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ワーキングデッド  作者: 柴野独楽
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シーズン1 第四章 奪還 2

     2

 集まった新顔さん達に身体検査の説明をしたところ、大変ありがたいことに、皆快く納得してくれた(「検査を受けていただけない方は、申し訳ありませんが、センターから速やかに退去していただくことになります」と、加呂さんが無表情に――背後にムキムキのドライバーさん達を従え――言い渡したのが、ものすごく効果的だったようだ)。

 検査のやり方は、至って簡単だ。

 所定の場所にしつられられた検査場へと一人ずつ入ってもらい、数人の検査員とさすまたを持った警備員が見守る中、その場で服を全部脱いでもらう。その状態で、出血した形跡のある傷がどこかにないか、検査員が二人がかりで、頭のてっぺんから足の指先まで、じっくりなめるように確認する(検査員を務めてもらったドライバーさんの言によれば、「若いヤツらや普通のオッサンを検査するのはいいとして、ワキガがもうもうと立ちのぼるオッサンや、垢まみれの上、腹の肉がデロンと腰ぐらいまで垂れ下がってるデブのすぐ近くまで顔を寄せ、傷がないか確認すんのは、本当に萎える」経験だったそうだ)。

 OKということになれば、他の検査員コンビにバトンタッチし、再びなめるように身体全体を観察。万が一にも見落としがないよう、ダブルチェックする。

 これらの入念なチェックをクリアした人は、晴れて無罪放免(いや、別にゾンビ化する可能性がある人が「有罪」ってわけじゃないんだけど)。安藤さんや平さんのもとで、作業に加わってもらう。

 不幸にも、かさぶたや切り傷が見つかってしまった人は、監禁用個室へご案内。そこで一昼夜を過ごしてもらう、という算段だ。

 女性も、全く同じ手順で――もちろん、検査場は別だけど――選別を行ったのだが、センターという場所柄、圧倒的に男性多数。なので、加呂さん、林田さんはもちろんのこと、避難してきた人のうち、はじめに検査を受けてもらった何人かまで動員することで、なんとか人数を確保し、検査を行ってもらった。で、その際、一番熱心に――傷がないのに難癖つけて監禁用個室送りにしようとするほど情熱的に――検査員を務めてくれたのが、例の「トイレ立てこもりおばちゃん」御園さんだったと聞いて、僕を含めた男性陣はみんな、「ああ、やっぱり!」と深く納得したのだった。

 そんなこんなで、数時間かけて新顔さん全員を検査した結果、約三分の一、30人程度が、ゾンビ化する疑いあり、ということで、監禁用個室に入ってもらうことになった(安藤さんの指揮により、大急ぎで中型トラックを改造してもらった結果、なんとか「被疑者」全員を収容できる個室を準備することができ、皆、ほっと胸をなで下ろした)。

 残る90人を、30人と60人の二組に分け、30人組は引き続きさすまたを作ってもらい、60人組は、僕ら同様、管理棟の広い部屋に、三交代で眠ってもらう。

 本当に苦肉の策ではあったけれど、それでどうにか人数分の寝床を確保し、ついでに、明朝からの作業に必要なさすまたを確保できる見込みがついたのだった。

「林田さん達早朝からのバリケード作業組は、午後9時から午前3時までの6時間、しっかり眠るようにしてください。そして、建物「清掃」組は、午前0時から6時までの6時間。こちらも、しっかり睡眠を取っておかないと、思わぬ事故につながりますからね。そして、僕ら誘導及び雑用組は、午後9時から午前零時までと、午前3時から6時までを睡眠時間とします。3時間ずつの細切れ睡眠になってしまいますが、車の中で過ごす分、比較的危険は少ないですからね」

という橋江さんの提言により、僕らは一番きつい「寝てる途中で目が覚めてしまい、寝られなくなった」シフトを担当することになった(林田さんは、例によって、自分もその一番きついシフトで寝る、とドMなことを言い出したのだが、万が一にも事故を起こされては困るから、と皆で却下し、さすまた製造作業から引っ張り出した平さんと一緒に、早々に寝てもらった)。

 寝入った頃にたたき起こされるのは結構つらいかな、と思っていたし、実際つらかった。けれど、意外なことに、六月半ば、例年既に30度を超える蒸し暑さで寝苦しい季節だというのに、昨日あたりから、夜は意外なほどに気温が下がり、気持ちよい風が吹いている。エアコンが使えない状況下にもかかわらず、心地よく、ぐっすり眠ることができたのだ(ドライバーさんの大いびきには閉口したが)。おかげで、細切れ睡眠ではあったけれども熟睡することができ、当初予想していたほどつらくなかったのは、大きな救いだった。

「こんな大災害が起こって、生き延びられるかどうかも怪しいって中、エアコンなしでも眠れるぐらいの気持ちのいい夜をプレゼントしてくれるんですから、神様もそこまで無情ではないってことですかね」

 蛍光灯を何本か外し、薄暗くした事務室で、片手にさすまたを握りしめ、背中を壁に預けてだらしなく座り込んだ姿勢で、漣達「清掃組」の寝息にぼんやり耳を傾けていれば、当然眠くなる。なので、眠気を少しでも紛らわすことができればと、横に同じような格好で座っている橋江さんに、そんなことを言ってみたのだが……橋江さんは「全く、君は分かってないなあ」と言わんばかりの、舌なめずりするような笑みを浮かべたかと思うと、くい、とメガネを人差し指で押し上げた。

「陸君。それは、多分神様関係ないよ。ヒートアイランド現象が解消されたから、涼しくなっただけだと思う。例年この時期になると、町の人みんながエアコンを使い出して、がんがん熱気と湿気を排出するだろ?それで、この角間みたく、畑や緑地が少なくて家がびっしり建ち並ぶ地域はものすごく気温と湿度が上がり、寝苦しくなってたんだよ。それが、停電して、誰もエアコンを使わなくなったから、一気に気温が下がり、冷房が普及する前の気温レベルに下がった、いうわけさ」

「ああ、そういうことなんですか!そういえば、田舎にいた時は、夏、そこまで寝苦しくなかったのに、追沙加に来てからほんとに蒸し暑くなったと思ってたんですよ」

「うん、地球温暖化がどうとか、夏になるとメディアが一斉に騒いでいたけど、停電でここまで気温が下がるんだから、暑さの一番大きな原因は、冷房の使いすぎだったんだろうね」

 根拠の薄いデータを引っ張り出しては大騒ぎし、いたずらに視聴者の不安をあおるメディアについて、橋江さんはかねがね不満を抱いていたらしく、日頃、暇があれば、メディア批判を繰り広げていた。で、この時も、口をへの字に曲げ、「まったくマスゴミってヤツは!」と言わんばかりの表情を――少々大げさな位に――してみせてくれたのである。

 その表情を見て、僕は、二人揃ってコンビニで夜勤をしていた、あの平和な頃――といっても、パンデモニックがはじまって、まだ一週間もたっていなかったのだけれど――を思い出し、思わずにやっとしてしまう。

 その反応を目にした橋江さんも、満足げな笑みをこぼしたのだが……不意にその顔を、真面目すぎるほど真面目な表情へと戻した。

「追沙加みたいな大都市のど真ん中で、初夏のこの時期過ごしやすい気温になるとか、そんなイレギュラーなこと、いつまでも続けさせちゃいけないよね……」

 遠い目をする橋江さんの意図が分からず、僕は曖昧にうなずいただけだったけど……きっと橋江さんはあの頃から既に、どうにかして、このゾンビ禍の激化を食い止め、多くの人命を救い、近代文明社会を崩壊させることなく守り抜いていくことを、考えはじめていたのだと思う(そういった面では、橋江さんは本当に頼りがいのある人なのだ)。


 翌朝。

 いつもなら6時前には目を覚まし、すっきりした気分でもりもり朝食を食べるのだが、この日は、気がついたらもう既に7時を回っていた(ふと目が覚めて、周りを見回したら、寝ているのが僕一人だったので、ものすごくびっくりした)。

 夜風があまりに心地よいのと、3時間の見張りが思いのほか体に負担だったのとで、ついつい大幅に寝過ごしてしまったらしい。

 が、おかげで、細切れ睡眠にもかかわらず、体はすっきりと軽かった。

 秒で身支度を整え、慌てて管理棟から倉庫棟へと向かう。ゆっくり食事をしていたのでは仕事に間に合わないので、倉庫管理のおっちゃんにお願いし、パック入りの牛乳と、カロリーメイトにそっくりの外国製エナジーバーを分けてもらう。

 本家カロリーメイトに輪をかけてモソモソ、パサパサなエナジーバーをなんとか咀嚼し、どうにか牛乳で流し込んでいるところへ、

「よっ!今日は遅かったな!」

 林田さんにばあんと背中をひっぱたかれ、その拍子に、エナジーバーの大きなかけらと牛乳とが気管に入り、僕は思いきりむせた。

 げっほがほぐほげほがほげええほぐええ……と顔を真っ赤にして咳こむ僕の横で、

「お、おい、大丈夫か?悪りい、ごめん、まさか食ってる最中だなんて思わなくてさ……」

 林田さんが、おろおろしながら背中をさすってくれる。

 ひとしきり咳き込んだところで、ようやく最後のデカいかけらが鼻の穴から飛び出し、僕は、ゼイゼイ言いながら――そして、目から涙、鼻から牛乳をしたたらせながら――ようやく体を起こした。

「ああ……林田さん、大丈夫です、治まりましたから……」

「おい、鼻からまだ牛乳が出てるって」

 首にかけた手ぬぐいを外し、それで顔を拭ってくれようとするのを慌ててかわし――そんなことをされるのはさすがに恥ずかしかったっていうのもあるし、それに、その手ぬぐい、「いつ洗濯したの?」と聞きたくなるぐらい、茶色く変色していたのだ――くしゃくしゃのポケットティッシュを取り出して、後ろを向き、鼻をかむ。

 ようやくすっきりしたところで、

「お、おはようございます。今朝も早かったんですね」

 タイミングをすっかり外してしまい、我ながらちょっとマヌケっぽいな、と思いながらも、にこりと笑いかける。

「お、おう。おかげさんで、六時間しっかり眠れたからな。夜も明けてたし、あんまり暇だったんで、橋の向こうまで、ゾンビ化した人を連れて行ってたんだ。結構時間食ったよ。あれだな、ゾンビのいないエリアが広がるのはいいが、ゾンビさんを連れてくのに手間かかるのが、玉にきずだな」

 林田さんの言葉に、僕ははっとした。

 こんなふうに言ってくれているが、きっと林田さん、わざわざ誰よりも早起きし、自ら率先して、ゾンビ化した人を、ひょっとしたら橋の向こうまで何回も往復して、連れて行ってくれたのだ。

 昨日まで仲間として受け入れていた人が、今朝になると、いきなり「違った生物」になってしまっている。

 そのまま、センター内に放っておくわけにはいかないのだけど、かといって、昨日まで普通に言葉を交わし、談笑してた人を、今日はいきなり気持ちを切り替え、「廃棄物」のように扱うのは、なかなかできることではない。

 それでも、誰かがゾンビさんを廃棄しに行かなければ、センター内にどんどん「危険因子」がたまってしまうことになるわけで……林田さんは、その辺を全部分かった上で、自ら汚れ役を買って出てくれているのだ。

 センター長代理としての責任感からの行動なのだろうけれど、普通は、なかなかできないことだと思う。

「朝からお疲れ様です。今朝は、何人ぐらいが……」

「ん~、5人かな」

 百名以上もの人間が避難してきたっていうのに、ゾンビ化したのが5名なら、快挙といっていい。

「でも、まだ分からねえけどな。「傷あり」さん達には、少なくとも今日の夕方までは、隔離室に入っててもらわねえと」

「ですね」

 確かに、発病までの期間がほぼまる一昼夜であることを考えれば、それが一番無難だ。

「この調子で、どんどんゾンビ化する人が減ってくれるといいんですけどね」

「そうだな。というか、減るんじゃなくて、ゼロになってもらわねえと、いつまでたっても安心して暮らせねえよ」

 林田さんの言葉に、僕は大きくうなずいた。

(本当に、林田さんの言うとおりだ。ここ数日の逃亡経験で、人々もゾンビさんの習性をかなり理解し、安全に行動することが増えつつあるんだろうけど、それだけじゃダメだ。なんとか、もっと抜本的な手を打って、ゾンビ化数ゼロを目指さないと!)

 そのためにも、ゾンビ誘導と同時に、孤立している人への行動指針を教えて回る僕らの役目は、なかなか重要なんだぞと、改めて自分に言い聞かせる。

「すいません、それじゃ、そろそろ行ってきます」

「おう!オレもそろそろ行くよ。お互い安全に気をつけて、頑張ろうぜ」

「はい!」

 林田さんと笑顔で別れを告げ、駐車場に入ると、そこにはもう既に、昨日の「誘導部隊」と、今日から仲間入りする新人さんと、合わせて20人ほどが集まっており、その中央で、橋江さんが声を張り上げ、細かい注意事項を延々と説明していた。

「……ということで、運転者も助手席のナビゲーターも、決して車の外に出てはいけません!皆さんの安全を守るためにも、これは絶対に遵守していただかないと困ります!いいですか、絶対に……」

「遅れました、すいません」

 皆が立ち並ぶ後ろに、目立たないよう、こそこそと合流しようとしたのだけれど、演説しながらもアンテナを張っていた橋江さんに、めざとく発見されてしまった。

「ああ、来た来た!陸君、遅かったじゃないか!あんまり遅いから、先に説明はじめてたよ!」

「すいません、その、つい寝坊しちゃったみたいで……」

 頭をかきつつ言い訳しようとするのを遮り、橋江さんが、再び声を張り上げる。

「皆さん、紹介します!この人が、私たち「ゾンビ誘導班」の責任者、栗須陸君です!若いけど、頼りになる男なので、なにか分からないことがあれば、まず彼に聞くようにしてください!」

と、当たり前のような顔でとんでもないことを言い出したので、僕は思わず、目をむいて橋江さんを見つめてしまった。

「ちょっと橋江さん!なんですか、その責任者って!」

「なんですかって、言ったとおりだよ。それとも、ゾンビ誘導だけでなく、角間奪還計画全体の責任者だって言った方がよかったかい?」

「ちょ!バカ言わないでください!なんで僕なんかが責任者なんですか!年齢からいっても、この班の責任者は橋江さんだし、計画全体の責任者は林田さんじゃないですか!」

「君こそ、なにバカなこと言ってるんだよ。僕は、ただの相談役兼補佐役。いくら年上だからって、僕みたいな変人が人の上に立てるわけないだろ?」

 あ、この人、自分が変わり者だっていう自覚あったんだ、と妙なところに感心しながらも、慌てて僕は首を振った。

「いや、その、それならそれで、誰か他にもっと適役の人がいますって!」

「そうかもしれないけど、今のところは、センターの方々も、僕たちも、みんな班の責任者は君だって思ってるんだぜ?正式に決めてる時間はないし、便宜上、君が責任者ってことにしておいてもらわないと」

「……分かりましたよ。正式に決まるまでですからね?それに、一体なんすか、計画全体の責任者って!一体誰がそんなこと……」

「林田さんと平さん、丸手さんだよ」

「……え?」

「君以外にいないだろ、ってさ」

「……認めませんよ!後できちんと話し合って、ふさわしい人にやってもらいますから!」

 悲鳴のような声を上げると、橋江さん、にやりと笑う。

「分かった分かった。まあ、今日のところは、とりあえずそういうことで頼むよ」

 どうやら、これ以上いくら言い立てたことで、らちがあかなさそうだ。

「今日だけですよ!今日だけですからね!」

「分かったって。それじゃあ班長、とりあえず皆さんにあいさつをお願いします」

 橋江さんに促され、憮然とした顔を、世にも情けない表情へと変化させつつ、僕はみんな――ニヤニヤ笑っている知り合い達と、狐につままれたような顔の新人さん達――の前に立った。

「ええと……ゾンビ誘導班班長(仮)の、栗須です。今日は遅れてしまって、申し訳ありません。僕らのやる仕事の内容については、橋江さんの方から説明されたと思うんですけど、もう一度確認させてください。ええと、皆さん、地図のコピーはお持ちですよね?その地図の、赤線で囲われた区域が、昨日一通り、路上のゾンビさんを追い払った場所になります。今日僕らが追い立てるのは、その上、青で囲った区域です。具体的に、どうやってゾンビさんたちを追い払うか、なんですけど……」

 一体どうしてこんなことになってしまったのか、わけが分からない、ただの三流私立大学文系学生で、将来は就職浪人せず、なんとか正社員になれたらいいな、ぐらいのことしか考えてない、ゲーオタ、ホラー映画オタにすぎない僕が……と頭の中で精一杯の文句をがなり立てながらも、僕はしぶしぶ、今日の「仕事」の確認をし続けたのだった。


 センターには、もともと外部スピーカーつきの車が、3台あった。

 それを使ってゾンビを一掃した区域に、新たにもう3台、同様の車があったので、早速昨日のうちに、例の「車上荒らしテクあり」ドライバーである出入さんにお願いし、センター内に運び込んで来ている。都合6台で、今日はゾンビ誘導を行う予定だ。

 誘導の方向も、昨日はとりあえずセンター周辺からゾンビを一掃する形で、四方八方に車を走らせなければならなかったが、今日はその確保したエリアから北、第2経飯と禁忌道、根矢川、そして与度川に囲まれた区域だ。

 面積的には昨日より広いのだが、今回は東西方向と北の三方向に車を進ませればいいし、誘導自体も、橋や高速の高架を越え、もう少し先まで連れて行けばいいだけなので、かなり気分的に楽だ。

 その上、なんといっても、今日は昨日と違って、どんどん不機嫌になる橋江さんのご機嫌取りをしなくてすむ!

 昨日ゾンビ誘導を終えたエリアの端、第二経飯の高架下まで車を走らせ、バリケードの一部を動かして「未誘導エリア」に出たところで、僕は、満面の笑みを浮かべつつ、タイガースカラーの軽トラのラジカセからエンドレステープを取り外し、代わりに、真木ちゃんから手渡された新しいテープをセットした。

「それじゃあ、行きましょうか。明日からは、皆さんだけで車に乗り、誘導していただくことになると思います。今日のうちによく見て、仕事の手順をしっかり覚えてください!」と、声をかけた上で、レコーダーのスイッチをオン。

 途端に、頭上から真木ちゃんの爽やかな――幾分気取った声が、大音量で流れ出た。

「こちらは、パンデモニック再生公社の作業車です。現在、角間を中心とするエリアの再生のため、ゾンビ化なさった方々の誘導作業を実施中です。飢えたゾンビの集団が作業車のすぐ後方に続くため、大変危険です。ご自身と作業員の安全確保のため、作業車への接近、救助の要請、作業の妨害行為等はお控えくださるよう、お願いいたします。万が一そのような行為により、ご自身が危険な状況になったとしても、救助活動を行うことはできません。繰り返します。作業車に対する接近を試みたために危険な状況に陥られても、救助活動はできかねます。無謀な行いは、どうかお控えくださるよう、お願いいたします……」

 音声を聞きつけてわらわら集まってきたゾンビさんに捕まらないよう、ゆるゆると車を走らせてもらいながら、僕は、晴れ晴れとした気持ちで――なにしろ、かわいい女の子の声を聞きながらのドライブなのだ――速度指示の仕事に没入していった。


 橋江さんが考えたテープの内容は、さすがの出来ばえだった。

 今さっき書いたとおり、一番はじめに、今は誘導作業中であり、我が身かわいさの余り車の前に飛び出してきたとしても救助しない、どうなっても知らないぞ、という内容を、もっと柔らかく、耳障りのいい言葉で何回も繰り返した後で、

・ゾンビの誘導とエリアの囲い込みが終わり次第、救助活動に入ること。そのエリア内の人は、それまで辛抱してくれれば救助するし、エリアから外れている人は、そのエリア内に移動するようにしてほしいこと。

・救助を待てない人は、自力でセンターまできてもらえれば、労働力の提供と引きかえに、安全と衣食住を保障すること。

・ゾンビは夜には活動が鈍るので、できれば夜間に行動すると、より安全であること。

・単独でゾンビに立ち向かうのはあまりに危険だが、数人で一体のゾンビを捕獲するのであれば、それほどの危険はないこと。捕獲の詳しい方法と、その際の注意事項。

・犬の吠え声はゾンビの行動を牽制するのに有効であること。だから、より安全を確保したい人は、犬連れで行動するようにしてほしいこと。また、センターまで犬を連れてきてもらえれば、大変ありがたいこと。

 こういった情報が、コンパクトに、わかりやすい表現でまとめられていたのである。

 効果は、まさにてきめんだった。

 昨日は、車を走らせている最中、声をかけられたり、人影が見えたような気がしたりするたびに、「ごめんなさい!」「助けられません!」と心の中で手を合わせ、罪悪感にさいなまれつつ走り去らねばならなかったのだけど、今日は声をかけられることさえなく、この上なくスムースにゾンビを誘導することができたのだ。

 後方からどたどたと大勢のゾンビさんに追いかけられているのだから、決して油断はできないのだけれど……与度川にかかる大きな「取替大橋」を渡る時など、川沿いに広がる緑地に日光が降り注ぐ様子を眺め、「もう夏だなあ……」なんて、のんきな感想をもらすことができる程度には、余裕をもつことができたのである。

 それもこれも、橋江さんのおかげだ。

 さらに言うと、僕ら「角間奪還プロジェクト」実行メンバーに「パンデモニック再生公社」という名前をつけたのも橋江さんだ。

「僕ら、なにも権限のない、ただの民間人が勝手にゾンビを追い払ってると知ったら、たとえ、僕らの活動でどんなにその人が助かったとしても、必ず難色を示す人が出ます。かといって、政府機関を名乗ると、今度は手厚い行政サービスに慣れきった人たちが、おんぶに抱っこで自分の安全で安楽な生活の保障をするように求めてくるはずです。あくまで企業ですが、利益だけを追求するのではなく、やや公的な活動を行っている団体――公社を名乗るぐらいが、ちょうどいいんですよ」

 なるほど、確かにその通りで、車から流れるメッセージを耳にしても、文句をたれたり、厚かましい要求をしたりする人間は、誰一人出てこない。たまに人間らしき姿を見かけることはあったけれど、彼らは一様に犬を連れ、僕らには声すらかけようとせず、急ぎ足でセンターの方を目指して歩いて行く。

 僕は「適切な名前」を名乗ることの大切さを実感するとともに、その豊富な知識とアイデアでもって、僕らの作業をスムースなものにしてくれた橋江さんに、改めて感謝したのだった(ちょっと性格的にめんどくさい人ではあるけれど)。


 橋江さんの知恵と、新たに僕らに加わり、熱心に仕事をこなしてくれた新人さん達の努力によって、正午を迎えるよりも早く、誘導作業は終了した。

 予定よりかなり早めに作業を終えたことに気をよくし、僕らは上機嫌でセンターに帰り、皆で互いに自己紹介などしながら、配られた弁当を食べる。

 漣ではないけれど、こう弁当が続くと、いい加減飽きてくる。先のことを考えれば、保存の利く食料はなるべく取っておき、弁当やおにぎりのような日持ちのしないものから食べていくべきだと分かっているのだが……さすがに、野菜炒めや温かいみそ汁なんかが恋しくなってくる。

(今日の夕食までに、なんとか、調理可能な状況になるといいんだけど……)

 それには、まだ屋内などに多数ひそんでいるゾンビさんたちを「掃除」し、早急に安全なエリアを確立しなければならない。

(漣達、「掃除組」ばかりに頼ってばかりはいられないな)

 ということで、僕らは午後から二手に分かれて作業することにした。

 橋江さん率いる「ドライバー班」は、根矢川沿いを走る道路を、何台かの車で北上し、橋を見かけたら、周辺にあるミニバンやワゴンを利用し、封鎖していく、という作業。そして、僕が率いる「雑用班」は、与度川にかかる橋を封鎖する作業だ。

 根矢川は、町中を縫うように流れる川なので、架かっている橋も無数にある。それをいちいち封鎖して回らなければならないだから、「ドライバー班」はおそらく、一日仕事になる。それに対して、与度川は、禁忌地方では一番の大河川だから、かかっている橋も、それほど多くない。僕らが囲い込む予定の区域――禁忌道から根矢川まで――では、三本きりだ。しかも、そのうちの一本、禁忌道にかかる取替大橋は、インターチェンジがあったりで面倒なため、林田さん達が封鎖を担当してくれる。だから、僕らが車を使って封鎖するのは、たったの二本だけ。いかに僕らの運転技術が稚拙で、橋の横幅が広いとはいっても、おそらくは短時間で作業を終えられるはず……と思っていた。

 んで、実際作業にかかったところ、予想通り、というか、予想を遙かに上回り、ものの1時間ほどで、あっという間に作業を終了することができたのである。

 これなら、「時間が余れば」行う予定しにしていた「もう一つの作業」も、十分実行できる。

「それじゃあ、そっちも片付けちゃいましょうか」

 ということで、 僕らは橋を封鎖し終わったその足で、ひとまず取替大橋を目指し、与度川沿いの道をを南下したのだった。


 橋の上で、着々とバリケードを作成している林田さんたちに、手を上げるだけの軽いあいさつを送る(フォークリフトや大型トラックのまき散らす騒音で、声をかけようにも届かないのだ)。

 運転席に乗った林田さんや平さんが、笑顔で同じく手を上げてくれたのを確認したところで、僕らはそれまで走っていた川沿いの二車線道路を離れ、中央線すら引かれていない、路地のような道へと入り込んでいく。

 このあたり――角間の与度川沿いは、小さな工場や鉄工所、作業場なんかが軒を連ねる、いかにも下町な感じの工場街になっているらしい。車で何度も通り過ぎてはいたのだけれど、改めてその内部に入ると、ごみごみした見通しの悪い、トタン張りの二階建ての建物が延々建ち並ぶ、なんともわかりにくい、「一見さんお断り」な雰囲気を濃厚に醸し出していく地域だ。

「ええと、ここ、さっき通ったよね?」

「いや、ここははじめてじゃないですか?通ったのは、一本向こうの道だったんじゃないかと思いますけど」

「あれ、そうだっけ?じゃあ、地図でいうと、今はここにいるのかな……」

などなど、皆で頭をひねりつつ、ぐるぐると周囲を15分ほども走り回ったところで、

「……ここだ、多分」

 ようやく僕らは、表札のかかっていない、巨大な門の前へとたどり着いた。

「表示がないけど、本当にここなんですか?」

 運転席に座った新人さんが、怪訝そうな顔をする。

 その彼に、僕はにこりと笑いかけた。

「表示がないからこそ、だよ。他の工場やなんかは、みんなでかでかと社名をかいてたよね?なぜそういう風に表札を掲げるかっていうと、はじめて訪ねてきた取引先なんかに、そこが「そういう名称の会社」だって知らせるためだ。ところがここには、表札がない。ということは、「ここがどういう施設なのか」知る必要がある人はみんな知っているし、知らなくてもよい人には、むしろ知らせないようにしてる、ってことになる。つまり、よからぬことをたくらぬ部外者の立ち入りをなるべく制限したい、最重要インフラ施設、ってことを意味しているんだよ」

 おおーっと感心した表情になった新人さんを見て、僕は、つんとあごを突き出し、鼻をうごめかしたい気分になった――実際にそんなことしたら、嫌みったらしいことこの上ないので、必死で我慢したけど。

(橋江さん、僕らにいろいろ解説してくれる時、こんないい気分を味わっていたんだ。そりゃ、なにかにつけてアイデアを披露したくもなるよな……)

 感嘆と賞賛の視線を心地よく堪能しながら、心の中で何度もウンウンとうなずく。

 といっても、今の解説、もちろん「僕オリジナル」のものではない。昨日、センターでの会議の最中、浄水場の話題が出た時に、「ひょっとすると、門に表札がかかっていないかも知れないので、注意してくださいね」と、言った後で橋江さんが解説してくれた言葉を、そっくりそのまま繰り返しただけ。要は受け売り、カンニングなんだけど……黙ってりゃ、新人さんたちはそんなこと、分かりゃしない。なので、ここは黙って「さすがはリーダー!」という彼らの視線を、気持ちよく受け止めつつ、いかにも余裕ありそげな仕草で、フロントガラス越しの光景に目をやり、いかにもそれらしい「難しい顔」を作ってみる。

「中の人たち、無事だといいんだけど……」

 すると、助手席に座った新人さんが、怪訝そうな顔になった。

「え?中の人たちが無事だからこそ、いまだに水道からきれいな水が出てるんじゃないんですか?」

「……あ、そうですね。うん、はい、その通りです」

「……ですよね」

 ナニヲイッテルンダコノヒトハ、ダイジョーブカ?といわんばかりの冷たい視線がざくざく刺さる中、僕はこわばった笑いを頬に浮かべ、しきりに頭をかいた。

 いくらリーダーシップを発揮したいからって、付け焼き刃で物知りぶっても、すぐに化けの皮が剥がれる。あんまり背伸びせず、目の前のことを一つ一つこなしていく方が、僕には向いているらしい。

 気を取り直し、改めて浄水場――と思われる施設――に目をやる。と、そこで気づくのは、施設の広大さと、警備の厳重さだ。

 地図によればこの浄水場、相当広大な敷地を有している。道路に沿って車を走らせている時には、その広大さには全然気づかなかったのだが、改めて正門前から左右を見渡してみると、スレート板でできた壁からコンクリートブロックを積み上げた壁、頑丈そうな鋼板の上に鉄条網を張った壁と、バラエティに富んだ材料でモザイク状になっているものの――だから、それら全てが「一つの施設」を囲う壁だと、気づかなかったのだ――よくよく見れば、全てが途切れなくつながり、道に沿った街区一帯を、全て囲い込んでいる。その上、場所によって高さはまちまちだけど、全ての壁が、最低でも三メートル、場所によっては4メートル以上もあり、完全に内部の施設を覆い隠しているのである。

「でかいな。しかも、すごく厳重だ」

 地図で見た施設の広大さがどの程度なのか、改めて実感しながら、僕はそうつぶやいた。

 でも、考えてみれば、それが当たり前なのだ。

 上水――いわゆる水道水は、生活に必要不可欠な「資源」だ。しかもこの浄水場、角間、盛具知、その周辺と、かなり広い区域に水を供給している。もし万が一、どこかの酔っ払いが不用意に入り込んで、股間からタンクになにかを注入したり、とち狂ったテロリストが毒物なんぞを投げ込んだりでもしたら、とんでもない数の人間に被害が及んでしまうことになる。

(これだけ厳重だから、今回のゾンビ禍でも、被害をこうむらなかったんだろうな。病的なまでに心配性な日本のインフラ行政に感謝だよ……とはいえ)

 鉄製の巨大な扉はぴっちり閉ざされたままで、どこにも入り込む隙がない。、扉の周辺に目をこらしても、目立つところに呼び鈴もないし、公共の施設にはつきものの「守衛小屋」的な建物も見つからない。「これ……どうやって中と連絡するんでしょうね?」

「さあ……」

 一番簡単なのは、鉄扉をがんがん叩いて中の人を呼び出すという方法なんだろうけど、これだけ広大な施設だと、それで中の人に届くのかどうか疑問だし……あまりに騒がしい音を立てると、背後から「ごめんなさい、気がつかなくてえ~」とばかり、呼んでもいない人たちに襲いかかられる、なんてことだって、十分にあり得る。そこらからトラック転がしてきて上に乗り、壁越しに中へ忍び込むって手もあるにはあるけど、それじゃあどこからどう見ても不審者。初手からそんなことしてちゃ、相手から疑われるばかりだし……などなど、一体どうしたものかと、難しい顔で扉をにらみつけながら、皆でウンウンうなっていると、

「あの……あれって、インターホンじゃないですかね?」

 後部座席に座っていた新人さんの一人が、おそるおそる指摘してくれる。

 見ると、なるほど、扉の陰に隠れるように、小さなインターホンが取り付けられている。

「あれで話しかけろ、ってことかな?」

「……じゃないですかね?」

「さすが、重要インフラ施設」

「ええ、なんか敷居が高いっつうか、「一見さんお断り」臭がすごいっていうか」

「虚有都ならまだしも、追沙加で、あからさまにそういう姿勢のところって、珍しいですよね」

 しばらくの間、あれやこれやについて、こそこそ、もちょもちょとささやき声をかわす(これだけ敷居の高い施設を訪問することに腰が引けて、ためらっていたのである)。

 が、結局のところ、とりあえずは話しかけてみないとはじまらない、という、実に当たり前すぎる結論にたどり着き、そして、なんだか当然のように僕が代表に――いやまあ、「ゾンビ誘導班」班長(仮)だから、そりゃ僕が代表になるのも当然っちゃ当然なんだけど――選ばれてしまう。

(やれやれ……だから班長(仮)なんてイヤだったんだよ……こんだけ居丈高な施設にお勤めの方だし、相手がとっつきにくい人だったらどうしよう……)

なんて思いながら、仕方なく車から降り、おそるおそるインターホンのボタンを押すと、

「あの……こんにちは。どなたか、いらっしゃいませんか?」

 ゾンビさんを警戒しながら、おそるおそる、小声で話しかけた。

 が……返事はない(ただのしかばねのようだ、というフレーズが、続いて脳内に浮かび上がる。さすがに口に出していったりはしないけれど)

「あの――」

「あの!」

 徐々に声量を上げつつ、三回目に話しかけたところで、

「静かにしてください。あまり大声をあげられると、あなたの身に危険です。申し訳ありませんが、こちらは浄水場です。地域の皆様に清潔で安全な水を供給しなければならない必要上、避難民の方は受け入れておりません。申し訳ありませんが……」

 意外なほどに若い、いかにも面倒くさそうな声でまくし立てられ――きっと、今までに何十回も同じやりとりを繰り返しているのだ――このままでは一方的に通話を打ち切られてしまうと、慌てて僕は、相手の声を遮った。

「あ、違うんです!申し遅れました、私はパンデモニック再生公社の栗田と申します。ゾンビ禍により機能を失った都市を正常化するための活動を行っています!その一環として……」

 と、ここまで言いつのったところで、今度は相手の方が、僕の言葉を遮る。

「え!パンデモニック再生公社って、午前中、メッセージ流しながら車でこの辺を回ってた人……ですか!?」

「はい、そうです!」

「あれ、聞いたよ!まだ生き残ってる人たちを配送センターで受け入れてるんですよね?大変だね、お疲れ様です!」

「いえ、とんでもない、皆さんこそお疲れ様です!」

「それで、その再生公社の人が、浄水場になんの用?……ですか?」

「はい!あの、当公社の目的は、都市機能の正常化でして、その一環として、浄水場を管理してる方々のお手伝いができないかと思いまして。物資でも人員でも、何か不足してるものがあれば……」

「ほんと?助かるよ!あ、いや、助かります!ちょっと待って、じゃあ、今そっち行って、扉開けるから!」

 よほど気がせいているのか、相手はガチャンとたたきつけるようにして通話を打ち切り――どうやら相手の人は、若く、敬語を使い慣れていない上、かなりのせっかちでもあるらしい――それからしばらくすると、内側からガシャガシャとなにかを外す音が響いたのに続き、ぎいいいいっと鈍い音を立てて、巨大な鉄扉が内側にゆっくりと開いた。

「はやく!ゾンビが入ってこないうち、急いで中に、車入れてください!」

 にかっと笑って、僕らに大きく腕を振った職員さんの姿を見て、僕らは皆、目を見張った。

 相手の人は、きっと若いだろうと思ってはいたのだが……だぶだぶのツナギを腕まくりした姿で現れたその職員さんは、どんなに多めに見積もったとしても、せいぜい中学生、下手をするとまだ小学生じゃないか、といった感じの、まだあどけなさを濃厚に残した少年だったのだ。

(え……なんで?こんな子供まで、働かされてんの?)

「急いでったら!ゾンビのヤツが入り込んだら、大変じゃん!」

 じれったそうに促す少年に、「お、おう」「あ、う、うん、ありがとう……」などと答えつつ、僕らはなんとも微妙な表情を浮かべて、おそるおそる中へと入ったのだった……。


 「……人員を回していただけるのなら、本当に助かりますよ。仕事自体はそんなに難しいことはないのですが、なにせ三交代、24時間体制で管理しなくちゃいけないので、常に人手不足の状況で。おかげで、こうして息子まで駆りだして作業させているような状況でして」

 嬉しそうに顔をほころばせるのは、この浄水場の元ユニットリーダーで、今現在リーダーを務めている刑部さんだ。その横でにこにこと笑いながら座っているのは、その息子さんの祐二君。童顔で小柄だから、よく小学生と間違えられるが、これでも中学二年生だという(いや、それでも若いことにかわりはないけれど)。

 パンデモニックが起こったあの日、夜勤明けで家にいた刑部さんは、近所から響いてくる叫び声と悲鳴で、なにかとんでもないことが起こっている、と気づいたそうだ。

 慌てて2階に駆け上がり、カーテンを開けて外の様子をうかがうと、凶悪な顔をした不審者が、あちらこちらで、逃げ惑う人々に襲いかかっている。これは大変だと、学校へ行く直前だった祐二君を引き留め、警察へ連絡するが――このあたりは、僕らが経験したこととよく似ている――何回かけ直してもつながらない。

 これはヤバい、なんだかよく分からないけど、とにかく本当にヤバいことが起こっている、と気づき……そこでふっと、勤務先の浄水場が頭に浮かんだ。

 あそこなら、周囲は壁やフェンスで囲まれている上、関係者以外は立ち入れないようになっている、仮眠所もあるし、調理設備も一通り揃っている、ということで、急いで家族に身支度をさせ、車に乗ってやってきた、という。

 幸いなことに、その時勤務中だった者の中でゾンビ化した者は出ておらず、浄水設備はそのまま継続運用することができた(こんな状況下で水が止まってしまったら大変なことになるし、なにより水道が使えなくなったら自分たちの生活にも支障をきたすので、可能な限り稼働させ続けようと、皆で相談して決めたのだそうだ)。ただ、追沙加市内や北瀬津など、少々離れた地域に住んでいた職員のほとんどは、行方が分からないままであり、通常よりも少ない人数で作業し続けなくてはならなかったために、皆が疲労困憊し……この状態が続けば、近いうちに限界を迎えると、皆が危惧していたところだったのだ。

「少しでも皆の負担を軽減するために、うちのかみさんはもちろん、息子まで引っ張り出して作業させてましたからね。かといって「避難させてくれ」とやってくる人間を受け入れて、ゾンビ化されでもしたら、えらいことになりますし。どうすればいいのかと思い悩んでいたところに、あなた方がやってきてくれた。いやもう、これこそまさに、地獄で仏、というやつですよ」

 疲れた顔に精一杯の笑みを浮かべてくれる刑部さんに「仏」とまで持ち上げられて、僕らはなんともばつの悪い思いをしつつ、照れ笑いを浮かべた。

「お役に立てるのなら、すごく嬉しいです。とりあえず、これからセンターに帰って、浄水場で勤務してた人、勤務希望の人がいないか聞いて、必要な人数をこちらに派遣してもらうようにしますね」

「ぜひよろしくお願いします!」

 その返事を聞いたところで、一緒にここまで来てくれた仲間の一人に目配せすると、万事心得た様子でうなずき、

「それじゃ、これから車で、センターまで行ってきますので、どなたか扉を……」

 そう言いながら立ち上がる。

 「じゃ、僕が」と、すかさず立ち上がってくれた祐二君と二人、連れだって駐車場の方へと向かったのを見送ってから、僕は、改めて刑部さんに向き直った。

「ええと、それで、他になにか、困っていらっしゃることはありませんか?浄水場の操業は、僕らにとっても死活問題なので、できるだけのことをさせていただきますので……」

「そうですねえ……」

 刑部さんは腕を組み、しばらく天を仰いだ。

「ある程度大人数がやってくるとなると、皆が安全に寝泊まりできる場所がほしいですね。それと、食糧の確保。ここにも、多少の備蓄があるのですが、だいぶん少なくなってきましたから」

「なるほど。他に、何かありませんか?」

「そうですねえ……浄水に使う薬品類は十分なストックがありますし、しばらくは大丈夫です。機械を動かすのに必要な電力は自家発電でまかなってますから……ああ、そうか!発電装置を動かすのに必要な石油ですね。まだ備蓄はあるのですが、この調子で使い続ければ、数週間で底をつきそうなので」

「石油というと、ガソリンですか?それとも……」

「軽油です。ディーゼル発電機を使っているので」

「分かりました。センターに帰って、みんなに相談してみます」

「よろしくお願いします」

 刑部さんが、深々と一礼したのを見て、僕らも慌てて一礼。

「えと、それじゃ、僕らはちょっと、この周辺を「掃除」して、皆さんが安全に暮らせる場所を確保しますね。その後、センターに帰って、いろいろ相談し、明日また、どういう結果になったか、報告に来ます。それじゃ、そろそろ……」

 腰を浮かしかけたところで、

「ああ、そうだ!一つ、大切なことを忘れてました!」

「はい、なんでしょう?」

 再び身を乗り出した僕らに「これは不足しているものというより、協力していただきことなのですが……」との前置きを置いてから、刑部さんが話してくれた内容に、みな、ああなるほど、と深くうなずいたのだった……。



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