1話 目覚めるとヨーロピアンな日本でした
私の名前は平田安奈。中学校に入学したばかり。小学生の頃から伸ばしてる髪の毛と、足の速さだけが自慢。そうだ。そうだったはずだ。それが、何故今こんな事になっているのだろう?
ドレスを着せられ、古風なヨーロッパのような世界で、椅子に座らされている。
目の前にいる怖い顔の三十半ばと思われる男の人に果物をひとつひとつ指さされる。これの名前を言え、という事なのだろう。
「……りんご」
「ディセフォ。プーム」
「……プーム」
「ドゥワ。ケースキュセ?」
次に指さされたのは、みかんだ。
「……みかん」
「ディセフォ。ノダリーヌ」
「……の、ノダリーヌ」
「ドゥワ。……ケースキュセ?」
……これは、言葉を教えてくれているということなのだろう。
なんでこんな事をしないといけないのだろう。疑問ばかりが浮かんでくる。夢なら早く覚めて欲しい。
……けれど、夢なんかじゃないということは、ここにやってきた時に受けた衝撃と痛みが証明している。
そう、私は。ただの新中学生で、入学して、陸上部に仮入部したばかりだった私は、今、知っているようで知らない、異世界にいる。
話せば少し長くなる。あれは入学して一ヶ月程経ち、部活の入部が許された日だった。……いや、ついさっきのことなんだけど。
「アンちゃん、どこに入部するか決めた?」
小学校からの友達の優花ちゃんにそう言われて、私は即答した。
「陸上部!」
「あー、やっぱり? でも練習辛そうじゃない?」
「だって、私の取り柄なんてそのくらいしかないもん」
小学校の頃から、短距離走でも長距離走でも一番だった。その足で入部届けを出して、顧問の先生に訊ねる。
「先生、やっぱり髪の毛切った方がいいですか?」
私の日本人らしい真っ黒の髪は腰に届きそうな程に長い。先輩たちを見るとショートカットの人が多かった。規則のようなものがあるのだろうか。顧問の女の先生はにっこりと笑って言った。
「無理に切りなさい、とは言わないですよ。でも、やっぱりどうしても邪魔になったり、鬱陶しくなったりするから、切る女の子が多いってだけですからね。せっかく綺麗な髪なんだし、平田さんの自由にしてください」
私は長い髪をいじりながら、考えた。
私の才能なんて足の速さくらいしかない。それを妨げるなら、いっそ切ってしまってもいいのかもしれない。でも、やっぱり名残惜しくもある。
「……優花ちゃん、今度美容院付き合ってくれる?」
「髪の毛切るの?」
「うん、いっそばっさり、ショートにしようかなって……」
そんなことを話している時だった。背後に気配を感じた。私は咄嗟に振り向いた。
「痛っ」
振り向いた瞬間に靡いた髪が、優花ちゃんの頬に当たったらしい。
「あ、ごめん!」
「別にいいけど……。どうかしたの、アンちゃん?」
「……誰か、ついてきてる気がして……」
「えー? 誰もいないよ?」
確かに、後ろには誰もしない。でも、気配は確かに感じた。どこかに隠れているのだろうか。
「優花ちゃん、早く帰ろう……」
「う、うん。どうしたの、アンちゃん。なんか変だよ?」
私は優花ちゃんの手を握り、歩調を早めながら先へ先へと進む。気配はどんどん近づいてくる。それに合わせて、私の歩調も早くなっていく。
「アンちゃん、速いよ……!」
「だって……だって、誰かついてきてるよ!? 後ろ!」
「誰もいないってば!」
私には見えた。黒い影。人さらいだろうか。変質者だろうか。お金目的だろうか。でも、そんな事はどうだって良かった。先にたどり着いたのは優花ちゃんの住むマンションの前だった。
「はぁ……はぁ……。もう、アンちゃんってば、ついていくの大変じゃん……」
「ご、ごめん。でも、本当になんか気配が……」
「……よくわかんないけど、とりあえず私は無事にうちに着いたから、アンちゃん、気をつけてね?」
「わ、わかった」
「じゃあ、バイバイ」
「……バイバイ」
気配はすぐ側まで迫っていた。私は全速力で走り出した。荷物がパンパンの鞄が重い。それでも、走る。
なのに、走っても走っても、気配は離れようとしない。私はまっすぐ家に帰ればよかったのに、それすら忘れて、荷物も投げ捨てて、走り続けた。あの気配が間近に迫っている。追いつかれたら、少しでも足を止めたら、殺される。何故かそう思っていた。
いつの間にか私は知らないビルの階段を駆け上がっていた。息が切れる。呼吸もままならない。でも、足を止めたら殺される。あの何者かもわからない気配の正体に殺される。
……気がつけば屋上にたどり着いてしまい、錆びたドアを開けると強い風が私の顔を打ち付けた。気配は依然として背後にぴったりと寄り添うように感じる。振り向いてもなにも見えない。私の背中に張り付くように、殺気だけがそこにあった。
そのまましがみつくようにフェンスにもたれかかる。その瞬間だけ、殺気が消えた。私はほっとして、息を整える。
しかし次の瞬間、フェンスがぎしりと音を立てた。体が揺らぐ。屋上の向こう側はなにもない空間。私の体は空中に投げ出されていた。
落ちる。落ちていく。どこに。地面に向かって。そうなったらどうなる?
あぁ、なんだ。死ぬのか。
……死ぬ? 中学生になったばっかりで、勉強も、青春も、恋も、これからだっているのに、死ぬ?
それはコンマ数秒の間に脳裏に過ぎったこと。
死にたくない。死にたくない。死にたくない――……!
しかし、私の身に降り掛かった痛みは、さほど大きな物ではなかった。腰から落ちたから、少しじんじんする。例えるなら、数段飛ばしで階段から飛び降りて、着地しそこねたような。あれ。死ぬってこの程度の痛みなのだろうか?
しかし、人のざわめきに自分が死んだ訳ではないのだと瞬時に理解した。
眩む目をどうにかこじ開けると、黒い、なんだかテレビゲームに出てくる悪漢のような服装の男たちがナイフを持って、狼狽えているのが見えた。
……私を追っていたのは、こいつらなのだろうか。何故か、そう思った。後ろを振り向くと、バルコニーの手すりにもたれかかる、お姫様のようなドレスを着た、自分そっくりの誰かが同じように困惑した表情で立っていた。腰に届きそうなくらい長い黒髪も私と同じ。
「キェトゥブ!?」
男の一人が耳慣れない言葉を叫ぶ。それにお姫様のような人も叫んだ。
「ヌゥセヴァ! ケンキャ、シェブニ!」
男たちはどたばたとその場を離れ、お姫様のような格好をした、私そっくりの顔をした少女はへたり込む。
「ジュネセーヴァジュビキューディスーヴィ。キェトゥブ? キュエートゥ?」
早口でまくしたてられ、私は慌てて身振り手振りで答える。
「あ、あいきゃんのっと、すぴーくいんぐりっしゅ……! ま、まいねーむいず、アンナ・ヒラタ……」
「アンナ? モイシ、アンナ」
少女は自分を手で当て、高貴な身振りでそう言った。……自分もアンナという名前なのだと言っているのだろうか? なんとなくそう思った。そうこうしている間にばたばたと何人もの人間がやってくる。皆なんだか古いヨーロッパ風の服装をしている。顔は日本人顔なのに。
「キェトゥブ!? ティエレトビ!?」
そう言って私に銃のようなものを突きつけてくる。私が恐怖で固まっていると、少女が私の前に立ちふさがり、なにか言っている。……かばってくれているのだろうか? 私に銃を突きつけてきた男の人は銃を仕舞い、少女が私に向かって言った。
「アーノゥトゥセパジュ。リーレイケィソゥセーヴァソウジュ!」
すると女性が何人か現れて、私は立ち上がらせ、汗と埃でドロドロになった私を浴室らしき場所へ叩き込むと、制服であるブレザーとスカートと下着を剥ぎ取って汚れを綺麗に洗い流してくれた。そして真新しい下着と綺麗なドレス……――あのお姫様のように華美ではないが――に着替えさせられ、今に至る。
私はヨーロピアンな椅子に座らせられ、怖い男の人に言葉をひとつひとつ教わっている。
『はい』は『ウィ』、『いいえ』は『ノン』。聞いている間にだんだん何を言っているのか分かるようになってきた。ここの言葉は、フランス語によく似ている気がする。私はフランス語は『ウィ』と『ムッシュ』くらいしかわからない。でも、似ているだけで、発音もどこか少し違う気がする。いや、フランス語なんてさっぱりわからないから、正しいか間違っているかなんてさっぱりわからないけど。
「だいたい、理解?」
怖い顔の男の人がそう言う。……言ってると思う。
「は、はい」
……なんとなくだけど。
「自分は物を教える。お前は習う。言葉を覚えない、生きる、無理」
そう言っている気がした。
「はい」
「よい。続き、明日、教える。終わり。今日」
どうやら今日はこれで終わりらしい。窓の外を見ると日が傾いてから随分経っていた。もう真っ暗だ。
「食事しろ。寝ろ。そして、明日、教える。いいな?」
「……あ」
思わず、男の人を呼び止めた。
「自分、帰りたい。家。どうする……どうしたらいい?」
覚えたばかりの言葉を必死で繋ぐ。合っているかもわからないが、男の人はふうとため息をこぼし、言った。
「お前、どこ、きた、不明。だから、帰る、できない」
……帰れない。その言葉が重くのしかかる。
「今、休め。疲れてる、お前」
「……はい」
聞き馴染みのない言葉。見慣れない世界。着たこともない服。男の人と入れ違いに、私より少し年上らしい、肩口で黒い髪を切りそろえた、メイド服のようなものを着た女の子が走り寄ってきた。
「疲れた、大丈夫?」
女の子が言う言葉を必死でリスニングして、パンクしそうな頭で答える。
「……大丈夫。ありがとう。……誰?」
「私、エミリー。お前、世話、役目」
「……世話?」
「プランセスアンナ、代わり、お前。ちゃんとする、いけない」
「……代わり!?」
「プランセスアンナ、危険、多い。だから、お前、似てる。代わり、神、くれた、プランセスアンナ、言った」
「……代わり……」
どうやら、私はこの世界で、お姫様の影武者のようなことをさせられるらしいことを、ようやく理解した。
足取りも重く、やけに広く、豪華な作りの食事をするスペースらしき場所に連れて行かれ、料理が次々に運ばれてくる。なにかの野菜のサラダ、黄色いスープ。
「……キャベツと、トマト?」
「クマモ、とれた、野菜。美味しい」
「……クマモ……?」
「まだ、言葉、難しい?」
「はい」
「ルジャ、ここ。食べ物、美味しい。大丈夫。食べる」
恐る恐る口に運ぶ。食べ慣れた、いつもの食事と同じだ。美味しい。黄色いスープはカボチャのポタージュだった。
「美味しい」
私が素直にそう言うと、メイドさん……エミリーはニコッと笑って次の料理を持ってくる。魚のステーキだ。ナイフとフォークでぎこちなく切り分け、口に運ぶ。
「……鮪だ」
「マグロ? ちがう。これ、ツゥン」
「これ、ツゥン……。ツゥン、私、世界、鮪、言う」
「はい。ツゥンはマグロ、美味しい。オーモリ、取れた、新鮮」
主食らしい皿には白いご飯が平たく盛られていた。
「エリィ、ルジャ、大事、食べ物。皆、エリィ、食べる」
エリィ。米のことを、ここではエリィというのか。
「私、世界、国、米、大事。私、国、皆、食べる。いつも、米」
私がそう言うと、エミリーは花が咲いたように笑う。
「米、大事! 同じ!」
「同じ」
私も思わず笑う。少なくとも食文化の違いで困ることはなさそうだ。
食事を終えた私は改めて入浴し直され、濡れた長い髪をエミリーに梳かれながら、不思議な言葉を唱えられた。エミリーの手元からドライヤーのように暖かな風が吹き、私の髪を乾かしていく。
「不思議、いっぱい。何、言った?」
「これ、マジー。マジー、多い、ある。私、使える、少ない」
「マジー?」
「明日、プフェッサー・コーム、教える、多分」
「プフェッサー・コーム、誰?」
「お前、言葉、教えた、人」
あぁ、あの男の人はコームというのか。多分プフェッサーは先生という意味なのだろう。
こうして怒涛の一日を終えた私は寝間着――これもネグリジェのような楽なドレスのような服だった――に着替えさせられ、天蓋付きのベッドに倒れ込んだ。
……願わくば、元の世界に戻れていることを思いながら。