第1話 転落
「リーゼロッテ! あなたさえいなければ、私はもっと早く王太子との婚約の話を進められたというのに! ああ、その黒髪が憎らしい!」
揺れる馬車の中でエリシアは長い金髪を指でいじりながら、向かい側に座る私を睨みつけた。そして苛立ちを抑えきれずに、右足で脛を蹴りつけてくる。
反論はしなかった。しても意味がないことを知っているから。
黒髪である私が全て悪い、そう思っていた。
「痛い……です……」
私はそよ風のようにか細い声で抗議をした。しかしそんなものはすぐにかき消されてしまった。
私の異母妹であるエリシアは今しがた、王宮にて宰相から直々に王太子との婚約に関して苦言を呈されたばかりで怒り心頭なのだ。
―――あなたの異母姉は黒髪だ。いくら公爵家の人間であろうと、家族に黒髪がいる方と王太子が婚約するのは、反発する者も多いだろう。
そう言われたらしい。
この世界で黒髪は差別の対象だ。
黒髪は劣等種の象徴であるとされ、就ける職は限られている。教会の懺悔室に入ることも許されていない。法律により人々は帽子や鬘を被るのが禁止されているため、その惨めな黒色を頭に掲げながら歩くことを強いられている。
それでいて私は赤という珍しい瞳の色をしている。珍しいとは、ようするに浮いているということだ。
醜い豚が珍妙な形の帽子を被って歩いている――世間から見られている私はだいたいこんな感じだろう。
そんな者が異母姉妹とはいえ家族にいるというのだから、エリシアにしてみれば自身の婚約に対する障害でしかなく、鬱陶しいことこの上ないはずだ。
「あなたはいつでも私の邪魔をする。私の成功を嫉妬してのことなのでしょうけど……」
「はい……」
「誰が返事をしろと言いましたか。その汚い口を閉じていなさい!」
今日は一段と“あたり”がきつい。
私は日常的に異母妹たちからの罵詈雑言や軽い暴行には耐えてきたが、それでも今日は激しいと感じていた。王宮で宰相から言われたことがよっぽど気にくわなかったのだろう。
自分の思い通りに事が運ばないと、エリシアは癇癪を起こす。
恵まれた環境に生まれ、自分を大切にしてくれる人たちに囲まれて育ったがゆえの弊害だ。ずっと差別されて生きてきた私とは正反対の存在。
そんな私の隣には、婚約者が脛を蹴られ罵倒されても見て見ぬふりのフレデリック男爵、その向かいには異母妹のアンネーゼが悪趣味な笑みを浮かべている。
どれも私の敵だ。奇しくも皆、華やかな金髪をしていた。
「ところでフレデリック義兄様~。今夜は空いてますか?」
アンネーゼはリーゼロッテの婚約者であるはずのフレデリックに、甘い声でそう言った。
「ああ、空いているとも。リーゼロッテ、今夜は寝室を別にしよう」
フレデリックはリーゼロッテに対して愛情など微塵も抱いてなかった。リーゼロッテはベルフォレスト家という王国内の軍事産業を独占支配している名家の長女であり、欲しいのはその権力の一端のみであった。
ゆえに彼は口付けの1つも、リーゼロッテに与えたことはない。
「お異母姉様は知らないと思いますけど、フレデリック義兄様はとてもたくましい方なのですよ~?」
「……そう、ですか」
今さらどうとも思わない。
この世界に真実の愛などないことを、とっくの昔に知っているのだから。
「黒髪のあなたじゃ釣り合わない素敵な人ですよぉ」
「そうですか」
「ちょっとは面白い返事ぐらいしなさいよ」
そう言ってアンネーゼは自分の横に立てかけていた日傘を手に取り、私に先端を向けて突いてきた。鋭く尖った先端が私の右脚に当たると、そこから微かに血が滲む。
「エリシア姉さまのことを邪魔しておいて、よくのうのうと同じ馬車に載っていられますこと」
「ごめん、なさい……」
「そのまま誰にも愛されず、どこかへ消えてくれたらいいのだけれど」
愛なんて、いらない……。
だって愛されないのだから、求めても仕方がない……。
分かってはいても、その事実が胸を引き裂こうとしてくる。息が苦しい。
「誰からも愛されないなんて惨めね」
しかしエリシアのその言葉に、私は心を折られてしまった。
誰からも愛されない惨めな自分。それは私が一番気にしていることだった。
そして喉の奥から本音が噴き出してくる。口を閉じてもせき止めることのできない激しい奔流となって、吐き出されてしまった。
「私だって、愛されたい、です……エリシア、には、分からないですよね……」
やめろ。言ってもどうしょうもない。
私が我慢すれば、そのうち終わること。だから、だからっ……!
「いえ、わかりますよ。もし私の髪が卑しい黒色であれば、潔く身を投げますね」
「嘘ばっかり。口だけの人……」
相手を怒らせるな。損をするのは自分だ。
でも、我慢できなかった。
「……いっそ死なせて差し上げましょうか? 馬車を止めて!」
エリシアは御者に馬車を止めさせ、私の袖を掴んで降ろす。抵抗しようとしたが、アンネーゼに取り押さえられて動けなくなってしまう。
フレデリックは「おいおい、あまり無茶するんじゃないぞ」と言いつつ、馬車の御者と談笑していた。彼は私のことなど見ていない。むしろ消えてくれたほうが、アンネーゼとよろしくやれるとすら思っているはずだ。
そして私は橋の上に立たされ、エリシアに詰め寄られる。夜風が背中に吹きあてられ、体中から嫌な汗が噴き出してきた。
橋の下に揺らめく水面は満月を映していた。
「ここから飛び降りなさい。あなたが死ねば、公爵家に黒髪の者はいなくなります。幸せになる人がたくさんいるのですよ」
「……死にたくない、です」
「なら公爵家を出て、貧民街で春でも売ってなさい。あそこには黒髪のお友達がたくさんいますよ?」
「私はただ、普通に生きたい……っ!」
公爵家の長女、当主と家政婦の間にできた子供。その相手が自殺したため、引き取るしかなかった疫病神。本来、貴族社会にいるべき存在ではない者……それでも願いはある。
虐げられることもなく、存在を否定されることもない。ただそれだけのことが当たり前にある世界。それを私は望んでいた。
できることなら、私もエリシアのようになりたい。
私から見ればエリシアは幸福で満ち溢れている。
美しい金髪に生まれ、清く正しい血統ゆえに人々の温かな言葉に包まれて、夜会では華やかな衣装を身に纏い立ち振る舞う。
黒髪である私の存在のせいで不安定にはなっているものの、この国の王太子とも婚約関係にある仲だ。もはや不幸である部分を探すほうが難しい。
もし入れ替わることができたのなら、贅沢三昧の彼女よりもずっと幸せを噛み締めて生きていける自信がある。
「普通に生きられないのなら、せめて私の足を引っ張らないで!」
エリシアの平手が私の頬を打った。後ろからアンネーゼが取り押さえているせいで、避けることもできない。
口の中に血の味が広がる。
その平手には明確な殺意を感じた。
殺される。そう思った。
「あなたのせいで私の人生は停滞しているの! ようやく王太子との婚約の話もまとまりかけていたのに、最後の最後で……どうして邪魔するの!」
「望んで黒髪に生まれたんじゃない!」
いつも我慢していた。
虐げられても、グッと堪えて耐え抜いてきた。
いつかこんな生活が終わると信じて、ずっと、ずっと……。
「ああ、もううるさいですねぇ、リーゼロッテは」
私を拘束していたアンネーゼが苛立ちを含んだ声を上げ、橋の手すりに向かって歩いていった。弱った私の体は抵抗できぬまま、いとも簡単に手すりに押し付けられ、
「さぁここから飛び降りなさいよ! そうしたら私はフレデリック男爵と正しいかたちで結ばれるの! あなたの存在は邪魔なの、私にとってもね!」
「いや、だ……」
死にたくないわけではなかった。
虐げられる人生ならいつ終わってもいい、と心のどこかで思っていたのだから。
だが、こいつらの言葉に殺されたくはなかった。
私は生きるために最善を尽くすことにした。
「エリシアっ……こんな馬鹿な真似は、やめ、て。本当に無くなります、よ……婚約が!」
私はエリシアに手を伸ばした。
王太子との婚約の話はまだ存在している。しかしこのようなことが明るみに出れば、その話も完全に消えてしまうはずだ。
「……隠せばいいでしょ?」
エリシアは暫時、考える素振りを見せつつも、冷たくそう言い放った。
次の瞬間、私の体から力が急に抜ける。その拍子に押し付けられていた手すりから、彼女の薄汚れた赤いドレスが放たれた。
転落していく、私の体。
瞬間、目に映るのはエリシアの姿だった。
あなたのように生きられたらどれだけ私は幸せだっただろうか。たとえ王太子との婚約が無かったことになっても、きっと私なら幸せに生きられる自信があった。
でも、そんなこと叶うはずもなく……。
そして投げ出されていく、私の体が。
夜の冷たい川の水面に向かって。
一直線に、重力に逆らうことなく。
黒髪の頭が水面に打ちつけられて波紋が広がり、小さな水柱が上がった。
赤いドレスは河川の深みに消えていき、やがて私自身の意識も闇の底へと沈んでいく。