シーズン1 第六章 飛躍
1
それからは、本当に忙しい日々が続いた。
まずしなければならなかったのは、3000人に及ぶ新たな避難者の受け入れるために必要な、大規模な検査場の準備だったが……これは、前々から目をつけ、清掃作業を進めていた「市民プラザ」を利用することで、すんなり話がまとまった。
市民プラザとは、大規模な市民学習センターと体育館、グラウンドが一体になった施設だ。
もともと市営の施設なので、周囲をそれなりに高いフェンスで囲まれており、捕獲し損ねた野良ゾンビさんが入り込む可能性は少ない。その上、体育館を利用して大規模な検査施設を設置できるし、検査の結果、24時間の隔離観察を行わなければならない、と判断された人が出れば、学習施設を改造して造った(隔離のための)仮宿泊施設にとどまってもらえばいい。加えて、この市民プラザ、僕らの根城である団地から目と鼻の先にあるので、検査が終わった方々を速やかに住居へ案内できる。
まさに、大規模検査場におあつらえ向き、というしかない条件が揃っていたのである。
ということで、避難民受け入れが決定した直後から、早速、清掃を終えたプラザ体育館にパーテーションを持ち込み――これも、施設の備品としてプラザ内の倉庫に準備してあったものだ――男女別に検査ブースをそれぞれ15部屋ほど用意する。そして、学習センターの方も、各部屋を厚手のベニヤ板で区切り、それぞれのブースに分厚いドアと頑丈な鍵を取り付けられるようにする。いわば、ネットカフェの個室ブースのようなものを――ただし、仕切りは天上近くまで伸びているけれど――を作っていくわけだ。
一週間ほどで作業は完了し、検査態勢は整った。
「早かったですね」
「ええ。もともとここにあった資材を極力利用して作ったし、それに、この辺りは町工場が多いから。足りない資材はそこから調達して、可能な限りのスピードで組み上げたの。といって、どこも手抜きはしてないから、安心してね。特に、隔離部屋は可能な限り頑丈に造り上げたから」
おっとりと語る加呂さんに、僕は苦笑を返した。
「ええ、ありがとうございます。一応仕切りを押したり叩いたりして確かめてみましたが、どこも、びくともしませんでした。限られた時間で素晴らしいものを造っていただけて、本当に助かりました」
「まあ、ね。任された以上、仕事はきっちりやらないと。それに……」
と、ここで、加呂さんは、いつものにったりとした微笑みを崩し、やや気遣わしげな表情になった。
「避難民の方々、ろくに落ち着けるところもないまま、しんどい生活をしているんでしょ?なるべく早く受け入れてあげた方がいいかなって思って」
「そうですよね。固い床の上に毛布を敷いてごろ寝だなんて、息が詰まるでしょうし。設備は整いましたし、新たに検査員や誘導員になってくれる方々への説明や訓練も、一通り終わってます。早速、井関さんに連絡して、避難民の第一陣を、送り届けてもらいましょう」
「……今までずっとゾンビ化せずに生活してきた人たちなんだし、本当なら、こんな検査なんかすっ飛ばして、直接団地に住んでもらえばいいんだけどねえ……」
ため息交じりにそんなことをつぶやきつつ、加呂さんは、ちらりと僕を見る。
僕は、困った笑顔を浮かべた(最近、この表情を浮かべる子tが増えた気がする)。
「加呂さん。それについては散々話し合ったじゃないですか」
「あ、うん。分かってはいるんだけど……」
避難民の人たちは、これまでずっと駐屯地で過ごしてきた以上、傷があってもゾンビ化することはほぼないはず。だからといって検査を省略すれば、厳しい検査をクリアして公社の一員になった既存のメンバーが「なんであいつらだけ特別扱いするんだ」と、不満を感じるかもしれない。ここは、一種の儀礼だと思って、きちんと検査を受けてもらった方が、しこりを残すことなく僕らに合流してもらえるはずだ……という趣旨の林田さんの意見に(もちろん、彼女が実際に口にしたのは、これよりもっと、くだけにくだけた乱暴な言葉だったけど)、なるほどそれももっともだと、主要メンバーのほとんどが賛成する形で、今回の合流手続きは決められたのである。加呂さんは、この意見にずっと反対し続けていた中の一人だったけど、最後の最後には、納得してくれたはずだ。
「……まあ、動き出してしまった以上、今さら四の五の言っても仕方ないものね。今は、できるだけ早く検査を済ませて、さっさと合流できるようにって考えるべきか」
「ええ、そう、そうですよ。それに、今のうちに大規模な検査場を造ったことって、きっと意味があると思いますよ?」
「……まあ、そうね。そう思うことにする」
加呂さんは最後まで浮かない顔だったが、とりあえず検査場は確保できたので、順次避難民の受け入れを開始することになった。
これより数日前には、僕らの根城である団地全てと、周辺にある民家百数十軒の清掃と改造と急ピッチで終え、なんとか今回の避難民の方々――3000人分の住居スペースは確保できている。後は、検査が終了した人から、順次そちらへ案内していけばいい。
きっと今まで、ろくにシャワーすら浴びれなかったのだろうから、できればすぐにでも部屋に入って、落ち着いてもらいたいところだけれど……まあ、仕方がない。
加呂さんの浮かない顔に引っ張られたのか、僕までなんだか避難民の方々に申し訳ないような気になってきてしまっていたが、いやいや、これまでよりかは生活レベルが格段に上がるはず、検査はちょっと面倒で、メンタルにくる内容だけれども、きっと、それをくぐり抜けるだけの意味はあったと思ってくれるはず、と無理矢理自分を納得させる。
そして、
「それでは、お願いしますね」
と加呂さんに後を任せ、検査場を後にしたのだった。
次の日。板見駐屯地からトラックで運ばれてきた第1陣が、続々と検査会場に降りたった。
朝だというのに皆さん疲れた顔をしているのは、運ばれてきたのが、あまり体力の残っていない方々――子供やお年寄り、持病をお持ちの方や怪我が治りきってない人たちが中心だったからか、それとも、長い避難生活の後、ぎゅうぎゅう詰めで運ばれてきたためだろうか。どちらにしても、検査会場に着くなり、皆さんほっとした顔で誘導に従い、おとなしく第一検査場へと向かっていってくれる。心配していたクレームやトラブルもなく――というか、皆さん、今の状況より少しでも生活レベルがましになるなら、どんな検査だって受けます、人前で裸になるのなんか、あの狭い駐屯地では当たり前でしたから、今さらなんということもないし、それに、もし万が一24時間の隔離観察ってことになっても、個室と、暇つぶしのための本やスマホまで与えてもらえるのだから、むしろありがたいぐらいです――と、むしろ感謝されてしまい、かえって僕らの方が恐縮してしまった。
そんな調子でスムースに検査は進んだのだが、検査ブース数の関係で、一回に検査できる人数は、せいぜい30人。検査内容を見直し、余計な手順を省いて、なるべく短時間で検査が終了できるようにしたとはいえ、それでも、システマティック検査要員1チームが1時間に検査できる数は、どんなに頑張ってもらったとしても、せいぜい3、4人。
ということで、初日は千人の方々の検査を終えた時点で終了となった。
「すみません、今日中にすべての方々の検査を終えられたらよかったんですけれど、処理能力的に限界で。残った方々には、申し訳ないんですけれど、もう後ちょっとだけ我慢していただくことになるかと……」
最終便のトラックに乗り、こちらにあいさつがてら、検査場の様子をうかがいにやってこられた井関さんに、そういって頭を下げる。と、気のいい隊長代理は、目を丸くし、ぶんぶんと首を振った。
「いえいえいえいえ。なにをおっしゃるんです。こちらとしては、一日にこんなにも大勢を受け入れてもらえて、本当に助かっています。失礼ですが、検査場を準備したとはおっしゃっていたものの、せいぜい一日200人の受け入れがいいところかな、なんて考えていたものですから」
「あ~、まあ、そう思われても仕方ないですよね。僕らも大した人数いるわけじゃないですし」
「それなのに、これほどまでに整った施設を準備していただいて。皆さんの力を見くびってました。本当に申し訳ありません。そして、本当にありがとうございます」
上半身を腰からビシッと一直線に傾ける、身体訓練を受けた人特有の礼でもって深々と頭を下げられ、今度は僕の方がどぎまぎしてしまう。
「いえいえ、そんな、やめてくださいって。今回は、たまたま検査場にちょうどいい会場が手近にあって、それなりの数の検査要員希望者も集まってくれたからできた、ってだけですから。そんなことより、あと二日、井関さんたちも送り出しの方、大変でしょうが、よろしくお願いします」
井関さんとは比べものにならない情けない格好でぺこりと頭を下げると、無精ヒゲをポツポツ生やした連隊長代理は、疲れた顔にうっすら笑みを浮かべた。
「了解です。隊員全員一丸となって、あと二日、決死の覚悟で……」
「ああ、いえいえ。むしろ、そんなに頑張らないでください」
「……は?」
「ああ、あの、えっと、頑張るなっていうと、逆に失礼かもしれないんですけど、こうやって間近で見ると、井関さん、今でもものすごくお疲れのようですから。あと二日、と思って頑張リ過ぎていただいたら、倒れちゃうんじゃないかなって思いまして」
「ああ……」
「避難民受け入れとかは、多分、僕らの方が慣れてますし。もし送り出す時にクレームとかがあったら、僕らに直接文句を言うように、と言ってあげてください。あ、もしなんだったら、僕らの方から誘導の人員を送りますんで、自衛官の皆さんは、明日からしばらく休養をとっていただいても……」
「いえいえ!さすがに、そこまでは甘えられません!最後の送り出しぐらいは、こちらでしっかりさせてください!」
「分かりました。では、お願いします。ただし、マイペースで、決して頑張りすぎずにお願いします」
「了解です!」
「あ、それから……」
「はい」
「避難民の方々の検査が済み次第、申し訳ないんですが、皆さんにも検査を受けていただくことになります」
「はい、それは以前からきいてますが……」
井関さんは、なぜ今さらその話を蒸し返すのか、とちょっと不思議そうな顔になる。
僕は、にっこりと笑った。
「検査が終わった後、皆さんには、一週間ほど、休養をとっていただきます」
「は!?いや、しかしそれでは……」
「これは、確定事項です。皆さんには、今まで不眠不休で働いてきた分の休日をここで一気にとっていただき、英気を養ってもらわないといけないって、皆で話し合って決めたんです」
「しかし……」
なおも不満げな――というより、そんなことをされては申し訳なさ過ぎて立つ瀬がない、という顔のままの隊長さんに、僕は笑顔で首を振った。
「いいえ。僕らとしては、皆さんに倒れられるのが一番困るんです。この先、皆さんには特殊技術の指導及び解放区域内の治安維持という、しんどい仕事をしてもらわなくてはならなくなります。その分の気力と体力を回復させるためにも、この機会に、十分に食べて、飲んで、寝て、遊んで――残念ながら、それほど遊べる場所もものもないですけど――次の仕事に備えてほしいんです。ですから、ぜひ休暇を取ってください!お願いします!」
再び、ぺこりと頭を下げ……そのままじっとしていると、やがて。
「分かりました。重ね重ね、お気遣い本当にありがとうございます」
そっと上目遣いで確認すると、井関さんは上半身を腰から90度折りたたむ、それは見事なお辞儀でもって、僕に頭を下げてくれている。
それを確認したところで、僕はようやく頭を上げた。
「分かっていただけましたか。それでは、大変申し訳ないんですが、休日まであと二日だけ、くれぐれも気楽に、お願いいたします」
「は、了解であります!」
最後の最後、直立不動でびしりと敬礼を決め、どう返していいか分からない僕がわたわたしているのをかすかな含み笑いで見つめた後、
「こんな風に気合いを入れすぎないように、気をつけますね」
柔らかい姿勢に戻った彼は、そう言って笑いを誘い、後に爽やかな空気を残して、持ち場へと戻っていったのだった。
その後、受け入れは多少のハプニングはありながらも、順調に進み……僕らは「同盟」は、5000人の人員を抱える集団となった。
会社で言えば、相当な大企業レベルだ。
しかも、この先清掃エリアを拡大していけばいくほど、人員はおそらく、どんどん増加していく。それに、最低限の生活レベルは確保できたとはいえ、まだまだ生活レベルは低い。パンデモニック以前のレベル――どこに行っても基本的に安全で、電気ガス水道は使い放題、季節を問わずおいしくて健康によいものが三食食べられる、っていう状態にはできないまでも、皆がもう少しだけ心地よい生活ができるようにはしていきたい。
(更なる住居の確保に、エネルギーの確保。食料生産の再開と、衣料品、医薬品、学校、その他もろもろの確保……やれやれ、これだけやることがあると、5000人でも、まだ人が足りないな。となると、やっぱり……)
「正社員」である5000人以外の「非正規要員」――ゾンビさんたちに、活躍してもらうより他ない。
ということで、僕らは次なるステップに向けて、一歩足を踏み出すことになった。
まずは、囲い込んだエリア内で入り口を封鎖したまま放ったらかしにしてあった地区の「完全清掃」をし、この先さらに増えるであろう人員のための住居と、さまざまなインフラを確保し……エリア内なら、
安心して歩き回れる状況を作りたい。
その第一歩として、まずは角間駅前の繁華街に並び立つ高層マンションの清掃に取りかかっていたのだけれど……ここで僕らは、今まで思ってもみなかった問題に――そしてこの先幾度もぶつからなくてはならない問題に、初めて直面することになったのである。
2
「……いやあ、参りましたよ」
店に入ってくるなり固い顔でそう言ったのは、橋江さんだった。
この頃の僕らは、封鎖区域内の「清掃」を順調に進めており、解放した生活インフラを新たに参加してくれた方々に提供することで、少しずつ生活インフラの充実を図っていた。この中華料理店もそういった中の一つで、日中それぞれが担当する仕事があまりに忙しく、なかなか集まれなくなってきていた僕らは、週に2、3回、無口だが気のいい中国出身のご夫婦に任せたこの店に集まり、ガヤガヤと情報交換するようにしていたのである。なんだか昭和のオジサンそのもの、という感じだけれど、当時の僕らには他になにひとつ気晴らしの方法もなく、それだけを楽しみに毎日を生きていたのである(いや、仕事も楽しくないわけではなかったんだけど)。
ということで、この日も、こぢんまりした店の奥のテーブル二つを占領し、ご主人の作るおいしい炒め物とメンバーそれぞれが持ち寄った面白おかしい苦労話をツマミに、ビールで盛り上がっていた。
そこへ、一足遅れてやってきた橋江さんが、ソファーにどさっと座るなり、激しい怒りをかろうじて抑えています、と言わんばかりの顔つきで――メガネをくいっと押し上げるのも忘れて――つぶやいたのが、先ほどの「いやあ、参りましたよ」だったのだ。
「どうしたの、なにかあった?」
メンバーの「おかみさん・お袋さん」的立場がすっかり板についてきていた加呂さんが、ビールがなみなみ入ったジョッキを手渡しつつ、優しい口調で尋ねる。
渡されたジョッキの中身を一気に半分ほど胃に流し込み――普段はゆっくりゆっくり飲む人だから、こんな乱暴な飲み方をするなんて、ひどく珍しい――それでようやく落ち着いたのか、橋江さんは、ふう、と一息ついた。
そこを見計らって、加呂さんが再び、「仕事で、トラブルでもあったの?朝はあんなに張り切って出かけてたのに」と柔らかくほほえむ。
橋江さん、いよいよこの日からはじめることになった駅前高層マンション群清掃の総責任者を自ら引き受け、
「ここいら辺一帯のマンションやショッピングセンター、ホテルなんかが使えるようになれば、ますます多くの人を受け入れられます。これからインフラを再建していくことを考えれば、人手はいくらあっても足りませんからね。そのための準備として、なるべく早めに終わらせないと」
なんて、柄にもなく張り切っていた。それが、帰ってきた時にはこの様子なのだから、驚かない方がどうかしている。
仲間全員の視線が集まる中、橋江さんは、
「いや、作業自体は何の問題もなく、スムースに進んだんです。でもね、参りましたよ。ああいった類いのヤカラがいまだにしぶとく生き残っているなんて、思ってもみなかったんで……」
と再び大きくため息をつき、その日の出来事を、怒濤のように語りはじめたのである……。
用意した大型発電機とマンションの配電線をつなぎ、通電。各階廊下の蛍光灯が一斉にともったところで、橋江さんはもう一度メンバーを確認した。
引き連れてきたのは、リーダーである自分――橋江さん直属のゾンビさん2体。それに、サルゾンビさん数体と犬一匹、そしてそれらの手綱を握る人間一人で構成される「チームモモッタ」9チームと、これまたサルゾンビさん数体と人間一人で構成される、清掃後の物資確認、搬出、床掃除といった「本来の」清掃作業、及びベッドや衣装ボックスといった最低限の生活設備の設置まで引き受ける「チームキンタ」6組、そして、部屋の扉に鍵を取り付けたり、電気やガスの設備を確認したりといった、やや専門的な技術を必要とする、人間数名で構成された「チームウラッタ」2組(「清掃チームがモモッタなら、連携して一緒に働くのがデフォの俺たちは、当然キンタにウラシマだよな」なんて感じで、チームのメンバーさんたちが悪ノリし、勝手にそう名乗っていたんだけれど、困ったことに、それがいつの間にか「モモッタ」「キンタ」「ウラッタ」――三チーム合わせて「三太郎ユニット」なんて形に変形し、そのまま正式名称として定着しちゃったのである。おかげで、なんともはた迷惑なことに、この先さまざまな生き残りの方々と合流し、代表として連盟のシステムについて説明するたび、僕が皆さんからニヤニヤ笑われ、「おちゃらけ集団をとりまとめるおちゃらけリーダー」的な目で見られ……とっても恥ずかしい思いをすることになるのであった)。加えて、万が一の時に備えてのボディーガードとして、犬部隊最古参、今ではすっかり野良ゾンビ撃退のエキスパートとなった、「誰よりも頼りがいのある男」カールにもご足労いただいている。
暑いのか、足下のコンクリートの上でだらーんと体を伸ばしていながらも、耳だけはピンと立て、油断なく周囲をうかがっているカール。その頭を軽くなでたところで――周囲の確認に注意が向いているせいか、カールは二、三度、ぱさぱさと尻尾をおざなりに振っただけだった――橋江さんは、
「さあ、では、はじめましょうか」
と、作戦開始を告げた。
入り口の自動扉のガラス越しに、野良ゾンビさんが数体確認できる。元はこの高級マンションの住人だったのか、身につけている衣服も、あちこち破れ、薄汚れているというのに、なんだか品があるように見える。
高級感あふれる住まいに、ブランドものの衣服。パンデモニック以前は、なに不自由ない、他人からうらやまれる生活を送っていたと思われる分だけ、こうなってしまうと、なんだか余計に哀れで気の毒に感じますね、などとしみじみ思いつつ、まずは自分直属のサルゾンビさんを――その役割からして、「おとりゾンビ」と名付けられている――を一体、扉のすぐ前へと呼び寄せる。
おとりゾンビさんの首からはストラップでスマホがぶら下げてある。そのスマホの電源を入れ、アプリにタッチすると、大音量で歌声が流れ出した(元のスマホの持ち主の趣味だと思うが、若い男性アイドルたちが数人で合唱している曲である。バックバンドの演奏は頑張っているものの、ビートは単調で、メロディは童謡と似たり寄ったり。それを、満足に歌唱レッスンすら受けていない、素人同然の若者たちが伸びのない声を張り上げて歌う。他人の趣味にケチをつけるつもりはないが、小学生の合唱とえらく変わらない歌を聴いてなにが嬉しいのかと、心の底から不思議だ、と常々橋江さんはこぼしていた。そんなに嫌なら違う楽曲流したらいいじゃないですか、といったところ、橋江さんはにやりと笑い、「いえ、ゾンビさんにはこれぐらいの曲がお似合いですから」と言い放つ。なんだか、歌っている人たちにもファンにも、ゾンビさんにも、全方位に失礼な発言だ)。が、建物の造りがしっかりしているため、内側までは歌声が届かないようで、扉の向こうのゾンビさんたちは無反応である。
よしよし、予想通りですねと、満足げにほほえみながら、橋江さんは、おもむろにヘッドセットを装着し、スマホを取り上げた。
実は、おとりゾンビさんには、もう一台のスマホを取りつけたヘルメットをかぶらせてある、そのスマホと、橋江さんが手にしているスマホを直接接続。カメラで周囲の状況を確認しつつ、通話機能でゾンビさんを遠隔操作できるようにしてあるのである。いわば、人間ラジコン――いや、ゾンビラジコンだ。
これまで、清掃作業にはトランシーバーを使用していた。が、機械やスマホに詳しいシェン君や、理系大学生たちからのアドバイスにより、スマホの機能を使えば、インターネットのない現在の状況でも、相互通信が可能であるとわかり、今回はその実証実験もかねて、このような装置を用意してきたのである。
(よしよし、映像はクリアですね。あとは、音声通信ですが……)
スマホの画面を確認し、そこにマンションの入り口が鮮明に映し出されているのを確認した後で、橋江さんは、軽く咳払いをした。
「あー、ゾン山さん聞こえますか?聞こえたら、うなずいてください」
マイクにそうささやきかけると、数メートル前方にいるゾンビさんが、がくんと大きく頭をうなだれ、それからゆっくりと再び持ち上げる。
(はい、音声も聞こえているようです。後は、どれくらいの距離まで電波が届くかですね。シェン君たちの話だと、間に壁など挟まなければ、数十メートルは大丈夫、とのことでしたが、こういう頑丈なマンションだと、どうなんでしょうね……)
そんなことを思いつつ、
「それではゾン山さん、そのままゆっくり前に進んで……はい、立ち止まって」
と、ラジコンゾンビを正面エントランスの自動扉の前まで移動させる。
センサーが反応し、扉が開いたところで、さらに奥へ。
この手の高級マンションだと、エントランスの中にもう1枚扉があり、住民にロックを解除してもらうか、鍵を開けない限りその扉が開かないようになっている。が、いくらインターホンで話しかけたところで、ゾンビさんが「は~い」とロック解除ボタンをしてくれるとは思いがたい。なので、電力を復旧させる前に配線をいじり、内扉のロックは解除してある。
だから、ゾン山さんが二歩、三歩と奥へ歩を進めたところで、内扉は、音もなく開いた。
この間ずっと、ゾン山さんの胸にかけたスマホからは、甘ったるい舌足らずな歌声が、大音量でずっと流れ続けている。当然その音は、内扉を隔てたマンション内部にも響いており、物音――特に人の話し声に敏感なゾンビさんたちは、先ほどから頭をもたげ、じっとゾン山さんの様子を注視していた。
そこへ、内扉が開き、獲物が向こうから侵入してきたものだから、野良ゾンビさんたち、
「ヴォオオオオオオオ……ッ!」
と歓喜の雄叫びを上げながら、一斉に近寄ってくる。
が。
「オオオオオオオオオ……オ?」
今にも喉笛にかじりつきそうな距離にまで近づいたところで、ゾンビさんたちは、ぴたりと動きを止めた。
(よし、狙い通りです!)
橋江さんは、思わずにやりとした。
ゾンビさんは、相手が人間だとみると、喜び勇んで襲いかかってくる。が、同じ仲間同士で「共食い」することはない。どうやって見分けているのかよく分からないが、動きや声に反応して近寄ってきたとしても、ある程度の距離にまで近づき、相手が同族だと理解すると、途端に興味をなくし、離れていってしまうのである(そうでなければ、ゾンビ同士、あちこちで共食いが起こり、世界は更なるカオス状態に陥っていたはずだ)。
ゾン山さんに対しても、その習性が作用した。声に惹かれて寄ってはきたものの、一定の距離まで近づき、「あれ、コイツひょっとしてゾンビさんなんじゃね?」という疑念が芽生え、それで、動きを止めたのである。
普通ならば、そのまま興味をなくし、立ち去ってしまうところだが……ゾン山さんの胸元からは、相も変わらず歌声が――「さあ、あなたたちの獲物がここにいますよ、ここですよ……」という魅惑の信号が――垂れ流され続けている。ゾンビさんの鈍った頭では、この相反する情報のどちらを信用していいのか判断することができず、「あれ?……コイツ、仲間?それとも、獲物?え、一体どっちなんだろ……」と困り果て、その場に立ち止まらざるを得なくなってしまうのだ。
「よし。それじゃあゾン山さん、ゆっくり、元来た方へ戻ってきてください」
橋江さんが命ずると、ゾン山さんは素直にくるりとこちらを振り返り、ゆっくりゆっくり外へ向かって歩き始める。と、ゾン山さんが「同族探知距離」から離れたことで、野良ゾンビさんたちの「襲撃スイッチ」が再びオンになり、「ヴォオオオオオッ!」と例の叫び声を上げながら――ただし、先ほどまでの喜びに満ちた声に比べると、やや勢いのない、「えーと、獲物さんですよね?襲いかかっていいんですよね?」という感じの疑念を多分に含んだ声だ――ぞろぞろとゾン山さんの後ろについて、正面玄関の外扉をくぐり抜けてくる。
そこにはもちろん、チームモモッタ数組が待ちかまえており……出てきたゾンビさんたちは、ろくに抵抗する間もなく捕獲され、こちらのゾンビさんの手によって両手を拘束され、仮のサルグツワをかまされる。と、ゾンビさんはたちまち凶暴性を失い、借りてきた猫どころか、借りてきた羊のような従順な様子になり、おとなしく護送トラックの荷台に整列する。
あとは、この繰り返しだ。
(ゾンビさんの習性をうまく利用することで、安全に、確実に捕獲する。いやあ、我ながら、見事なシステムを作り上げたものですね……)
計画の順調な滑り出しに気をよくした橋江さんは、この上なくいい気分で鼻をうごめかしながら、
「さあ、では、この調子でどんどん清掃していきましょう!」
と、皆に発破をかけたのだった。
通路を「清掃」し終わった後は、管理人室に侵入し、マスターキーを入手。次々と部屋の扉を開け、先ほどと同じ要領でゾンビさんをおびき出し、捕獲していく。あらかた捕獲し終えたところで、あらかじめラジコンゾンビさんのカメラで確認しておいた情報を元に、障害物に邪魔されて出てこれなかったゾンビさんも捕獲。家の隅々まで、きれいさっぱりピカピカに……ではなく、安全になったところで、チームキンタ、ウラッタに後処理を任せ、次の部屋へと向かう。
モモッタ6チームを3つの組に分け、それぞれ手分けして同時に3部屋を清掃。それを二回繰り返すと、1フロアが終わる。で、その頃には、残り3チームのモモッタが、一つ上の階の通路を清掃し終えているから、そちらへ向かい、また同じ要領で各部屋を清掃する。
これをひたすら繰り返すことで、朝から昼食までの間に、実に1階から9階まで、実にマンションの三分の一に当たるフロアの清掃を終えることができたのである。
(1フロアの清掃の所要時間が、大体20分ですか。計画通り……というか、計画以上に順調ですね)
みんなで輪になって――もちろん、この場合の「みんな」とは人間だけ、ゾンビさんたちは犬同様、引き綱を電柱などにつながれ、ぼんやりと空を仰いでいる――弁当をかき込みながら、橋江さんはこの上ない満足感にひたっていた。
(このマンション全てを清掃するのに、計画では2日を予定していたのですが、この分では、今日一日で全て終了できそうですね。となると……この駅前周辺地域の清掃計画も、当初の予定よりずっと早く終了できるかもしれません!)
そうなれば、地域全体の清掃計画もずっと前倒しでき……結果、より多くの人たちを計画よりもずっと早く、受け入れることが可能になる。
(いや、もちろん、食糧やエネルギーの確保など考えると、そうそう大量の人間をいきなり受け入れられはしませんが……それでも、一縷の望みをもって、ようやくここまでたどり着いた人たちに「さあ、もう安心ですよ」とにっこり笑って手を差し伸べる余地が持てる、というのは、なんとも気分のいいことです……!)
話が長くてプライドが高く、なにかともったいぶる癖があって、しかも、やや小心者と、やや欠点が多く、誤解されやすい人ではあるけれど、橋江さんは、本質的には善人だ。コンビニバイト時代も、店内でお客がちょっとでも戸惑っている様子を見せれば、すぐにそばに寄って声をかけていたし、公共料金の支払いや電子通貨の使い方が分からない中高年のの方がいれば、一から十まで丁寧に教えてあげていた。それどころか、ある時など、それまでやっていた品だし業務を放り出し、すっ飛ぶような勢いで店を出て行ったから、なにかと思ってそちらを見ると、大荷物を抱えたまま目の前にある横断歩道を渡ろうとしているおばあちゃんの荷物を奪い取るようにして持ってやり、向こう側まで笑顔で付き添ってあげていた、なんてこともあった(さすがにこの時は、「仕事放り出してまでお年寄りのお手伝いに行くのは、ちょっとやり過ぎなんじゃないか」と首をひねったけれど)。
とにかく、そういう人だから、自分の努力がそのまま人のためになる「清掃」の仕事はこの上ない充実感を感じさせてくれるものだったに違いない。だからこそ、リーダー自ら口火を切って骨惜しみせずに働き、グループのメンバーも、橋江さんに感化され、自ずからせっせと働いて、その結果、皆が満足感を味わいつつ、どんどん仕事がはかどったのだろうと思う。
これで、あの男さえ現れなければ、この日は橋江さんにとって、めでたしめでたし、この上なく幸福な1日になるはずだったのだ……。
午後は、作業に慣れてきたこともあり、さらに清掃のペースが進んだ。三時の小休止までに21階まで、そこから1時間で25階までを清掃し終わり、5時15分前には、29階までを処理し終わる。
「いやあ、早かったっすね。この分じゃ、今日中にこのビル終わりますよ」
「うん、後半、本当にハイペースで進みましたよね。それもこれも、皆さんが頑張ってくださったからですよ」
「いやいや、上に行くに従って、ゾンビさん減ってたから、楽だったんですよ。な?」
モモッタAチームのリーダーが照れくさそうに後ろを振り向くと、他のチームのリーダーさんたちもにこにことうなずくのが(大勢のゾンビさん越しに)見え隠れする。
そんな彼らに、橋江さんはにっこりとほほえみながらうなずきかけると、
「さあ、それじゃあ、さっさと終わらせて、皆でビールでも飲みましょう!」
そういって、リモコンゾンビさんを30階――最上階へと向かわせる。
エレベーターの扉が開くその瞬間はやや緊張したが、ゾンビさんの姿はなかった。そのまましばらく待機させたが、のそのそとこちらへ歩いてくる人影――ゾン影?――もない。
どうやら、最上階の廊下にはゾンビさんはいないらしい、と納得できたところで、橋江さんは皆にゴーサインを出した。
モモッタAチームと橋江さんはエレベーターで、残りの人員は階段で、上階へと向かう。それぞれ手分けして扉の前に陣取り、さあ、それじゃあ本日最後の作業にかかりましょうか、と気合いを入れた、その時。
「ずいぶん遅かったねえ。待ちくたびれたよ」
廊下に、聞き覚えのない声が響き渡った。
誰だ、今の声は……?
橋江さんは、Aチームのリーダーと顔を見合わせ、揃って不審げな顔になった。
そこへ、目の前の扉がゆっくりと開き、中から奇妙な笑顔を浮かべた男が、ゆっくりと現れる。
「たかだか30階建てビルのゾンビを退治するのに丸1日かかるって、ちょっと仕事が遅すぎるように思うんだがねえ。あんなヤツらにそこまで手間暇かけてちゃ、ここら一帯をきれいにするのに、一年以上かかるんじゃないかね?」
小柄だが、腹の突き出た、全体に締まりのない体形。ぶかぶかの、体形に合っていない薄汚れたTシャツに、やはりぶかぶかの短パン。それも、ゴムが伸びきっている上、腰紐を結んでいないために、尻のあたりまでずり下がってしまっている。停電中の高層階にずっと――一月以上住んでいたのだから、無精ひげが伸び放題なのは仕方ないとして、しばらくぶりに人に会うというのに、その無精ひげにクラッカーのカスのようなものをくっつけたままでやってくるのは、どうにもいただけない。
「もっと効率ってものを考えないといけないんじゃないのかね?いやまあ、オレ……私のビルのゾンビを退治してもらったのに、こんなことを言うのは失礼かもしれないけれどもね?」
なにか口にするたび、いちいちこちらの顔をのぞき込むようにして反応を確認するところに、なんとも言えない小者っぷりがにじみ出てしまっている。そのくせ、妙にもったいぶった、上から目線の物言い。そのギャップのひどさに、橋江さんは思わず顔をしかめた。
(このおじさん……ひょっとして、自分を大人物に見せようとしている?)
なにも言わないまま、じっと自分を見つめているだけの相手に、やや焦りを抱いたのか、あわてて、
「ま、まあ、それはともかく、私のビルに入り込んでいたゾンビを一掃してくれたことには礼を言うよ。ご苦労だったね」
そう言って、上目遣いにまたもやこちらの反応をちらちら。
その、あまりに卑屈な態度にうんざりし、橋江さんは、大きくため息をついた。
「それで?あなたはこの先、どうなさるおつもりなのでしょうか?」
と、おじさんは「当てが外れた」とでも言いたそうな、戸惑った笑いを頬に浮かべた。
「どうするって……そりゃあ君、わざわざ私のビルを掃除までしてくれたんだし、いつまでもこんなところに一人でいてもつまらないしね」
「我々との合流をご希望ですか?」
「まあ、是非ともそうしたいというわけじゃないが、ここまでしてもらったのなら、参加しないと申し訳ないだろうしね」
それほど気が進まないのだけれど、相手――つまりこの私から「ぜひとも」と乞われ、仕方なく参加した、という体をとりたい、ということみたいですね、それがどんな意味を持つのかよく分かりませんが。ああ、それにしても面倒くさい……などと思いつつ、盛大にため息をつきたいのをどうにかこらえ、橋江さんは先を続けた。
「合流がご希望なら、歓迎いたします。ただし、それには所定の手続きをふんでいただかないと……」
「いやいや、君君、そんなに先を急いじゃいけないよ。まずはきちんとお互いの希望を出しあってだね……」
「私たちもヒマじゃありませんので。早くしないと、このビルの清掃を終える前に日が沈んで……」
「ほら!ほらほら、それだ、それだよ!」
「……は?」
不思議そうな――というより、あからさまに不審げで、おまけにかなりいらついていることが分かる――しかめっ面となった橋江さん。が、当のおじさんも、橋江さんに負けず劣らずのしかめっ面となり、その上、イライラと貧乏揺すりまではじめている。
「は、じゃないよ君!なんだ、『このビル』とは!ここは『私のビル』『私のマンション』だよ!それを意識して話してもらいたいね!」
「ああ……失礼しました。それじゃあ、なんとお呼びすれば?」
「……だから、いろいろあるだろう!『あなたのマンション』とか『あなた所有のマンション』とか!」
「ああ、はい、なるほど。分かりました。ちなみにあなた、お名前は?」
「君ねえ、失礼もたいがいにしたまえ!人に名前を聞く時は、自分から名乗るのが礼儀というものだろう!そんなことも教えられなかったのかね」
もちろん存じ上げてますよ、ただ、あなたに名乗るのが嫌だっただけでね……おじさんから目をそらし、こっそりため息をついた後で、橋江さんは咳払いをし、やはりおじさんから微妙に視線を外したまま、再び口を開いた。
「失礼しました。私、橋江と申します。パンデモニック再生同盟内、地域再生公団で、副代表を務めております」
「ふむ。そうかね」
自分で名前を聞いておきながら、自分の名前は名乗らないのかよ、どっちが失礼なんだと、こみ上げてくる怒りを必死で我慢しながら、橋江さんは、どうにかこうにか冷静な風を保った。
「それで?あなたは?」
「ん?私かね?私は、このマンションのオーナーで、ミキノという者だ。以後よろしく頼む」
「はあ、ミキノさんですか。では、ミキノさん、改めてお聞きしますが、あなたは、我々の同盟に参加をご希望なのですか?」
「だから、何度言ったら分かるんだ、君は。そういったことは、しっかり話し合って、ゆっくりと条件を詰めてからだと言っているだろう?」
「条件とは?」
「そうだな、マンションオーナーとしてのこの私の待遇とか、君らにこのマンションを貸し出すとして、一体月々どのくらいの賃料での契約になるか、とか……」
「賃料!?あなた、このパンデモニックの世界で、数多くの人が生活に困っているというのに、このマンションでもうけようなどと思っていらっしゃるんですか?」
あまりに素っ頓狂な声を出したせいか、あるいは、とんでもないバカを見る目でおじさんを見つめてしまったせいか、突如おじさんは、それまでにない険しい顔になると、とってつけたような「お金持ちっぽい態度」を、いきなりかなぐり捨てた。
「当たり前だろ!これは、オレのもんだぞ!オレのもんを貸して金儲けして、なにが悪いってんだ!大勢の人が困ってる?そんなの知ったことかよ!」
「じゃあお聞きしますが、私たちが今日一日苦労して、このマンションからゾンビさんを……」
「オレのマンションだ!」
「……あ・な・た・のマンションからゾンビさんを排除した、その対価は当然いただけるのですよね?」
「ああ?ふざけんな、なんでオレがそんなもん払わなくちゃならねえんだ!それはそっちが勝手にやったことで、オレは一言だって頼んじゃいねえんだからな!」
「ああ~……なるほど。つまり、こういうことですか。他人が苦労して自分の所有物を使える状態に戻してくれたことについて、感謝したり、対価を払う気はないが、自分のものを貸し出すに当たっては、当然対価を要求するぞ、と」
「感謝はしてやるよ!だがな、それと、カネを払うかどうかは別問題だって言ってるんだ!」
「お金、ねえ。そんなものでよければいくらでも払いますが、現状では、お金など……」
「おおっと、勘違いするなよ!オレは別に、カネをよこせって言ってんじゃないからな。あんなもの、この世界じゃただの紙切れだ。そうじゃなくて、以前の世界のカネ的な働きをしてるもの、アンタたちがこの世界でカネとして使ってて、カネとして通用してるカネを、マンションのカネとしてたんまりもってこい、ってことだからな。分かったか?」
ここしばらく「カネ」という言葉を使っていなかったところへ、おじさんがあまりにカネカネ連呼するものだから、なんだかカネという言葉の意味そのものがどんどんぼやけていくような、不思議な感覚になってくる。そんなにカネが好きなら、いっそ、「清掃」の過程で出た貴金属――もちろん、現状なんの価値もない――を、「カネ」だといって10トンぐらい押しつけてやろうか、金銀財宝に埋もれて餓死すれば本望なんでしょうし、なんて底意地の悪いことを考えながら、じっと相手を見つめていると、
「な……なんだよ。そんな目をしたって、この条件は絶対に譲らねえからな」
よほど冷たい目をしていたのか、おじさんがややたじろいだ調子になる。
なんだか真面目に相手をするのも疲れてきて、橋江さんは、大きくため息をついた。
それを侮辱ととらえたのか、
「おい!目上の人間の前で、その態度はなんだ!」
おじさんは、いきなり肩を怒らせ、激昂した。
なにを根拠に自分が私より目上だと見なしているのか、確かに年上は年上だけど、無駄に年を取っただけの人間を、私は「目上の方」とは見なさないのですが……などと思いつつも、それを口にしたら余計に相手がいきり立つのは――いくら橋江さんでも――分かっていた。なので、あえて取り合わず、あくまで冷静に、眼鏡を「くい」と押し上げる。
「とりあえず、あなたの主張は分かりました。ただ、その主張をこの場ですぐに了承することはできません」
「なんでだ!オレをバカにしてるのか!」
「いえ。私には、そういった交渉をする権限がないんです。ですので、一度持ち帰って、責任者と相談の上、再び参ります」
そう言うと、おじさんがギャアギャアわめき続けているにもかかわらず、くるりときびすを返して、その場を後にしたのだった。
「……ということがあったんですよ」
長い話をようやく語り終えて、橋江さんは目の前のビールをぐっとあおった。
「そりゃあ……なんつうか、お疲れさんだったな」
平さんが、心の底から同情するぜ、と言わんばかりの口調で、すかさずねぎらうと、
「いるんだな、こんな時に自分の利益しか考えないようなやつが。みんなが困ってるってのに、信じられねえよ!」
漣が、憤懣やるかたない様子で顔をしかめる。
「そうなんですよ。それに、なにより、あの男、まず間違いなく、あのマンションはもちろん、あの部屋のオーナーでもないんですよ。パンデモニックがはじまったあの日、たまたまあの部屋にいたことで助かった、ってだけの、おそらく空き巣かなんかなんです。そんなやつが、持ち主を騙って、いかにもえらそうな顔で権利を主張するんで、もう腹が立って腹が立って……」
「ああ~……それはムカつくよな。オレだったらぶん殴っていたかも。橋江ちゃん、よく我慢したよ」
林田さんが腕を組んで難しい顔のままそうつぶやくと、それにあわせて、僕以外の居合わせた一同がウンウンと深くうなずいた。
「あれ?陸くんは、オッサンにムカつかないの?」
僕だけが林田さんの言葉にうなずかなかったのをめざとく見つけたのだろう、安藤さんが不思議そうな顔を僕に向ける。
「いえ……ムカついてないわけじゃないんですよ。でも……」
「でも、なんだよ」
「いえ、これからきっと、そういう人が増えてくるのかもしれないな、って思いまして」
「え、なんだよ、それ」
「いえ……今まではなんていうか、出会った人たちがみんな、基本的にいい人だったじゃないですか。パンデモニックで街がひどいことになっている中、何とかして多くの人を助けようと、自分のことなんか二の次で頑張って」
「ああ、まあ、そうだな。そういう意味じゃ、みんないい人ってか、お人好しっていっていいのかもしんねえな」
「そうだな、確かにお人好し。その上みんな、揃いも揃って癖も強いし」
安藤さんがニヤニヤ笑いながら混ぜ返すと、
「安藤ちゃんだって、そのクセつよヤローの一人だろ。四六時中バカなことばかり言ってないと気が済まねえんだから」
ため息交じりにツッコミを入れた後で――もちろんそのツッコミに対し、安藤さんはいかにも「心外だ」と言わんばかりの大仰な表情をして見せた――林田さんは、すぐまた元の難しい顔に戻った。
「で……陸ちゃん。さっき言ってた、そういう人が増えるってのは、一体なんだ?」
その言葉にうなずくと、僕も、やや浮かない顔になる。
「ええ。今までは、状況も状況でしたし、とにかくゾンビさんに襲われないようにするため、みんなで生き延びるために、自分のもうけとか、欲望とかは棚上げにして働いてくれる人ばかりでしたけど、この先、街が安定すればするほど、自分のこと第一で行動する人が増えるんじゃないかって気がするんです」
「ああ~……」
「いや、それが悪いっていってるんじゃないですよ。僕だって、代表とかいう立場じゃなきゃ、休みの日は昼まで寝てたいとか、でなきゃ一日中ゲームしたりビデオ見てたりしたいって思いますし」
「そうだよな。オレだって、休みの日には思う存分昼から酒飲みたいよ」
「オレはやっぱり、好きな音楽聴きながら料理かな」
「ツーリングに行きたいですね……ソロキャンプもいいな」
「温泉に一日中浸かって、エステとかマッサージとか……」
みんながわいのわいのとやりたいことを――現状では絶対不可能なことまで――口々に並べ立て、収拾がつかなくなってきたので、僕は慌てて、まあまあとなだめにかかる。
「とまあ、みなさんだってそれだけやりたいことがたまって、ストレスかかっている状態なのに、ましてや、ごく普通の――後から僕たちに合流して、言われたままに作業してる人なんか、やりがいもあまり感じられないだろうし、余計につまらないんじゃないかと思うんです。こんなつまらない仕事、真面目にやるなんて馬鹿馬鹿しい、さぼろうが真面目にやろうが、得られるのがその日の生活の安定だけなら、手を抜くだけ抜いた方が得だ……なんて考える人が、近い将来出てくるんじゃないかなって思うんです。橋江さんが出会ったっていうそのおじさんは論外だとしても、普通に働いてくれる人のモチベーションは下げないようにしないといけないんじゃないかって」
「なるほど……集まった大勢の人たちの勤労意欲を、いかにして持続させていくか、ということですね。ああいうどうしようもない人間はとりあえず放っておくとしても、確かに普通に意欲のある人たちの気持ちを萎えさせないようにするにはどうしたらいいかについては、この先考えていかなくてはならないでしょうね」
橋江さんが、くいと眼鏡を押し上げながらそう発言し、皆、真面目な表情でウンウンと相づちを打ったのだが……
「あーあ、あなた方ったらぁ、なぁんにも分かってないんですねぇ~」
思わぬところから、ねっとりとまとわりつくような横やりが入った。
え?といぶかしい表情で声のした方へ目線を向ける。
と、そこには、派手なスカーフを三角巾よろしく姉様かぶりにし、薄汚れたエプロンと長靴に身を包んだ、地味なおばちゃんが立っていた。
両手に大皿いっぱいにもられた炒め物を持っているところを見ると、どうやら厨房からそれを運んできてくれたところであるらしい、
(あれ……この人、どこかで見たことあるような……それに、このむっとするほど強い香水の匂い……)
皆が注視する中、おばちゃんは大皿をテーブルの上に下ろすと、まだ誰も声すらかけていないというのに、一人勝手に椅子を引き、どっしり腰かける。そして、頭にかぶったスカーフをいらだたしげにむしり取り、根元がすっかり黒くなった金髪を片手でゆっくりかき上げると、ぶるぶるっと頭を振り、にったりとした笑顔で、僕を見据えた。
(あ……!)
その、どう見ても勘違いしているとしか思えない「悩殺ポーズ」――どうやらハリウッド映画なんかで危険な美女がよくやるポーズを真似しているらしいのだが、なにしろこのおばちゃんときたら、肉付きがよい上に顔だちも微妙(というか、相当強烈)なものだから、せっかくの「悩殺しぐさ」も、カツラをかぶったブルドッグがシャワーの後にブルブルっと身震いし、うろんな目でこっちを見ているという「脳殺ポーズ」としか思えない――には、はっきりとした見覚えがあった。
(そうだ、この人……あの配送センターの管理棟で、一人だけトイレに逃げ込んでた、あの人だ!)
ゾンビさんたちに襲われ、防火扉の前で泣き叫ぶ親子連れを助けようともせず、たった一人トイレの内鍵をかけてのうのうと生き延び、あまつさえ、助けに来た僕らに向かって「遅かったのね、もっと早く来てくれるかと思ってたのに」「自分の身を危険にさらしてまで他人を助けるなんて、そんなバカバカしいことするはずないじゃないの」などと暴言を吐き散らし、ひんしゅくを買いまくっていた、あのものすごくどす黒い根性をしたおばちゃん――名前は、確か御園さんだった――が、本当にあなたたち、世間知らずのおバカさんね、といわんばかりの勝ち誇った顔で、じっと僕らを眺めているのである。
「みなさん、さっきから、他人を働かせるだけ働かせて、自分はなるべく楽に、安全に生きていこうって考える人のことを、どうしようもない人とか、論外だとかいってますけどぉ、それってすごーく間違ってるって思いますぅ。普段はきれい事言っててもぉ、いざとなったら、他の人間がどれだけ死んでもいいから自分だけは助かりたい、他人はどんなに苦労したっていいから、自分だけは楽したい、って考えるのが普通の人だと思いますよぉ」
ねっとりと語尾を伸ばす独特の口調で、時折唇をとがらせたりしながら上目遣いにこちらの反応を見たりする――本来は若くてかわいい女の子にしか許されない――その仕草は、イラッとするほど媚びる気満々で、思わず本気でぶん殴りたくなるほどわざとらしく、絞めコロしてやろうかってぐらいらいらさせられるが――いけないいけない、ついつい言ってはいけない本音が出てしまった――言ってる内容には、思わず興味を惹かれてしまった。
「えと……つまり、普通の人は、基本的にみんな、自分のことしか考えてないってことですか?」
おそるおそるそう尋ねると、御園さんは「ふん」と小馬鹿にしたように鼻から息を吐きだし、勝ち誇ったような薄笑いを浮かべた。
「当たり前じゃないですかぁ。自分が一番大切じゃない人なんていませんよぉ。だからみんな、自分よりだめな人はいじめるし、自分よりできる人には嫉妬して、なんとか引きずり落としてやろうと、脚をひっぱるんじゃないですか」
ああなるほど、あなたは今までそうやって生きてきたんですね、はい、よく分かります……とは思ったものの、言われてみれば確かに、人間にはそういう面があるのかもしれない。だからこそ、学校でのイジメは決してなくならなかったし、人間関係を苦に会社を辞めたり、自ら死を選んだりする人が、後を絶たなかったのだろう。
「ええと……人は基本的に自分のことしか考えないし、ともすれば怠けたり、他人をやっかんでおとしめたりするものだ、それが普通なんだ、ってことですか?」
「だからぁ、さっきからそう言ってるじゃないですかぁ。人はみんな怠け者で、ずるいことだけ考えてるってことを頭に入れてぇ、その上でどうやってそういう人たちを働かせるか考えないと、世の中ってぜぇったいうまく回りませんよぉ?ルールとか法律とかって、なんのためにあるのか分かってますかぁ?」
いやいや、法学部生――三流大学のちゃらんぽらん法学部生だったけど――として言わせてもらえば、法律は不特定多数の国民が心地よく生活していくために制定されるもので、別段怠け者にむち打つためだけに作られるものじゃないって……と真面目に反論したいところではあるけど……まあでも、法律に、そういう「人になにかを無理矢理やらせる」という側面もあるのは、確かかもしれない。
ふうむ、と黙って考えこんだ僕に代わって、
「それで?アンタはオレ達にどうしろって言いたいんだ?」
林田さんが話を引き取り、肝心なところを聞いてくれる。
と、御園さんは、いかにもうれしそうに、にまあっと笑った。
「話を聞いていると、みなさんはぁ、そういう普通の人の相手って、あんまり得意じゃないんじゃないかって気がするんですぅ。ですからぁ、もしよかったら、その、マンションのオーナー面してるジジ……オジサンとの交渉、あたしに任せてもらえませんかぁ?」
「アンタに、交渉を?」
僕たちは揃って戸惑った表情を浮かべ、御園さんを注視した。
そりゃそうだ。今までの話し方から言って、彼女は決して弁の立つ方ではないし、頭の回転が速そうでもない。こんな人に、誰かを説得することなんて、とてもできるとは思えない。
が、当のブルドッグフェイスのオバチャンは、自信満々である。
「ええ。わたしぃ、こうなる前は保険の外交とかしてたんでぇ、そういう人の相手とかって、得意なんですよねぇ。だからきっと、そのおじいさんも、うまく丸めこ……納得してもらえると思うんですぅ」
「ああ、えーと、引き受けてもらえるの?そりゃありがたいけど、ただ……」
ちょっと困ったような顔で、林田さんがちらりとこちらを見る。と、御園さん、その動きを見逃さず、
「あ、あたしのこと、疑ってるんですかぁ?ひどぉ~い。任せてもらえれば、きちんとやってみせますよぉ。信じてくださぁ~い」
エサをねだるブルドッグの表情となった御園さんにズリズリと詰め寄られ、僕は思わず椅子ごとざざっと後ろに後退しながら、
「ええっと、手伝ってくださるっていうのはありがたいんですが、これは、この後の対応にもからんでくる重要な……」
「だからですよぉ。欲張りの怠け者な普通の人を、論外とか考えてたんだしぃ、どうやって対応するかなんて、全然考えていなかったんでしょ?それでまた話したって、相手に丸め込まれるか、でなきゃもの別れに終わるか、どっちかじゃないですかぁ」
確かに、それはそうかもしれない。たまたま手に入れたものを高値で取引しようとするような図々しい、腹黒い男を相手に、自分を含め、仲間の誰一人まともに対応できるとは思えない。
「それを、あたしがうまくまとめてあげるっていってるんですよぉ?うまくいかなくてもともと、うまくいったらもうけものとは思いませんかぁ?」
「……確かに、それはそうですね」
押し切られるような形で不承不承うなずくと、御園さんは、にったりと笑った。
「でしょう?絶対その方が得ですってぇ。任せてもらえますかぁ?」
「あ~、それで、もしお任せしたとして……」
「あ、それはもちろん、ただでは働きませんよぉ?そうですねぇ、成功報酬って形で、いかがですかぁ?」
「成功報酬?」
「ええ!そうですね……皆さんが考えてるマンションの賃貸料から、値引きさせた分の……そうですね……3割でいいから、あたしの報酬にしてくださぁい」
と、ここで御園さんは、上目遣いで小首をかしげる「おねだりポーズ」で、じっと僕を見つめた。
(ふ・ざ・け・る・な!そのポーズは、その尊いポーズはなあ!ロリかわいい小悪魔少女だけにしか許されない、崇高な仕草なんだ!貴様のような年増の下等生物がやっていいポーズじゃねえんだ!)
目の前のブルドッグババアの襟首を両手でつかみ、そう絶叫しながら、首の骨が折れんばかりの勢いでゆさゆさ揺さぶってやりたい、というこの上なく強い衝動に、危うく身を任せそうになったが――今考えると、我ながら怒りの方向性がなんか間違っている気もするけど、とにかく、その時は本気で御園さんをくびり殺してやりたい、と思っていたのだ――本当の本当にすんでの所でなんとか思いとどまり、僕は、今にも襲いかかりたくてぶるぶる震えている両腕をなんとか脇に固定し、こわばった笑み(のようなもの)を頬に浮かべた。
「……よく分かりした」
「あ、じゃあ、任せていただけるんですかぁ?」
どす黒くにごった笑いを浮かべる彼女に、僕は軽くうなずく。
「ええ、基本的にはその方向で構わないと思うんですが……」
「……ですが?」
「今までの実績も信頼もない方に、いきなり成功報酬3割はお約束できないかと。今回はあなたの力量を見せていただく、という意味での試験採用として、そうですね……値引き分の一割の成功報酬でどうでしょうか?」
「ええ~っ、たぁった一割ですかぁ?それじゃあ、働く気がなくなっちゃいますぅ~。せめて、2割8分はいただかないとぉ……」
「しかし、あなたがもし失敗した後の後始末は全てこちらにかかってくることになりますしね。その分のリスク保障を考えると、どれだけ譲歩したとしても1割2分が限界かと」
「リスク保障なんて、そぉんなむずかしいこと分からないですぅ。でもぉ、私がやらなきゃみすみす高い値段ふっかけられるの分かってるんでしょぉ?それを、わずかな手数料で大幅に減らしてあげようっていうんですよぉ?それを考えたら、2割5分は成功報酬いただかないとぉ……」
「わかりました、それなら、これから集会を開き、街の皆さん全員にこの話を持ちかけて、どれくらいの報酬でやっていただけるか相談してみましょう。それならば……」
「これから集会って、時間何時だか分かってますかぁ?おじさんは、どうせすぐに返事をほしがっていらっしゃるんでしょぉ?それなら……」
「いやいや……」
「それなら……」
「いや……」
「でも……」
仲間たちがあぜんとした表情で見守る中、僕と御園さんの火を噴くようなやりとりが、それからも延々と続いたのだった。
3
翌日。
午前9時の仕事開始時刻を迎えたそうそう、僕と御園さんは、橋江さんに案内され、例の図々しい論外おじさんが住むマンション最上階を訪れていた。
あれから深夜まで折衝を続けた結果、御園さんの報酬はおじさんの要求から減らした差額の1割8分5厘プラス缶ビール3本の現物支給ということでなんとか合意に達した。やや不満げながら諦めた顔でその場を御園さんが立ち去った後で、いやそれにしてもすごい粘りだった、たいしたもんだ、でも、あそこまで粘る必要があったのか、もう少しお互い気持ちよく納得できるところで折り合いつけてもよかったのに、というか、いつもの陸くんだったらきっとそうしていただろうに、一体なんだってまた今回に限ってはあそこまで……と口々に尋ねられたのだが、まさか「あのババアの顔と態度がしゃくにさわったから」と本心を吐露するわけにもいかず、曖昧に笑ってごまかし、その場を後にしたのだが……。
今朝になって改めて考えてみると、確かにあれはやり過ぎだったかも、もしも御園さんが、やっぱりあの条件じゃ働く気になれなぁ~い、とか言い出したらどうしよう、とびくびくしながら集合場所に行ってみる。と、意外なことに早くもその場にきていた御園さんが、「あ、代表、おそぉ~い!もう、待ちくたびれちゃったじゃないですかぁ!」と、なれなれしく声をかけてきた。
あれだけ激しくやり合い、希望額からは相当値引きしたというのに、それに対する遺恨は全く見えず、むしろ、さあこれからお仕事、という意気込みで輝いて見える。
どうやら彼女、契約の時はごねにごねまくるが、一度決まってしまったことについてはしのごの言わないタイプの人間であるらしい。
実のところ、本当に戦力になるのかどうか、昨日は疑っていたのだけど、こういう人なら、ひょっとして……。
胸に宿ったわずかな希望が、僕の彼女に対するイメージをやや変形させ……昨日はふてぶてしいブルドックにしか見えなかった顔が、今日は――バッチリフルメイクを決め、高そうなスーツに身を包んでいるせいもあってか――ブルドッグの子犬か、パグ程度にはかわいらしく見える。
「すいません、遅れまして。それじゃあ、急いで参りましょうか」
ぺこりと頭を下げ、本心からのはれやかな笑顔を向けると、僕らはそのまま軽トラに乗り込み、「敵」であるジジイの元までやってきたのである。
ノックの音に返事もせず、いきなり扉を開けたオジサンは、正面に立つ橋江さんに目を留めると、
「いよう、昨日のアンタか。一体誰が来たのかと思ったぜ」
と、わざとらしい笑みを浮かべてみせた。
誰が来たもなにも、僕ら以外に誰も訪ねてなんか来ないだろうに……と、あきれてその顔をまじまじ見つめたが、オジサンはまったく平気のへいざ、それどころか、むしろ「どうが、一発かましてやったぞ」といわんばかりのとくとくとした顔で、うれしげにこちらを見つめ返してくる。
(こりゃあ、確かに難物だわ……)
心の中でひそかにため息をついたその時、
「んで、どうなんだい?今度は、こっちが満足できるような条件を持ってきてくれたのかな?ん?」
自分が優位に立てることが楽しくてたまらない、といわんばかりの、しかも、そのツラの皮のすぐ下に、ギラギラと脂ぎった欲望が透けて見える強欲な表情で、オジサンがいきなり切り込んでくる。
そのあくの強さに思わずタジタジとなりながら、
「え、ああ、その、そのことなんですが……」
と橋江さんが後ろを振り向きつつ、困り果てた視線を投げかけたその先から、
「あら~っ!趣味のよいお部屋!その玄関マット、中国段通じゃないですか?しかもアンティークの?素敵なお品だわぁ~!」
いかにも感激した、といわんばかりの素っ頓狂な口調で叫びつつ、ずい、と御園さんが顔を出した。
「え、お、ああ……」
「んまあ、そちらのお召し物も、シュプリームのTシャツでは?それに、履いてらっしゃるサンダルはビルケンシュトック!どれもこれも、一流のお品ばかり!さすがご主人、見る目がありますのね!やはり、高級マンションの最上階にすんでらっしゃる方は違いますわぁ~!」
「ああ、うん、まあな……」
たたみかけるような御園さんの嬌声に、今度はオジサンがタジタジとなる。が、そこはさすがにさるもの、このまま相手にのまれてなるものかと、ぐっと目に力を込め、精一杯の威厳をたたえた声でもって、「それで、アンタは一体?」と尋ね返したのだが……残念なことに、海千山千どころか、海億山億ぐらいのふてぶてしさを備えた御園さんには、まるで通用しなかった。
「やぁだ、ごめんなさい、私ったら、ご挨拶もせずに!私ぃ、このたびご主人とのご相談を担当させていただくことになりました、御園と申します。どうかよろしくお願いいたしますぅ」
にっこり笑ってぺこりと頭を下げた、その頭を持ち上げるが早いか、御園さんは、さらにずずいっとオジサンに詰め寄った。
「それでぇ、早速なんですけどぉ、こちらのマンションを私どもに貸し出すに当たって、一体どれくらいの金額を考えてらっしゃるんですかぁ?」
にっこり笑いかけられて、ようやく自分のターンがきた、とでも思ったのか、おじさんは「そうだな……」といいつつ、にやりと笑いかけ……それから慌てて、真面目な顔を取り繕った。
「ここは、見ての通り駅前で、近くに大きなショッピングセンターや学校もあるから……」
もったいぶった口調でそう口にしたところで、僕らの「オイオイ、なにずれたこと言ってんだこのオッサン」と言わんばかりの表情に気がついたのだろう、
「……あ、いや、そんなことは、今の状況じゃ売りにはならねえよな、うん、そう、当たり前だ」
と、ややうつむいて、恥ずかしそうにつぶやいた。
そこで弱気になるのかと思いきや、やおら頭を高くもたげると、
「いや、でも、新築ほやほや、眺めもいいし、部屋も広くて住みやすい!こうなる前の相場から考えると、そうだな、一軒あたり20万はもらいたいところだが、ま、大負けに負けて……」
ここでとうとう我慢できなくなったのか、おじさんはいかにもうれしそうな笑みを、にやりとこぼした。
「……一軒あたり10万、といったところでどうだ?あ、もちろん、10万と言ってもカネじゃねえぞ、10万円分の食料品とか衣服とかで払ってもらう」
どうだ、いい条件だろ、これでも最大限譲歩してやったんだぞ、といわんばかり、傲慢にそっくりかえるオジサン。
人の足下を見て、そこに思い切りつけ込む小ずるい態度に、思わず僕はかっと頭に血が上った(もし僕が交渉係だったら、思い切り怒鳴りつけて……話し合いを台無しにしていたに違いない)。
が、自分から交渉役に立候補するだけあって、御園さんはさすがだった。オジサンの法外な要求を耳にしても、機嫌を損ねた様子を微塵も見せず、それどころか、いかにも「ごめんなさいね」という感じの、しょんぼりした表情を浮かべたのである。
「そうですよねぇ。苦労して手に入れた財産ですしぃ、貸し出すならできるだけ高い値段でとお考えになるの、よく分かりますぅ。でも、ごめんなさい、私たちも、街を再建するっていうお仕事を最近ようやく始めたばかりですしぃ、避難民の方たちが大勢逃げ込んでくるしでぇ、それだけの食料をお支払いする余裕はないんですぅ~」
ねっとり粘り着くような口調。それを聞いてオジサンは、やや難しい顔になった。
「はあん、そうかい。それじゃあ、どれくらいだったら出せるんだ?」
「ええ、そうですねえ、うちも、台所事情が本当に厳しいものでぇ……」
困った顔のまま、至極申し訳なさそうに、御園さんが語尾を伸ばす。それにつられて、オジサンが食いついたところで、
「……一軒につき一万円相当の食料が限界なんですぅ~」
ズバリと切り出した。
(僕らが御園さんに提示した額だ。オジサンの要求額と全然かけ離れてるけど、本当に大丈夫なのかな?)
思わず気遣わしげな視線を御園さんに送ってしまう。
案の定、オジサンも、失望と軽蔑が入り混じったような表情になり、
「なんだそりゃ?話にならねえな。もっとマシな条件持って、出直してきな」
と、ゆっくりきびすを返しかける。当然ここで、オジサンは「あ、ちょっと待ってください!」と御園さんが慌てた声を出し、引き留めるのを期待していたのだろうが……彼女の反応は、まるでその逆をいくものだった。
「そうですか。分かりました、残念ですぅ」
というが早いか、こちらも、さっさときびすを返したのである。
「え?いや、ちょっと……」
その御園さんに、慌てた様子でオジサンが声をかける(おいおい、それじゃアンタの意図と真逆だろうがよ、と僕は思わずツッコミを入れそうになった)。
そこへ。
「あ、そうでしたわ。マンションは原状回復でお返しいたしますわね。勝手なことをして、申し訳ありませんでした」
御園さんが、それまでとは打って変わった明瞭な口調で言うと、深々とお辞儀した。
「原状回復?」
「ええ。ご心配なく、元通りの状態にしてお返ししますから」
困惑顔のオジサンに、御園さんはにこやかに――「元通り」のところにやや力を込めて――そう告げる。
とたんに、オジサンの顔色が変わった。
「お、おい、それ、まさか、ゾンビどもをもう一度ここに戻すつもりじゃ……」
「もちろんそうさせていただきます。オーナー様のご意向を考えることなく勝手な作業をしてしまい、まことに……」
「い、いや、わざわざそんなことをする必要はねえって!このままにしておいてくれて……」
「いいえ、そうは参りません。これは、不動産貸借において法により定められたルールですから。ゾンビさんはもちろん、エレベータも停止。電気も切って、きっちり以前の状況に戻させていただきますわ」
「おい!」
「あ、でも、建物外にゾンビさんが出たら危険ですので、申し訳ありませんが、全ての階の防火扉を閉じた上で、溶接させていただきます」
「全ての階って、ここもかよ!?」
「はい、もちろん」
「ふざけるな!俺を外出させないようにして、下の階は勝手に使うつもりだな!そんなことは……」
「まあ、心外です!私たちはそんなこといたしません!その証拠に……」
御園さんはおもむろに手にした鞄を開け、中からキーホルダーのついた鍵を取り出して、おじさんの鼻先にぶら下げる。
「防火扉の、くぐり戸の鍵をお渡ししておきますね。こちらで非常階段に出て、私たちが不正を行っていないかどうか、確認していただければと思います」
「ま、待てよ!通路にはゾンビがいるんだろ?それをどうやって避けて……」
「え?今までも共存してらっしゃったんですよね?だったら、今までと同じようにしてお避けになればいいのでないかと」
「そんな……へ、部屋の食料がなくなったら……」
「ええ、ですから、外へ出てお求めになればよろしいかと」
「できっこねえだろ!」
「まあ、それはお気の毒に。でも、規則は規則ですから」
「そんな規則なんて、破ったって構わねえって!」
「あら……法によって定められた所定の規則を破っても構わないと?」
「そうだよ!今はこんな世の中だからな、こうなる以前の法律なんて……」
「あら!以前の法律を無視していいのでしたら、あなたのこのマンションに対する所有権も認めなくていい、ということになりますわね。それなら……」
「いや、いやいやいやいや!そうじゃない!それとこれとは……」
「同じですわ。法律を尊重するかどうかですから」
「…………」
とうとう黙り込んでしまったオジサンに対し、御園さんは、いかにも楽しげに、追い打ちをかける。
「ご納得いただけましたようですね。それでは、今日明日中に、マンションの原状回復は済ませておきますので。この後、二度とお目にかかることはないかと思いますが、どうかお元気で」
「なあ、おい……」
「大丈夫ですわ。不慮の事故が起こったとしても、周囲にいらっしゃる方々の仲間入りをする、というだけですし。きっと、楽しく暮らしていけると……」
「分かった、分かったから!」
ゾンビさんの仲間入り、という一言が相当聞いたのか、ついにオジサンは、悲鳴のような声を上げた。が、それでもなお、御園さんは手をゆるめない。
「分かった、とは?なにが分かったんですか?」
「俺の負けだ。あんたがさっき言った条件で、契約するよ」
とうとう全面降伏である。
そのオジサンに向かって、御園さんは軽くうなずきかけた。
「そうですか、分かりました。では、その条件で契約させていただきますね、ですが……」
「なんだ、まだ何かあるのかよ!」
「ええ。一つ言い忘れてことがありまして……」
「なんだよ!」
「ご存じの通り、ゾンビ禍――パンデモニック以降、まともな人間はぐんと数が減ったせいで、不動産の価値はとことん下落しました。そして、この先生きていかなければならない方々が、先を争って確保するため、食料品はどんどん減少しています。ということで……」
御園さんは、ここで、いかにも無邪気そうに、にっこりと笑った。
「食料品の価値が、以前とは比べものにならないくらい上がっちゃってるんですけどぉ、ご理解いただけますかぁ?」
「価値が上がってるって、一体どれくらい……」
「今の相場がぁ、大人が一日働いてぇ、一日三食の食事を保障される形なんですぅ。ですからぁ、一食大体2500円から3000円。保存の利く食料で1食分を支払うワケですからぁ……大体、缶詰2コが1食分。一万円ですとぉ、缶詰6コですぅ~」
「ええっ!缶詰一個が1000円以上だって!?そりゃあ、いくらなんでも……」
「あ、はい、分かりました。では、原状回復の……」
「分かった、分かった、分かりました!それでいい、それでいいから!」
オジサンが苦虫をかみつぶしたような顔になったのを見て、御園さんは笑顔のまま、大きくうなずき、ずっと手にしていた鞄をかぱっと開くと、細かい字がびっしりと書かれた書類を――とりあえずそれらしい書類を用意してくれと言われ、急遽丸手さんにお願いし、でっち上げてもらったものだ――取り出した。
「納得いただけたようですのでぇ、こちらの契約書に、とりあえずサインにただけますかぁ?その上で、後から条件を書き入れていきますからぁ」
「ああ、分かった分かった、ここか?ここにサインすりゃいいんだな?」
足下を見てつけ込むつもりが、こてんこてんにやり込められ、さっさと話を切り上げたくなったのだろうか、オジサンは、差し出されたペンを握ると、ろくろく書類の中身を確認せずに――確認されてたら、こっちが困ってたところだけど――署名欄に汚い字を書き殴った。
「はい、確かに~。ありがとうございますぅ~。これで契約終了……あらぁ?」
書類を受け取った御園さんは、書名に目を走らせたとたん、いかにもわざとらしく唇をとがらせ、小首をかしげた。
「今いただいたお名前ですけどぉ、表札にかかげてあったお名前と違ってませんかぁ?」
と、オジサンは目を見開き、ひゅっと息を吸い込んだ。
「い、いや、これは、その……」
「あなた、本当にこちらの住人で、このマンションのオーナー様ですかぁ?まさかとは思いますけど、サギとかじゃ……」
「ち、違う!おれは、その、本当に……」
「念のため、権利書とか、確認させてもらってもいいですかぁ?」
「権利書!?あ、いや、も、もちろんある!あるが、その、今すぐには出せない!ちょっと面倒なところにしまってあって……」
「ああ、それじゃあ、あなたがこちらのオーナー様である証拠は、なぁんにもないんですかぁ?」
まん丸にした目でのぞき込むように見つめられ……オジサンは、ついに堪忍袋の緒が切れたようだった。
「うるさいな!あるといったらあるっていってるんだ!証拠は、あれだ、俺がここに住んでるってことで十分だ!そうだろ?住人以外の一体誰が住みつくっていうんだ!ああ?人を馬鹿にするのもいい加減に……」
「そうですわね、失礼いたしました!」
ひとしきりわめき散らすオジサンを、困惑したような顔で受け流していた御園さんだったが……オジサンの勢いがやや鈍った、と見て取るや、いきなり大声で謝罪し、深々と頭を下げた。
虚を突かれたオジサンが、「う」とか「お」とかまごついているうちに、彼女、素早く状態を戻すと、再びにこやかな笑顔を浮かべる。
「こんな状態ですもの、書類がなくて所有権が証明できないもの、当然ですよねぇ。そこを考えもせず、変に疑ったりして、本当に申し訳ありませんでしたぁ」
相手に媚びるような――というか、変にべったりこびりつくような――謝罪の言葉に、オジサンが、
「お、おう。いや、まあ、分かってくれりゃいいんだ、分かってくれれば……」
と、ややほっとしたような口調になった、その時。
やや困ったような表情になった御園さんが「ただ……」と切り出す。
「申し訳ありませんけどぉ、あなたがこのビルのオーナー様だときちんと証明できるまでは、仮契約という形にさせていただけますかぁ?私どもの制度上、所有者かどうか分からない方に満額の契約をすることは、できないんですぅ」
オジサン、何か言いたげに口を開いたが……ここで余計なことを言っては、ますますボロが出るだけ、と思い直したのだろう、
「……仕方ねえな、分かったよ」
眉根に皺を寄せつつも、小声でそうつぶやく。
「理解していただいて、ありがとうございますぅ。それじゃあ、一軒あたり、月に缶詰
6コが本契約だったのを、仮解約なのでぇ、月三個ということでお願いしますぅ~」
「半分かよ!……まあ、いいよ、分かったよ!」
「ありがとうございますぅ。それじゃ、契約書、いただいていきますねぇ……」
いそいそと契約書を鞄にしまいこむと、御園さんは、改めて、にっこりと笑った。
「それじゃあ、これで失礼いたしますぅ。ご契約ありがとうございました」
軽く会釈し、帰りかけようとしたところで、ふと思い出した、という感じで、動きを止める。
「あ、階段での上り下り、明かりがないと大変ですしぃ、なるべく夕方までにはご帰宅なさる方がいいと思いますよぉ?それから、ろうそくはセンターまでいらっしゃっていただければ、適正なお値段でお分けできるかと……」
「へ?なんだ?一体なんの……」
「なんのって、この先も電気のない生活をなさるんでしょう?大変ですよねぇ~」
「おい!ど、どういうことだ!たった今、俺はお前らとこのマンションの賃貸契約を……」
「ええ、そうですよぉ?でも、それと、電気の契約は別ですわ。あ、もちろん、ガスも水道もですよぉ」
御園さんはそう言い放つと、愕然とした表情で立ち尽くすオジサンに、これ以上ないって程にいい笑顔で、にっこりと笑いかけたのだった。
結局、マンションの賃貸料として公社がオジサンに支払わなければならないのは、マンション一棟で、一月に缶詰180個――あるいは、それに相当する食料――と決まった。
一食缶詰一つで済ませば、どうにか食いつなげることができるという、ぎりぎりの個数だ。たまたま手に入れられたマンションをダシに、ぐうたら楽しい生活をしようと目論んでいたオジサン、当てが外れてむっつりと不満そうな顔をしていたが、
「あらぁ、それでもすごいですわぁ。後は働きたくなった時に適当に働けば、なんにでも交換できる余分の食べ物が、いつも手元にあるんですからぁ。私たちみたいに、会社に入って、言われたとおりあくせく働かされるだけの人間とは、全然違いますわぁ!」
なんて(胸をぴったり押しつけられながら)お世辞を言われ、すぐに機嫌を直していた。
「まあ、そいじゃ、近いうち働かせにいかせてもらうからよ、よろしく頼むわ!」
と上機嫌でウンウンうなずくオジサンに、よろしくお願いいたします、今日はありがとうございました、と全員で深々礼をし、扉を閉めたとたん、御園さんは、この上なく悪い顔で、にやあ~っと笑った。
「は、単純な男!」
小声でそう言い放ち、くるりときびすを返すと、
「さあ、仕事は終わりましたしぃ、こんなところ、さっさと帰りましょうかぁ~」
意気揚々とした足取りで、エレベータへと向かう。
足音が得意げになるのも無理はない。
僕らが御園さんに提示したこのマンションの賃貸料は、月に870個。オジサンと合意した賃貸料は180個だから、その差額、690個。その1割8分5厘だから――ええと、いくつになる???――およそ128個の缶詰(と缶ビール三本)が、報酬として御園さんの懐に入ることになったのだから。
僕と橋江さんは、御園さんの手際の鮮やかさとアコギさに呆然としつつ、スタスタと前を歩く彼女について行くことしかできなかった。




