第63話 「パンドラの箱か」Bパート
「連休に入ったらね、久々に姉と会うのよ」
ひさびさ、という言葉にはどこか強張りを感じる。長い間交流がなかったのだろうか……。
「何か、問題でも?」
「そんな顔してる?」
「意気揚々、とは言えない表情ですね」
「……そう」
息を吐くように俯くと、彼女はそれ以降 姉のことを話さなかった。
「あなたは、連休中に何か予定はあるの?」絵画の下の表題をじっと見つめながら、遠藤は尋ねた。
「特には――」と石田は答えかけたが、ふと思い出したように、「マンションの新入居者歓迎パーティーというものがあります」と言った。
「ずいぶん社交的な集まりだこと」遠藤は皮肉交じりの表情で答え、「行くの?」
「どうでしょうか」
「他に予定もないんでしょ?」彼女は石田の顔をちらっと眺めてから、「行ってみればいいじゃない」
石田は複雑な表情を浮かべながら、黙って順路を進んだ。しばらくの間、二人は無言で絵画を見つめ、互いに歩き続けた。
「近いうちに、引っ越そうと思っています」
石田は彼女の背後で唐突に、けれど静かにそう呟いた。遠藤は一瞬聞いても良いものかどうか迷ったあげく、「……どうして?」と尋ねた。
「そろそろ、《《あの景色》》は忘れるべきなんです」
「どうしても必要なものじゃなかったの?」
石田は何も答えず、歩みを進める。
立ち止まった遠藤は他にも何か問いたげな表情を浮かべつつ、それ以上は追求しなかった。彼の気持ちを推し量ったように微かに頷き、また歩き始める。
「知っていますか? ピーテル・ブリューゲル一世は、宇宙人かもしれないと誰かが言ったことがあるんです」
「それは、どうしてかしら?」
「さぁ」石田は遠い目をしながら答え、「『バベルの塔』の完成度があまりに高かったせいでしょうか。いつ誰が言い出したのか、どんな理由からなのか、詳しくは知りません」
「さぞ人間離れした才能の持ち主だったんでしょうね」
石田は『バベルの塔』をじっと見つめ、声を潜めるように、「――見つかりたくないのなら、目立たないようにひっそり暮らせって話ですよ」と呟いた。
「え?」
「……いえ。何でもありません」
帰宅した石田は、ベランダに立っていつものように外を眺めていた。
今日は望遠鏡を用意することもなく、黙ってひたすら大通りを見つめている。陽も沈みかけ、黄金色に染まった空や雲が浮かんでいた。影のように黒い家屋、木々、それに電線。それらの眩い景色の中において、決定的な欠落を感じてしまう。
「なんの価値もない」
大きくため息を漏らした石田は、前かがみで手すりに凭れながら、隣人のベランダの方を向いた。
……足立さん。
石田の隣人で、あの子の同行者。二人の関係性はいかなるものか? 彼女は今、どのような生活を送っているのか? ピアノは? もう辞めてしまったのだろうか。新しく前に、一歩踏み出しただろうか。
まるで呪いにかかったように、彼の時間は動き出そうとしない。これもまた過ぎ去っていく時間のほんの一瞬だと、いつか笑って話せるだろうか。
あの子の絵も、そろそろ外した方がいい。望遠鏡も処分しよう。少し髪を切ろうか……。などと思いながら彼が垂れた前髪に触れていると、突然巨人がため息を漏らしたような鋭い風が吹いた。
そこでふっと、隣室の手すりに掛かった布が風にはためく。彼は先日目撃したものを想起させた。
誰が着用するのか想像もつかない、黒い衣服。回覧板を持ってきた彼女が着るようには到底思えなかった。
シンカイ。一体誰なんだ?
やはり隣室には、彼女の他にもう一人住み着いているのか。数週間前に目撃した飛行物体から現れた謎の人影。ひょっとして、それと同一人物?
彼は再び、隣室のベランダを覗き込んだ。
今日も大量の洗濯物が干されている。仕事用に着用する白いワイシャツだけで目の前の一列はすべて埋まっていた。
ただのずぼらかとも思ったが、考えてみると、一人分の洗濯物にしては多すぎる。
「…………」
またしても、奇妙な衣服が干されていた。
窓の近くのハンガーに掛かっているのは、派手なピンクのリボンがついた半袖のワンピース。まるでメイドが着るような――。
「これは……」
既視感。そう、この衣装に見覚えがある。
美術部の女子生徒の一人、眼鏡の女の子だったか。彼女が最近夢中になって執拗に見せてきたテレビアニメ。そこに登場する魔法少女が、確かこのような服を着ていたはずだ。あの甘ったるい配色は完全に記憶している。
石田はポケットからスマートフォンを取り出した。インターネットの検索窓を開き、女子生徒が何度も口にしていたテレビアニメのタイトル、それに”シンカイ”というキーワードを加えて入力し、検索をかける。
そこには、カラフルなウィッグを被り、ピンクの衣装を身に纏った隣人の姿があった。驚いたことに、隣に映った黒い長髪の少女は、先日廊下で遭遇した咲月と名乗る女性だった。
「……パンドラの箱か」
石田は自身の大きな勘違いに安堵すると共に、ひどく馬鹿馬鹿しい気分になった。
やはり干渉は不幸を招く。好奇心は時に、開けてはならない扉を開いてしまうものだ。




