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ワーキングデッド  作者: 柴野独楽
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シーズン1 第一章 店舗

 崩壊は、まさに唐突にやってきた。


 いや、そりゃまあ、後からよくよく思い返してみるとね。数年前から暖冬続きで、特にその年は、2月なのに桜が咲くぐらい暖かかったとか、春になる前からやたら花粉症にかかる人が多かったとか、四月の時点で、信じられないぐらい蒸し暑くて、テーブルの上にほんの30分食パンを置いておいただけで、たちまち色とりどりのカビが一面にはびこり、耳の部分にはひょろりとしたキノコまで数本生えていやがったとか……「ああ、あれが予兆だったんだな」って思い当たることは、いくつもあった。けれど、エフ欄文系大学生として、バイトと講義、趣味にサークルと、日々あくせく生活していると、そんな小さな「異変」なんて、そうそう気にしていられない。テレビは「今年は例年にない異常気象だ」「観測史上初めてのナントカカントカだ」って、毎年のようにがなり立ててて、なんか、異常なのが当たり前、って感じになっていたしね。

 そんなわけで、あの日、僕らは誰一人として、この後すぐ、自分の身にかつてない危機が降りかかるだろうなんて思ってなかったし、ホラー映画によくあるような、いわれなき不安に身をさいなまれる、なんてこともなかった。いつものように、午後10時からコンビニの深夜シフトに入り、淡々と業務をこなし、朝の便で配送された商品をすべて陳列し終わって、やれやれ後1時間でバイト終了だ、今日はどこで朝メシ食おうかな、なんてぼんやり思いながらレジ対応をしていたそんな時、全く突然に「それ」はやってきたんだ。

 ひろひろひろーん、ひろひろろーん、と自動ドアの開閉音が――長年酷使されたおかげで回路がすり減りでもしたのか、楽しげに聞こえるはずの音が、なんだかぼんやりと疲れた音にしか聞こえない――耳に届いたので、僕は、反射的に「いらっしゃいませー!」と声をかけた(というか、口の中でもごもごとつぶやいた)。

 僕のバイト先である「ファミリーマーケット・コスモス通り2丁目店」は、駅前からちょっと離れた国道沿いにあるくせに、駐車場はかなり狭めという、なんとも中途半端な店舗だ。だから、午前8時前後という、普通のコンビニなら朝飯を買い求める客で混み合う時間帯でも、それほど客は多くない。

 とはいえ、レジを待つ数人の列ができ、店員が二人、レジにはりついて処理し続けなけりゃならない程度には客は入る。なので、僕はその時、2年間のバイト生活で身についた「全自動レジ処理術」を発動し、手元をぼんやり見つめつつ、かごの中から商品を取りだして、バーコードをバーコードリーダーで読み取り、かごの横に広げておいた袋に詰める、という単純作業を、ひたすら機械的に繰り返していた。その上、頭の中は「今朝は一体なにを食べるべきか」という、極めて重要な問題について、ひたすらぼんやり、考え続けている、という状態。要は、目の前に並んだ客の様子など、まるで目に入らず、気にもしていなかったんだ。

 だから、

「ぐうああああああああっ!」

 とものすごい悲鳴がすぐ目の前から聞こえてきた時も、なにが起こっているか、とっさにはわからず、なんかいらついてる客がいるのかと、つい、「すいません、もうしばらくお待ちください~」なんて、ぼそぼそつぶやきかけてしまった――もっとも、つぶやいてる途中で顔を上げ、正面の光景を確認したから、実際に口から出た言葉は「お待ちく……え!?」って感じになったけど。

 びっくりしたよ。

 会計の最中だったお客のすぐ後ろに、もう一人、お客がレジ待ちしてたんだけどね。30歳ぐらいかな、自分じゃ若いつもりかもしれないけど、実際は、そろそろおじさんに片足突っ込んでますよね、って感じの。

 その男が、不自然に首を右に傾けてるんだ。でもって、その、傾いた首の上に乗っかるような感じで、違う顔が生えてた。

 恐ろしかった。その……首の上に乗っている方の顔がね、歯茎まで見えるぐらい、ぐわっと大きく口を開けているんだ。それぐらい大きく口を開けてるんだから、当然、前歯も白く見えているはずなんだけど、それが、なんだか全然見えない。それもそのはずで……前歯が全部、根元近くまで叫んでいる男の首に食い込んでいる上、少しだけ見えているはずの部分も、男の首から流れ出る鮮血で真っ赤に染まってたんだ。

 要はそいつ、悲鳴を上げているお客さんの背後から、その首筋にがっぷり噛みついていたんだ。そして、その格好のまま、これ以上ないってぐらいに大きく見開いた――そのくせ、瞳孔はものすごく小さく収縮して、瞳が点のように小さくなった目で、レジのこちら側に立つ僕を、食い入るようににらみつけていた。

 その時の気分は、なんとも言えない。

 口の中いっぱいに被害者の首筋の肉を頬張っている状態だから、もちろん男はなにもしゃべらなかったんだけど、血走った白目がちの目をみてるだけで、伝わってくるんだ。「こいつが終わったら、次はお前の番だ、待ってろよ、こいつの血を十分に味わったら、次はお前の血を思う存分すすってやるぞ」ってね。

 僕はただ、呆然と立ち尽くしてた。その男の、獲物を見つけた喜びと、腹の底から突き上げてくる怒りとが複雑に入り混じった表情を見ると、なんか、ごく自然に「ああ、もうだめだ。死ぬんだ。なにしたって助からないんだ」って思いで、一杯になってしまって。そうなると、体中から力が抜け、足が細かく震えだして、立っているだけで精一杯。もしも10分前にトイレに立ってなけりゃ、確実に股間に盛大な染みを作ってたと思う(いや、恥を忍んで告白すると、少量だけは、やはりもらしてしまってた。タンクがほぼ空だったおかげで、トランクスがちょっと湿っただけですんだから、どうにか人間としての尊厳を失わずにすんだけど)。

 その間も、噛まれている方のお客さんはずっと「がああああああああっ!」とか「ぎいいいいいいっ!」とか、耳を聾するほどの大声で悲鳴を上げ続けてるもんだから、だんだん、頭もがんがんしてきて、気がつくと、僕も「ひゃああああああああ……」とか、声にならないか細い悲鳴を上げてて。でも、相変わらず足は動かないまま。あの状況がもう少し続いていたら、まず間違いなく、僕も男に食いつかれ、人間としての一生にピリオドを打っていたと思う。そうならなかったのは、ひとえに加呂さんのおかげだった。

 加呂さんは、近所のマンションに住んでる40歳ぐらいの主婦さんでね。「ファミリーマーケット・コスモス通り2丁目店」で、昼間の時間帯のパートのリーダーをしてる人。で、僕ら深夜勤と入れ替わりに勤務に就くんで、引き継ぎのため、いつも、ちょっと早めに出勤してくれてる。小柄で小太り、いつでもニコニコ笑ってて、僕の体調がよくない時とかは「大丈夫?ちょっと顔色悪いよ、早く帰って、栄養あるもの食べて、暖かくして寝ないとだめだよ。あ、もしよかったら、煮物とか、おすそ分けしようか?」なんていってくれる、どちらかっていうと――いや、.間違いなく――おっとりとして優しい感じのおばちゃんなんだ。

 なのに、その時は違った。

 ばあんと扉を開けて、ものすごい勢いで事務室から走り出てくると、レジカウンターの上に飛び乗り(袋に入っていたお弁当がつぶれる「ぐしゃっ」って音が、はっきり聞こえた)、「おおおおおりゃあああああっ!」と叫ぶやいなや、手に持っていた長い棒みたいなものを、男に向かって突き出したんだ。

 といっても、噛みついている男は、被害者の背後にいるのだから、加呂さんの突き出した棒は、当然被害者の腹にぶち当たることとなり……かわいそうなサラリーマン風のお客は、今度は「ぐふおっ!」と腹を抱えこむ。それでも、被害者越しに男の方にも多少は衝撃が伝わったらしく、男は、口からあごから血にまみれた顔を被害者の首筋から離し、今度は純粋に怒り一色に染まった顔で、歯をむき出し、

「かあああああああっ!」

 と、声にならない声で威嚇してきた。

 その恐ろしい表情と、恐ろしい声に、僕はさらに手足の力が抜け、へなへなとその場にへたり込みそうになったのだけれど、加呂さんは違った。

 にやり、と不敵な笑いを浮かべると、チャンス到来とばかり「どうりゃ!」と手にした棒を再び突き出し、男の顔を、その棒で突いたんだ。

「栗田君!なにしてんの!早く事務所からもう一本、さすまた持ってきて!」

 突いた勢いそのまま、男をぐいぐいと冷蔵ケースの方に押し込んでいきながら、普段からは想像もできない大声で、加呂さんが叫ぶ。

 そこでようやく――我ながら、本当にとろくさいと思うけど、本当にようやく――加呂さんが手に持っているのが、暴漢鎮圧用にと店のオーナーが購入していた「さすまた」で、そのY字型に分かれた先で、暴れている男の顔を挟み込んでいるってことに気づき、同時に、小柄な加呂さん一人では、暴れる男をいつまでも押さえつけてはおけないであろうこと、そして、僕自身も、深夜勤担当の店員として、さすまたの使い方は一通りレクチャーしてもらっており、十分使いこなせるはずだ、ってことにも思い当たったんだ。

「早く!早くして、お願い!」

 加呂さんの声に必死さが混じる。見ると、さすまたの先を男が両手でがっしりつかみ、力任せに押し返そうとしている。

 僕は慌てて事務所に駆け込んで、扉のすぐ脇に立てかけてあるもう一本のさすまたをひっつかみ、すぐさま店内にとって返すと、引きねじるようにして加呂さんのさすまたを首から外した男の腹めがけて、思い切りさすまたを突き出した。

「ぎゃぶう!」

 獣のような声を上げ、男はもんどり打って床に倒れ込む。チャンス到来とばかり、僕は、すかさずもう一度、男の腹をさすまたで押さえ込んだ。そこへ、体勢を立て直した加呂さんが、通路の反対側から、もう一本のさすまたで、男の首のあたりを押さえる。

 それで、勝負は決まった。

 いかに男が大暴れしようとも、床にひっくり返った状態で、首と腹を押さえつけられていては、さすがに抜け出せない。僕は、ほっと安堵の息を吐きながら、

「すみません!橋江さん!警察!それと救急車お願いします!」

 腕の力を抜かないよう、そして万が一にもさすまたの先が滑ったりしないよう気をつけながら、大声を上げた。

 橋江さんは、自称「作家の卵」のフリーターさんだ。僕が大学に入り、ここでバイトし始めた頃にはもうベテランで、一緒に深夜勤に入ることが多かったんで、仕事を一から教えてもらった。大人の余裕があって、頭の回転が速く、クレーム対応なんかもそつなくこなす、本当に気の利く人だ。

 だから、もちろんこのときも、

「陸君、言われるまでもないって。もう、警察にも消防にも連絡してるよ」

 と、意外に近いところから、この上なく頼もしい声が、当然のように返ってきた。

 ちらっと振り返って確認すると、橋江さん、被害者の脇にしがみついて、店にある救急セットとウェットティッシュ、タオルを駆使して、てきぱきと応急手当をしている最中。

 仕事でもなんでも、きちんと頭の中で段取りを組み、次に必要なことはなにか、的確に理解し実行してくれるのが、橋江さんの何よりすごいところだよなと、僕はいたく感心した。

「よかった。じゃあ、警察も救急もすぐに……」

 と、言いかけたところで、ぱたり、と橋江さんの手が止まった。

「それがね……どうも、おかしいんだよ」

「え?おかしいって、なにがです?」

「いや……それがね。警察に連絡をしたらね。事案発生は了承しましたが、今現在、署員全員が出払っており、出動にはしばらく時間がかかるかと思うので、そのまま、もうしばらく犯人の確保及び現場の保全をお願いします、って言われちゃったんだ」

「……は?え?なんです、それ!?」

「な、おかしいだろ?私は、ちゃんと伝えたんだよ。暴行傷害だ、重大事件だ、犯人がまだ暴れてて手がつけられないんだってね。けれど、申し訳ありませんが、今しばらく現状維持を、の一点張りなのさ」

「そんな……」

「救急……つまり消防も、似たような感じでね。暴漢に噛みつかれて、首から大量出血している人がいる、即時救急車を、って要請したんだけど、事情は分かりました、が、現在出動できる状況ではありません、可能な限り速やかに救急車を手配しますが、それよりも、応急処置を施した上で、近隣の病院まで自力搬送してもらう方が、より確実で速やかな処置が可能かと思います、可能ならば、そちらの方法を選択することをおすすめします、なんて言うんだ」

「救急まで!?大けがしてるのに、自力で運べ、ですか?それは、なんか、本格的におかしいっていうか……」

「だろう?で、まあ、そう言われたんで、仕方なく、この人の応急処置をしてたんだけどさ……ねえ、これから、どうしたらいいと思う?」

 先ほどまで落ち着き払っていたのに、今の橋江さんときたら、途方に暮れて困り果て、すがりつくような声だ。

 これが、橋江さんの何より困ったところだ。あらかじめ決まったルーチンワークや、他人に支持された行動ならば、スムースに、速やかにこなすことができる。けれど、突発的に起こるトラブルや、想定外の出来事に遭遇すると、もうお手上げ。何をしていいのか分からず、ひたすらおたおたするだけの役立たずと化してしまう。

(そういや、事件が起きた時、橋江さん、隣のレジでお客の対応してたはずなのに、気がついたらいなかった。きっとあの時も「でくの坊」化して、カウンターの下にでも潜り込んで震えてたんだろうな……)

 ちょっとうんざりした気持ちになったのだけど、そう思っている僕だって、橋江さんの問いかけに「いや、どうしたらって……」とただただ絶句してたんだから、役立たずレベルではどっこいどっこい。

 結局、思考停止に陥ってしまった僕らを救ってくれたのは、やはり加呂さんだった。

「ああもう、肝心な時に、頼りにならない!警察も救急も来られないって言うんだから、こっちでなんとかするしかないでしょう!まずは、この暴れてる人をなんとか取り押さえて!次に、けが人を運ぶの!分かった?」

「はい!」

 僕と橋江さん、二人揃って飛び上がるように返事をし……それからがまた大騒動だった。

 身動きとれない状況なのだから、いい加減おとなしくなればいいのに、男はなおも、身をくねらせ、足をばたつかせて歯をむき出し、隙あらば噛みつこうとする。これ以上けが人を増やされたはかなわないから、と橋江さんが一計を案じ、ガムテープを数枚貼り合わせて作ったシート上のものを、マスクのような感じで、男の口からあごにかけての部分に――もちろん、窒息しないように鼻の部分はうまく避けて――素早く貼り付けてやった。と、これがものすごく効果を発揮したようで、男は途端におとなしくなる。その間に素早く男の手足を拘束。さらにテープをぐるぐる巻き付け、もにょもにょとうごめくことしかできなくなったところで――それはまるで、テープでできたイモ虫がもがいているようだった――ようやく僕たちは満足した。男を床に転がしたまま手を離して、けがをしたお客さんの処理に取りかかったのだ。

 大手地理情報検索サービス「ゲーゲルマップ」で検索したところ、最寄りの外科医院は、ほんの二百メートルほど離れたところにある。普通なら、その程度の距離だし、傷の応急手当もしているんだし、店員の一人がけが人に肩を貸し、歩いて連れて行けば問題ない。けど、噛みつかれた場所が首筋ということで、被害者さんは上半身がぐっしょり赤く濡れそぼるほど出血し、そのせいか、顔色は真っ青、意識までもうろうとしている様子。この状態では、到底歩かせるわけにはいかない。それに、イモ虫男が大暴れしてくれたせいで、棚は倒れ、商品は散乱、おまけにあちこち鮮血が飛び散り、店内は、いつ金田一耕助が現れ、捜査を開始してもおかしくない、といった有様だ。

 ということで、いったん店を閉めて、店内の整理と清掃を行い、その間に、僕と橋江さんの二人で被害者を車に乗せ、医者のところまで運ぶ、ということになった。

 後から考えると、この二つの決定――早い時間に店を閉め、人の出入りを制限したこと、そして、けが人を運ぶのに車を使うことにしたこと――が、風前の灯火だった僕たち全員の命を救う、幸運なターニングポイントになったのだと思う。

 無論、その時の僕は、自分がどれほどラッキーであったか、なんてことに全く気づきもせず、もうすぐシフト終了という時刻にとんだ騒動に巻き込まれ、ひたすら自分の不運を呪っていたんだけどね……。



 店の裏口に横付けした橋江さんの車の後部座席に、被害者さんをなんとか横たえ――もちろん、用意周到な橋江さんのこと、座席が血で汚れないよう、きっちりブルーシートを敷き詰めた上に、だ――僕らは、すぐに出発した。が……いくらも進まないうち、すぐに異変に気づくことになった。

 バイト先のコンビニから医者に向かうには、まず店舗の面した道路を少し走り、突き当たった四車線の主要国道を右に曲がって、最初の交差点をさらに右折すれば問題ないはずだった。所要時間は――なにせ、直線距離二百メートルだし――せいぜい五分。

 だが、そうはいかなかった。

 店の前の道路を走り出した、まではよかったんだけど、そこから入るはずの国道が、交差点の中までびっちりと、車で埋め尽くされていたんだ。

「おいおい、渋滞か?確かにこの時間、いつも混んでるけど、ここまでひどいって……事故か?」

 思わず困惑した声を出す橋江さんに、

「……橋江さん。なんか、おかしいですよ」

 道路の左側をすかし見ていた僕は、自分でも不安になるほど固い声で、そうささやいていた。

 僕らの停車している交差点から、五十メートルほど先の地点で、国道は高架に上がる本線と、駅前の交差点につながる支線とに別れている。その別れ際、本線と支線との間に仕切りができているところに、大型トラックが突っ込み、斜めになって停車していたのだ。

 それだけなら、まあ普通の――いや、大事故ではあるけれど――事故にすぎない。

 おかしいのは、その高架に上がる途中、坂道になった部分にも、道の端に斜めに突っ込み、煙を上げている乗用車が見えることだ。しかも、一台じゃない。坂道の真ん中あたりに一台、その斜め上にもう一台、さらに、坂道を上がりきったあたりに、完全に真横を向いた車がもう一台と、都合四台も自損事故を起こしている。

 これだけの大事故なら、即座に警察が出動し、事態の収拾に努めているはずだ。

 けれど、聞こえるのは、イライラが極限にたまったドライバーたちが頻繁に鳴らすクラクションの音だけ。現場に駆けつけるサイレンの音は――パトカーの音も、救急車や消防車の音も――一切聞こえない。もちろん、到着した緊急車両は目視できないし、大勢うろついててしかるべきはずの警官や救急隊員の姿も、一切見かけない。

 その代わり……先ほど店内で見た「加害者」と同じような人間が、事故の現場近くだろうが、高架の上だろうが構わず、腕を前に突き出し、のそのそと歩いている。

「橋江さん。これ、だめです。引き返して、裏から行きましょう!」

 僕が悲鳴じみた声をかける頃には、橋江さんも、状況のとてつもない異常さを見て取っていたらしい。

「そ、そうだな。そうしよう」

 いうが早いか、即座にハンドルを切り返し、器用に車の向きを変えると、せまい道路にはいささか似つかわしくないほどのスピードで、元来た方向へと走り始めたのだった。


 結局、医者へたどり着くことができたのは、それから三十分も過ぎた頃だった。

 回復の見込みがない大渋滞となっている主要国道や大通りを避け、裏路地や抜け道をくねくね遠回りし、そして、頻繁に見かける「噛みつき男」の同類を刺激しないよう、静かにゆっくりと車を進めていたせいで、とんでもなく時間がかかってしまったのだ。

 やっとの事で病院に到着すると、横に駐車スペースがあるというのに、橋江さんは、入り口扉の前に、車をぴったり横付けした。真面目で気が小さく、普段はモラルに反する行動など、間違ってもしない橋江さんが、これほど堂々とエチケット違反を犯した理由は、いうまでもない。

 被害者さんを運んでいる最中、道を徘徊している人間たち――「加害者」もどき――に襲われるのを恐れていたのだ。

 その気持ちは、僕にも、すごくよく理解できた(なにしろ、目の前で被害者が首筋に食いつかれ、大出血するのを見てしまっているのだ)。なので、橋江さんをとがめもせず、そそくさと被害者を運び出し、医院の中に運び込むと、中にいた看護師らしき女性に世話を丸投げして……僕らは、即座に車の中へと戻ったのだった。

 そして、来た時同様、主要道を避け、のろのろ運転で、バイト先へと向かう。

 その途中、車を停め、般若のように険しい、醜い表情を浮かべた女性(!)が、指をかぎ爪のように曲げた手を前に突き出し、のたのたとゆっくり道を渡って歩いていくのを、辛抱強く待っていた時。橋江さんが、心底疲れた口調で、ぼそっとつぶやいた。

「陸君。あの人たちは、なんだろう。なにが起こってるんだろうね。」

「……なんでしょうね。警察も消防もてんてこ舞いみたいですし、なにかおかしなことが、信じらんないくらい大規模で起きてるっぽいですけど」

 夜勤明けからの異常事態で、僕もいい加減、疲れ切っていた。そのせいで、なんだか投げやりな返事をしてしまう。

「なんか、大勢、いたよね。その……病気?なのかな、なんか、精神にちょっと支障をきたしてるっぽい人たちが」

「ええ……病気、なんですかね?だとしても、あんなにいっぺんに大勢、おかしくなったりするもんなんですかね」

「ほら、なんかの中毒とかさ。あるいは、テロ攻撃を受けた、とか」

「テロって、まさか」

「だよね。それはないか。じゃあ、一体、なんなんだろうね」

 最後の「なんなんだろうね」を独り言のように口にしたところで、橋江さんは考えこむように黙り込んだ。つられて僕も、疲れた頭で、一体なにがどうなっているのか、思いを巡らせる。

 エアコンをフルで効かせているのに、車内はなんだか蒸し暑く、じっとりと汗がにじみ出すような気がする。被害者さんの首からしたたり落ちた血が、シートにこぼれでもしたのか、なんだか生臭いにおいが、やけに鼻についた。

 病気――だよね?――の女が道を渡りきり、姿が見えなくなったというのに、橋江さんはブレーキを踏んだまま、難しい顔で、じっと押し黙り、なにかを考えてづけている。

 気持ちは分かるけど、これじゃ、いつまでたってもらちがあかないと思い――それにもちろん、ちっぽけな車内にとどまっていては、いつまた「病人」に襲撃されるかもしれない、という恐怖も、少なからず感じていた――「前、いけそうですよ」と声をかけようとした時、再び橋江さんが、口を開いた。

「陸君。……その……こんなこと言うと笑われるかもしれないけどね。私には、あの、歩いている人たちがね、そっくりに見えるんだ。その……ゾンビにね」

「……ええ……はい」

 そう答えるのがやっとだった。僕も、全く同じことを感じていたからだ。

「まさかね。ゾンビなんて、ホラー映画やゲームの中だけの存在だよね。実際に、現実に現れるなんて、そんな。あり得ないよね」

 橋江さんが、うわずったような笑い声を上げる。

「……ええ。ですよね」

 そう言いながら、僕も笑みを浮かべようとするが、なぜか顔がこわばって、うまく笑えない。

(もし……いや、そんなことはあり得ないと思うけど……もし、僕らが見てるあの人たちが、本当にゾンビ化した人間だったら……!)

 新たな、そしてさらに大きな恐怖に思い当たり、僕は思わず、ぶるぶるっと身震いした。

 本当に残念なことに、このとき感じた「恐怖の予感」は、しばらく後、大当たりしてしまうことになる。


 人類を襲ったこの惨禍は、後に「パンデモニック」――世界的大量魔感染――と呼ばれるようになった。

 僕らが夜勤明けに遭遇した、この「遺伝因子による直接発病」は、全世界でほぼ同日、同時刻に発生。全人類のほぼ一割に当たる「遺伝因子保持者」が、一斉に「ゾンビ化」した。

 日本では、悪いことにこの「一斉発症」、午前8時前後という、通勤通学のピーク時に起きた。満員電車の中や、国道を走っていた車内、駅へ向かう人の群れの中で、少なからぬ人数が、突如症状を現し、狂犬病患者さながら、爆発的な怒りにかられ、他人を襲撃し始めたのである。

 当然、全国至るところで、惨劇と、パニックが起こった。

 同時多発的に各所で大事故、大事件が多発したため、警察も消防も、まるで手が回らない。自衛隊さえも緊急出動し、なんとか事態を収拾しようと努めたが、焼け石に水。パニックは広がる一方だった。

 このような状況に陥った以上、速やかに緊急避難命令を発動し、「無事な者は家から出るな!出ると死ぬぞ!」ぐらいの勢いで、緊急報道を実施すればいいものを……残念ながら、そうはならなかった。

 WHOか、日本政府か、厚生労働省か、国立感染症研究所か、それとも経団連か、地方公共団体か――そのうちの誰かが「強制命令など出したら、引っ込みがつかなくなる」と日和ったのだ。「原因不明の疾病の流行の兆しが確認されております。お出かけの際は、十分な予防を」「マスクを身につけて、帰宅後はうがい、手洗いを忘れずに。不要不急の外出はお控えください」なんて、インフルエンザの時と変わらないような注意喚起の報道がなされただけ。テレビもラジオも、患者の人権擁護のためか、あえて穏やかな「新型脳症の流行?」ぐらいの報道をしただけでお茶を濁した。

 その結果、当然ながら、真面目な日本人は、「仕事があるから」「学校があるから」と、ゾンビが街を徘徊している中へ、のこのこと次々に出かけていき、ますます惨禍を広げていったのである……。



 ようやくのことで店に帰り着くと、中に二人、人が増えていた。

 漣と、真木ちゃんだ。

 漣は、この店のオーナー夫婦の息子で、高校二年生。なんでもオーナーの実子ではなく、実の両親が事故で亡くなり、引き取られた――といえば聞こえがいいが、あの強欲でドケチな人たちのことだ、タダでこき使える労働力を確保したい一心だったに違いない。その証拠に、漣は相当頭がいいのに、家からすぐ近所にある底辺高校にしか通うことを許されず、しかも、部活そのほかの課外活動は一切禁止。繁忙期には学校をずる休みさせてまで、店のシフトに入れられている。漣本人が、なまじ性格のいいイケメンで、なんだかんだ境遇に文句を言いながらも、養い親に言われるがまま、素直に真面目に働くので、余計に気の毒でならない。

 真木ちゃんも、漣と同じ高校二年生で、最寄り駅から数駅離れた、このあたりで1、2を争う進学校に通っている。こちらは、おうちがあまり裕福ではないらしく、大学に進学するための費用を少しでも貯めたいから、という理由でバイトしている、感心な子だ。

 その上、ものすごく頭のいいエリートのはずなのに、性格もよくて、F欄大学生の僕を見下したりもせず、仕事を教えれば熱心に聞いてくれるし、ホラー映画のうんちくとか、マニアックな話を語ってしまっても、いやな顔ひとつ見せず、要所要所で笑ってさえくれる。顔立ちも、丸顔で目が大きくてすごくかわいいし、すらっと手足も長くてスタイルだっていい。まさに、こんな場末のコンビニに降臨した天使。そのうち機会を見つけて、デートに誘おうかと、密かに狙っていたんだけど……。

 僕らが店の事務所に入っていくと、漣と真木ちゃんは、しっかり手を握り合って、立っていた。それも、普通の握り方じゃなくて、指と指をしっかり絡めて握る「恋人握り」というやつだ。

 僕は密かに絶望し……そして、つい一瞬前まで「性格のいいイケメン」だった漣の評価を数ランク落とし「イケメンだからっていい気になっているイヤなヤツ」に書き換えた。

(リア充め!どうして「いいな」と思う女子は、お前にばっかりなびくんだ!)

 現状の深刻さなど一切気にせず、むっつりと顔をしかめ、僕は、荒んだ心の叫びを上げた。……のだが、誰一人、僕のこわばった不自然な笑顔やぎくしゃくした動きに、気づいてくれない(まあ、状況が状況だし、仕方ないんだけど)。緊迫した雰囲気の中、緊張した表情で、うなずき合うばかりだ。

「ああ、橋江さん、陸さん、おかえんなさい」

「漣君!?どうしたの、今日は学校だろ?」

「それがさ。学校なんてどうでもいいから、店の様子を見てこい、もしも店員が逃げ出してたりしたら、お前が残って店番してろ、って親に言われてさ。あいつら、マジ終わってやがる」

 橋江さんの質問に対し、吐き捨てるように答え、漣はそっぽを向く。その横顔を、真木ちゃんが心配そうな表情で、じっと見つめる(どうして、人生ってこうまで不平等なんだろう……)。

「真木さんは?君も学校があるんじゃないの?」

「そうなんですけど……電車に乗ろうと思って駅に行ったら、なんか、ものすごい勢いで大勢の人が階段駆け下りてきて。なんだろうと思ってたら、その後ろから、ものすごい恐い顔をした人たちが、口の周りとか、胸とか、血で真っ赤に染めながら、追いかけてきたんです。私、ものすごく恐くなって、それで、思わず逃げ出して……」

 その時の恐怖を思い出してしまったのか、真木ちゃんは、握りしめた両手をぎゅっと口に当てると、うつむいて、震え始めた。その様子を、今度は漣が心配げに見つめ、そっと、すぼまった肩を抱く(ちくしょう……ちくしょう……)。

「それで?二人とも、噛まれたりしなかったかい?」

 心配そうに加呂さんが口を挟むと、二人は顔を見合わせ……今度は二人揃って、心配そうな表情となった。

「それが……ちょっと噛まれてしまって」

「私が悪いんです!駅から逃げ出した後、公園で一息ついてたら、いつも同じ電車で学校に行ってる優衣ちゃんが通りかかって。あっ、て思って声をかけたら……優衣ちゃんが、その……あのものすごく恐い顔で、があって襲いかかってきて。思わず悲鳴を上げて、なんとか防ごうとしたんですけど、がっちり腕、捕まれちゃって、逃げらんなくて……ああ、だめだ、って思ったところに、漣君が駆けつけて、優衣ちゃんを振りほどいてくれたんです!その時に、漣君、腕のあたりを優衣ちゃんに、がぶっ、て……」

「そりゃ大変!ちょっと見せてごらん」

「ああ、でも、全然たいしたことないんで!血も出てないし、ちょっとヒリヒリするぐらいで……」

「いいから!ほら、脱ぐ!」

 ほぼ無理矢理ブレザーを脱がされ、その下のシャツの袖をめくり上げられて、漣はちょっと恥ずかしそうに頬を染め、うつむいた(悔しいけど、こういうところ、本当にこいつ、かわいいと思う)。

 加呂さんは、目を細めて、注意深く、噛まれたというあたりを見つめた。

「ああ……ほんとだ。少し赤くなっているだけだね。一応、消毒しとくかい?」

「あ、ええ、じゃあ……」

 加呂さんが救急箱の中から消毒液を取り出し、適当にぷしぷし吹き付けているところへ、

「怪我がなくてよかったよ。こんな時期なのに、真面目に分厚い制服ブレザー着てたおかげだね。よかったね漣君、真面目な高校生やってて」

 橋江さんが、ちょっとからかうような感じで、漣の頭をポンポンする。

「いや……そんなんじゃないっすよ。ただ、あの、学校の衣替えの日がまだだから……」

 なんとも言えない顔になった漣が、言い訳にもならない言い訳をもごもごと口にし――やっぱりこいつ、本当に悔しいけど、かわいい――みんなが優しい顔になった。

 と、そのタイミングを見計らったかのように、店舗の方から「ごん!」と鈍い音がしたかと思うと、続いて、なにかが盛大に倒れるものすごい音が響いてきた。

「あーあ、もう!陳列棚、倒したな。あんだけがんじがらめに縛ってやったのに、あの人、まだ暴れたりないのかね!」

 憤懣やるかたない、といった感じで、加呂さんが店舗へと通じる扉を見る。

「あの……まだ、警察来てないんですか?」

「うん、まだ。君らが出かけてからもう一度、早く引き取りに来てくれって電話したんだけど、さっぱり」

「困りましたね。でも、まあ、外があの様子じゃ、警察も、市役所なんかもてんてこ舞いだろうし……」

「……そんなにひどいことになってるの?」

 加呂さんに水を向けられ、僕は「ええ……さっきの、漣の話にもありましたけど、なんか、病気になっちゃった人がたくさん出たみたいで……」と、今さっき、病院までの楽しいドライブで目にした一部始終を、時折橋江さんに説明を補ってもらいつつ、かいつまんで皆に語った。

「……というわけなんで、警察なんかが助けにくるのは、大分遅くなるんじゃないかと」

 と、話を締めくくるころには、せっかく和んだ空気はどこへやら、再び重苦しい雰囲気が、事務室の中を覆い尽くしていた。

「いったい、どうなってるの?こんなことがいきなり起こるなんて、一体……」

 加呂さんが、悲鳴じみた甲高い声を出す。それにつられたのか、真木ちゃんが、両手で顔を覆い、声を抑えて泣き始めた。

「……なにが起こっているのかは、分かりません。ただ……その、橋江さんとも話したんですけど、とにかく今日、この角間のまちになにかが起こって、大勢の人が、いきなりゾンビのような感じになり、他の人を襲い始めた、っていうことだけは、はっきりしてると思います」

 沈鬱な感じで、つっかえながら、僕は、静かにそう告げた。

 声に出して確認してみると、自分たちがどれだけ異常な状況の中に放り込まれてしまったのか、改めて実感する。あまりに荒唐無稽で、どうかすると笑い出しそうになる反面、あまりに困難で危機的な状況に陥ってしまったプレッシャーで、息をするのもはばかられるほど、空気が重たく感じられる。

 皆も、僕と同じような感慨を抱いていたのか……変にゆがんだ、複雑な表情を顔に貼り付け、しばらくの間、ただ押し黙っていた(真木ちゃんのすすり泣く声と、時折しゃくり上げる音だけが、やけに大きく聞こえていたのを、今でもはっきり覚えている)。

 と、その時だ。

 再び、事務室の外から――といっても、今度は店舗の反対側、駐車場に面した方から――鉄板をせわしなく連打するような音が鳴り響き、僕らは思わず、びくりと身をすくめた。

(まさか!外の、扉の前にゾンビの群れが!)

 この間見たばかりの映画のワンシーンが、突如、ありありと思い浮かんだ。

 狭い部屋の中の閉じ込められた人間。外には数え切れないほどのゾンビがひしめき、「ヴォ-」とかなんとか叫びながら、何十体という数で、ぐいぐい戸を押している。その圧力で、木製の扉はとうとうはじけ飛び、大きく開いた戸口から、血に飢えたゾンビがわらわらと人間に殺到する……。

「ひいいっ!」

 思わず目をつぶり、頭を抱えて、その場にしゃがみ込んだ、その時。

「早く!ここを開けて!早く!奴らに気づかれる前に、早く!」

 押し殺した、切羽詰まった声が、扉の隙間越しに、はっきりと聞こえてきた。



 この時も、真っ先に動いたのは加呂さんだった(こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど、さすがは年の功、根性がすわっている)。

 扉に近づくと、鍵を解除し、素早く、細めに扉を開く。

 その隙間を押し広げるようにして、灰色のツナギにキャップという、一目見て配送ドライバーだと分かる姿をした、僕よりやや年上っぽい男性が事務室の中に飛び込んできた。

 勢い余って部屋の真ん中まで進んだところで、男性は、膝に両手を置いて、ひとしきり肩で息をする。

「……やべー……歩いてる奴ら……何人か……気づきそうで……あー、やばかった……」

 膝に手を置いて、ひとしきり肩で息をしたところで、男はようやく顔を上げた。

 毎日早朝便でこのコンビニに商品を運んできてくれている、安藤さんだ。

 僕より明らかに年上なのに、毎朝毎朝、

「おはようございます!朝の納品です!」

 ときちんと敬語で元気よく丁寧にあいさつし、てきぱき荷物を下ろして颯爽と立ち去っていく、すごく感じのいいお兄さんなのだが……さすがにこのときは余裕がなかったのか、少々乱暴な言葉遣いになっていた。

「安藤さん!?どうしたんですか、今日はもう、朝の納品も終わったはずじゃ……」

 橋江さんが、困惑した声で尋ねると、安藤さんは眉根にしわを寄せ、思い切りうんざりした顔になった。

「いやいやいやいや、納品て!そんな場合じゃないって、外見たらわかるっしょ!そこら辺中ゾンビゾンビゾンビゾンビ、えらいことになってるって!」

「あ、はい、それは分かります。だから余計に、わざわざ店舗に来てくれたのが……」

「不思議?ああ、まあね、俺、そんな正義感強い人には見えないだろうし」

「いやいやいやいや、そうじゃなくてですね、どんなに正義感強い人でも、まさかわざわざ危険を冒して、こんな状況できてくれるなんて想定外というかですね……」

 やや早口で言い訳をくどくど並べ立てる橋江さんを、大きく手を振って黙らせると、

「いいっていいって。実際俺も、ゾンビが出たばかりの頃は、ここまでくる気なんか全くなかったし」 

 当たり前のように言い放つ。

 それを聞いて、漣が不審そうな表情になった。

「じゃあ、なんだってここに?」

「それは、もうちょっと落ち着いてから話すから、ちょっと待って」

 と、安藤さんはここで大きく息を吐き出し、呼吸を整えると、えいとばかりに背筋を伸ばし、改めて事務所内の一同を見渡した。

「それで、ここにいるのはこれで全員?みんな、無事でなによりだったね」

 無事でなにより――なんてことない一言だけど、その言葉に込められた溢れかえるほどの実感が、やけに胸に響いて……僕ら五人は、それまでの張り詰めていた気持ちが一挙にほぐれ、皆一様に泣き笑いのような表情になって、どっと歓声をあげたのだった。


 安藤さんは、朝の配送を一通り終え、センターに戻ってしばらくたった頃に、「ゾンビ化現象」に出くわしたらしい。

 昼便の荷物を積み込む前に、休憩室で缶コーヒーでも飲もうか、と腰を下ろしたところで、突然、同僚の一人が、隣に座っていた男にかじりついたのだ。

「いや、もう、どびっくり。ドライバー仲間でも、そいつ、小柄でガリガリの、めっちゃおとなしい、ネズミみたいなやつでさ。それがいきなり、ライオンかよって雄叫び上げて、隣に座っていたオヤジのハゲ頭に、がっぷり噛みつくんだもの。慌てて、みんなでなんとかそいつを引き離したんだけどさ、その時にはもう、ハゲた部分にくっきり丸く歯形が残ってて、そこからドバドバ血が流れてるもんで、オヤジ、顔面血だらけ。ケチャップまみれのゆで卵みたいになっててさ……」

 安藤さん、仕事中の「明朗快活、礼儀正しい青年」である姿は、かなり無理して作り上げたもので、実際の性格は、かなりお笑い系というか、素で面白い人らしい。本人はいたって真面目に状況の説明をしているつもりらしいんだけど、表現がどうにも独特で、思わすニヤニヤ笑いそうになってしまうのを抑え、僕らは、必死で深刻な表情をキープした。

 噛みついたドライバーをゆで卵……年配の男から引き離し、なおも暴れる男を取り押さえつつ、被害者を介抱する、という流れは、この店舗での僕らの経験と、大差なかったようだけれど、そこからが違った。

 すぐにテレビやラジオをつけて、マスメディアから情報を集めようとすると同時に――これは、大して役に立たなかったようだけど――本社へと電話。センターとして、この先どうすればいいのかお伺いを立てたのだそうだ。

 それに対する返事は「状況が少々困難かもしれないが、落ち着いて、冷静に業務を遂行するように」というものだった。

 流通部門の統括責任者――つまり、センター長よりずっとずっとえらい上司――から、通常通りの業務を行うよう命令を受けたのだから、そこは当然、その命令に従い、粛々と業務を行うべきところなのだが……この電話を受けた張本人であるセンター長代理、統括責任者の声がわずかにうわずっているのを聞き逃さなかった。

 受話器を置くとすぐ、国内数十カ所にある他の集配センターへと電話をし、どの場所でも同じような事件が起こっていること、そして、センター内のみならず、路上でも、店舗でも同様の「ゾンビ化」が起こったことを確認したのだ。

 その上で、センター長代理の出した結論が、

「全国レベルでうちらが経験したのと同じような事件が起こっている以上、これは大変な騒ぎになる。通常業務なんてしてる場合じゃない。それどころか、警察も行政もてんてこ舞いだろうから、当てにできない。こうなった以上、仕方がない、自分たちの安全を確保した上で、周辺の助けを必要としている人たちを少しでも多く助け出すべきだ。幸い、この集配センターには、仮眠できる施設もあるし、食料もふんだんにある。安全に、多くの人々を運び込めるトラックもあるし、ドライバーもいる。みんな、手分けして、少しでも多くの人たちを、このセンターまで運んであげてくれ!」

 というものだった。

 安藤さんは、この言葉を受けて、センターから比較的手近にある僕らの店舗まで、どうにかやってきてくれたのだ。


「いやもう、すっげえ大変だった。はじめ、国道通ってここまで来ようと思ったんだけどさ、あっちでドッカン、こっちでドッカン、事故だらけで全く進めねえの!おまけにその間をゾンビちゃんたちが「ヴォー」とかいいながらお散歩してくれちゃってるし。仕方ないから、裏道やら路地やらたどって、ようやくここまでたどりついて……」

 あんまり大変そうに聞こえない感じで安藤さんは話したけれど、国道の惨状を目にしていた僕らは、彼がどれほど苦労してここまでやってきてくれたのか、痛いほど理解できた。

「安藤さん。わざわざ私たちのために、本当にありがとうございます!あなたは、僕らの命の恩人ですよ!」

 いつも冷静な橋江さんが珍しく、感極まった声でお礼を言いつつ、安藤さんの手を両手で包み込むようにして握りしめる(もちろん、橋江さんの横で僕も、目を潤ませ、何度も何度もがくがくと大きくうなずいていた)。それが照れくさかったのか、安藤さんは、頬を赤らめ、戸惑ったような顔になった。

「いや、そんな、俺は、そんなたいしたもんじゃないっすよ。ただ、センター長代理に言われたからここまで来たってだけで……」

「いやいや、それでもありがたいです。あ、もちろん、そのセンター長代理という方に対しては、それ以上に感謝してますけど」

「あ、うん。すごい人なんだよ、代理は。最初に休憩室でオヤジが噛みつかれた時も、真っ先に止めに入ったのが、代理でさ。おれたちドライバーが、みんなびっくりし過ぎて固まってたってのに、ものすごく冷静で。本当にたいした人なんだよ。もう定年間近ってぐらいのおっさんドライバー連中からも、一目置かれていてさ……」

 感謝の矛先が自分からずれたからか、安藤さんは、ここぞとばかり、センター長代理のことを褒めちぎった。

 なにしろ安藤さんの言うことだから、その全てを真に受けたわけじゃないけど、でも、その話しぶりを聞くだけで、彼がどれほどセンター長代理という人物をリスペクトしているのか、よく分かった。

(事件に対してものすごく冷静な判断を下せて、しかもその後、みんなに的確な指示を出し、さらに、みんなその指示通りに行動するほどの人望まである。すごい人なんだな……)

 広い肩と太い腕をした、厳つい顔つき。そのただでさえ厳つい顔を、いつでもぶすっとしかめ、くわえたばこをふかしながら、大声でみんなを怒鳴りつけてばかりいる、中年の渋いおじさん。――そんなイメージが、僕の頭の中に浮かんできた(日本映画なら佐藤浩市、アメリカ映画ならブラッド・ピットあたりが演じそうなおじさんだ)。  

「……ああ、いけね。つい話が長くなったけど、いつまでもこんなとこにいたら危ないし、早いとこセンターに避難しません?ぼやぼやしてて、夕方とか夜になったらゾンビちゃんがさらにパワーアップして、ハイパーゾンビちゃんになるかもしんないし」

「え!やっぱりゾンビって、夜の方が危ねえの!?」

 あんまり驚いたのか、漣が、素っ頓狂な声を出した。

 確かに、映画やゲームでは、ゾンビは夜、凶暴化する。その通りだとすれば、なるべく早めに避難するに越したことはない。しかし、ゾンビ化現象が始まって、まだ数時間しかたってないというのに、この人、一体どこでそんな情報を仕入れたのだろう……などと考えた僕がバカだった。

「え?いや、ほら、なんとなく。大体、ゾンビやモンスターって、夜の方が危険じゃん」

 こともなげに言い放ったあとで、あはっ、と笑う安藤さん。

 僕らは危うくずっこけそうになった(やっぱり、この人の言うことは、いまいち信用できない)。

「……ま、凶暴化するかどうかは分かりませんけど、暗闇でゾンビ化した人たちに出くわすのはイヤですし、早めに避難した方がいいでしょうね」

 橋江さんが、ずり落ちためがねを直しつつ、なんとも複雑な顔でその場を取りなした。

「そうそう。代理も、いい加減心配してるかもしんないし」

 あっけらかんと安藤さんがそう言ったところで、それまでじっと皆の話に耳を傾けていた真木ちゃんが、「あの!」と大きな声を上げた。

「え?なに?」

 皆に注目されて緊張したのか、真木ちゃんが、おずおずと言葉をつなぐ。

「……トラックって、私たちがみんな乗っても、まだ乗る場所ってありますか?」

「あ、全然大丈夫!2トン車持ってきたし、あと10人や15人は乗れると思う」

「それなら……あの、もしよければ、あの、弟を連れて行ってもいいですか?あの、今うちにいるので、ここまで連れてきますから……」

 これを聞いてようやく、みんな家族のことを思い出したようだった。

 それまでは、あまりにも奇怪な出来事にいきなり巻き込まれたせいか、自分と、自分の目に映る人たちの無事を考えることで精一杯で、家族のことまで頭が回らなかったのだ。

「そうだ。家族も考えないとでしたね!真木ちゃんの他にも、誰か自宅に家族がいらっしゃる人は……」

 橋江さんが、その場にいる5人を、順繰りに見つめていく。

「こっちじゃない方の店舗に養父と養母がいるけど、あんな奴ら、助けに行く気にもならねえよ。どうせ助けに行っても、あのごうつくばりども、来やしねえだろうし」

と、まずは漣がふてくされたように答える。

「助けにいかなくちゃいけない弟がいて、あ、それから、お父さん!今は仕事に行ってるけど、絶対家に戻ってくるから、その時、私がどこに避難したか分かるようにしておかないと!」

と、これは真木ちゃん。 

「ええと……アパートで一人暮らしだし、近所に親しい人も、特にいませんね。実家の両親が心配と言えば心配っすけど、こんな状況じゃ、どうしようもないし……あ、でも、後で連絡だけでもしとこうかな……」

と、これは僕。

「実家暮らしで、そんな遠くないし、後で家族はなんとか助けに行きたい。でも、道がこんなじゃ、絶対行き着けないし、うちの家族、そうそう死ぬようなタマじゃないんで、今んとこは、自分が避難しとくだけでいいすかね。あ、俺も、連絡だけはしとこうかな」

と、これは安藤さん。

「うちは大丈夫。ダンナとは3年前に離婚したし、子供もいないから」

 と、最後に加呂さんがそう答えて……僕らは思わず、彼女を見つめていた。

「え!加呂さん、主婦じゃなかったんですか!?」

「そうよ。知らなかった?」

「いつもおっとりとして優しい感じだったから、きっと優しいご主人とかわいらしい子供さんとで暮らしてるものだとばっかり……」

「残念でした。子供は嫌いなんで作らなかったし、元ダンナはDV野郎だったんで、慰謝料とって離婚してやったわ。ついでに言うと、両親も死んで兄弟もなしの、天涯孤独。人からはよくおっとりしてるとか優しそうとか言われるけど、そりゃ見かけだけ。昼間パートして、夜は一人で酒飲みながらDVD観たり、ネットの掲示板で『おっさんの客ムカつく』だの書き込んだりしてる、孤独なおばさんですよ」

 普段の加呂さんからは想像もつかないヘヴィーな生活ぶりをいきなり告白され、僕は、どう返していいものか分からず、あーうーつぶやくだけで精一杯。そこへ、

「私も、アパートで一人暮らしですし、近所に親しい人はいません。両親や親族は旧州ですし、助けにいくのは難しいので、とりあえず連絡だけ取る方向性ですね。とすると、今やらなければならないのは……」

 橋江さんがすらすらと状況を整理したところで、ちらっと僕の方を見た。

(ああ、そうだった。状況を整理したり、決まったことをきちんと実行するのは得意だけど、やるべきことを決定するとかはてきめん苦手なのが、橋江さんだよな……)

 とはいえ、加呂さんにかける言葉が見つからず、困り果てていた僕に、このヘルプコールは渡りに舟。肉を見せられた犬のように、僕は橋江さんのパスに飛びついた。

「トラックの運転は慣れている安藤さんにお任せするとして、誰も助けにいく必要のない、僕と漣と加呂さんは、そちらに乗せてもらいましょう。電話は車内か、配送センターに着いてからかければいいと思います。それで、橋江さんは、真木ちゃんと一緒にご自分の車に乗ってもらって、彼女の家まで行ってもらっていいですか?橋江さんの車の方が小回りきくから、トラックじゃいけないところにもいきやすいと思うんです」

「ああ、うん。なるほど。私は構わないよ」

「すいません、橋江さん、お願いします!」

「それで、家に着いたら、弟さんを連れて車に乗り、配送センターに避難してる、って紙を扉に貼っておけばいいと思います。あ、もちろんお父さんの携帯にも電話はしておいた上で。そうすれば、電話が不通だったとしても、行き違いになりませんからね」

「俺はそれで構わねえけど、橋江さん、配送センターまでの行き方分かるかい?抜け道とか路地とか、かなり複雑に走らなきゃいけねえから……」

 と、心配そうに安藤さんが声をかける。

「それなら、真木ちゃんのおうちの場所をはじめに聞いておいて、そこから、トラックが入れる一番近いところまで二台連れ立っていけばいいんじゃないですかね?そこで、二人が用事済まして帰ってくるのを待ってから、一緒に配送センターに行けば」

「あ、そっか!そりゃ、確実だ。それいいな!ええと、じゃあ、真木ちゃん、君の家って……」

「あ、はい、えと、住所は盛具知市東郷通で、ここからだと……」

 安藤さんと真木ちゃんとが早速住所について情報を共有しはじめ、橋江さんも輪の中に入る。

「それじゃ、俺は、真木の家のドアに張る紙を用意するよ。ポスターの裏にマジックで書けばいいよね」

 と、漣は事務所に貼ってあった火災予防のポスターを剥がしにかかる。

「それじゃ、あたしたちは、店舗の方に行って、食べ物とか、なんかの役に立ちそうなものでも持ってきますか」

 加呂さんに促され、僕は必要以上に慌てて(まだ、加呂さんの身の上話を聞いたショックが少し残っていたのだ)、

「はい、そうですね!そうしましょう!」

 そう答える。と、加呂さんは、クスッと笑いをもらした。

「テープでぐるぐる巻きにしたから大丈夫だと思うけど、一応、例の暴れてるお客対策に、さすまた忘れずに持ってきて。……それと」

 加呂さんは、急に顔を近づけると、

「陸君、なかなかやるね。見直したよ」

 そう、ささやいてくれた。

(え……?)

 どうやら加呂さんは、僕を褒めてくれたらしい。

(いや、でも、僕、なにも褒められるようなこと、してないし。え?なんで?なんか僕したっけ?え?え?え……?)

と、ひたすら困惑し、首をひねる僕の様子を見て、再び加呂さんは、クスッと笑いをもらす。

「いいから!さ、ぼやぼやしてないで、さっさとやること済ましちゃいましょ!」

 僕の背中を平手で、ばしん、と叩くと、なんだか上機嫌な様子で、店舗へ続く扉を開ける。

 何が何だかよく分からないままに、僕も、彼女の後に続いて――もちろん、忘れずに立てかけてあったさすまたを持って――店舗へと入っていったのだった。


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