火曜日には小説を読む
お祭りの季節、皆さま如何お過ごしでしょうか?
最近、「コイツ何言ってんだ?」と思われるだろう文章を書いても、表に出せない位のテキストになってしまう事が多くマジで辛い今日この頃です。
さて、いきなりですが文字を読むって苦痛ですか?
個人的に文字を読むことを苦痛と思ったことはありませんが、人によっては活字を読むことが苦痛すぎて“消防士”になりたいと思ったことがあると想う方もいらっしゃるでしょう。
紙は摂氏233度で燃えるんですよ、すごいですねハハハ。
そう考えると紙鍋料理って、調理から後片付けの流れでみると合理的ですね、全然環境には配慮してませんけど。
あと焚書官って文字面の肩書きはスゲェかっこいいですよね。
久々に建設的(?)な「何言ってんだ」な書き物のせいで、正気度が乱高下して、話がいつになくブレぶれですが、話を戻しましょう。
オーディオブックってご存じでしょうか?
えぇ一冊まるまるを音声として聞く例のアレです。
一冊の値段が書籍より5倍前後する件のアレです。
正直な思いとして、
読み聞かせなら好きな声で聞きたい
聞きながら文字で追いかけて読みたい
あと値段が高ぇよ。マジたけぇよ
そう思っています。
これらの問題点を解消するために、提案したい技術があります。
最近マイブームが終わってしまったヴァーチャルユーチューバー、略してVTuberの関連の技術の一つに、ボイスチェンジャーなるものがあります。
バーチャル夢見野郎が、美少女になれる夢と魔法の技術です。略してバ美技術です。
例えて言うなら、江戸川コナンになれる技術です。あぁ、コナン君がつかう蝶ネクタイの装置があなたのパソコンに!というえば判りよいでしょうか。
この技術を使えば、理論上は他人の声を自分で使えるということになります。
この版権やら金銭面、あと倫理観という富士山よりも高い問題を解決すれば、好きな女優俳優からご近所のあの子まで、網羅できます。
オーディオブックを売る側は、文章を読み上げるデータだけ販売し、オーディオブックを使用する側は、自分の好きな声で再生させるという構図にすることができることでしょう。
これは販売、制作側のコストを大幅に削減できるのではないかと邪推します。あくまで邪推です、なぜならデータがないので。
滑舌がいい人に何冊も読み上げてもらうだけなら、きっとコスト削減になるはずだ!と思ったけど、想像するに「あ、これ無理じゃね?」とか思ったので、コストが上がるかもしれません。げふん。
理由は、場所代と技術者と演者。宅録時代はまだ遠い。
もとい。
学校の教科書とか、自分が好きな声でオーディオブックにして登下校で聞いてれば、学力あがるくね?とか思うんです。
会議資料って、音声化出来る部分を自分が聞き取りやすい声で先に聞いておけば理解力やら共有しないといけない情報が大幅に増えると思うんです。
小説とか、好きな誰かの声で再生したら憤死するレベルの破壊力があると思うんです。
自作小説を動画投稿サイトで、自分独りで演じた音声動画をあげれると思うんです。
まぁ、富士山よりも高い諸問題のせいで実現は無理と思いますが。
はいはい戯言ですよ。
結論:水曜日には映画を観る
追記:
これを書いてた時って、まだAIで声変換生成の方法ってまだちゃんと確立してなかったよなぁ、などと供述しております。
蛇足ですが、
音声合成して生成とか平気で可能な時代になりつつありますが、
・役者Aさんの演技で役者Bさんの声で演技してもらおう、でもBさんの声ではちょっと違和感あるからCさんの声と合成して収録&録画
などと出来てしまう時代が来るんでしょうね……。では、演技とは?その人の持つ魅力とは?という話になってくーるー。
小難しい話。
それって「世界内存在としての個」の表現に身体性を伴わなくなる状態に「不気味の谷」は生まれるんじゃないか説の典型にならないかなぁと思いつつ、「つまるところ差異がないからね」と独り納得で完結。AI生成された動画のクオリティが上がれば上がるほど「不気味の谷」は深く広くなるよ、やったねタヱちゃん。
映像で失敗した思考の穴に聴覚系でもう一度ハマりに行く人類。
うん、可愛いと思います。
ほな、文章生成はどないなるんでしょう?という個人的な疑問に、文章生成でも「不気味な谷」は生れんじゃねーかなと思っております。あくまで予想ですが。
僕が師と仰いでいた人が「美人と呼ばれる人の顔の動画をコマ送りにしたらな、不細工の顔があるのよ。1コマ目は美人、2コマ、3コマ、と続いて6コマ目は不細工。でも次のコマは美人」と研究でぼやいていたことを思い出します。まぁ、まさにボヤキでしたが。
で、藤沢周平の大ファンだった師が、「藤沢さんの文章って、まぁ小説家の文章って他の小説家と大差ない。ほぼ誤差内。でも数十行の内に一行、藤沢周平がある。作家の文章ってそういうことやろ」と言われ、その時の僕は「確かに」と何の証拠もないのに納得してました。
今あの頃を思えば、ただ文章を書かない言い訳をしていた僕への叱責と励ましだったのですが、文章生成の罠はそこにあるのでは、と思います。
手塚治虫の漫画生成やAI小説家が現れたことで、技術的な無限の可能性は示唆されました。
“らしさ”を生成するために学習させ、それを生成させると“らしさ”を失って、別のものになってしまう。そんな罠……。
まぁただの妄想虚言の延長線上の戯言でござーい。
けれど、かの技術の問題は質や生成の成り立ちがさも問題にされているようで、実はその創作物の受益者が誰なのかが根底にあると感じてしまうのは僕だけなのでしょうか。
結論:木曜日には論文を読んで、土曜日にはラジヲを聴く。
2025年10月27日 追記
2025年11月10日 加筆修正




