6話 こちらの言葉も難しいです
こちらの世界に来て、一年過ぎようとしている。相変わらず私は元の世界に戻れそうにないし、アンナ様は施しの仕事を私に任せっぱなしになって、それから何度も何度も命を狙われた。今日だって……。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
施しの終わり、私はわざとらしく息を切らせながら、ぽてぽてと走る。背後から迫るオーブルの男。後ろを振り返りながら、怯えた表情を見せてやれば、相手はにやにや笑いながら狩りの獲物を追い詰めてやろうとする獣のような目で私を見ている。
――……馬鹿だなぁ。追い詰められてるのはそっちなのに。
路地に入り、しばらくまたぽてぽて走る。
「どうした、お姫様!? そっちは袋小路ですよぉ? 高貴なお方はやはり田舎の土地勘もおありにならないようですねェ!」
くるりと振り返り、不敵に笑ってみせた。
「知っていますわ、お馬鹿さん」
地面を強く踏みつけ、ドレスをたくし上げて走ってくる相手のみぞおちにチンピラキックをかましてやると、男はうめき声を上げてのけぞった。その腹には私のスパイクシューズであけられた穴から無数の血の筋を垂らしている。
そして、次の瞬間には口から大量の血を吐き出し、倒れた。倒れた男の向こう側には血で濡れた大振りのナイフを持ったラマトゥが立っている。
「大丈夫か? アンヌ」
私はへたり込み、むせ返るような血の匂いに吐き気を堪えながら手を上げる。
「……大丈夫。ラマトゥは? 怪我してない?」
「俺なら大丈夫だ。しかし、本当に最近は事あるごとにオーブルが襲ってくるな……」
息絶えたオーブルの男の服をめくる。そこにはもう見慣れた入れ墨が入っていた。
「やっぱり、ディディエ殿の紋章だな。悪趣味な親父だ。自分の所有物には全部自分の名前を書き込まないと気がすまないらしい」
「アンヌ様の叔父さん……だっけ。国王様の容態がよくないから、本当に焦ってるのかもしれないね……」
「……早く即位が済めばいいんだが。今のままじゃ姫君は若すぎるからと後見人が定められる可能性が高い。そうなると、後見人はおそらくディディエ殿だ。一時的にだが、実権は握れる。それで満足してくれりゃあいいのにな」
「……本当に、そうだよね」
どうしてそこまで王位にこだわるんだろう? 王様になるっていうのは確かに凄いことなんだろうけど、それだけ大変な仕事も増えるだけなのに、そんなに地位が欲しいのだろうか。一般庶民でただの子供である私にはその感覚はまったく理解できない。施しの仕事だってこんなに大変なのに。
不思議に思いながらお城のバルコニーから城下を眺める。この風景全てをそんなに欲しいのだろうか。王家の血を引く貴族ならそう思っても仕方ないのだろうか。
物思いにふけっていると、後ろから何者かが走ってくる気配がした。私が咄嗟に振り返ると、そこには私よりいくらか年下の少年が立っていた。黒い髪を首元でそろえてカットしてあって、青い艷やかな絹のマントを羽織り、身綺麗な格好をした少年は、一般市民には到底見えない。そもそもここは城内だ。庶民は入れるわけもない。
「うわ、びっくりした。急に振り向くんですから。アンナ姉様、お久しゅうございます。一年ぶり……ですかね?」
「え、えぇ……。そう、だったかしら?」
私は必死に話を合わせる。この少年は何者なのだろう。少なくともアンナ様を知っている。アンナ様に引き合わせたほうがいいだろう。
「こんな場所で立ち話もなんですから、私の部屋にいらっしゃらない? お茶でも用意させましょう」
「えっ、姉様がお部屋に入れてくれるなんて珍しいですね?」
「……ほんの気まぐれですわ。少し片付けたいことがあるので、しばらく待ってもらいたいのですが、よろしくて?」
「勿論! 光栄です、姉様の私室に入れてもらえるなんて!」
私は周囲に気を配る。少年の近くには彼の護衛であろうオーブルの気配がした。……彼の正体はまだわからない。本当にアンナ様の私室に入れていいのだろうか。けれど、私がアンナ様と入れ替わるには、ともかく私室で寛ぐアンナ様の部屋に向かわなくてはいけない。私があまり話をしてボロを出しては元も子もない。お飾りの護衛であるアンナ様の騎士を背後につけ、私は先導して歩き出した。アンナ様の部屋の前で立ち止まり、少年に告げる。
「では、少し待っていてくださいまし」
ドアを少しだけ開けて、滑り込むように部屋に入ると、鍵をかけた。ベッドに寝そべり、読書をしていたアンナ様がこちらを見て、きょとんとしている。
「どうしたの、アンヌ?」
「アンナ様の知り合いらしい男の子に声をかけられて、それで私、とにかくアンナ様と交代しなきゃ、って思って、部屋に入れるって言い訳してきたんです。どうしたらいいのかわからなくて……!」
それを聞き、アンナ様は首をひねる。
「どんな方?」
「首が隠れるくらいの位置で髪の毛を切りそろえた、男の子でした。年下っぽい……」
それを聞き、アンナ様は深い深い溜息を落とした。
「あぁ、わかりましたわ。それはジュール……私の従兄弟ですわね。ディディエ叔父様の跡継ぎですわ。後の対応はこちらでしておきます。アンヌは地下の訓練場にでもいってらっしゃい。お客様がいらしていてよ」
そう言って分厚いベルベットのカーテンの向こうに隠された私の部屋を指差す。
「私に?」
「ビビですわ。アンヌの仕事場が見たいと言っていましたから、案内させましたの」
「ビビが?」
私は私室に入り、汚れないようにドレスを脱いで運動着に着替えると、薄暗い階段を降りていく。最下層にある小さなドアを開けるとそこはもう見慣れた訓練場。周囲を見渡しても誰もいない。
「あれ……? ビビ? いないのー?」
私が声を上げると、詰め所からいつもと同じ深緑のマントを着たビビが飛び出してきた。
「あぁ! アンヌ! ようやく君に会えた! あの聞かん坊をどうにかしておくれよ! 僕は友達になりたいのに、こちらの話をちっとも聞いてくれないんだ!」
「聞かん坊……って、誰のこと?」
私はずいずいビビに背中を押され、詰め所に向かわされた。そこには訓練を終えたばかりなのであろう、汗を手ぬぐいで拭うラマトゥがいた。
「アンヌ。気晴らしはもういいのか?」
「う、うん。ラマトゥも休憩時間だったのに、訓練してたの?」
「まぁな。そしたらこの尖り耳がどやどややってきて、やいのやいのと……」
私とラマトゥの会話を聞き、ビビはぱぁっと満面の笑顔を湛える。
「ラマトゥ! 君はそう呼ばれているんだね! あぁ、ようやく君を呼べるよ! しかし、酷い呼び名だ。それは君の心を苛むその痣が由来かい?」
「……こいつ、お前の知り合いか?」
ラマトゥはビビを無視して私に語りかける。私は小さく頷いた。
「ズオカのエルフの森から留学してきた、ビビだよ。次の宰相になるのが夢なんだって」
それを聞き、ビビがこちらに向き直る。
「夢? 違うよ、アンヌ! 夢は叶わないから夢なのさ! 僕の宰相への道はもう歩きだしている。これは目標であって、夢なんて儚い存在ではないよ!」
「あー、もう、うるっせぇなぁ! こっちは疲れてんだ、そのおしゃべりの口を縫い合わせてしまえ、アンヌ!」
「酷いことを言うじゃないか、ラマトゥ! 僕は君の名前を知った、君も僕の愛称を知っている。これはもう友人と言っても過言ではないだろう!?」
「過言だ、この壊れたオルゴールが!」
ビビの情熱的な語りを、ラマトゥは一刀両断する。
「ラマトゥ、あまり邪険に扱わないであげて。ビビはちょっと好奇心が旺盛なだけのいいヒトだよ」
私がそうフォローするが、ラマトゥはそっぽを向いたままで舌を出す。
「けっ、暗殺者なんぞと仲良くしたがるエルフなんて気味が悪い。それに、そいつはズオカの森の生まれなんだろう? ズオカのエルフっていやあ、霊峰のお膝元で暮らす、霊峰の守り神だ。ルジャのエルフの中でも特に排他的だっていうじゃねぇか。そいつも厄介払いされたんじゃねぇのか?」
それを聞き、ビビはうんうんと納得したように頷く。
「まったくもってそのとおりだよ、ラマトゥ! いくら聖なる山に守られた森とはいえ、あの場所は僕には陰気すぎる! だから、僕という新たなる風が生まれたのかもしれないね! 森の精霊たるエルフが、もっとヒュームの里に出られるようにするのが僕の使命であり、存在する理由さ! いや、実に素晴らしい! ラマトゥも彗眼を持っているようだ! その赤黒い魂の色からは想像もできなかった! これは僕にとっても素晴らしい発見だと思わないかい、アンヌ、ラマトゥ!」
「あー、うるせぇ……」
……ビビは社交的だから誰とでも仲良くなりたがる。けど、ラマトゥはあまり人に心を開くタイプじゃない。まるで水と油みたいだ。このままじゃ油の方……ラマトゥが本当に引火しかねない。
「ビビ、ラマトゥは本当に疲れてるみたいだから、そっとしておこう? 私、少し彼と話があるの。だから、私の部屋に上がって待っててくれる? それで、お茶でも飲みながら、ふたりでゆっくり話をしよう?」
そう言って私はビビの背中を押して詰め所の外に出す。
「そうかい? じゃあ、そうしよう! ではまた今度、疲れていない時にゆっくりと語り合おうじゃないか! さらばだ、ラマトゥ!」
はっはっは、という高笑いと共にビビの声が遠ざかる。ドアの閉まった音を確認してから、私はラマトゥに頭を下げた。
「ごめんね、ラマトゥ。でも、ビビは本当に悪いヒトじゃないんだよ」
「……お前の友達だっていうなら、そうなんだろうけどな。よくあのおしゃべりについていけるな、お前」
「私もついていけない時があるから大丈夫。疲れてるのに、本当にごめんね……?」
「いや、いい。疲れの半分以上はあのエルフのせいだからな」
……どれだけ質問攻めにしたんだろう、ビビは。でも、ラマトゥは本当にぐったりしていて、きっと触れられたくない過去について根掘り葉掘り聞かれたのだろうと思った。
「……少し休んだら任務に戻る。お前はあのエルフと存分におしゃべりを楽しめばいい。俺みたいな口下手より、そっちの方がいいんだろう?」
ふてくされたように言うラマトゥに、ふと思いついて言ってみる。
「……自分より仲良さそうだから、ヤキモチ焼いてる?」
「……別に」
ますますふてくされてしまった。図星だったらしい。私は笑って言う。
「大丈夫だよ、ラマトゥ。ラマトゥまで無理にビビと仲良くならなくていいんだから。それに、私がこっちに来て初めて仲良くしてくれた男の子はビビじゃなくて、ラマトゥなんだから」
「……はぁ?」
「ラマトゥのことは特別だっていう意味!」
ラマトゥの顔が見たこともないくらい真っ赤になる。そして、立ち上がって私に向かって叫んだ。
「馬鹿! 特別だとか、そういうことは軽々しく異性に言うんじゃねぇ!」
「ご、ごめん……!」
そんなに変なことを言ったのだろうか、私は。こっちの言葉にはもうすっかり慣れたけど、細かいニュアンスなんかはまだ理解できていない。……もしかしたら、私は今、告白まがいの事を言ったのだろうか? そう思うと、自分の顔にも熱が上がっていく気がした。
「わ、私行くね! ビビが待ってる!」
「勝手に行け、馬鹿!」
逃げ出すように詰め所を飛び出し、階段を駆け上がる。駆け上がった先にはビビがいて、私の書き物机に置かれた読みかけの本をぱらぱら捲っていた。
「やぁ、アンヌ! 話は終わったのかい? 顔が赤いよ? 想いを告げあっていたのかい?」
「思いを……?」
「ノン、ノン。愛の言葉さ! 君はラマトゥが特別なんだね」
「……うん、ラマトゥは好きだよ」
「おやおや、まだまだ言葉の勉強が足りていないね。君のラヴァではないのかい、彼は? 君のことを聞くと口をつぐんでしまうから、てっきりそうなのかと思っていたんだけど」
ラヴァ。ええと……オンギレイの言葉で……恋人?
「ち、違うよ!?」
「ふぅん、僕にはそうは見えなかったよ。君と顔をあわせた時、ラマトゥの魂も君の魂も仄かに淡く輝いていた。あれは恋する者たちの輝きだったよ!」
「違うったら違うの! もう、ドレスに着替えるから、隠し階段のところで待ってて!」
「ははっ、了解したよ、可愛い人」
私は隠し階段の蓋を開け、そこにビビを押し込んでドレスに着替える。髪の毛も整え、再びビビを招き入れ、エミリーに気持ちの落ち着くハーブ茶を入れてもらった。
「そういえば、アンナはどこに消えたんだい? 魂の気配がないけれど」
「ええと……従兄弟さんが来てたらしいから、部屋には入れずに外に出たのかな……」
「あぁ、ディディエ伯爵のご子息かい? 彼も大変だよね。実の父上に王位を望まれているのだから」
ティーカップを置き、ビビは胸の前で腕を組む。
「ディディエ伯爵も前王と血がつながっているのに、神が次の王にと選んだのはジスラン王の直下の子であるアンナだ。ジュール殿下は第三王位継承者。たとえアンナとジュールが結婚したところで、ディディエ伯爵家に王の血が混ざることはない。ジュールは子を生むことができない。男だからね」
「……そうなんだ……」
それでようやく合点がいった。ディディエ伯爵が執拗にアンナ様を殺そうとするのは、あの少年……ジュールに王位を渡したいからなのだ。そうすれば完全に自分の家に王のみが使えるあの魔法が手に入ることになるのだから。
「……だからって、家族同士で殺し合うなんて……悲しいよ」
「まったくもってそのとおりだ。ルジャのヒュームは悲しい生き物だね。王政なんてものがあるせいで、一族同士が殺し合う」
なんとかできないのだろうか。……アンナが王位を継ぐまで、いや、もしかしたら継いだ後も、この争いは無くならないのかもしれない。私にできるのは、アンナの命を守ることだけ。王家の争いに口を挟むなんて、できやしない。
「アンヌ、魂の色が濁っているよ。君が気に病むことは何もないんだ。これは王家に生まれた者の宿命。君は君の出来ることをすればいい。アンナの良き友であり、アンナを守る影であることが君のするべきことなんだ。王家のいざこざなんて関係ないだろう?」
「そう……だね」
薄緑色のハーブ茶を一息に飲み込む。ほのかな花の香りと、さわやかな草の香りが心を静めてくれる。
「……アンナ様、ジュール様と何を話してるんだろうね。悪い話じゃないといいんだけど」
「それこそ詮無き話さ。心配せずとも、いつかは君の耳にも届くよ。さぁ、暗い顔はしないで、君の恋を喜ぶ歌を歌おうじゃないか!」
「だから、そんなんじゃないんだってば!」
戯けて言うビビに救われた。しかし、私の心には淀みが残ったままだ。
……アンナ様の苦悩が、シンクロするように伝わってくる気がした。
私にできること。アンナ様を守ること、アンナ様の良き友でいること。ビビの言葉を反芻し、再び飲み込む。私は自分の出来ることをしないといけない。その為にこの世界に来たのだから。