隣人
「かげがくる」
601の住人だった男は青ざめた顔でそう呟いていた。
影とはやはり私が観たあれのことだったのだろうか、
何か得体の知れない恐怖が私の脳裏に浮かんでは消えるが、結局あれから私生活に特に変化はないので、そこまで気にすることでもなかった。
しかし気になることはあった、ある日のことだ。
私はシャワーを浴びた帰りで5階から6階へと階段で上がるところだった、
上から部屋着の若い女性が下りてきた、黒いショートカットで化粧っけのない地味な顔。
初めて見る顔だった。
「あっ…」
私の顔を見るなり気まずそうな顔をしていた、まあ私も住人とは殆どコミュニケーションをとらない。
すれ違ったらこんにちは、の一言をするくらいだ。
だからいつものように軽い会釈をして通り過ぎようとすると
「あの…何号室の方ですか?」
突然私にどこの住人か聞いてきた
「606ですが、貴女は?」
正直に答えるのは不用心か、という想いも過ったが余計なトラブルは嫌なのでここは正直に答えた。
「あっ…あたし401の加藤です」
4階の住人だった、どおりで見かけないはずだ。
6階に住んでる自分にとって4階は一切用のない場所だ。
また同様に4階に住んでる住人は6階には用がないはずなのだ、ではなぜ6階から降りてきたのか?
「なにかあったんですか?」
「あの…601って今誰もいないんですよね?」
そのはずだ、あれから新しい入居者が入ったという情報は聞かないし、
もし居たら引っ越しの作業などで気づいているはずだ。
「そのはずですよ」
「やっぱりそうですよね…いや、あたしの部屋真下なんですけど、
なんかたまに物音が聴こえるんですよ」
正確には5階を挟んでいるはずだが、5階はどこの部分にあたるんだっけ…そうだ
「それってリビングじゃないんですか?401の真上はリビングですよね」
エントランスの真正面のキッチンの隣にはリビングがある。
ソファやローテーブル、TVなどがあり6人くらいはくつろげそうなスペースである。
ただそこに人が集まっているところを私は一度も見かけたことはない。
「リビングっぽい音じゃないんですよねー…」
流石に濡れた髪がうっとおしくなってきた、早く話を切り上げてドライヤーで乾かしたい。
この加藤という女性にはまた後日話を聞こう
「じゃあ今度管理人さんに聞いてみますよ」
「そうですか、ありがとうございます」
加藤さんと別れ私は自室に戻ろうとした、その時601の部屋が視界に入る。
部屋の鍵穴は…縦だ。つまり空いてるか、外から施錠されている。
どうせ誰もいないんだから…私は601のドアノブに手をかけてみた、開く、鍵はかかってない。
そのまま部屋の中を除く、生活感は一切なくやはり新しく入居した人はいないようだ。
私は部屋の中央まで行く、どうやら私の住む606の部屋とは左右反転した構造になってるようだ。
見知った間取りが左右逆になっているからなんとも不思議な気分だった。
そうだ、トイレも見てみるか。
同じ構造であればトイレにも窓があるはず、私の部屋の窓からは住宅街が見えるけど、
601の窓からは大通り側が見えるはずだ。
中に入ると異変に気付く、臭い、下水の臭いが上がってるのか変な臭いがする。
鼻を摘まみながら便器を確認するが何もない、一応水を流しておく。
流してから加藤さんに、これがまた異音だと思われたらどうしようと思ったが、
こんな音が二階下の401に影響するわけがない、やはり601は無関係だとしか思えない。
外の景色は私のよく知る街が一望出来た、やはり6階ともなるとよく見える。
空き部屋とはいえあまり長居するのもよくないので退室することにした。
廊下に出て自室に戻る、先ほどとは違う新鮮な空気が鼻をくすぐる。
換気のために誰かが窓を開けているのだろう、しかし近頃は肌寒い。
ここに住み始めてから初めての冬が来る、自室のエアコンは役に立ってくれるだろうか。
部屋に入ってドライヤーで髪を乾かす、暖かくしないと風邪を引きかねないな、と思った。
暫くしてパソコンでメールチェックをしていると、管理会社から一通メールが来ていた。
「先日の不審者の件について」
見出しにはこうあった、クリックし本文を開く、
長い文字列の中で真っ先に私の目に入ってきた文章があった。
「401の住人への退去命令」