8話 言葉の意味を理解しました
午後の訓練場。私はラマトゥが持ったミットに向かってひたすら蹴り技を繰り返す。スパイク付きのチンピラキックひとつじゃ武器には心もとなすぎる。だから多種多様の蹴り技を教わった。それも最初は全然出来てなくて、蹴った反動でコケたりすることが多かったけど、最近はマシになってきた気がする。ラマトゥは大きなミットを地面に置き、顎を擦る。
「いいな。軸足に力が乗ってきてる。前よりはいくらか威力が増しているぞ」
私は息を整えながらラマトゥを見上げる。その左側の顔は相変わらず髪で隠されていたけれど、満足そうな表情が伺えて、本当なんだと実感する。
「私、少しでも強くなれてるかな?」
そう言うとラマトゥは笑う。
「最初に会ったときとは大違いだ。やっぱりお前は、この国に神様から贈られたプレゼントなのかもな。……少し休もう。疲れただろう」
「はぁい……」
私は手ぬぐいで汗を拭きながら詰め所に入る。ラマトゥは先に入っていて、水差しから木のコップに水を注いで渡してくれた。
「ほら」
「ありがとう、ラマトゥ」
私は椅子に座って水を飲む。ぬるい水だったが、汗だくで疲れ果てている今の体にはその水がなにより有り難かった。
「一気に飲むと腹を下すぞ?」
「平気平気」
ラマトゥも水を汲み、私の向かいに座るとちびりちびりと舐めるように水を飲みだす。
それを見ながら、私は少しもじもじとシャツの裾をいじりながらラマトゥに話しかけた。
「ねぇ、ラマトゥ。最近ね」
「どうした。あの嫌味な姫君に何か言われたか?」
「あ、アンナ様に言われたのは間違いないんだけど、そうじゃなくて」
呼吸を整え、言った。
「……結構色んな人たちから、私がラマトゥと恋人同士なんじゃないかって勘ぐられてるの」
それを聞き、ラマトゥは身をのけぞらせた。その瞬間、口に含んでいた水が気管に入ったのか、げほげほとむせて、胸をとんとんと叩く。
「だ、大丈夫、ラマトゥ?」
私が立ち上がり、ラマトゥの背中を擦ろうとするが、ラマトゥの手がそれを静止した。
「だ、大丈夫だ。……それで、お前はなんて答えたんだ」
再び椅子に座り、俯いて私は問いに答えた。
「否定したよ。だって私、わかってるもん。ラマトゥに妹程度にしか思われてないって」
ラマトゥは顔を手で覆い、しばらく考え込むように唸る。そして、こう訊ねてきた。
「……アンヌ。お前、いくつになる?」
私は指折り数えた。救いだったのは暦の進み方が自分の世界と同じだったこと。こちらに来て、確か……そろそろ二年になるだろうか?
「十四……かな?」
「十四か……。俺はもうすぐ十七だ。来年には成人する。オーブルという身もあるから、公の式典には出られないが……」
それを聞き、私も頷いた。ラマトゥはもうすぐ成人する。成人式のようなものもあるらしいが、ラマトゥは出られない。成人の証である受酒の儀式はこのオーブルのリーダーであるルクトォさんの手で行われるだろう。私もきっとそうだ。
……ラマトゥに比べたら、私はまだまだ子供だ。年齢差を自分の世界に当てはめても、高校二年生と中学二年生だと考えると、随分離れているように感じる。
「そうだよね、ラマトゥみたいな大人からすれば、十四の子なんて、妹にしか考えられないでしょ?」
ラマトゥは首を横に振った。そして、絞り出すような声で言い出す。
「俺はお前を妹だと思ったことはない。……後輩だとは思っているが、でも」
私がラマトゥを見つめていると、ラマトゥは顔を上げてはっきり言った。
「お前はあの嫌味な姫君と同じ顔で、だが、性格はまったく違う。俺は、お前の心はとても綺麗だと思う。……ずっと、そう思っていた」
いつもよりも真面目な声色に、私は思わず混乱する。この人は何を言おうとしているのだろう?
「ラマトゥ?」
不安げに私がラマトゥを呼んでみるが、ラマトゥの言葉は構わず続けられた。
「俺が子供のうちに言っておこうと思った。思っていた。だから今、言う」
それまではっきり言っていたのに、そこで少し口ごもり、それでもラマトゥはこう言った。
「……ジュ・デムだ。俺はお前を、そう思ってる」
「ジュ・デム……?」
いつか私もラマトゥに言ったその言葉に、もうひとつの意味があることを、私は最近、ようやく知った。それは……――愛している、だ。
「ジュ・デム……!?」
「あぁ。俺みたいな、暗殺をしている汚い、醜いトマト面が、お前みたいな、姫君の身代わりが出来るくらい綺麗な、仮にも高貴な方に何を馬鹿なことを、と何度も思っていた。でも、少なくとも俺はお前を好きだ。命令じゃなくて、お前だから、守りたいと思うくらいに、お前を、アンヌを、愛している」
私は顔が赤くなるのを隠すように、手ぬぐいで顔を覆う。ラマトゥが。あの、優秀で、強くて、頼りになる、ラマトゥが、私を、愛してる?
「お前にとって迷惑になる気持ちなのはわかっている。心配しなくても、仕事もいつもどおりにきちんとする。だけど、俺はお前を大切に思っていること、知っていてもらいたかった。今なら、まだ子供のごっこ遊びで済ませられる。だから、今のうちに言っておきたかった。……忘れてくれ」
「待って、ラマトゥ」
立ち上がって外に出ようとするラマトゥの服の裾を掴んで、それを遮った。私も伝えないといけないことがある。出会った時から、何度も脳裏を駆け巡っていたこの気持ちを。
「私も、ラマトゥがジュ・デムだよ」
「……特別なだけだろう? 出会った頃に、聞いている」
「違う。もうひとつの意味。私は、ラマトゥが好き。ラマトゥを……ううん、ラマトゥじゃなくて……」
顔を覆っていた手ぬぐいを落とし、ラマトゥの顔を見る。怪訝な顔でこちらを見ている。困惑しているといった方がいいのだろうか。
「ラマトゥ。名前を教えて」
「名前?」
「本当の名前。私は安奈。平田安奈。あなたの、本当の名前は?」
ラマトゥは少し考え込むように天を仰ぎ、顔を伏せると、消え入るような声で言った。
「……ジャン。姓は知らない。けど、孤児院ではジャンと呼ばれていたから、それが、俺の本当の名前だ」
私は何度も心の中で反芻する。ジャン。ジャン。私はジャンのことは何も知らない。ラマトゥがアンヌとしての私しか知らないように。それでも、これはラマトゥにではなくて、ジャンに伝えなくてはいけないことだ。
「平田安奈が愛しているのは、ジャンだよ。私はジャンのことで知っていることは少ないから、これからもっと知っていきたい。……そう思う。ねぇ、ジャン。あなたのことをもっと教えて。暗殺者のラマトゥじゃなくて、ひとりぼっちで生きてきた、ジャンのことを、私は知りたい」
ラマトゥ……いや、ジャンは、俯き、言った。
「ジャンだった俺は……もう、いない。俺は潰れたトマト顔のラマトゥとして、長く生き過ぎてる」
私は自分の顔を隠すジャンの手を取った。その俯いた顔の左側、髪で覆われたその場所に手を伸ばす。髪の毛を払い、隠された赤い痣を露わにさせて、そっと撫でた。痣の下には血液が溜まっているのか、膨れ、ぶよぶよとしていた。それでも、撫で続ける。愛しい人の、一部なのだから。そして、告げた。
「じゃあ、これからジャンとしての人生を始めればいいよ。私は、あなたを、ラマトゥじゃなくて、ジャンって呼びたいから」
ジャンの目から涙が溢れる。私はそれを受け止め、ジャンに身を寄せる。誰もいない、王家を守るオーブルの詰め所。狭いその場所で、静かに泣くジャンを抱きしめた。
「アンナ」
「うん」
「……俺が好きになったのも、ヒラタ・アンナだ。姫の影のアンヌじゃない。俺は、アンナを……ヒラタ・アンナを、愛してる」
「私も、もっと愛したい。ジャンのことを愛したい」
ジャンが私を抱き返してくれる。頭一つ大きいジャンが、私の肩に頭を乗せて、言う。
「俺は、トマト男じゃなくて、ジャンとして生きてもいいんだろうか」
「生きて欲しいよ。私はジャンを愛したいから」
「アンナ……!」
ジャンの顔が間近に迫る。私は自然と目を閉じていた。僅か数瞬の間唇を重ね合い、すぐに離れる。
「俺はラマトゥ。オーブル・アンヌのラマトゥだ。けれど……今日から、アンナの前でだけ、ジャンとして生きたい。そう思う」
「うん。ジャン。凄く嬉しい。でもね、ジャン」
私は体を離して、笑って言う。
「アンヌとしても、ラマトゥは特別だよ。私は、アンヌとしても、ラマトゥを愛してる」
それを驚いた顔で聞いていた潰れたトマト顔の青年が、一瞬で顔を赤くして叫んだ。
「……じゃあ、どっちも変わらねぇじゃねぇか!」
「あはは、だってラマトゥ、こうでも言わなきゃ本当の名前、教えてくれないと思ったんだもん!」
逃げる私を抱きとめて、ラマトゥが呆れたように呟いた。
「アンナ姫も性悪だが、アンヌも結構いい性格をしてるな……」
「それでも、愛してくれるんでしょう?」
私が振り返り、彼の顔を伺うと、彼は穏やかに笑っていた。
「……ここまでさせて、そりゃあないだろう? ……早く大人になってくれ。じゃないと、堂々と愛し合えない」
そう言う彼に、私は少しだけ茶化して答えた。
「時間を早める魔法があればいいのにね」
「あるけど、禁呪だ。俺も使えない」
「残念だなぁ」
「それに、お前が時間を重ねたら、アンナ姫の影が務めなくなるだろう」
真面目に返答され、私は小さく笑う。
私とラマトゥの関係は変わらない。ラマトゥは私の師匠で、私を守ってくれる人で、一緒にアンナ様を守るパートナー。
でも、私とジャンの関係は少し変わった。ジャンは私が一目惚れした人で、ジャンは私の心を愛してくれる人で、お互いがお互いを必要としていて、特別な人。抱き合い、体温を共有して、しばらく経った時だった。
「……そろそろ入っていいかい、お二人さん?」
「うわっ!?」
「ひゃあ!?」
不意に声をかけられて、私とラマトゥは慌てて飛び退いた。声の主は王族を守るオーブルのリーダーであるルクトォさんだった。
「カップル成立おめでとう、といったところかね。まぁ、いつかこうなるんじゃないかと思ってはいたけどな」
ルクトォさんはへらへら笑いながら手をひらひらを扇ぐように振った。私とラマトゥは顔を真っ赤にして硬直していたが、私が恐る恐る訊ねる。
「ルクトォさん、いつから見てたんですか……」
「熱い口付けの少し前からだな。いつ声をかけりゃいいのかわからなかったから、こっちまで心臓が飛び出そうだったぜ?」
とんでもないところから見られていた。顔をますます赤くして固まるラマトゥに、ルクトォさんが言う。
「恋人が出来て浮かれてもいいが、仕事はちゃんとしてくれよ、ジャンくん?」
その言葉に、ラマトゥの起動がようやく再開した。
「……いえ、自分はラマトゥなので」
「おっと、そうだったな、ラマトゥ。これからもその神からの使いをしっかり守ってやってくれ。私情は抜きにな」
「当然です。仕事ですから」
ルクトォさんは最奥の椅子にどっかと腰掛け、水差しの水を木のコップに注ぎ、飲み干す。
「いやぁ、それにしても、仕事場でラブストーリーを観劇できるとはなぁ? これも神からのギフトかね?」
にやりと笑うリーダーに、下っ端である私達は何も言えなかった。ルクトォさんは笑い顔を絶やさない。……早く大人になろう。その頃にはアンナ様の王位継承も済んでいるはずだ。私は今しがた年上の恋人になったばかりの人間の顔を伺う。もう、真顔になっていた。
「ラマトゥ」
「なんだ、アンヌ」
「私が大人になって自由に動けるようになったら、デートしてね」
ラマトゥの拳が軽く頭に振ってきた。じんじんする頭をさすっていると、ルクトォさんが一層豪快に笑い出した。