7話 自分の使命を再確認しました
その日はアンナ様としてではなくて、オーブルとしての仕事が言いつけられた。つまり、最初からアンナ様として振る舞うのではなく、護衛として付き従い、アンナ様が窮地に陥れば咄嗟に交代する。何も起きなければ簡単な仕事。そう、何も起きなければ。
けれど、なにか起こってしまうのがアンナ様の身分に課せられた試練なのだ。
「姉様!」
私がアンナ様と揃いのドレスの上からオーブルのコートを着てマスクで顔を隠し、アンナ様の後ろを数歩下がって歩いていると、嬉しそうに走ってくる少年が見えた。あれは……アンナ様の従兄弟のジュール様だ。アンナ様は小さく微笑み、それに応じる。
「あら、ジュール。今日もいらしたの?」
「この前は残念でした。せっかく姉様がお部屋に入れてくれるかと思ったのに」
「ごめんなさいね。よく見ればあまりにも部屋が散らかっていて、あなたを入れるのは失礼だと思いましたの。でも、ゆっくり話はできたじゃありませんこと?」
「そうですね! 姉様と見て回ったお城の中庭、綺麗でした」
「中庭なんて、あなたならば、いつでも入れるんじゃなくて?」
「姉様と見られたから、もっと綺麗に見えたんですよ!」
「あらあら、口ばかり上手になって、この子は。まだ社交界にも出ていないのに」
「僕は本当のことを言ってるだけですから。……今日の護衛は、その人だけ?」
そう言ってジュール様は私を見る。私が静かに騎士敬礼を取ると、ジュール様は舐め回すように私を眺める。
「……姉様と同じくらいの年の人だね。君、本当に護衛になるの?」
私は騎士敬礼をとき、それに無言で返す。声を聞かれてはいけない。私とアンナ様は声もそっくりなのだから。代わりにアンナ様が答えてくれた。
「えぇ、心配いらなくてよ。それに私も年重の殿方に囲まれるより、同年代のこの子の方が安心できますの。この子は私の友人でもありますから」
「姉様が友人だなんて言うなんて、この子そんなに立派な出自なの?」
「この子の過去のことなんて関係ありまして? 私にとって重要なのは、この子が私を心身ともに守ってくれる事実。それだけですわ」
アンナ様にそこまで言われ、私は咄嗟にアンナ様に跪くと、さらに頭を下げた。それを見てジュール様は冷えた表情を浮かべて言った。
「ふぅん、王女殿下の忠実な下僕って訳だ。君、なんて名前なのかも興味ないけど、この方をしっかり守るんだよ。なにせ僕のお嫁さんになる人なんだから」
それを聞いて、私は少し驚いた。しかし、そんな素振りを見せてはいけない。立ち上がり、腰をかがめて頷くことで答える。
「まだそんな勝手なことを……」
アンナ様が眉間に指を当てて苦悶の表情を浮かべるが、ジュール様はあっけらかんと言う。
「でも、一番そうなる可能性が高いって、父様も言っていましたよ。僕は王位なんて興味はないけど、姉様のことは大切に思ってる。だから、そうなればいいなって」
ジュール様の言葉を遮ってアンナ様が声を荒げた。
「そんな未来のこと、まだわかりませんわ。ジュール、私まだやらないといけないことがありますの。今日はお父様の代わりに城下に視察をしに行かなくてはいけませんのよ」
それを聞き、ジュール様は道を遮るのをやめて道をあける。
「あぁ、お仕事の邪魔をしてごめんね、姉様。じゃあ僕も帰ろうかな」
「あなた、何をしに来ましたの……」
「大切な姉様に会いに来たに決まってるじゃないですか。それじゃあ、また会いに来ますね」
ジュール様は手を振るが、アンナ様がそれに答えることもなくすたすたと歩き出すので、それについて私も歩く。ジュール様は私たちが廊下を曲がるまで笑みを湛えてこちらを見つめていた。
城門前につけられた馬車に乗り込み、私もそれに同席する。ふたりきりの広くはない空間、からからと軽い音を立てて石畳を進みだした中、私は少しマスクを緩めてアンナ様に訊ねた。
「アンナ様、あの方……ジュール様の言っていたことは本当なんですか?」
アンナ様は肩をすくめ、呆れたような口調で言う。
「ジュールが勝手に言っているだけですわ。あの子の世界はとても狭いの。だから、身近な異性が私しかいなくて、そう言い張っているのよ。社交界に出ればそんな事も忘れてしまいますわ」
「……アンナ様は、ジュール様がお嫌いなんですか?」
それを私が口にすると、アンナ様ははぁ、とため息をつく。
「アンヌ、あの子はまだ十一才よ。私たちよりずっと子供なの。貴族が社交の場に出られるのは十二才を過ぎてから。あの子も学院に通わず、お屋敷で家庭教師をつけられているから、他の異性に触れ合うことが少なく、経験が少ないから、私が好きだと、そう思い込んでいるだけ。そもそも、自分の父親が私の命を狙っていることも知らないでしょう。でも……私が玉座につけば、私が彼を好きでも嫌いでも、ジュールと婚姻する可能性は限りなく高くなるでしょうね。王家の血統を無闇に周囲に散らすことは出来ませんもの」
「……王家に生まれるのも、大変なんですね」
アンナ様は馬車の窓から外を覗くと、少し悲しげな声色で言った。
「……こんな時、私は自分が女に生まれたのが悔しくてたまらなくなりますわ。自由に恋をすることもままならない。……あなたが羨ましく思うこともありましてよ。例え、相手があのトマト男でも、人を好きになれる自由があるんですもの」
それを言われ、私は慌てて否定する。
「あ、アンナ様まで何を言うんですか! 私とラマトゥはそんな関係じゃ……!」
「あら、私にはそう見えますけれど。少なくとも、アンヌはあの男を好きでしょう?」
それを言われて、言葉が詰まる。好きか嫌いかで言えば、間違いなく私はラマトゥが好きだ。けれど、この感情を恋と呼んでいいのかもわからない。
「……好きですけど、恋なのかどうかはわかりません。私もこの世界に来て随分経ちましたけど、それこそ私の世界も狭いですから。年の近い唯一の異性であるのが、ラマトゥというだけで……」
私の世界だって、あのお城と、オーブルに所属する人間が全てだ。ジュール様や、アンナ様とそれ程変わりはない。……アンナ様は社交の場に出ることもあるから、もっと出会いは多いのだろうけれど、それでも身分で裂かれることもあるのかもしれない。それを思うと、彼女には恋しい人がいるのか少し疑問に思えた。アンナ様は私を見ると微笑み、言葉を紡ぐ。
「……そうですわね。それに、あなたがとても年上趣味かもしれないし、とても年下趣味の可能性だってありますものね。もしかしたら同性を愛する趣味なのかもしれない。神の教えには反することですけれど」
それを聞いて、私は両手を振って慌てて否定する。
「ど、同性はないと思います、少なくとも」
「ふふ、冗談ですわ。けれど、もしも同性婚が許されるなら、私はあなたを将来の伴侶に選びたいくらいには好いていますわよ?」
「そんな、恐れ多い!」
「ほほほ、あなたはマスクをしていても表情が変わるのがよくわかりますわね」
……この人は、私をからかって遊んでいる。そう理解して、私はマスクを覆い直し、口をつぐんだ。
「あら、おしゃべりはおしまい? つまらないですわね」
「今日はお忍びでの視察です。娯楽で城下にいるのではありません」
「あらあら、真面目ですこと。それもあのトマト男の教えかしら?」
その問いには答えなかった。アンナ様は再びつまらなさそうに窓から城下の賑わいを見つめている。
「……この平和がいつまでも続くようにするのが私の生まれ落ちた時からの使命ですわ。次の王は私なのだから。……知っていまして、アンヌ? 今日の視察も、私にそれを知らしめる為だということを」
私も斜目で窓を見る。ゆっくりと走っていく馬車は市場を抜けて、市民街へと向かっていく。子連れのお母さんがこちらを見て指差し、手を振る。小さな子供もそれにならうように手を振った。応えるようにアンナ様が優雅に手を振る。
「お父様の容態はどんどん悪くなるばかり。延命の為の治療しかもうできませんの。明日にでも私のお父様は天に導かれても不思議ではない……。だから、私は少しでも知っておかなくてはならないの。市民が何を思い、何を望み、どう生きているのか。そして、さっきの子供を連れた民のように次の世継ぎを産み、王家の血を絶やさないのが、私が生きる理由なのだと。……あなたが、私を守る理由なのだと」
それを聞くと、この自分と同じ年の少女の肩にどれほど重たいものが乗っているのか、嫌でも理解せざるを得ない。アンナ様は、それを今こうして飲み込み、吸収しているのだ。この国を導くという使命。そして、この国を導く人を守るという私の使命。そういえば、出会った頃から彼女は言っていた。自分はこの国を導く存在なのだと。
「……ビビには立派な宰相になってもらわなくては困りますわ。エルフの魔法なくては、この国の流通も滞ってしまいますもの」
……この人は、アンナ様は、一体いくつの頃からそんなことを考えて生きているのだろう。それでも潰れることなく、こうして使命を全うしようとしている。
「アンナ様」
「あら、おしゃべりは終わりなのではなくて?」
「……アンナ王女殿下。私は、私にどれほどのことが出来るのか、あなたの為にどれほどのことが出来るのか、理解できるのか、私には計り知ることもできません。けれど。……でも」
私はアンナ様の手を恭しく取り、そっと唇を寄せる。
「私の命はあなたの物です。私は私の全てを持ってして、あなたを守ります。この命がある限り。あなたの友人であれというのならば、いつでも弱音を聞かせて下さい。私はあなたの物なのですから」
アンナ様の手を離すが、アンナ様は不思議そうにその指先を見つめていった。
「アンヌ、今の仕草はなんですの?」
私はマスクの下で少し笑う。
「私の世界の忠信の証です」
「まぁ。こちらではこうしますのよ」
そう言って、アンナ様は靴を差し出してくる。先がつんと尖ったヒール付きのその靴は、私の履いているブーツとは違う。長く歩くことも辛そうだが、彼女はなんてことないように履いている。
「この世界では、忠信の証に、主人の膝に、従者が唇を落とすのよ。人に見られないように」
私はマスクを剥がし、腰を屈めて、ドレス越しにアンナ様の膝に唇を落とす。馬車の中はふたりきり。窓は高い位置にあるし、御者もこちらを見ていないから、誰にも見られてはいない。私が身を起こすと、真面目な声色でアンナ様が告げる。
「私の命、あなたに任せますわ。……そして、大切な友人でもあり続けて頂戴。これは命令ではなくてよ、アンヌ。私のお願い。だから、拒否したっていいのよ?」
私は首を横に振り、小さく騎士敬礼を取った。顔を上げると、きょとんとした自分の主人がそこにいる。
「……いえ、姫君の望むままに。アンヌの命がある限り、アンナ様をお守りします。その体も、心も」
そう言って、今度は差し出された手を握る。握手は信頼の証。この世界と私の世界の、数少ない共通項。
……彼女を守りたい。その時、私は改めてそう思った。彼女を守るためなら、どんなこともしよう。もう、人を傷つけることも戸惑わない。彼女の命を守る自分の命を、大切にしよう。彼女を守り続けるために。
「けれど、アンヌ?」
「はい?」
「私、あのトマト男は好きではありませんけれど、あなたが望むなら、あの男との婚姻を認めて差し上げてもよろしくてよ?」
「……アンナ様、しつこいです」
「ふふ。いつか、お互いが恋に落ちた殿方の話もしましょうね。ただの町娘のように、お茶を飲みながら」
「……はい。アンナ様が望むなら、いつだってお供いたします」
そして、再び窓に目を向けると、アンナ様は窓に向かって手を振り続ける。私はそれを黙って見つめていた。