シーズン1 第三章 翌日 1-2
1
翌朝。
僕を目覚めさせたのは――なんとも残念なことに――爽やかな小鳥のさえずりや心地よく差し込む日光ではなく、「ヴォオオオオオ――!」と雄叫びを上げながら、どがしゃんどがしゃんと勢いよくなにかをぶつけるけたたましい音だった。
耳元でいきなりものすごい音がはじけたおかげで、うとうとと気持ちよくまどろんでいた状態からいきなり全開で目覚め、
「うおっ!なんだこりゃ!」
思わず僕は、大声で叫んでいた。
きょどきょどと左右を見回すと、金属同士がどがどがとぶち当たるこの音、どうやら左の寝床――トラックから聞こえてきているらしい。
(隣のトラック……まさか、橋江さんが!?いや、橋江さんは反対側、僕の右隣だったはず。すると……)
慌ててリフトを押し下げ――トラップにしていた搬出カートを下げ忘れ、危うく下敷きになりそうになった――その上に乗って、おそるおそる隣の荷台をのぞき込む。
と……そこには、ものの見事にゾンビ化した青年――昨日の午後、連さんからの宣言文を届けてくれた、あの若い男の人だ――が、怒り狂った様子で搬出カートをがんがんリフトにぶつけていた。
(あの人が……なぜ?昨日会ったときには、あんなに普通で、あんなに元気そうだったのに……!)
しばらくの間、暴れ狂う男の人を呆然と見つめていると、平さんと丸手さんを引き連れた林田さんが、ものすごい早足でこちらへとやってきた。
「陸君……だっけ?ちょっと、その上に引き上げてくれねえか?」
差し出された手を握り、林田さんをリフト台の上に引っ張り上げる。
怖いぐらい深刻な顔をした林田さんは、それでも躊躇することなく、先ほど僕がしていたのと同じように、リフト台の端に身を寄せると、そこから隣のトラックをのぞき込んだ。
「ああ……くそ、やっぱり!米良君もかよ!」
男の人の狂乱を一目見るなり、林田さんはその場に座り込み、吐き捨てるようにそう言った。
「米良君も、って……他にも誰か……」
「休憩室でやられたシンさんと、センター長!昨日怪我した二人が、やっぱりゾンビ化してやがった!」
昨日はあれほどおおらかで、冷静で、物事をてきぱき処理していた林田さんが、背中を丸め、涙声で叫ぶ。
いくら気丈な彼女とはいえ、実の両親以上に慕い、頼りにしていたセンター長の、無残に変わり果てた姿を見るのは、相当こたえたに違いない。
僕は、雨の中うち捨てられ、しょんぼりとうつむいている子犬のように見える林田さんの肩に、そっと手を置いた。
「……二人は、かなり重傷だったし、一応覚悟はしてたつもりだったんだ。けど、米良君は、ちょっと指先噛まれただけだったし、まさかと思ってたんだ……なのに、ちくしょう……」
肩の上の手に気づいているのかいないのか、林田さんは先ほどと全く変わらぬ様子でうつむき、全く変わらぬ調子で言葉を吐き捨てている。その前に立つ平さんと丸手さんも、昨日に続き今日もまた、仲間からゾンビ化する人間が出てしまった衝撃からか、沈鬱な表情で押し黙ったままだ。
そこへ。
「あの……皆さんがどれだけ無念に思っていらっしゃるか、心中お察し申し上げます」
橋江さんが、おずおずと話しかける。
「ですが……本当に申し訳ないんですが、いつまでもこうしているわけにはいきません。ここのリーダー格の皆さんに、今後どうするか、決めていただかないと……」
「リーダー格の皆さん」と言っているが、橋江さんが林田さんに決断を求めているのは明白だ。その証拠に、平さんも丸手さんも、彼女の顔をそっとうかがっている。
(確かに、ここのリーダーは林田さんだ。でも、親しい人が、死んじゃうよりもひどい姿になっているのを見て、落ちこんでる若い女の人に、今すぐ冷静な判断をしろだなんて、いくらなんでもひどすぎる……)
林田さんの肩の上に置いた手に、思わず力が入った。
この時、林田さんの肩が震えだしたり、手の甲に落ちる涙を感じ取ってたりしたら、僕はきっと「ちょっと、皆さんやめてください!いくらなんでも、ひどいですよ!林田さんにもう少し時間を上げてください!」とかなんとか、お節介を焼いていたと思う。
が、彼女は、本当にすごい女性だった。
「……そうだな。このまま、あいつらを暴れさせておくわけにもいかねえし。みんなのためにも、なんとかしてやらねえとな。落ちてる暇はないか……」
軽いため息を一つつくと、林田さんはしゃんと姿勢を伸ばし、
「ゾンビ化した奴らを、センター内で野放しにはしとけない。とっ捕まえて、どこかに閉じ込めておくか、それとも、外に放り出すかしないとな。……仲間を見捨てるみたいで、すごくイヤだけどよ」
と、先ほどまでとは打って変わった冷静な声で宣言した。
「そう……そうですね。やはり、そうするしかありませんね。つらいですが」
「といっても、センターの中に、奴らを閉じ込めておける場所なんかねえよな。となると、外に追い出すしかない」
「でも、でも、追い出すっていっても、どうやって……」
丸手さんと平さんが難しい顔になったところで、
「それなら、私に一つ、思いついたことがありまして……」
と、橋江さんが二人の注意を引きつける。
「実はですね、昨日の夕方、毛布を運んでいたとき、面白いものを見まして。それまでぼんやりただ歩いていたゾンビの皆さんがですね、夕方の公共放送が始まると……」
橋江さんが熱を帯びた説明を始め、平さんと丸手さんの注意が、こちらから完全に逸れたところで、僕は、手の甲にそっとあたたかいものが触れるのを感じた。
見ると、林田さんが、肩の上の僕の手の上に手を重ね、肩越しに僕を見つめていた。
「手、ありがとな。おかげで、心強かったよ」
中学生のような童顔をくしゃっとつぶして、人なつこい笑顔になる。その表情があんまりにも無邪気であどけなくて、僕は、ドキッとした。
「あ、え、いえ、はい……」
どう答えたらいいのかわからず、あうあう言っているのがおかしかったのか――慣れてないんだ、若い女性から親しげに笑いかけられるなんて――林田さんは、くすっと笑い声を上げ、重ねたままだった手を持ち上げて、肩に乗ったままの僕の手をぽんぽんと叩く。
「ところで、そろそろこれ、外してくんねえかな?いい加減、恥ずかしい」
ちょっと意地悪風味が混じった笑顔で言われ……
「あ、す、すいません!」
僕は、彼女の肩がいきなり焼けた鉄に変わったかのような勢いで、手を離したのだった。
「さて、それでは準備いいですか、いきますよ!」
緊張した面持ちで橋江さんがスマホを操作すると、いきなり、
「は・まべの・ベランダで・待ってて~」
今では「懐かしのあの曲」みたいなテレビ番組でしか聞くことがなくなった昭和のアイドルソングが、大音量で流れ出した。
ゾンビ化した人間という、この上なく危険な存在を――一つ間違えて襲われでもしたら、自分まで死ぬよりひどい状況に陥ってしまう――わなにかけようとしている、この上なく緊張した場面だというのに、緊張感のかけらもない、のんきな幸福感に満ちあふれた甘ったるいラブソング。あまりのミスマッチ具合に、
「津田聖子!?なんだかなあ……。一体誰のスマホだよ、あれ……」
と、僕は思わずつぶやいていた。
と。
「平のですよ」
独り言のつもりだったのに、返事が返って来、驚いて顔を向けると、丸手さんがつまらなそうな顔で立ち……その向こうには平さんが、体をすぼめるようにして、居心地悪そうにうつむいていた。
「あいつはね、80年代アイドルヲタなんです。カラオケに行くと、津田聖子や大泉京子、堀田ちえりなんかの歌を、裏声で歌いまくるんですよ」
あまりに意外な言葉にびっくりして、僕は顔を忙しく振り動かし、丸手さんと平さんを、かわるがわる見つめてしまったのだが……丸手さんは相変わらず面白くもない、といった表情だし、平さんは、ますます体を縮め、心なしか、頬を赤くしているように見える。ということは……どうやら本当の話らしい。
(ものすごく意外だ……!見た目からすると、どっちかっていうと……)
思わずまじまじと丸手さんを見つめると、言いたいことがそのまま顔に表れていたのか、やるせない表情で深いため息をつかれてしまった。
「ま、確かに私の方が、いかにもヲタクっぽく見えるでしょうけれどね。私は、基本的に洋楽、それも、バリバリのハードロックしか聴かないんです。あ、それはそれで、ヲタクですかね」
これまた意外な話を聞いて目を丸くしていると、丸手さん、人の良さそうな丸顔をゆがめてしかめっ面になり、
「平とは、音楽の趣味だけは合わないんですよね。ヘヴィーなビートとシャウトの魅力が分からんとは、本当に仕方ないやつですよ」
と吐き捨てる。
あ、ごめんなさい、僕もハードな洋楽とかより、アニソンとかの方がいいです、ごめんなさい……と、平さんのみならず、丸手さんの意外な面にも驚かされ、呆然としているうちに、トラックの荷台の中にスマホを設置し終わった橋江さんが、高々と挙げた手を大きく振り回した。
いよいよ作戦開始だ。
僕らは、スマホから流れ出る歌声に興奮し、前にも増して大暴れしているゾンビさんに気づかれないよう、そっとリフトに近づいていった。
人間の音声に強く反応し、追いかけるという習性を利用し、トラックの荷台に音楽を流したままのスマホかなにかを設置して、ゾンビさんをおびき寄せ、三人――三匹?――全てが荷台に入ったところで、一気に扉を閉め、閉じ込めてしまう、というのが、橋江さんの提案したゾンビ捕獲計画だった。
単純といえば、この上なく単純な計画だけど、他にこれといった代替案はないし、うまくいけば、誰も怪我をせずにゾンビさんたちを捕獲することができる。このままゾンビさんたちを放っておけば、いつなんどき荷台から脱走して、誰かに襲いかかるかもしれないし、とにかくやってみよう……ということになったのだ。
まずは「トラック宿泊所」の端に、扉を開けたままのトラックを一台、出入り口を塞ぐように設置。荷台から地面まで、木の板のスロープを渡しておく。
同時に、ゾンビさん三匹が――三体が?――大騒ぎしているというのに、それでも平然と眠りこけている数人を、たたき起こして回る(漣もその中の一人だった。「漣、いつまで寝てんだ!」と叫びながら、彼ののトラックの側板をがんがん叩いたところ、中から「ウヴォオオああああっ!」という叫び声。え、まさか漣もか!と、僕らは胸のつぶれそうな気分を味わった。が、結局、漣のヤツ、単に寝起きが悪くて、朝起きるときにはいつも、奇声を上げずにいられないだけだと分かり、胸をなで下ろしたのだった)。
宿泊所が無人になったところで、僕や平さん他数名が、ゾンビさんのいる三台のトラックの入り口脇に待機。橋江さんの合図で、リフトのロックを解除し、垂直に立てられていたリフトを水平位置まで戻して退散。後は、ゾンビさんがエサに惹かれてトラックの荷台に入り込むのを待つだけ、となるはずだったのだが……。
「くっそ!ロックが、固え!」
平さんが、必死の形相でささやいた。
ガテン系の職場では、普段あまり使うことのない道具などは、ろくに整備されないまま放っておかれることが多い。だから、典型的ガテン系である運送会社で、あまり使わない道具代表格である「トラックリフトのロック機構」なんか、もちろん放っておかれっぱなしになる。で、当然中にはさびが浮き、潤滑油が固まって、固くなってしまうものだって出てくる。
なんとも不運なことに、ゾンビさんの乗ったトラックの中の一台――僕と平さんが担当したトラックが、その「整備不良のリフトロック」のついたものだったのだ。
がたん、ばたん、と他の二台のトラックはスムースにリフトが下ろされ、荷台から運搬カートとともに飛び出たゾンビさんが、1メートルほど下のアスファルトに思い切りダイビング。人間なら、ちょっとすぐには起き上がれないほどの衝撃を受けたはずなのに、ゾンビさんたちは平然と立ち上がり、ふらふらと歌声を流しているスマホ目指して――今は子猫クラブの「セーラー服を探さないで」が、天井知らずの脳天気さで流れている――どたどたと不器用に走り始めている。
(まずい、このままじゃ、ゾンビさんが一体取り残されてしまう!)
平さんに協力し、必死でガチャガチャとロックを動かすが、長年の間にこびりついたさびはしつこく、容易に動こうとしない。
と、そこへ。
「どいて!」
駆けつけた加呂さんが、手に持った巨大なバールでロックの取っ手を思い切りこじり……それでようやく、金切り声のような音を立て、いかにもいやいやながら、という感じで、リフトのロックが解除された。
大慌てでリフトを水平に戻し、その場から離れたのだが……先行するゾンビ二体は――やっぱり「二体は」が一番しっくりくるな――既にスロープを上りきり、荷台へと入ろうとしている。
頼む、最後の一体が中に入るまで、しばらくスマホに気づかないでくれ、と祈るような気持ちで見つめていたのだが、残念なことに、神様はその祈りを聞き届けてくれなかった(ま、「パンデモニック」なんてトンデモ状況を現出させる、無情でつれない神様なのだから、ささやかな願いすら聞き届けてくれないのも、当然なのかもしれない)。最後のゾンビさんがスロープにさしかかるかどうかといったところで、荷台の中のゾンビさん――元はセンター長だった一体が、歌声を流しているのが「柔らかい肉を備えた獲物」ではなく、ただの小さくて固い長方形の物体だと、気づいてしまったのである。
戸惑いと混乱と失望が、あっという間に激怒へと変化したらしく、ゾンビさんは、手に持ったスマホを、思い切り床にたたきつけた。その衝撃で、それまでがんがん流れていた歌声はふっつりとやみ、一瞬、周囲が静まりかえる。
「ヴォオオオアアアアアアアアアッ!」
激怒の雄叫びを上げたゾンビさんたちが、本能むきだしの醜い表情をはりつけ、荷台から出てこようとした、その時。
「うわわわわわわわわがあああっ!」
ゾンビの絶叫と負けず劣らずのうなり声を上げ、小さな茶色い塊が、奴らの真正面へと躍り出た。
「だめ、カール!」
真木ちゃんの悲鳴じみた叫び声が響く。
確かにそれは、あの「真木ちゃんの弟」カールだった。
背中の毛を総毛立たせ、上体を地面すれすれにまで伏せた格好で、牙を剥きだし、うなり声を上げている。ゾンビどもがこれ以上近づこうものなら、遠慮なく噛みついてやる、といわんばかりの、本気臨戦態勢だ。
「だめ!危ない!戻って、カール!」
あれほど声を立ててはならない、と通達しておいたのに、真木ちゃんは弟を心配するあまり、自分の身の危険などすっかり忘れ、駐車場全てにキンキン響くほどの大声を上げる。ゾンビさんたち、当然その声に反応し、真木ちゃんの方へと一歩踏み寄ろうとした。
と。
「うおがあああわあがあわああおん!」
怒り狂った声を上げながら、ゾンビに向かって、カールが突進する。
いけない、ゾンビどもにカールがやられる!と、誰もが思ったその時……信じられないことが起きた。
カールの吠え声を耳にしたゾンビさんたちが、びくうっ、と立ちすくみ、困惑した表情を浮かべたかと思うと、じり、じり、と後ずさりを始めたのだ。
犬は、相手が自分におびえていると分かると、かさにかかって追い立てようとする。
この時のカールも、お、この人間モドキ、俺にびびってやがる、と悟った瞬間、さらに奴らに近づき、ものすごい勢いで吠え立て始めた。
ゾンビさんたちは、今やはっきり嫌悪と恐怖の表情を浮かべ、鼻先に迫ったカールを追い払うように、腕を左右に振り動かしながら、じりじりと後退し始める。中の一体は、つまずいてスロープの中程に尻餅をついてしまっていたのだが、それでもなお――むしろ、余計に慌てた様子で――両手両足、それに尻までフルに使って、結構な速度でスロープを這いのぼっていく。
とうとう三体ともが荷台の奥深くへと逃げ込んだところで、
「今です!」
それまで様子をうかがっていた漣と橋江さん、それに安藤さん率いるドライバーさん数人が、素早く飛び出した。
先頭を走る漣がカールを抱え上げると同時に、ドライバーさん二人が、スロープにしていた木の板を荷台から蹴り外す。そこへ、扉にとりついていた安藤さんともう一人のドライバーさんが、左右から走り寄るようにして扉を閉め、がっちりロックする。
あらかじめ何度か練習していた通りの、流れるような動きだ(漣がカールを救出するのだけは、後からアドリブで付け足したものだけど)。
一瞬遅れて、荷台の中から「ヴォオオオアアアアッ!」と怒りに満ちた叫び声と、狂ったように扉を叩く音が響いてきたが、もはやその声も、激しい殴打の音も、むなしく響くのみ。
作戦は、見事に成功したのだ。
「やれやれ、一時はどうなるかと思ったが、どうにかうまくいったな!」
ゾンビを閉じ込めたトラックのすぐ脇にあるトラックの荷台から、林田さんが、額に浮いた汗を拭いつつ、リフトの上に姿を現した(トラップに最寄りの荷台に姿を隠し、全体の様子を見つつ、いざとなったらさすまたでゾンビさんたちを追い詰め、捕獲するという、もっとも危険な役割を、彼女、自ら買って出ていたのだ)。
「これで一安心だ!みんな、よくやった!気持ちよく朝飯といこうぜ!」
満面の笑みとともに、林田さんが拳を突き出すと、それを見上げる男たちも一斉に――もちろん僕も、なんとカールまで――うおーと雄叫びを上げ、拳を突き出した――カールは激しく尻尾を振って、左前足を前に差し出した――のだった。
2
「それにしても、カールに吠えられたゾンビさんが、あんな風になるなんて、実に意外でしたね」
朝飯のコンビニ弁当を頬張りながら――昨晩は唐揚げ弁当で、今朝は鶏そぼろ弁当だった――橋江さんが、感に堪えないといわんばかりにうなずいてみせる。
「ですよね。映画やゲームだと、ゾンビさんたち、人も動物も見境なく襲いかかって食らいつくのに」
と、僕も深いうなずく。
ゾンビ捕獲作戦を終え、ほっと一息つきながらの朝食だ。当然その場の話題は、終わったばかりの作戦内容が中心で――誰一人傷つくことなく作戦を終了できた達成感と満足感で、みんな顔を輝かせていた。
橋江さんのアイデアがよかったから、いやいや林田さんの指揮ぶりが、漣のとっさの機転が、加呂さんの準備の良さがと、キャッキャウフフ的に相手を褒め合う誇らしげな雰囲気の中、少し話が途切れたところで、ふと橋江さんが、そういえば一番の立役者を忘れていた、という感じで持ちだしたのが、カールのことだったのである。
「犬に吠えられるのが苦手か……なんだか少しずつ、ゾンビさんの性質が分かってきましたね」
「ですね。昼間に活動し、夜は眠りこそしないものの、動きがものすごく鈍くなるとか」
「大変残念なことに、噛まれると同じ病に冒されて、ゾンビ化してしまう、というのもそうですね」
「あ、でも、それも、血が出るぐらい強く噛まれてようやく伝染る感じ、ですよね。あの、米良さん……でしたっけ?指先噛まれただけの人がゾンビ化してしまったのに、がっぷり噛まれたけど歯形がついただけだった漣や、爪で引っかかれた僕とか橋江さんは、助かったみたいですし……」
いいながら、僕は自然とうつむいていた。
林田さんに管理棟からの宣言状を持ってきたとき、米良さんは全然元気で、全く普通に会話し、行動していた。それが、噛まれてからわずか一日で、ああも変わり果てた姿になってしまったことが、すごく残念で、やるせなかった。と同時に、バイト先の店舗でお客がゾンビ化したとき、もしも加呂さんが素早く助けてくれなかったら、今頃は間違いなくああなっていたと思うと、今更ながら、底冷えするような恐怖感に襲われ、言葉を続けることができなくなってしまったのだ。
「……ついてたよね、おれたち。本当に」
ぼそりと漣がつぶやき、僕を含めて、その場に居合わせた全員が、沈鬱な顔でうなずいた。
しばらく居心地の悪い沈黙がその場にとどまったいたところで、
「まあ、でも、本当についていたのかどうか分かるのは、これからかも知れないけどね」
何もかも面白くない、といった表情で、加呂さんがぼそっとつぶやいた。
「……どういうことでしょう?」
橋江さんが不審げな表情を浮かべると、加呂さんは、軽くため息をつき、力なく笑う。
「だって、私たちみんな『まだゾンビ化していない』だけかも知れないでしょ。噛まれると一日でゾンビ化、引っかかれると二日でゾンビ化、みたいに」
「ちょ、怖いこといわないでよ!」
漣が恐怖と嫌悪の入り混じった表情を浮かべる(おそらく僕も、彼と全く同じ表情をたたえていたと思う)。が、橋江さんは、怖いぐらいに真面目な顔になると、深くうなずいた。
「確かに、加呂さんのおっしゃるとおりですね。僕らは、とりあえず今日は無事だっただけで、明日は、あさってはどうなるか分からない。そのことを常に踏まえて、これからのことを考えていかなくてはなりませんね……ね?」
橋江さんに同意を求められ、僕は慌ててうなずいた。
「ええ、ええ、そうですね。とりあえず、安全対策のため、トラック宿泊所で寝泊まりするのは、続けた方がいいと思います」
「二度とゾンビ化する人を出さないように、ゾンビさんを捕まえるとかする時も、注意しないと」
加呂さんもそう言うと、僕を見つめつつ、もの問いたげに小首をかしげる。
「……血が出るほどの怪我をしなければ、多分無事でいられるようですから、ゾンビさんのそばに近寄るときは、爪や歯を通さない、丈夫な服を着て、バイク用のフルフェイスヘルメットとかで、頭も保護した方がいいでしょうね。これから暑くなるから、ちょっとしんどいですが」
「メットなんて、ここにはねえと思う。どうすんのさ?」
と、これは漣。やはり彼も、僕の顔をじっとのぞき込んでいる。
「……作業用のヘルメットでも、一応の防御にはなるだろうから、とりあえずはそれをかぶる方向性かな。そうしておいて、できる限り早く、衣服とか、ヘルメットとか、物資を手に入れないといけないと思う。近くに、ホームセンターみたいなところがあればいいんだけど……」
なんだってみんな、僕なんかに意見を言わせたがるのかよく分からないまま、頭に思い浮かんだことをそのまま口に出していると、いつの間にか、みんなが納得した顔になっていた(時々こういうことが起きるのだが……いつもながら、本当に謎な状況だ)。
一体なぜそうなるのかよく分からないけど、皆の顔に明るさが戻ってきたところで、この上なく深刻な表情を浮かべた丸手さんが、せかせかとこちらに向かって歩いてきた。
「ああ、ここにいらっしゃいましたか。皆さん、申し訳ありませんが、ちょっと来てほしいんです」
切羽詰まった口調に促されるように、僕らは――丸手さんから伝染した深刻な表情をたたえて――慌てて立ち上がったのだった。
「……それで、いきなり叫び声と、悲鳴が聞こえてきて、もう無我夢中で逃げ出してきたんです……」
裸の上半身のあちこちに巻き付けられたタオルに血をにじませながら――管理棟にある医務室を占拠されてしまったので、怪我の手当に使えるのが、タオル以外なかったのだ――男は、息も絶え絶え、という様子でそう語った。
配送センターの入り口近く、事務所の裏に作られたプレハブ――昨晩、真木ちゃんがカールと一緒に泊まった場所だ――の中である。
数時間前まで真木ちゃんが寝ていたはずのベッドに横たわりながら――正直言って、できるならちょっとだけ代わってほしいと思うぐらい、うらやましかった――荒い息をつく合間に語られた男の話に、僕らは皆、表情をこわばらせていた。
今朝、センター長たちがゾンビ化し、僕らが大騒ぎしていたのと同じ頃、管理棟の中でも数人がゾンビとなり……何の対策も施していないまま、集団で固まっていた人々に、いきなり襲いかかったというのだ。
当然、阿鼻叫喚の騒ぎとなった。
突然のことにパニックを起こし、皆がそれぞれ我先に逃げだそうとした。ところが、昨晩、管理棟4階5階を占拠した際、外から簡単に開けられないようにと、防火扉の内側にテーブルや使っていないベッド、椅子などを積み上げ、バリケードを作っておいたそうで……結果的に、猛獣とともに自分たちを檻の中に閉じ込めた格好になってしまったらしい。
「なんとかバリケードを蹴りのけて扉の前まで行ったんですが、とても一人じゃ開けられなくて……でも、そこに小さな扉がついてることに気がついて、なんとかそこを開けて、逃げ出してきたんです」
小さな扉?それって一体なんだ?と思いつつ、ちらっと丸手さんを見ると、
「くぐり戸のことでしょうね。火災が起こったとき、火の手を防ぐのに防火扉を閉め、施錠した後でも、万が一逃げ遅れた人が避難できるよう、手で開け閉めできる小さな戸が扉についているんです。それを使ったんでしょう」
待ってました、といわんばかりに生き生きと説明してくれる。
なるほど、とうなずいたところで、男に向き直り、
「ええと、あなたは何階にいたんですか?」
「4階にいました。話し合いで、男はみんな4階の食堂に毛布を引いて雑魚寝、女性と小さなお子さんは5階の仮眠室、ひと組家族連れがいたんですが、その人たちは食堂の横の医務室を使う、って決めたんです」
「ああ……なるほど」
私たちは何でも民主的に行動する、立派な市民ですからね、とでも言いたいのか、男は、やや得意そうな顔をしている。
その顔を見せられた瞬間、ものすごいむかっ腹がたち、
――ああ、なるほど、ゾンビに噛まれて大量出血した病人を放り出して、その代わりに、健康な家族連れが医務室を使ったと。そしたら、ゾンビに襲われて、おそらく今頃は本当に医務室のお世話にならなきゃいけなくなってると。家族連れだけじゃなくて、立派な市民であるあんた方全員が、けが人になったと。そういうことですね?ねえ、今一体どんな気分?
そんな言葉を石つぶてのようにぶつけてやりたくなったのだが……いやいや、今更そんなことをいったところで、どうしようもないんだし、と危ういところで思いとどまった(とはいえ、視線まではさすがに自制できず、気がつかぬうちに、いまだになにか勘違いしているらしいこのおっさんに、この上なく冷ややかな視線を突き刺していた)。
と、その代わり、僕の隣で、僕と同じように冷たい目をおっさんに向けていた橋江さんが、おもむろに口を開いた。
「それで?あなたは、ゾンビ化した人を捕獲しようとはしなかったんですか?」
「え、そんな無理ですよ!ただただ恐ろしくって、逃げるしかなくて……」
「なるほど。何人ぐらいの方がゾンビ化されたのですか?」
「え?いえ、分かりません。逃げるのに必死で……」
「取り除いたバリケードは、どうされました?」
「あ、えーと、よく覚えていませんが、廊下の方に崩して、そのまま……」
「くぐり戸の鍵を開けて外に出て、その後閉め直しました?」
「いえ……開けて飛び出してきたので……とにかく必死で……」
「階段で逃げたんですよね?5階でもゾンビ化してそうでしたか?」
「いや……あの、そんなこと、気にしてる余裕なかったんです。本当にただもう夢中で……」
ここまで聞いたところで、橋江さんは大きくため息をついた。
「なるほど。よく分かりました。わがまま言って重要な共有施設を占拠したものの、用心が足りず、ゾンビに汚染されました。他人が襲われたのを見て怖くなり、見捨てて逃げ出しました。逃げるのに夢中で、ゾンビが何体いたか、他の階の様子がどうだったかなんて覚えていません。自分の逃げ道を作るのに夢中で、他人の迷惑なんか一切考えず、ゾンビが出てこられる通路をそのまま放ってきてしまいました……ざっとまとめると、こういうことですね」
「決してそんなつもりじゃなかったんだ!しょうがなかったんだ!自分の身を守るに精一杯で、人のことなんか、構ってなど……」
「あ、もういいですから。情報ありがとうございました。後はこちらでやりますから、ゆっくりお休みください」
逆ギレするおっさんに対し、眼鏡を、くい、中指で押し上げながら、橋江さんはこの上なく冷たい声でそう言い放った。
あまりのとりつく島のなさに驚いたのか、おっさんが息を呑み、黙り込む。
そこへ、
「……どうしたら、いいと思います?」
丸手さんが、上目遣いに僕の顔をのぞき込みながら、おそるおそる尋ねた。
「え、いや、どうしたらって……」
僕は、激しく面食らった。僕らは、センターの皆さんの好意で助けてもらっただけの、ただの居候だ。センターの施設や、その運営方針について、口を挟むべき存在じゃない。なのに、どうして丸手さんが、これからの対策についてお伺いを立ててくるのか、どうにも理解できなかったのだ。
「林田さんは、どうおっしゃってるんです?」
ここはやはり、センターの責任者に一任すべきだろうと、彼女の名を出した途端、丸手さんは、なんとも情けない、困り果てた表情を浮かべた。
「それが、林田さん、いないんですよ。ゾンビ化した三人を解き放してくる、って言って、平と安藤君と、トラップに使ったトラックに乗って、出かけちゃったんです」
「え、責任者なのに!?」
「散々止めたんですが、責任者のオレが最後までこいつらの面倒見ないでどうする、って押し切られちゃって……」
おそらく彼女、センターの仲間――中でも、若い頃の自分を支えてくれた、大恩ある伯父さんを、なにがなんでも自分自身で最後まで処理し、見送ってやりたい、と思ったのだ。
仲間や肉親を思うその優しい気持ちは、本当に素晴らしいと思う。けど……。
「それなら、丸手さんが今は、センター長代理の代理なんですよね?だったら……」
「わ、わたし、だめなんですよ!決まったことを決まった手順で処理していくのは得意なんですけど、なにかトラブルに対処するとか、そういうの本当に苦手で……どうか助けると思って、知恵を貸してください!」
両手を鼻の前でぴたりと合わせ、泣きそうな顔で拝まれてしまい……僕は再びため息をついた。
「分かりましたよ。僕なんかの意見が役に立つのかどうか分かりませんが……」
「いえ!絶対!役に立ちます!聞かせてください!」
まったくもう、どうしてみんな、単なるFラン大学の学生に過ぎない僕の意見の聞きたがるのか、さっぱりわけが分からないよ、と思いながらも、引き受けたからには仕方がない。ガリガリと頭をかいた後で、僕はゆっくりと腕を組んだ。
「……ええと。このことを、センターの皆さんはご存じなんですか?」
「いえ。まずは皆さんに相談して、方針を決めてからと思いまして」
「それじゃあ、まずは、トラック宿泊所の真ん中にでも、全員を集めてください。集まったら、管理棟からゾンビさんがさまよい出たかもしれない、と説明して……」
「ああ、センター内の確認ですね。分かりました!」
きびすを返して駆け出そうとする丸手さんを、慌てて呼び止める。
「ちょっと待ってください!丸手さんには、まだお願いしたいことがあるんで、行かれたら困りますよ!」
「え……でも、じゃあ……」
丸手さんが、困惑した顔で立ち止まる(どうやらこの人、目の前の行動方針が決まらないと、本当に動けないらしい)。そこへ、
「おれが行ってくるよ。昨日一緒に作業して、ちょっと仲良くなったし」
漣がぶっきらぼうに名乗り出てくれる。
「うん、頼む。3,4人ぐらいでひと組になってもらって、いくつかのグループで、手分けしてセンター内をくまなく確認してもらうようにして」
「わかった」
「出かけるときには、手袋着用の上、ゾンビの歯が通らない、分厚い上着を着て、長い棒かなんかを持つようにと伝えてください。くれぐれも噛まれないように、とね。」
と、横から橋江さんが補足してくれる。
「おっけ。そんで、見回り組を作って、人数が余ったら?」
「その場で待機しといてもらって。多分、もっといろいろ、お願いしなきゃいけないことがあると思う」
「り」
なんだよ、「り」って、リア充JKかよ、ってツッコミを入れたくなったが……そうだ、漣はリア充DKだったんだと思い出し、ちょっとへこむ。
「それじゃあ、頼むな」
「り」
漣が早足で歩き出したところで――長い足で大股に歩き去る後ろ姿までイケメンで、なんでこう、神様ってやつは不平等なのかと、ちょっと悔しくなる――僕はまた、丸手さんに向き直った。
「センターの確認はこれでいいとして……後は管理棟ですね」
「はい!中にまだ大勢の人がいますし、なるべく早く助けに行かないと!」
またしても、今にも駆け出しそうになる丸手さんを、
「かといって、安易に中に入れば、犠牲者を出すだけですからね。きちんと計画を立ててから行動しないといけませんね」
橋江さんが、すかさず止めてくれる。
「そ、そうですね、焦っても仕方ないですよね……」
丸手さんが、若干しょぼんとしながらも、ちょっと落ち着いたところで、
「管理棟の入り口は、鍵がかかっているんですか?」
橋江さんが、状況を確認しにかかった。
「いえ……そういえば確認してませんね。こりゃ大変……」
「鍵は、あなたが持ってるの?」
と、それまでじっと話を聞いていた加呂さんが、口を挟む。
「あ、いえ、隣の事務所にあるはずなので……」
「わかりやすいところにある?」
「はい、入り口入ってすぐの壁に、センター各所の鍵を保管するボードがあるのですが、そこにあるはずです」
「それじゃあ、あたしが行ってくるよ。あ、それと、もしよかったら、なんだけど」
「なんでしょう?」
「管理棟の入り口、ただ扉を閉めて鍵かけるだけじゃなくて、トラップしかけておいたらどうかなって思うんだけど、どう?」
「トラップといいますと……」
「さっき、ゾンビさんと捕まえたみたいな、トラックの荷台使った――ゾンビホイホイみたいなトラップ。あれを仕掛けておけば、管理棟から逃げるの防げるし、ついでに捕まえられるし、どうかなって」
「ああ、そりゃいい!そりゃいいですね、ぜひ……」
丸手さんの顔がほころぶ。が、それとは対照的に橋江さんは難しい顔だ。
「トラップ設置には賛成ですが、できれば改良してくださるとありがたいですね。それこそ、あの『ゴキブリポイポイ』みたいに、一度捕まえたら出てこられないようにしないと、危なくて仕方ありませんから」
「うん、あたしもそれ、考えてた。ちょっと思いついたことがあって、大工道具と材料があれば、多分、うまく改良できると思うんだけど……」
「あ、のこぎり、金槌程度の道具と、ベニヤぐらいなら、備品倉庫にありますよ」
「使っていい?それと、センターの人何人かに手伝ってもらいたいんだけど」
「は、はい!ぜひお願いします!」
「陸君は?それでいい?」
加呂さんが、不意の僕の顔をのぞき込んだ。
いや、僕の同意なんか、いちいち得なくてもいいだろうにと困惑しながら、
「あ、はい。じゃあ、入り口のトラップ設置、お願いしちゃっていいですか?」
一応お願いすると、加呂さんは、にかっと笑う。
「任しといて。こう見えてあたし、DIY女子だから」
ということで、加呂さんもさっさと部屋を後にし、後には僕と橋江さんと丸手さん、それに管理棟から逃げ出してきた役立たず――いやいや、さすがにそれは失礼だ――「被害者」だけが残った。
「さて、残る問題は、管理棟に残った人の救出と、ゾンビの捕獲ですね」
橋江さんが再び、眼鏡を、くい、と押し上げながら、口を開く。
「は、はい!」
「絶対にけが人を出さないように、しかも、できるだけ速やかに、管理棟のどこに、どれほどいるかも分からないゾンビさんをとらえ、同時に中の人たちを脱出させる。米軍の特殊部隊でも手こずりそうな作戦ですね」
「え、ええ、そうなんですが……見捨てるわけにもいきませんしね」
丸手さんがため息をつく。
「そうですね。本当なら、見捨ててしまいたいところですが……」
そこで言葉を宙に浮かせると、橋江さん、ゆっくりと「被害者」へ視線を向ける。
「被害者」は、さすがに居心地が悪いのか、やや体を縮めた。が、それでも口をとがらせ、「いったい俺のなにが悪いっていうんだ」といわんばかりの開き直った――その実、おどおどびくびくしているのが丸わかりの――表情になった。
「……まあ、さすがに全員見捨てるとなると、夢見が悪いですし、それに、管理棟の設備を早く取り返したいですものね。私、昨日からシャワー浴びたくって仕方ないんですよ」
橋江さんが体をもぞもぞさせながら顔をしかめ……僕らは、皆、にやりと笑った(もちろん、石けんに匂いをプンプンさせている「被害者」は除いて、だけど)。
「そ、それで、一体どうしたら……」
「あの……一つ、考えがあるんですが……」
僕がおそるおそるつぶやくと、橋江さんと丸手さんが真剣な視線を向けてきて……僕は尻がむずがゆくなるような、なんとも言えない妙な気分を味わったのだった。