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夜空に飛来する卵  作者: 扇谷 純
兆候
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第19話 「死活問題なんです!」Aパート

「今日もあんまり、星が見えないや」


 アルバイトからの帰宅後、机の上の本や、テレビの近くに広げた夕刊など、それらすべてはすっかり意識の外にあった。


 坂口は押し黙ったまま、光で満ちた都会の夜空を眺め続けている。


 彼を現実に引き戻したのは、突如鳴り響いた呼び鈴だった。鈴の音と共に、小刻みにドアをノックする音も聞こえてくる。


 坂口はインターフォンを取らずに廊下を抜け、玄関に向かった。


 ドアスコープを覗くと、そこにはお隣さんの姿があった。先日、朝のコンビニで見かけた際と同じスーツ姿である。


「はーい」


 坂口がドアを開くと、足立は思わずため息を漏らしながら、安堵した表情で肩を落とした。


「こんばんは、足立さん」


 坂口は笑顔で挨拶をした。すると彼女は、「あ、あの…」と落ち着きのない様子を見せ、言葉に詰まっている。


「どうかしましたか?」


「プッ――」


 彼女は一度息を飲み込むような素振りを見せた後、「《《プリンター》》! 持ってません?」と前のめりになって尋ねた。


「プリンターですか?」


「はい!」


「それはつまり、主に文章やグラフなどのファイルデータを、パソコンから紙媒体へ印刷する装置のことでしょうか?」


「そうです、そうです!」


 彼女は焦れったそうに、大きく肯いている。


「それなら持ってますよ」


「良かったぁ……」


 今度は、大きく息を吐きだした。


「それで、今日はどうしたんですか?」


「いや、プリンターを使わせてほしいんですよっ!」


 彼女は髪を掻きむしり、「どうしても今夜中に印刷しないといけない資料があるんです! データはここに入っているので、少しだけ使わせてもらえないでしょうか?」と声を上げながら、手に持った黒い革鞄を叩いた。


「あ、そういうことですね!」


 坂口は笑顔で応え、「それなら、うちにあるプリンターを使ってください」と、分かりきったことを述べた。


「お好きなところに座ってくださいね」


 足立を部屋に招き入れると、坂口は早速パソコンの電源を入れ、「起動には、三分ほど時間がかかります」と説明した。


「あぁ、はい」


 足立はあちこち見回しながら、床の上にゆっくりと腰掛けると、鞄からUSBメモリを取り出している。


 しばしの間、坂口はパソコンの画面を見つめ、足立はUSBメモリを眺め続けた。


 ――そして、三分が経った。 


「お待たせしました」


 坂口は席を立ち、「もしインクが固まっていたら、替えもあるので言ってください」


「ありがとうございます」


 足立は一度腰を落ち着けてしまった身体に鞭打って立ち上がると、彼の退いた席に移動し、USBメモリを本体に差した。


「僕は珈琲を飲みますけど、一緒にどうですか?」


「あ、えっと……」


 キッチンに移動した坂口は足立に声をかけたが、彼女は戸惑った表情を浮かべ、ながらコンビニの袋を握り締めている。


 ビニール越しに飲み物の缶が数本入っているのが見え、「持参しているなら、好きに飲んでくれて構いませんよ? コップをお貸ししましょうか?」と坂口は尋ねた。


「いえいえ! そんな……」


 足立は左右に激しく手を振ると、次いで袋の中から缶チューハイを取り出した。


「えへへ。好きなんですよ」


 彼女は照れた様子を見せたが、すでにプルタブには指が掛かっている。


 北村が以前に、「仕事上がりの一杯は格別だ」と話していた姿を思い出しながら、坂口はやかんをコンロに置いて火をつけた。


「お仕事大変なんですか?」


「え?」


「持ち帰ってまで、仕事しているから」


「あぁ……」


 彼女が納得する声と共に、缶を開ける音が響いた。「普段はこんなこと、滅多にないんです。今日は終業間際に仕事が立て込んだせいで、焦って片付けたもんだから。印刷し忘れていたことも帰り道に思い出したんですよ」


 足立はアルコールを勢いよく流し込むと、大きくため息をついた。


「ぷはぁぁ……。それでですね、帰ってからデータを印刷すれば問題ないかなぁって思ったんですけど、よくよく考えたらうちにはプリンターもないし、コンビニのネットプリントを使おうにも、インターネットの開通がまだなんです。朝一の会議で使う資料だから出社してからじゃ間に合わないし、それで……」


「なるほど」


 悪いことは重なる、と坂口は聞いた覚えがある。


「それでうちに来たわけですね」


 坂口は相槌を打ちながら、ドリッパーにペーパーフィルターをセットした。デジタルスケールで珈琲粉(12グラムが適量と教わった)を測り、フィルターに流し入れる。


「インターネットの移行手続きは、引越し日に手配しなかったんですか?」


「そう! それなんです!」


 足立はロング缶を坂口の方に勢いよく傾け、「――ていうか、聞いてくれます? この間来たプロバイダーの人、すっごくいいかげんな人だったんですよ!」と言った。


「いいかげん? どんな風にですか?」


「えっとですね――」


 首だけで背後を向いていた足立は、椅子を回転させて坂口の方へと向き直り、「わたし、本当は引っ越して来たその日からパソコンを使えるように業者の人を呼んでたんです。でも、予定時間になっても全然来ないもんだから、まだかなぁって思って電話をかけたんですよ。そしたら、そんな予定はそもそも入ってないって言うんです! 手配したのは間違いないんだから、あれは絶対忘れてたんですよ!」


「それはひどいですね!」


「あ、本題はここからなんですけど」


「あぁ、そうですか」


「でも確かに、これだけでもムカつきますよね!」


 足立は一本目をあっさりと飲み干すと、二本目の缶を袋から取り出した。


「こっちもそう簡単に引き下がるわけにはいかないから、『ちゃんと確認してください!』って怒鳴ったんです。そしたら相手も何だか焦った様子になり始めて、それで一人手配できそうだから今から送るって言ってくれて、少し遅れたけど来てくれたんです」


「良かったですね!」


「あ、まだ終わりじゃないです」


「あぁ、そうですか」


 コンロにかけた湯が沸き、やかんがかたかたと音を立てている。坂口は温度計で丁寧に湯の温度を計ってから、慎重にフィルターへと湯を流し始めた。<の>の字を描くと、上手くいくらしい。


「それで、いざ来てもらったら担当の人はすっごい無愛想だし、そのうえ何かこのマンションでは使えない種類のやつ? 持ってきちゃったとか言い出すんですよ。私もそういうのには疎いからよく分からなくて、『まぁ、それなら使えるやつ持ってきてくださいよ』って当然のお願いをしたんです。そしたらその人、なんて言ったと思います?」


「えぇと……」


「『そんなの、今すぐには用意できない』って言うんですよ! それも、ちょっと逆ギレで。信じらんない! こっちはわざわざ休みの日に合わせて呼んだっていうのに。おかげで今週末までネットが繋がらない状態なんですよ! ひどいと思いません?」


「約束を破るのはいけないことです!」


「でしょ!」


「でも、次の休日には来てくれるんですよね?」


 坂口は使用済みのフィルターを三角コーナーに捨てながら、「なら良かったじゃないですか」と言い、出来上がった珈琲に口をつけた。


 ……美味しい。今度は豆から挽いてみようか。


「いやいや、良くはないでしょ! 私にとっては《《死活問題》》なんです!」と、彼女は表にまで響くほどの勢いで怒鳴った。

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