仮面を着ける。
なぜ彼女なのか、理由は簡単だ。
自分が持っていない全てを持っている女だから。たとえそれが自分を殺そうとした憎らしい相手であっても、思い浮かべることに躊躇はなかった。
光が体を包み込むでもなく、体が疼くでもなく、仮面を着けたところでなにひとつ感覚的な変化はなかった。しかし足元の水面に映る自分の姿を見たとき、私は思わず声を上げてしまった。
「えっ……エリシア!?」
そこに映っているのは黒髪の私ではなく、華やかな金髪をなびかせているエリシアだった。口に手をあて驚愕の表情を浮かべている。
嘘、本当に変身した……!?
『驚いただろう? 今の君は“自分であって自分じゃない”。他の誰かと一寸違わぬ顔と体を有した人間なんだよ』
「信じられない……」
この仮面さえあれば、他人と成り代わることだって……。
私の心に一縷の希望が浮かび上がった。黒髪ゆえに差別を受けて育ってきた私が、ようやく普通の生活を手に入れられる?
それだけじゃない、エリシアと成り代われば王太子の婚約者に?
しかしそんな感情を振りほどくかのように、私は仮面を外して自分の姿に戻ると、
「ごめんなさい。こんな力、私は持つべきじゃない」
『どうしてだ? こんな場所で倒れていて、どんな事情があるにせよ君は不遇な人生を送ってきたはず。違うかい?』
「そうだけど……」
『仮面の力を使えば、君は自分の人生を変えることができる』
「でもっ……」
成り代わるということは、自分の人生の代わりに誰かの人生を破滅させることだ。
自分のために他の誰かを突き落とすなんてこと、私はしたくない。そんなことをすれば異母妹たちと同じだ。間違っている、そんなの。
震えが止まらない。自分が悪に落ちてしまう道がそこに見えてしまったからだ。
その誘惑に負けてしまいそうな心が、内側で暴れ出している。止めないと。
「私は……人として、善くありたい……です……」
『違うだろう』
アザゼルは私に顔を近づけ、ハッキリとそう言った。黒い瞳の中に、私の怯えた表情が映り込んでくる。
彼にはいったいなにが見えているのだろう。
『自分を押し殺すな。善くないとか悪いとかより、まず自分が何を感じてどうしたいのかをハッキリとさせるんだ』
「あ、っ……ああっ……!」
今まで我慢してきた。
エリシアも、アンネーゼも、私のことを虐げてばかり。フレデリック男爵は私を利用するためだけに婚約を強引に決めてきた。父はそんな状況を受け入れ、彼らになにも言うことは無かった。
貴族社会の者たちも、皆一様に「ベルフォレスト家の長女は忌々しい黒髪だ」と嘲笑の対象にしてくる。
みんな、私に消えて欲しいと願っている人たちばかりだった。
それが当たり前なんだと受け入れて、我慢して、いつか状況が良くなるまで待とうとしていた。
自分の内側から湧き出してくる感情を抑え込み、ただひたすら耐えることだけを考えてここまで生きてきたのだ。
その結果がこれだ。
薄汚れたドレス、汚水まみれの体、濁った瞳、忌々しい自分の黒髪。
なにひとつ変わってないじゃないか。
『君の名前は?』
「リーゼ……ロッテ」
『そうか。リーゼロッテ、君はどうしたい? 善人であり続けて惨めに死んでいくことか? 違うだろう。もっと解き放つんだ、自分を』
「私は……」
抑え込んできた感情、それは怒りだ。
自分を虐げてくる異母妹たち、見て見ぬふりをする婚約者、そしてやられてばかりで黙っている自分への、これ以上ないまでに純粋な怒りである。
「私は奪いたい! 私を虐げてきた奴らから全てを! そしてエリシアに成り代わり、彼女が手にしていた幸福を全て私のものにする!」
もう我慢するのはこりごりだ。
この世界は誰かから奪わなければ勝ち取れない。身をもって分かっていた。
『そうだ! それこそ本当の君だ! やはり俺の目に狂いはなかった……』
そう言うとアザゼルは跪き、私の右手をとって、
『君はこの仮面を使い、望んだものを手に入れてくれ。俺はそれを君の傍で見ていたい』
「アザゼル……あなたはどうしてそこまで私に入れ込むのですか?」
『その赤く美しい瞳の奥に可能性を感じたから』
「それを人の言葉では“一目惚れ”というのですよ」
『ならそれでいい。俺は君の傍にいられれば、それで――』
「変わった精霊さんですね。君のことが欲しい、ぐらい言ってもいいのに」
『俺の願いはただひとつだ、リーゼロッテ。俺を君の“共犯者”にさせてくれ』
右手に感じるのは、アザゼルの内から響く鼓動だった。精霊、人ならざるものであるのに、それは今まで触れてきたどんなものよりも温かい。
彼の真意は分からない。だが、その言葉に悪意は微塵も感じられなかった。
「私は“いい子”じゃないですよ。いつかこの手も汚すと思う」
『構わない。その時は一緒に汚れよう』
「わかった。アザゼル、あなたは私の共犯者でいてください」
『ありがとう。光栄に思うよ』
アザゼルは汚れた私の右手に優しい口付けをした。
そうして私とアザゼルの共犯関係は結ばれた。
黒の仮面を使いエリシアに成り代わり、彼女の全てを奪い取る。
その日、私は“いい子”であることをやめ、己の望む未来へと一歩踏み出した。
《黒の仮面のルール》
1:この仮面をつければ、自分以外の人間に変身することができる。