シーズン1 第三章 翌日 3-5
3
音量を上げすぎたのか、拡声器がハウリングをおこし、「ヒィン」と甲高い音を立てた。
慌てて音量を少し下げ、改めて口元に当てる。
「あーあーあー、管理棟の中の皆さん、聞こえますか?聞こえていても、声は上げないでください。ゾンビさんは音声に反応します。繰り返します、聞こえていても、声は上げないでください」
建物の中からかすかに「ヴォオオオ!」といううなり声が聞こえ、やがて、人影らしきものがいくつか、窓の向こうに見えるようになる。
ゾンビさんが、声に惹かれてやってきたのだ。
(よし、ここまではいいぞ)
再び拡声器を持ち上げ――これが結構重くて、力がいる――スイッチを押す。
「これから、管理棟内のゾンビさんを全て捕獲し、同時に中の皆さんを救助するための作戦を実行します。できる限り速やかに、安全に、皆さんにこれ以上の被害が出ないようにするつもりですが、僕らも警察や自衛隊のようなプロフェッショナルではありませんし、人数も限られています。ですから、どうしてもある程度時間がかかります。そこで、救助時間を大幅に短縮するために、皆さんにお願いがあります!」
ここで、僕はいったん言葉を切り、大きく息を吸った。
「中にいる皆さんに、ゾンビさんの捕獲を手伝ってほしいのです。彼らは、音に反応します。こうして、外から呼びかけている限り、彼らの注意は窓の外に向いてるはずです。そのすきに背後からそっと忍び寄って、頭から毛布かなんかをかぶせ、紐かガムテープで縛ってほしいのです。皆さんも既に気づいていかもしれませんが、ゾンビさんに襲われても、出血するほどひどく噛まれない限り、ゾンビ化することはないようです。ですから、厚着するなり毛布をかぶるなりした上で、厳重に手袋をつけるなどしていただければ、かなり安全にゾンビを捕獲できると思います。迅速な救助を可能にするためにも、ぜひ協力をお願いします。今から5分間、僕らはこうして話し続け、ゾンビさんたちの注意を引きつけています。その間に、何人かで協力して、背後からゾンビさんを捕獲してください。どうか、ご協力お願いいたします!」
何度もつっかえながら、どうにかあらかじめ決められた台詞を言い終わり、僕はほっと拡声器を下ろした。
そして、なんだかうずうずしているように見える橋江さんに、拡声器を渡したのだが……ここからがまあ、ひどかった。
橋江さん、拡声器を受け取るやいなや、
「一番!橋江翆!曲は『機動戦士カスタム』!」
と宣言するが早いか、普段の甲高い声からは想像できないバリトンの美声で、
「萌えやがれ 萌えやがれ 萌えやがれ カスタム~!」
熱唱しはじめたのである。
センターの皆さんの多くが40代から50代のおじさんで、どうやらこのアニメにどハマリした世代らしい。でもって、橋江さんの歌も、相当元歌に似ていたようで、歌い始めるやいなや、声を揃えて、
「おお~!」
と大興奮。曲の途中なのに拍手喝采まで巻き起こる始末(管理棟の窓から様子をうかがっていたゾンビさんたちが、あきれたような顔で見下ろしていたような気もするのだが……気のせいだと思いたい)。
さらに、その後に続いた加呂さんも、これまたノリノリで、往年のセクシー歌手山木リンゴの歌を、派手なダンスをくねくね踊りながら歌ったものだから、おっちゃんたち、「おおおおーーー!!!!」とさらに大喜び。
その後は、ドライバーのおっちゃんが意外なほどの美声で演歌を披露したり、漣と真木ちゃんが二人でかわいくデュエットしたり。嬉々とした様子で歌いまくるみんなの姿をぼんやり眺めながら、
(みなさん、カラオケとか行って、歌い込んでいるんだろうなあ……いいなあ、リア充は……)
不覚にも涙がこぼれそうになり、僕は、大慌てでぶるぶると頭を振った。
あっという間に5分間がたち……が、窓の向こうでは、相変わらずゾンビさんたちがガラスにほおをべったりくっつけて立ち、こちらをじっと見つめたままだった。
どうやら、中の人たちの誰一人として、ゾンビさんを捕獲しようとはしなかったらしい。
(やっぱりな。まあ、そうだろうと思ったけど……)
僕は、心の中でひそかにため息をついた。
数人が協力し、拡声器で教えた方法に従って行動すれば、ゾンビさんを捕まえるのはそんなに難しくない。が、そこには当然、ある程度の危険がつきまとう。「ゾンビ化したら困るから」と医務室にいた病人を勝手に放り出し、自分たちだけ安全な場所に立てこもるような身勝手な人たちが、たとえほんのわずかに過ぎないにしても、自分の命や人間性を危険にさらすことなど、まああり得ないというのが、みんなの一致した見解だったのだ。
にもかかわらず、橋江さんは、中の人たちに「行動する機会」を与えるべきだと、強く主張した。
曰く、
「もちろん、本気であの人たちがゾンビを捕獲する、なんて考えてませんよ。昨日の食堂でもやりとりからも明らかですが、立てこもった人たちは、自分の運命は自分でなんとかしなくちゃならないとか、自分と同じく他人の命も大事なんだ、という意識は全くない反面、自分の命は世界に二つとない大切なもので、他人が命がけでそれを守るのは当然、と思っている節があります。ですから、もし救助に成功したとしても、どうしてもっと早くに助けに来なかったんだとか、襲われたのはお前たちの責任だとか、私たちにかけらも感謝せず、ぐちゃぐちゃ文句を言うに決まってます。ですから、なるべくその文句が出ないように、たとえ出たとしても、きっちり言い返せるように、自助努力の機会を与えたほうがいいと思うんです」
なるほど、確かにその通りだ。助け出したはいいけれど、昨日のようにぶうぶう文句を言われたあげく、またどこかを不法占拠でもされたらかなわない。
とはいえ、猶予の時間を与えたところで、立てこもった人たちはどうせ、ゾンビさんを捕獲したりはしないだろうから、そんなに長い時間与えなくてもいいんじゃないか。後の作業もあることだし、せいぜい5分くらいで……ということで話がまとまり、その結果、まだ午前中だっていうのに、大カラオケ大会開催、ということになったのである。
(もう少し中の人たちが信用できるんなら、余計な手間をかけずにすんだんだけどな……)
ひそかにため息をつきつつ、僕は、長崎武の「献杯」を熱唱中のドライバーさんの肩を、ぽんと叩いた。
「時間です。いきましょう」
途端に、ドライバーさんはぷっつりと歌うのをやめ――サビの「献杯~今、君は生涯の」という部分にさしかかったところであるにもかかわらず、だ――この上なく緊張した顔で、僕を見返してきた。
その顔に、一つうなずきを返したところで、背後を振り返る。と、センターのおっちゃんたちは皆、ぴりっと引き締まった顔で、じっとこちらを見つめている。
彼らの顔を一渡り見回した後で、僕は、緊張でこわばる顔に、無理矢理笑みを浮かべ、
「さ、さあ、さ、作戦開始です!」
と、宣言したのだった。
とはいえ……やらなきゃいけないことは、さっきとそんなに変わらない。
管理棟の入り口に「一度入ったら出られない、改良型ゾンビホイホイ」を仕掛け、最大ボリュームの音楽をエサに、ゾンビさんをその中に誘い込む――それだけだ。
ただ、管理棟は宿泊所のような平面ではなく、5階建てで……その分だけ、少々ゾンビさんの誘導が面倒になる。すなわち、廊下に誘い出したゾンビさんたちを、どうにかして1階まで誘導しなければならないのである。
設置したゾンビホイホイ――トラックの荷台には、もちろんスマホを仕掛けるのだけれど、それだけでは、六階建ての管理棟の隅々にまで音楽を届けることは、まず不可能だ。せめて階段下に、もう後一台音響機器を設置し、上階へ向けて爆音を響かせたい。かといって、どこにゾンビさんが潜んでいるかもしれない管理棟に、うかうか入り込むのは、ものすごい危険が伴う。
どうしたものかと額を寄せ集めているとき、ドライバーさんの一人、刑部さんという人が「そういえば、以前の会社に、こそ泥やってたってやつがいてさ。そいつから聞いたんだけどよ……」と教えてくれた知識が、全てを解決してくれたのである。
実は、大カラオケ大会の5分間は、その知識を元に、ゾンビトラップを作り上げるための準備の時間でもあった(それにしても、運送会社というところには、いろんな人が集まってくるのだなあと、僕はつくづく驚いてしまったのだった)。
皆が拡声器を取り合い、争って美声を披露している間中ずっと、刑部さんは備品倉庫棟から持ち出した長脚立にまたがり、階段に面した窓にとりついていた。
その彼が、振り返ってにやりと笑い、右手の親指を上げたのを見て、僕は、カラオケ大会の終了を告げたのだ。
窓に取り付けてある半月型をした鍵――クレセント錠は、ちょっとしたコツさえ知っていれば、外側からでも、数分で開けることができる。元同僚からそのコツを聞いたという刑部さんに頼んで、窓の鍵を開けてもらっていたのだが……サムズアップは、それが見事に成功したことを示していたのである。
「さ、さあ、さ、作戦開始です!」
僕が宣言すると同時に、階段に面した窓を細めに開けて、そこから、釣り竿の先に、音量を最大にしたスマホを吊り下げ、1階と2階の間の踊り場に垂らす。同時に、トラックの荷台の中のスマホも、スイッチオン。
拡声器からの音が消え、静まりかえっていたセンターに、再び爆音の音楽が響き渡った(階段に吊り下げたスマホから流れ出たのは、日本語ではないアップビートの軽い曲――後から尋ねたところ、KPOPのどこかのグループらしい――で、トラックの荷台から流れたのは、一体誰の趣味なんだか、名人三風亭角楽の落語。あまりにミスマッチすぎて、正直、ほんの数分聞いただけで、頭が激しく疲労し、側頭部が激しく痛み出してきた)。
けれども、ゾンビさんたちは音声の不調和など、まるで気にならないようだ。
不協和音もミスマッチも関係なく、再び音楽を――「獲物の鳴き声」を――聞きつけた途端、皆さん、「ヴォオオオ~!」と俄然やる気を出し、張り切って階段の方へと歩き始める。
(よし……よし!そのまま、うまく階段を下ってくれ!)
各階にいたゾンビさんたちが、窓の外に隠れ、見えなくなり……しばらくして。
「来た来た!下りてきたぞ!」
脚立の上からスマホを吊り下げていたドライバーさんが、興奮した大声を張り上げた。
慌てて僕も、
「そのまま、ゾンビさんの手の届かない高さまで、スマホを上に持ち上げて、しばらく待っていてください!気をつけて!」
作戦が成功に近づいていることに興奮し、つい大声を上げてしまう。
ドライバーさんが、僕の指示通り、手に持っていた釣り竿と、その先に着いているスマホを、すうっと持ち上げると……。
「おお!下でゾンビが、うおうおいいながら、こっちに手ェ伸ばしてる!届かないところのエサ取ろうとしてる、猿みてえだ!こりゃ面白い!」
どうやら、作戦はうまくいったらしい。
いかにも楽しそうに大声で報告してくれるドライバーさんに苦笑しながらも、
「大声出さないでください!ゾンビさんを興奮させすぎないように!」
作戦責任者として、雰囲気がだれすぎないように、一応声をかける(僕も、ちょっとだけ「ゾンビ釣り」やってみたいな、と思ったのは内緒だ)。
間もなく、窓から見え隠れてしていたゾンビさん、五体全部が1階と2階の間の踊り場に集まったと、ドライバーさんから――またしても大声で――報告が届いた。
「では、スマホを回収して音楽を止め、窓を閉めてください!」
「あいよ、任せときな!」
軽やかな声とともに、ドライバーさんはスマホを手元まで持ち上げ、音楽アプリを停止させた。
急に「獲物の声」が聞こえなくなったゾンビさんたち、少しの間、戸惑ったようだが、すぐに、新たなる「獲物のの声」に興味を引かれ、ねらい通り、管理棟入り口へ――その先に設置してあるゾンビホイホイへと、急ぎ足でペタペタ歩き始めた。
「来ますよ!声を立てないように!」
作戦が順調に進んでいる興奮をなんとか押し殺し、入り口とトラックの荷台の左右をつなぐ、ベニヤ製のガイド通路を支えている人たちに、そっと声をかける。
そこへ。
「ヴォオオオオオオ~!」
吠え猛りながら現れたゾンビさんたちが、荷台へと続くスロープを、我先に上り始めた。
スロープを上りきった荷台の入り口には、「人」の字型に、ベニヤ板が設置してある。
左側の一辺は、荷台の床と壁とにがっちり固定されている。右側の一辺は、壁に接する部分だけがちょうつがいで角材に固定され、もう一方の端は、強力なゴム紐で、もう一枚のベニヤ板と結びつけてある。
ゾンビさんが音に惹かれて荷台に入り、力任せに右のベニヤを押せば、ゴムがにょーんと伸びて、荷台の奥への道が開ける。けれど、奥に入り込んでしまうと、ゴムの力でベニヤは元の位置に戻り、ベニヤの端に指をかけ、そっとこじ開けない限り、外へ脱出することはできなくなる。要は、ハエや蚊を捕まえる道具を真似た、一度入ったら外には出られない形のトラップなのである。
いくらゾンビさんがマヌケとはいえ、虫と同レベルの仕掛けで出てこれなくなったりするんだろうか、いやでも、加呂さんが苦心して作ってくれたゾンビホイホイだし、きっとうまく作動してくれるはず、いや、でも万が一失敗したら……なんてくよくよと悩みながら、僕は、固唾を呑んでゾンビさんたちを見守っていた。
けれど、結果はなんともあっけないもので……ゾンビさんたちは、荷台に上がるやいなや、バタンバタンバタンとベニヤの扉を開け、荷台の奥へと次々と消えていく。そして、一度中に入ったら最後、トラップから顔を出すことなく、「ヴォオオオ!」と――なんだか、いつもの叫び声より、やや途方に暮れたように聞こえる声で――叫びながら、ただただ荷台の内側をどんどん叩くばかり。
大成功だった。
ゾンビ映画なんかを観ていると、綿密に練った計画でも、必ずどこか不備があったり、バカな怠け者が自分の役割を怠ったりして、せっかく捕まえたゾンビが逃げ出し、大惨事になるのがお約束だ。が、実際には、きちんと細部まで計画を練り、皆が緊張感を持って真面目に事に当たれば、拍子抜けしてしまうぐらいに安全、簡単に、ゾンビさんを捕まえられるようだ。
(映画やテレビは、わざわざピンチを演出するため、居眠りしたり、操作を誤るドジなやつがいることになっているのか?それとも、そういうことじゃなくて、アメリカ人って、そもそもバカでドジなやつばかりなのか?)
あまりにやすやすとゾンビを捕まえられたがために、思わず気が抜け、ばんやりとしょうもないことを考えてしまう。と、誰かに、ぽん、と右肩を叩かれた。
「やりましたね!うまくいきましたよ!」
丸手さんだった。興奮しているのか、ちょっとはしゃぎ気味で、にっこにこの笑顔を向けてくる。
つられて僕も、へらっと情けない笑顔になった。
「どうしたの、そんな、力の抜けた顔して!大成功だよ!もっと喜んでいいって!」
丸手さんが叩いたのとは逆の、左肩をばんばん叩きながら、はしゃいだ声を出しているのは、橋江さんだ。
僕は二人の顔を交互に見ながら、ぎこちない笑顔を浮かべるだけで精一杯。
「いや、でも、うまくいったのは皆さんのおかげですし、それに……まだ、この後が残ってますしね」
そうなのだ。
次は、いよいよ管理棟の中に入り、各階の安全を確認していく――ゾンビさんがどこかに潜んでいたら、直に捕まえながら――もっとも危ない作戦をはじめなければならない。そのことが引っかかって、作戦の成功を手放しで喜ぶ気分には、どうしてもなれなかったのだ。
(作戦前半と同じように、誰も怪我しないで終わるといいんだけど……)
右肩を丸手さんからばんばん、左肩を橋江さんからぽんぽん叩かれつつ……僕は、両手で頬をピシャピシャと叩き、気合いを入れ直したのだった。
4
ちょっと気合いを入れすぎてひりひり赤くなっている頬を、緊張でさらに紅潮させながら、
「じゃあ、いきますよ」
僕は、エレベーターのボタンを押した。
管理棟の中である。
管理棟入り口からゾンビホイホイにつながるガイド通路――ベニヤで周囲を囲ったスロープを保持している人たちに頼んで、すり抜けられるぐらいの隙間を空けてもらい、分厚いジャンパーにヘルメット、三重にした軍手にさすまた、そしてお供にカールという完全装備で、僕らは管理棟の中に、そっと侵入した。
まずは、1階をくまなく探索し、どこにもゾンビさんが潜んでいないことを確認(いきなり襲いかかられるんじゃないのかとびくびくしていたのだけれど、何事もなく探索が終了し、大いにほっとした)。その上で、いよいよ上階に移る。
昨日からの経験上、一体につき、さすまたを持った人間数人がかかれば、ゾンビさんは案外簡単に捕獲することができる。けれど、一体に集中している最中に、思わぬ方向から襲いかかられたりすれば、対処できるかどうかは、大いに怪しいところだ。
そういうことが起きないよう、安全、確実にゾンビさんを捕獲していくのには、どうしたらいいのか――。
皆で知恵を出した結果――いや、メインで知恵を出してくれたのは、これまでと同じく橋江さんだったけど――各階ごとに、一方通行で部屋部屋を確認していくのが、もっとも安全だ、ということになった。
つまり、こうだ。
まずは1階の安全を確認した後、2~6階にある、全ての防火扉を閉める。次に、上階から順に、防火扉を片方だけ開き、そこから各部屋を回って、ゾンビさんを捕獲。複数のゾンビさんがいた場合は、階段側に追い立て、1階のゾンビホイホイに誘導するのである。
「もっとたくさんのさすまたと、もっと多くの犬がいれば、エレベーター側と階段側、両方からゾンビを追い立てられるのですけれどもね。今のところ、人数こそ十分ですが、装備もないし、ゾンビを捕まえた経験のある人も、そんなに多くありません。現状では、こうするのが、もっとも良い方法だと思います」
橋江さんはため息交じりにそう結論し、僕らも、それしかないよね、と同意して……その作戦を実行するところなのである。
いくら「もっとも良い方法」だからといって、全く危険がないわけじゃない。特に、エレベーターで上階に上がり、防火扉を閉める作業には、かなりの危険がつきまとう(扉が開いたすぐ向こうにゾンビさんが待ち構えており、いきなり襲いかかられるかもしれないのだ)。だから、古いエレベーター特有の、儀式めいた動き――エレベーターの扉が閉まり、がくん、と揺れがきた後で、ゆっくりと上昇。階数表示ランプが1階から2階へと移動し、上昇が終了した後、またもや、がくん、と揺れ、ようやく扉が開く――が終了したとき、中にいた僕、丸手さん、加呂さん、それに真木ちゃん――危ないから他の人に任せてと散々言ったのに、カールを連れて行くなら自分もいく、と言ってきかなかったのだ――の4人は、カールの後ろに身を縮こめるようにし、いつでもさすまたを突き出せるように身構えながら、まばたきもせずに扉の向こうをじっと注視していたのだった。
が……扉の向こうは、至って静かなものだった。
がらんとした廊下に、半開きのドアがいくつかあるだけで、どこからも物音一つ響いてこない。カールも、嬉しそうにあちこちキョロキョロしながら尻尾をパタパタ振っているだけで、警戒している様子はまったくない。
どうやら、この階には誰も――人間も、ゾンビさんも――いないようだ。
「じゃ……いきましょうか」
気配がないからといって、万が一のことだってあるし、油断はできないんだけど……それでも、少なからずほっとした口調でそう促すと、
「うん、そうですね。手早く終わらせましょう」
丸手さんも、幾分弾んだ声で、足取りも軽く防火扉にとりつき、僕らは無事、扉の施錠を終えた。
3階も2階と同じく、なんの問題もなく防火扉を閉め、施錠でき……僕らは、またもう少しだけ、気分が軽くなった。
が……問題はここからだ。
連訪愛率いる「角間と盛具知の市民の命を守る会」が立てこもった4階と5階は、昨日、加呂さんが行った時点では、防火扉は閉められていたという。
しかし、今朝になって中から逃げ出してきた男が、どこかの――おそらくは階段側の扉を、開けっぱなしにしてきてしまっているはずだ(こうした、自分の身を守るためなら、他人のことなど一切構っちゃいられない、という態度は、本当に腹が立つ)。そこを通って、ゾンビさんが階段や、他の階のどこかに潜んでいるかもしれない。可能性は低いけれど、エレヴェーターの扉が開いた瞬間、ゾンビさんがコンニチハすることだって、あり得るのである。
(噛まれても大丈夫なように厚着はしてきてる。でも、首から上は無防備だから、最悪の場合、腕で相手を防ぐようにしないと……)
頭の中でゾンビさんの攻撃を防ぐ手順を復習しながら、がくん、とエレベーターが揺れ、扉が開くのを待つ。すかさず、カールのリードをややゆるめ、身構える。
……が、何もなかった。
エレベータのすぐ前にある防火扉はしっかりと閉められ、ゾンビさんの姿もない。防火扉が閉められたときにも出入りができるように作り付けられた小さな扉――くぐり戸も、施錠されたままのように見える。
「大丈夫そうですが、一応確認してきますね」
言うが早いか、丸手さんは扉へとりつき、軽く押し引きして、施錠の確認をする。
と、その時。
「いるんですか?誰か、いるんですかっ!」
押し殺した、切羽詰まった声が、扉の向こうからささやきかけてきた。
丸手さんが、こわばった顔で僕を振り向く。
僕も息を飲んだまま、声すら出せず、固まってしまう。
「お願いです、ここを開けて、助けてください!早く!お願いです!」
丸手さんの顔がゆがみ、じっと僕を見つめた。
言いたいことは分かっている。扉を開けて、中の人を助けていいかどうか、尋ねているのだ。
けど……それはできない。
今ここで扉を開けてしまえば、中からおそらく、大量の人間が一挙に殺到する。けれど、一度にエレベーターに乗れる人間の数は決まっている。必ず取り残される人間が出て……まず間違いなく、騒ぎに気づいたゾンビの餌食になる。
(助けられるものなら助けたい。……けど、今はまだ、無理だ……)
あまりの無念さに頬がひくひくする。でも……だめだ。ここで危険を冒せば、作戦は水の泡。僕だけでなく、もっと大勢の人間を危険にさらすことにもなりかねない。
「すいません、ちょっと、代わってください!」
言い捨てるが早いか、僕はエレベーターを飛び出し、防火扉にとりついた。
「もしもし、聞こえますか?今、救出作戦を実行中です!もうすぐ、必ず救助します!」
「よかった!助かった!早くここを……」
「ですが、ここを開けることはできません」
「えっ!君、ちょっと、いいからここを、早く!」
パニックを起こしつつあるのか、相手の声がどんどん高まってくる。だが、あえて僕は、感情のこもらない、無情な声を出した。
「大きな声を出さないで。ゾンビに気づかれます。いいですか、ここは危険です。今すぐここを離れて、できるだけ安全な場所に、隠れてください」
「ちょっ!君、なに言ってるんだ!いいから、早くここを開けろ!」
「静かに!いいですか、早くここを離れて!お願いします!」
「おい、君!聞いてるのか!早く開けろ!おい!」
完全にパニックを起こしたのか、相手は扉をがんがん叩き、悲鳴に近い大声を上げている。あれじゃあ、ゾンビに「襲ってください」と言っているのも同然だ。
現に、少し離れたところから、「ヴォオオオオオ……」といううなり声が、少しずつ近づいてきているような気もする(空耳だといいのだけど……)。
がっくり疲れた顔を丸手さんに向けると、
「いきましょう」
ただ一言だけを告げ、僕はそのまま、振り返りもせず、まっすぐエレベーターへと駆け込んだのだった。
5階でも、僕らは同じようなやりとりを繰り返さなければならなかった。
違ったのは、防火扉の向こう側にいたのが女性で、しかも、
「お願いです、子供がいます!この子だけでも、今すぐ出してやってください!」
と懇願されたことだ。
「子供」の一言で、僕らは顔を見合わせ……思わず扉を開けてしまいそうになった。
が、何度も言うが、それはできない。計画通りに事を運ばないと、対策が何もないままゾンビさんを解き放つことになり、さらなる惨事を引き起こすことにもなりかねないからだ。
だから……4階の時と同じく、早くこの場を離れるようにと早口で告げて立ち去ることしか、僕らにはできなかった。
何よりきつかったのは、去り際に、
「お願いですから!この子だけでも外に出してあげてください!ほら、あんたからもお兄さんにお願いして!ほら!」
という言葉の後、
「おねがいです……おにいちゃん……だしてください……」
か細く、消え入りそうな声で、子供の声が聞こえてきたことだ。
これには、本当に参った。
丸手さんなど、この声を耳にした途端、びくっと立ち止まり、きびすを返して扉を開けそうになっていた(加呂さんが肩に手を置き、止めてくれたので、なんとか大事にならずにすんだけれど)。
弱々しい子供の声を、無理矢理引きちぎるようにしてエレベーターに乗り込み、
(助けに来たんだ……いいことをしにきたはずなんだ……なのにどうして、こんなつらい目に遭わなきゃいけないんだろう……)
今にも泣き出したいような気持ちを抱えながら、皆一様に黙りこくって、その階を後にしたのだった。
そうはいっても、へこんで、座り込んでしまうわけにもいかない。
僕らが脱力してしまえば、その分計画が遅れ……救出までの時間がどんどん延びてしまう。早く助けて、という祈りにも似た声を答えるためにも、できる限り早く行動し、ゾンビさんを捕獲しなければならない。
ともすればその場に立ち尽くし、考えこんでしまいそうになる自分に、そう言い聞かせ、僕らは言葉少なに、着々と準備を進めていった。
2~6階の、エレベーター側の防火扉を全て閉め終わり、いったん1階まで下りて、待機してもらっていたさすまた部隊と合流。十人ほどが一団となって、建物の反対側にある階段まで移動する。そのまま、カールを先頭に、さすまたを突き出しながら階段を上り、上階に着くたび、上からの襲撃を警戒するグループと、防火扉を閉めるグループに別れ、一度に複数のゾンビさんに襲われても対応できる、万全の体制で――とはいえ、相手はなにをしてくるか分からない存在だから、あくまで慎重に――防火扉を閉めていく。
こちら側でも、やはり4階と5階が手間取った。
防火扉は一応閉められてはいたものの、くぐり戸が開いており、その上、机やら椅子やらを積み上げたバリケードが崩れ――これだけ他人を警戒していたくせに、なぜ仲間内からゾンビが出たときの対策をしなかったのか――容易にそのくぐり戸を閉められない状態になっていたのだ。
(ああもう、なんだってこんな、面倒なことばかりしでかしてくれるんだ!)
イライラのあまり、その場で頭をかきむしりたくなるのをぐっと我慢し、扉の向こう側からほんのり漂ってくる生臭いにおいに顔をしかめながら、さすまたの先でぐいぐいと崩れたバリケードを押しやり、くぐり戸がきちんと閉まるだけの空間を作って、なんとか施錠する。
最後に6階の防火扉を閉め、屋上へと続く階段をどんどん上がり、ゾンビさんが潜んでいないことを確認。ようやく準備が整った。
次は、いよいよ各階の「掃除」だ。
本当なら最上階の6階から順に確認していくべきなのだろうけれど、4階5階に逃げられない人がいる以上、そちらを優先するべきだろうということで――防火扉を叩いていた男や親子連れも、ものすごく気になっていることだし――僕らはまず、5階へと向かった。
くぐり戸を通り抜け――もちろん、一番最初に向こう側へ行ってもらったのはカールだ――皆で内側へと入る。
幸い、そこに親子連れの無残な姿が転がっている、ということはなかった。
だが、廊下のあちらこちらに、まだ乾ききっていない血が飛び散り、生臭いにおいが充満して……今朝がたの惨劇がどれほどすさまじいものであったのかを物語っていた。
「こりゃあ……ひどいですね」
丸手さんが全員の気持ちを代表するようにぼそっとつぶやき、僕らは、しばし黙りこくったまま、その場で立ち尽くした。廊下でさえこの惨状なのだから、部屋――仮眠室やシャワー室がどのような恐ろしいことになっているかと思うと、おそろしくて、なかなか足を踏み出すことができなかったのだ。
とはいえ、ここまで来て、いつまでもぼんやりしてはいられない。部屋の中にはおそらくまだ、ゾンビさんが残っているはずだし、なによりあの親子連れの姿が見えないのが、本当に気になる。
僕らは、ともすれば立ちすくみそうになる体を無理矢理動かし、計画に沿って作業を再開した。
まずは警戒組と作業組に別れ、バリケードを撤去する。机や椅子を窓側に積み上げ、通路が確保できたところで、階段側の防火扉を開け、壁に固定する(これで、万が一ゾンビさんが逃げ出したとしても、行き着く先は玄関扉のゾンビホイホイだけになるわけだ)。
この間、カールは、先ほどまでのはしゃいだ姿はどこへやら、えらく慎重にあちこち歩き回り、鼻を高く上げたり、床に向けたりとせわしなく動かしながら、しきりににおいを嗅いでいたのだが……やがて、仮眠室へと通じる扉の前でぴたりと立ち止まると、背中の毛を逆立て、牙を剥きだして、低くうなりはじめた。
どうやら、中にまだ、いるらしい。
扉の真横に、漣が、壁にへばりつくようにして立った。
両手でさすまたを強く握りしめ、いつでも突き出せるよう――扉が開いた瞬間に部屋の中へと飛び込み、周囲を威圧できるよう、油断なく身構えている。
扉の反対側には、加呂さんが立ち、やはり腰を低くして身構えている。
残りのメンバーの半数は、扉を丸く囲む様にして立ち、もう半数は、僕らに尻を向け、シャワー室の方を向いて立っている。前者は、ゾンビさんが扉から逃げだそうとしたときに取り押さえてもらうのと、部屋の中で手が足りなくなったとき、順次中に入り、加勢してもらう役目。後者はいうまでもなく、万が一、シャワー室からゾンビさんがひょっこり顔を出したとき、ふんじばってもらう役目だ。
全員の準備が整ったのを確認した後で、
「いきますよ」
できるだけ静かにドアノブを回し、扉を大きく開け放った。
5
まず中に入ったのは、カールだ。
うなり声を上げながら、ずらりと並ぶ二段ベッドの列をぬって、ぐいぐいと前へ進もうとする。
「端から通路を一つ一つ、確認していってください!必ず三人ひと組で、ベッドの中の確認も忘れずに!」
ささやき声で皆に叫ぶと、カールの引き綱を持った真木ちゃんのすぐ横について、部屋の一番端の通路へ。
そこまで来て、ぴたりと立ち止まったかと思うと、カールはさらに体を低くし、「うわん!」と一声、大きく吠えた。
すかさず僕も、漣と一緒にさすまたを突き出しながら、ベッドの列の先をにらみつける。
と。
そこには、見知った顔が、目をつり上げ、歯をむき出した恐ろしい表情で、こちらをにらみつけていた。
(まさか……連さん!?)
間違いなかった。
目をつり上げ、歯をむき出し、変わり果てた姿になってしまっていたが――いや、じつのことろ、昨日の、丸手さんに食ってかかっていた様子と比べて、それほど「変わり果てた」っていう印象は受けなかったのだけど――それは間違いなく、「角間と盛具知の市民の命を守る会」代表の連訪愛その人だった。
(え?この人昨日、自分たちの命と権利を守るため、濃厚接触した人たちと同室することはできませんとか、ほざいてたよな?なのに、え?当の本人が、感染してたってこと??えええええーっ……)
一体全体、どういう思考プロセスによれば、そういう行動が可能なのだかよく分からないけれど――あえて想像をたくましくするのならば「他の人はゾンビに噛まれたらゾンビ化するけど、私は「人権に目覚めた」「特別な」「正義の執行者」なのだから、ゾンビに噛まれても絶対にゾンビ化しない!」とかなんとか、無邪気に思い込んでいた、とかだろうか――この人(いや、今はもう既に「人」じゃないみたいだけれど)ときたら、市民の代表として、皆の命と人権を守る、とか豪語していたくせに、自分がゾンビに噛まれたことは隠し、管理棟の四階五階を占拠。その上、「危険な存在」である「濃厚接触者」――すなわちセンター長たちを医務室から追放して、いかにも市民の味方であるかのような顔をしていた、ということらしい。
挙げ句の果てに、自分が「濃厚接触者」であることがばれないよう、メンバーの身体検査もとり行わず、防火扉の内側にバリケードを作らせ、中の人間が容易に逃げられないようにし、この地獄絵図を作り出してくれたのである。
(すごい……ほとんどテロリスト並みに凶悪な行動だ。自分勝手もここまで来ると、人間国宝レベルだよ……)
彼女の「人権意識にあふれた」「善意の」行動の結果、数多くの人間がゾンビに襲われ……明日にはゾンビ化する運命を背負わされることになった。ところが当の本人は、取り返しのつかないことをしでかした、その責任も取らず、本能の赴くままに人を襲い、さらなる犠牲者を出そうとうなり声を上げている(いやまあ、たとえゾンビ化していなかったとしても、四の五のああだこうだと声を張り上げ、なんとか責任を回避しようとしやがったに違いないだろうけれど)。
できることなら、さすまたを放り出して、彼女の胸ぐらをぐっとつかみ、どういうつもりだったのか、思い切り揺さぶりながら問いただしてやりたいところだった。
だが、今更そんなことをしたところで、せいぜい僕がゾンビ化するだけで、なにひとついいことはない。
激情に駆られて行動しそうになるのをぐっと抑え、僕は、真横に立つ漣に、
「ベッドに他のゾンビさんが潜んでないか確認しながら、ゆっくり追い詰めて!」
と声をかけた後、突き出したさすまたの先で、右側に並ぶベッドを上下二段ともつつき、確認しながら――ところどころ血痕のついた布団がぐっちゃぐっちゃに丸められており、なにかが潜んでいても分からない状態だったのだ――徐々に前進する。
漣も、僕と足並みを揃え、左側のベッドの中身を確認しながら、徐々に前進。真ん中で、カールの引き綱を持つ真木ちゃんも、僕らに合わせて、そろそろと前に進む。
その間、ゾンビと化した連さんは、しきりにうなり声を上げて僕らを威嚇しようとするが、そのたび、カールに激しく吠えられ、おびえたように後退していく。
その列の最後のベッドをさすまたで突っついたとき、
「お願いです!助けてください!」
毛布の下から、くぐもった悲鳴が聞こえてきた。
「ヴォオオアアアアああああああっ!」
その声に反応し、(元)連さんゾンビが突進しようとしたところを、漣がすかさず、さすまたで確保した。そこへ、真木ちゃんがカールをけしかける。
「うおおおおおおおおおおん!うおん!うおおおおおおおおおおおおおん!」
今見も噛みつきそうな吠え声、うなり声に気圧されて、再び(元)連さんが後ずさりをはじめたところで、僕は毛布の下の誰かに向かい、ささやくように声を放った。
「もうすぐ救助します!もう少しだけ、待ってください!」
毛布の中の人がもぞもぞ動くのをやめたのを見て取ったところで、再び(元)連さんをにらみ据える。と、彼女は――といっていいのだろうか?――カールの吠え声によって追い立てられ、背中をぴたりと壁にくっつけ、つま先立ちするような状態にまで成り果てていた。
(仕上げだ!思い知れ!)
必要以上に力を込めてさすまたを突き出し、身動きできないようにしたところで、そこらにあった毛布をかぶせ、もがいている上からガムテープでぐるぐる巻きにする(わざと息苦しくなるように、何回も何回もテープを巻き付けてやったのは内緒だ)。
徐々におとなしくなってきたところで、念のため、その上からもう一枚毛布をかぶせ、もう一度ガムテープでぐるぐる巻き。さらに、彼女を床につっ転がした後、脚の方も毛布をかぶせ、こちらもぐるぐる巻きにする(気がつくと、ほぼ新品だったはずのガムテープを、ほとんど使い切ってしまっていた)。
巨大な蛾の繭のようなものができあがったところで――しかも、羽化寸前の繭のようにもぞもぞうごめいているから、よりリアルだ――ようやく僕らは、ほっと一息ついた。
もちょもちょとうごめいている(元)連さんを、床に放置したまま、
「もう大丈夫ですよ、出てきてください!」
声をかけると、毛布の下から、体中にいくつもの噛みあとをつけ、あちこちから出血している女性が顔を出し、さらにその下から、ようやく小学生に上がったかどうかというぐらいの男の子が現れた。
「助かりました。ありがとうございます……」
痛々しい姿の――そしてこの先、もっと痛々しい運命が待ち構えている――女性は、ほっとした調子でそうつぶやくと、力のない笑みを浮かべた。
(この声……この人だ。防火扉の向こうで助けを求めていたのは……)
僕らは、ベッドから通路へと下りたち、愛おしそうに子供を抱きしめる彼女を、ただただ悲痛な表情で見つめることしかできなかった。
結局、仮眠室にいたゾンビさんは、(元)連さん一体だけだった。
助け出せたのも、あの母子連れだけで――母親の方は、とてもじゃないけど「救出した」とは言えないけれど――他には誰もいない。
「角間と盛具知の市民の命を守る会」を名乗り、管理棟を占拠した「市民」は、少なくとも20名以上いたから、まだあと少なくとも15名前後の人間が取り残されているはずで、おそらくそのほとんどが仮眠室にいると思っていたから、これはなんとも意外な結果だった。
(まあ、取り残された人がパニック起こして、防火扉開けた途端、ゾンビさんともどもいっぺんに殺到してくるよりかはマシだけどね……)
橋江さんが予想していた「もっとも困った事態」というのがそれで、もしそうなってしまったら、「立てこもり組」がもうあと何人か噛まれてしまうのを覚悟の上、全員その場で取り押さえるつもりだった(そんな事態にならなかっただけでも、幸運だったというべきなのかも知れない)。
(それにしても、仮眠室以外、隠れられるようなところはそうそうないのに、皆さん、どこにいるんだろう?)
自分自身の身の安全を確保すること以外、全く興味なさそうな人たちなのだから、一番安全そうな場所に隠れてそうなものなのに……と思いながら救出作戦を再開してまもなく、僕の疑問は氷解し――そして、一部の人は、窮地に陥ると、どれほど身勝手な行動を取るものなのか、つくづく思い知らされることになったのだ。
最初の驚きがやってきたのは、シャワー室の確認を終えて――ここには、ゾンビさんも人間もいなかった――最後の仕上げに、トイレを確認したときだった。
仮眠室があるせいか、このフロアのトイレは広く、男女別になっている。そのうちの女子トイレの方の入り口が、内側から鍵をかけられ、締め切りになっていたのである。
僕はてっきり、ゾンビさんに襲われたうちの数人がトイレに逃げ込み、中で息を殺しているものだと思った。なので、扉をノックすると同時に、
「もしもし、大丈夫ですか?救助に来ました!中にいらっしゃる方の中で、怪我をなさっている方はいませんか?」
と、中に複数の人がいる前提で声をかけたのだ。
ところが。
「ようやく助けに来てくださったの~?ずいぶん遅かったのね~?」
ガチャリと鍵を開け、中から出てきたのは、今の今まで鏡に向かって入念にメイクしていました、といわんばかり、一分の隙もなくファンデーションを肌にすり込んだ上、アイブロウだのアイラインだのシャドーだのチークだのをきっちり施し、仕上げとばかり、油でもすり込んだんじゃないのかというほどヌメヌメした感じになるまで、唇に真っ赤なルージュを塗りたくった、なんとも傲慢な表情の「おばさん」だった。
本人はおそらく、しばらく前に流行った「美魔女」を気取っているのだろうと思う。けれど、それにしては化粧と服装がケバすぎる上、態度や表情が傲慢で、どうにも好感が持てない。せいぜい、場末のラウンジの、なんか勘違いしている高齢ホステスさんにしか見えないのである。
「んもう、こんな時間まで、なにをのんびりしてたの?おかげでもう、お腹ぺこぺこ。あ、でも、おもらしする心配だけはなくて、よかったけどお。きゃははははは……」
この場に全くそぐわない、きわどい下ネタを堂々と口にして、けたたましく笑う。
この時点で、僕はこのおばさんに、すっかりうんざりしていた(はっきり言うが、僕は完全に年下好みで、守備範囲はJCからせいぜい同い年まで。年上は論外、さらに10歳以上年上のケバいおばさんとなると、モアイと同じくらいの魅力しか感じない。……差別発言だろうか?)。
「あ~、怪我はなさそうですね。それじゃ、1階に下りて、身体検査受けてください」
素っ気なく言い放ち、くるりと背を向けて歩き去ろうとすると、焦ったような声が追いすがってきた。
「ちょっと、なによお!あたし、ヒガイシャよお!ジンケンシンガイでひどい目に遭ったのよお!もう少し気遣ってくれたって、いいと思うんだけどお~」
「それを言うなら、僕らだって被害者ですから。それに、まだやらなくちゃいけないこともありますし」
「あなたさあ。もう少し、困っている女性に優しくしようとか、思わないのお?そんなんじゃ、ぜえったい、もてないわよお~」
その前からイライラしていたこともあって、顔を醜くゆがめ、いかにもツンツンした口調で、勝ち誇ったように話す女性の姿を目にした僕は、思わず頭に血を上らせていた(決して「モテない」と図星をつかれたからじゃない……と思いたい)。
「しばらく前、このトイレのすぐ前の防火扉のところで、親子連れの方が騒いでいたかと思うんですが」
「ああ、うん、いたいた!ばっかよね、あんなことしたら、ゾンビが寄ってくるに決まってんじゃん!」
「あの時、あなたはどうなさってたんですか?」
「そんなの、このトイレの中でずっと隠れてたに決まってんじゃん!」
「ああ~、あの親子連れを、子供だけでも助けてほしいって懇願する女性を、見殺しにしたんですね」
「それは、あんたたちだって一緒じゃん!なんであたしが、自分を危険にさらしてまで、あんなバカな女を助けなきゃいけないわけ?」
「ですよね。全く馬鹿げてます。他人のために、命がけでゾンビ退治にやってくるなんてね!本当、バカもいいところですよ!」
「よっぽどのバカでしょ、そんな真似するんてさ!あたしは絶対……」
ここまで口にしたところで、ようやくこの女性、自分に向けられる数々の冷たい視線に気づいたらしい。
それも当然、そもそもこの管理棟へやってきたメンバーは全員、「他人のために命がけでゾンビ退治にやってきた」人間ばかりなのである。その人たちを前に、堂々とバカ呼ばわりすれば――それも、この上なく見下した口調で――反感を買わないわけがない。
「あの……1階に下りて、そこで身体検査受けるんですね?分かりました……」
おばさんは、急にしおらしいよう声を出すと、誰か助けてくれないかしら、といわんばかりの上目遣いで、目の前に立つ屈強な男性たちの様子をうかがった。
が、誰も手を貸さないのはもちろん、声をかける者すらいない。唯一、あごに髭を生やした三十半ばくらいの厳ついおじさんが、「はよ出て行け」と言わんばかり、くい、とぶっきらぼうに、あごでトイレの入り口を示しただけ。
それで、おばさんはあきらめがついたらしい。
「あ、はい……それじゃ、失礼しますね……」
冷たい視線が降り注ぐ中、そそくさとトイレを出て……まもなく、こつこつと早足で階段を下りていく音が響いてきた(「ヒールをつっかけてすっ転べ!」と思わず呪いをかけてしまったのは内緒だ)。
それを耳にしたところで、僕の隣に立っていたおじさんが――先ほどのあごで「くい」の人だ――大きくため息をついた。
「やれやれ、たまんねえよな。苦労して計画立てて、体張ってんのに、あんなん言われちゃあ……」
「本当ですよね。自分は何もしないくせに、助けてもらって当然、って顔で」
「まあ、考えてみりゃ、今までは困ったことがあれば、警察だ消防だ、役所だ水道局だ、電話一本で誰かかれか助けにしてくれるのが当たり前だったしな。しかも、来るのが遅いだのなんだの、文句を言うのも当たり前で。思えば、今まで本当に贅沢な暮らししてたんだよな」
太い腕を組み、考え考えつぶやくおじさんの言葉に、僕も深くうなずいていた。そして、これから先はおそらくずっと、そのような「電話一本で誰かが助けに来てくれるサーヴィス」に頼ることなく、あらゆることを自分たちだけでこなして生きていかなけりゃならない、ということに気づき、なんだか、ぞっとした気分になる。
(これから先……どうなるんだろう……)
思わずうつむき、立ちすくんでしまったところで、
「まあ、先のこと考えても、仕方ないんじゃね?とにかく、やれることやっちまおうよ」
漣が、その場を取り繕うように、わざと明るい声を張り上げ――こいつ、年下なのに、僕なんかに比べて、本当に大人だ――率先して歩き出した。
その動きにつられて、僕らもどうにか、さっきよりも重たく感じられる体を動かし、残る階の「掃除」に向かったのだった。