第54話 「作戦名は、"お裾分け"」Aパート
朝から何時間もキッチンに立ち続け、坂口はカレー作りに没頭していた。
「あとは、弱火でじっくり調整すれば――」
昨晩、坂口宅に集まった三人は作戦会議を経たのち(後半は酔っぱらいを二人擁するただの宴会と化していたが)、石田の部屋を訪問する際の設定や注意点を前野が考えてくれた。
『作戦名は、”お裾分け”だ』
『…………』
坂口は黙って、続きを待つ。
『背景設定はこうだ』前野は人差し指を立て、『青年は職場で同僚の実家から送られてきた大量の玉ねぎを頂いた。かなりの量があったので、そのまま保管すると傷んでしまう。手っ取り早く処理するために、彼は得意料理であるカレーを作り始めた。食べ残って余った分は冷凍しておけばいいからな。使い勝手の良い冷凍食品の出来上がりというわけだ』
『保存が利くものなら、隣に持っていく必要はないのでは?』
『そこが”お裾分け”なんだろ』呆れた顔をした前野は仕切り直すように、『青年は、かなりの自信作を作り上げる!」と言った。「だからせっかくなら、同じフロアに住む人々にも食べてもらいたいという発想に辿り着くわけだ』
『なるほど』と坂口は頷いたものの、『ですが、初めから多いと分かっているのなら、素直に玉ねぎを配り歩けば良いのではないですか?』と尋ねた。
『玉ねぎなんて貰って、誰が喜ぶんだよ』
前野はコンビニで買い足してきたビールを勢いよく流し込み、『それに、料理の方が注意を引きやすい。作った経緯や、何ならレシピの説明までして時間を稼ぐ。その隙にお前は部屋の奥を観測し、出来る限り状況を記憶しろ』
『坂口さんのカレーは、それはもう絶品なんですから!』
二種類のチューハイを両手に持ち、けらけらと笑いながら足立は言った。
『ほう。それは都合がいい』前野は立ち上がり、『言っとくが、俺もカレーの味にはうるさいぞ』
『いやいや、目ん玉飛び出るくらい美味しいんですから!』
『お手並み拝見だな』
『望むところですよ!』
と、しまいには二人でカレー談義に花を咲かせていた。
日も傾き始め、そろそろ作戦を実行に移す時刻がやってきた。
キッチンでは、ずっしりと重い鍋二つ分にカレーが煮込まれている。実際は少量を作るか、市販の物でも構わないと前野に言われていたが、せっかく考えてくれた設定なので坂口は忠実に再現することにした。
テーブルの上には、前野が走り書きした人物設定のメモが置かれている。坂口は何度もそれに目を通しながら過ごしていた。割合に設定が細かい。
同階の住人全員にカレーを配り歩くなどという行為が自然なことなのか、彼は理解に及ばなかったが、『世話好きな奴はいるもんだ』と話していた前野の台詞に従い、坂口はタッパーにカレーを移した。
時間が来た。坂口はタッパーを手に持ち、玄関を出る。
廊下を左方向へゆっくりと進んでいく。対象の扉の前まで来ると、彼は機械的に呼び鈴を鳴らした。




