8.ひとえに人へ満たさず
先の会話に合った通り、城前の自宅は2人の帰路からもそう遠回りにならず、香乃は咲人の案内ですぐに到着できた。
咲人と城前の間柄にはほとんど関係などなく、会話も2,3したかしていないか程度であるにも関わらず、なぜ咲人が彼女の自宅を知っていたのか。そう言った疑問を香乃は抱かない。
「ここだよ」
咲人が指を刺した一軒家の前で2人は立ち止まる。
「会ってみても大丈夫でしょうか」
「香乃さんなら大丈夫」
香乃は「?」と疑問を抱いたようだが、とはいえ咲人が言うのであれば何か問題が起こることはないだろう、と満を持してインターフォンを鳴らす。
ピーポーン。
閑散とした深夜の住宅街に、インターフォンが響き渡る。
そしてすぐに、インターフォンの子機から婦人の声が返って来る。
「はい。城前ですが」
「夜分遅くに申し訳ございません。私は美水さんのクラスメイトの大須香乃というものです」
「ああ、はい。もう少しお待ちください」
子機はガチャ、と音をたてて通信が切れる。
家の方から階段を上っていると思われる足音と「美水、お友達の大須さんって娘が来たけど……」と言うようなこえが微かに聞こえた。
美水からの返事の方が何を言っているのか、少なくとも香乃には聞こえなかったが、美水の母親は、その後すぐに玄関にやってきて、
「夜遅くなのにありがとうね」
と挨拶を告げる。
「いえ、心配でしたので」
少なくとも咲人の提案でここにやって来たのだが、香乃はまるで自分が無理を言ってやって来たような言い回しである。
「えっと、その、そちらのお友達は……」
美水の母親が咲人の方に目をやった。
母親の表情は嫌悪感を孕んでいることを、香乃でさえ暗に読み取って、どう説明すべきかと困惑する。
「自分は付き添いですから、家の前で待っていますよ」
咲人の言葉を聞いて、母親はやっと安堵感を得たみたいで、
「ええ、ごめんなさいね……」
と、頭を下げる。
☆★☆
コンコンコン。
ノックを三回、マナーとして3回がベストだと香乃は聞いた覚えがあって、流石に2回だとトイレのノックだという文句を言われることがあるらしい。そもそも、彼女はトイレのノックをした覚えがなかったけれど、しかし、まぁ、それは関係なく、ノックは3回がベストだという。
「入っても良いですか」
ノックの回数は3回がベストである事実がどうという話を思いながら、香乃は美水に入室の許可を頼む。
「どうぞ」
香乃が美水の部屋に入室すると、室内は薄暗く、就寝するのには丁度いいが、生活のための行動をするには不便に感じるだろう。部屋もゴミや物が散乱しており、人を迎えるとしては失礼に思う人もいるだろう。
香乃が目を凝らして美水のそばを見ると、夕飯のお盆が置いてあったが、食欲が進んでいないらしい。
「こんばんは。ご気分はいかがでしょう」
「久しぶり」
彼女の声は暗澹としていた。
もしゴキブリをすり潰して納豆を混ぜ、黒い粘り気のある物質があったとすれば、彼女の声はそれに近いだろう。
「皆さん心配していますよ」
「ごめん。まだ、良く気分じゃない」
香乃は鈍い性格だったので、その気分の悪さと言うものの察しが悪かった。
ズル休みしている、と思うこともないが、トラウマが蝕んでいることを連想することもなかった。
「……」
「……」
香乃は今まで、友達との会話は受動的な所があり、今回はそれが悪い影響を生んだ。
会話のきっかけが見つからない。
普段の香乃は、うるさいくらいに元気のある女子が話しかけてくるから、それを返す。そうやって会話が始まる為に、自分から話題を提供することは苦手だったらしい。
「私、1年間休学するか、転校するかもしれない」
長い沈黙を破ったのは、美水の方だった。
心にかかった重圧に押しつぶされて感情が零れたみたいに、ポロっと、本音が漏れる。
「え……」
流石に香乃も驚いた声を出す。
「私、心的なんとかってトラウマができて、男の人が怖いの」
「ええっと、PTSDのことでしょうか」
ああ、たぶん心的外傷後ストレス障害のことだろう。
香乃がなんとなく当てを付けて、言い当ててみるが、それが当たっているか否かを美水は
答えなかった。
「病院で治療をしてもらうか、それか女子高に転校するか……。まだわからないけど、どっちにせよ、たぶん、すぐに高校に復帰できない。ごめん」
美水は香乃と目を合わせることもせず、頭を抱えるように蹲りながら、そう言い切った。
香乃からしてみれば、いや、何を言っておけばいいのやら、と少し戸惑いつつも、
「実は、美水さん、あの上杉って人……実は今日、誰かに襲われて、入院したらしいです。恨みをたくさん買っていたらしくて、真相はわかりませんが、少なくとも、彼は今まで女性にしてきた以上の報いは受けたと思います。今日、ヤクザの人が血眼で犯人を捜して……」
「そう」
香乃が言葉選びに気を使いながらも、上杉の身の上に起こった顛末を伝えたが、末尾まで続くこともなく、美水が遮った。
美水自身を思って伝えた言葉であるのに、その彼女から遮られたとなれば、香乃も言葉を止めざるを得ない。
「そんな話、聞きたくないんだけど」