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あの日見た夢  作者: 春野海
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美しき夢

美しき日々は永遠には続かない。俺の幸せな日々にも、ちゃんと終わりはやってきた。


俺が11歳になったある冬の日、俺と母さんは俺の誕生祝いに小さな旅行に行くことになっていた。俺に父親はいないため、母さんと二人きりの旅行だ。

父は俺がまだ小さかったとき(多分5歳くらいのときだと思う)に癌で他界した。だから俺は父のことをあまり覚えていない。うっすらと記憶の隅っこに残っているのは、よく散歩に連れて行ってもらったということだけである。顔は思い出せないが、父の背中の大きさと温もりは今でも俺の中にふんわりと残っている。

一人で俺を育ててくれた母さんはいつも仕事で忙しく、二人で遠出なんてするのはあの日が初めてだった。俺はすごく楽しみにしていた。多分、母さんもそうだったと思う。この後俺たちに待ち受けている悲しい運命なんて知る余地もなかった。

その日の空は綺麗に晴れ渡っていた。俺たちは南の方に向かって車を走らせ、吸い込まれてしまいそうに青い冬空を俺は車の窓から見上げていた。

その時は突然やってきた。やってきたというよりも、俺と母さんの時間は突然終わった。

「空を見るのはいいけど、ちゃんと座っててね。着いたらいっぱい美味しいもの食べようね。」

優しく笑いながら母さんがそう言っていたのが、俺の最後の記憶だ。その後しばらく黙って後部座席から母さんの背中を見ていたが、それ以降のことは全く思い出せない。俺の記憶はそこでぷっつりと途絶える。痛みも苦しみも、俺は何も覚えていない。

気がつくと目の前は真っ白だった。しばらくは自分が上を向いているのか下を向いているのか、あるいは立っているのか寝ているのかさえも分からなかった。しばらくしてようやく意識がはっきりして来たが、自分がどこにいるのかは分からないままだった。なんだか怖くて、自分がどこにいるのか確かめたくて体を起こそうとしたけれど、体はぴくりとも動かなかった。どうやら俺は寝ているらしいということはわかった。とにかく怖かった。どうしてこんなことになっているのか、何も思い出せなかった。混乱と恐怖が一気に押し寄せてきて、俺は泣き叫びたい気持ちだった。どこからか誰かの寝息のようなものが聞こえて来たのは、そんなときだった。なんとかして視線だけ自らの腹の方へやると、俺の腹の上に誰かの頭が乗っていた。明るい茶色の、少しだけ癖のついたふわふわの髪。一瞬でそれが誰だかわかった。

「夏希……?」

その名を呼んだ後に、自分が声を出せたことに驚いた。夏希はベッドの横の丸椅子に座ったまま、俺の腹の上に頭を垂れて眠っていた。俺の声が聞こえたのか、夏希はもぞもぞと動いてから頭を持ち上げ、こちらを寝ぼけた顔で何秒間か見つめた。

俺としばらく見つめ合った後、あいつは急に大きな声で俺の名前を叫んだ。

「翔っ!!!!」

脳みそに突き刺さるような大きな声と同時に、あいつは体の動かない俺の上に飛び込んできた。

「翔!わかる!?夏希だよ!?どうしよう、どうすればいいんだろ、と、とりあえず、お医者さん呼んでくるねっ!」

夏希は俺に返事をさせる隙も与えずに慌てて部屋を出て行った。相変わらず忙しないやつだと思ったが、そんな夏希を見ているとさっきまで感じていた不安や恐怖はもうどこかへ行ってしまっていたことに気がついた。

夏希は医者を連れて戻ってきた。俺が医者に診られている間、あいつはじっと俺の方を見ていた。医者が部屋を出て行った後も黙っているので俺は我慢できずに声を出した。

「何見てるんだよ。」

「翔のことだよ。」

そんなことを聞いてるんじゃない。そう言いかけたが声に出さなかった。いや、出さなかったんじゃない。出せなかったんだ。夏希の顔は笑ってはいたものの、いつもの無邪気な笑顔とは正反対の、静かな、寂しい、優しい表情をしていた。

「翔、いっぱい寝たね。」

それだけ言って、あいつは俺の手にそっと触れた。色々聞きたいことはあったが、夏希のその顔を見ているとどうしても聞くことができなかった。それから夏希は何も言わなかった。黙ったまま、でも確かに俺のそばにいた。俺たちはそのままゆっくりと深い眠りに落ちていった。


あとから医者に聞いた話によると、俺は母さんとの旅行に向かう途中で交通事故に巻き込まれ、それから二週間もの間眠っていたらしかった。交通事故というのは、相手の車の信号無視によるものだったそうだ。そういえば、母さんはどこにいるんだ。きっと無事なんだろう。俺と同じように、この病院のどこかで眠っているに違いない。

母さんはどこですか、と医者に尋ねると、彼はただ

「力が及ばず、申し訳ございませんでした。」

と言って頭を下げた。最初はその言葉の意味がわからなかった。

「力が及ばず」?この医者はなにを言っているんだろう。何の話をしているんだ。彼は母さんの居場所を教えてくれない。それはどういうことだろう。教えられないような場所にでも行ってしまったのだろうか。あるいは母さんは……


死んだ?


急に頭を中の方から殴られたみたいに、強い衝撃が走った。鳥肌が止まらない。息が苦しい。

母さんは、死んだ?もうどこにもいない?

いいや、そんなはずはない。ついさっきまで一緒にいたではないか。そうだ、俺たちはこれから旅行に行くところだったんだ。俺はきっとあのまま車に揺られて眠ってしまい、悪い夢でも見ているのだ。

そう思った。そう信じたかった。だけどそのとき、なぜかあのときの夏希の表情が脳裏に浮かんできたのだった。

静かな、寂しい、優しい笑顔。

それまでは考えもしなかったが、多分あの笑顔には、あいつの感情の全てと、俺が背負うことになった現実の全てが詰め込まれていたのだと、俺はやっと気がついた。その気づきは俺に初めて現実を、母さんの死をゆっくりと実感させた。

俺が母さんといたのは二週間前、そして、母さんはもうこの世界のどこにもいない。

そう納得してしまった瞬間、なにか暖かいものが頬を伝っていくのを感じた。俺はどうやら泣いているらしかった。泣くために顔を歪ませる必要はなかった。涙は勝手に溢れてくる。

夏希はまた、いつかのあの日みたいに俺を抱きしめた。とても温かかった。何時間そうしていたかわからない。俺はまたしても眠ってしまった。どうしたことか夏希の体温に触れていると眠くなってしまう。

眠りに落ちていく中、夏希が何かを言ったような気がした。あれは夢だったのだろうか。夢にしてもそうでないにしても、夏希はあのときなんと言ったのだろう。そんなことを考えながら、俺の意識は遠のいていった。


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