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その手に取るもの  作者: 佳景(かけい)
9/22

死者

 魔王は黒水晶の城の奥深くにある自らの居室に、神を招き入れた。


 この部屋に扉はないため、行き来するに当たっては空間を超越しなければならない。


 一度力を使うだけで星一つを砕いてしまう神が自力で中に入ろうとすると、あまりにも無駄が多いので、移動に際してはいつも手を貸してやっていた。


 海より広いが、魔王以外の何者も存在していない虚空の中に現出した神は、今日も白百合のようにたおやかで、輝くように美しい。


 透き通りそうな純白の肌。


 足元まで柔らかく流れる髪も純白だ。

 

 髪と同じ色の目は濁りなど少しもなく、どこまでも澄んでいて、優しかった。


 彫像のように美しい肢体を包むのは薄紅色の石と飾り布を帯びた純白のドレスで、装飾のあまりない控えめな美しさが実に神らしい。


 その背中には鳥に似た純白の大きな翼があったが、異形ではあっても少しも恐ろしげではなかった。

 

 脚を組んで虚空に腰掛けた魔王は、神と精神を繋げると、言葉ではなく概念で尋ねる。


――何か用か?


 何気ない問いかけだったが、神は少し拗ねて問い返してきた。


――用がないと、来たら駄目?

――そんなことはないが、其方が我の元に来る時は何か用がある時の方が多いだろう。

――確かにそれは否定できないし、お前がそう思うのは私のせいだとよくわかっているけれど、そういうことを言われるのは少し寂しいよ。私だって、たまにはお前と二人きりでゆっくり過ごしたい時もある。


 神は虚空に腰掛けた魔王の隣に腰を下ろすと、魔王の肩にそっと甘えた。


 魔王の手の平に己のそれを優しく重ねて、指を絡めながら言う。


――このところ、仕事以外の話はほとんどしていなかったから、いろいろと話したいことがあるんだ。

――それは構わぬが、交わった方が手っ取り早いのではないか?


 精神体である自分達にとって、交わることは互いの全ての思考、感情、そして記憶を共有することだ。


 伝えたい情報が多いのなら、いちいちこうして概念のやり取りをするより、交わった方が余程効率がいい。

 

 魔王は長い指で神の顎を捕らえると、神に唇を寄せたが、神は人差し指で軽く魔王の唇を押さえて言った。


――気持ちのいいことは私も好きだけれど、今はやめておこう。私は話がしたいんだ。お前が言うように、交われば伝えたいことを余すことなく伝えることはできるけれど、時々はただお喋りして昔みたいに時を過ごすのも悪くないだろう?

――ああ、そうだな。


 魔王はわずかに目を細めた。


 世界の内側には長らく知的生命体が誕生せず、世界の外側には自分と神の二人しかいなかった。


 話し相手と言えばお互いしかいなかったため、二人でぼんやりと世界の内側を眺めながら、宇宙の美しさや獣達の可愛らしさについてなど、取り留めのない話をよくしたものだ。


 黙ってただ側にいるだけの時間も長く、退屈に思うことも多かったが、思い返せばあれはあれで悪くなかった気がする。


 今となっては別行動を取ることが多くなり、以前に比べて話をする時間も随分と減ってしまったが、たまにはかつてのようにただ話をするのもいいだろう。


 魔王の思考の一部を共有している神がにこりと微笑んだ時、魔王はとある世界で、配下ではない者がこの黒水晶の城がある自身の領域に侵入しようとしているのを感じた。


 だが、これは生者ではない。


 死者だ。


 死して肉体を失い、心のみの存在となった人間――所謂幽霊が、世界の内側と外側とを繋ぐ境界を越えようとしている。


 配下達はこの城がある世界の外側と世界の内側にある領土とを頻繁に行き来していて、境界を常時開いたままにしてあるため、鳥などがこうして境界に接触することはそう珍しくはなかった。


 触れた瞬間に配下の者かそうでないかはわかるので、招かれざる者が境界を越えようとした場合には、すぐさま境界を閉じることにしている。


 魔王はいつも通りに境界を閉じたものの、この幽霊には覚えがあった。


 かつて自分を招喚し、契約を交わした相手だ。


 世界を支配する法則に従い、自分を招喚した者は、自分と契約を交わし、一つだけ願いを叶えることができる。


 自分は決して万能という訳ではないが、余程大それた願いでもなければ、大抵の願いは叶えられた。


 この幽霊の場合も例外ではなく、無事に願いを叶えて、契約はとうの昔に終了している。


 今更自分に何か用があるとも思えなかったし、配下達が住まう領土は人間のそれに接しているため、時折こうして幽霊が境界に接することもあった。


 魔王は大して気にも留めずにいたが、神は繋がった魔王の知覚を介して幽霊の存在を感知すると、己の領域から世界の内側に端末を差し入れ、幽霊の様子を見て言う。


――ねえ、ここに呼んであげたら? 多分お前に用があるのだと思うよ?


 魔王は繋がったままの神の知覚から、幽霊が境界があった辺りから離れようとはせず、同じ場所を幾度も回り続けていることを知った。


 自分に用があるかはともかく、境界を超えてこちら側に来ようとしているのは間違いないようだったが、だからと言って呼んでやらなければならない義理もない。

 

 あの契約者には、二度と会いたくなかった。


――放って置けば、その内消滅するだろう。


 幽霊というものは、肉体を離れて彷徨っている人間の精神だ。


 半ば肉体の束縛から脱している配下達は半分精神体のようなものなので、死と同時に精神も消滅して幽霊となることはないが、肉体と精神が完全に分離している人間は、精神が完全に消滅するまでに多少の時間差が生じることがある。


 多くの人間は己の精神を上手く統御することができないため、自らの姿を形作ることができずにすぐに消滅するが、中には明確な自我を保つことができないものの、影のような曖昧な姿を創る者や、生前とほとんど変わらない自我と姿を持ち、生前と同じように振る舞う者もいた。


 だがどのような幽霊であったとしても、肉体を既に失っている以上、そう時を置かずに消え去るものだ。

 

 わざわざ関わり合いになることもないだろうと魔王は思ったが、神は言った。


――せめて話くらい聞いてあげようよ。何か大切な用件かも知れないし。

――あれにとって重要でも、我にとってはどうでもいいことだ。大体、二人きりでゆっくり過ごそうと言い出したのは其方だろう。何故邪魔者にわざわざ関わる必要がある?


 魔王が眉を皺めてあからさまに不機嫌な顔をしてみせると、神は呆れを含んだ調子で言った。


――そう露骨に嫌そうな顔をしなくてもいいだろう? 少し話を聞くだけだよ。全く、私以外の者に対しては本当に冷たいんだから。はっきり言って、私はお前のそういうところが嫌いだよ。


 「嫌い」という響きが、魔王の心に重く沈んだ。


 いつも互いの心に触れているので、神に好ましく思われていないところがあることはわかっていたが、ただ心に思うだけでなく、明確に伝える意思を持って伝達されると、何とはなしに辛くなる。


 本気で嫌われている訳ではないのだと、よくわかってはいるが。

 

 魔王が少なからず落ち込んでいることを知って、神の心から悲しみが伝わってきた。


 繋いだ手に力が込められる。


――すまない、お前を傷付けたい訳ではなかったんだ。言い過ぎたよ。ただ、私以外の者にも、もう少し優しくしてあげて欲しいんだ。お前が私以外の者に関心がないのはよくわかっているし、あの幽霊を嫌っているのもわかっているけれど、いい機会だからたまには私以外の者とも話してみようよ。ね?


 幼い子供を諭すような調子でそう言われても、魔王としては本当に全く気が進まなかったが、神が望むのなら我慢して話くらいは聞いてやってもいいだろう。


――……言っておくが、話を聞くだけだからな。


 魔王がそう念を押すと、神は嬉しそうに頷いた。






 自分の居室に神以外の者を入れる気にはなれなかったので、魔王は居室の近くに新しい部屋を創り出し、その部屋に神と共に転移した。


 だが招き入れるのが幽霊なので、床や壁はなく、居室と同じように虚ろが広がっているだけだ。


 唯一居室と違うのは、空気が通っているところだった。


 あの幽霊と精神を繋げて会話をするなど、おぞましくて耐えられない。


 幽霊には肉体がないので、感覚器官で音を知覚している訳ではないが、明確な自我を持つ幽霊は生前と同じ感覚を死後もそのまま有していると思い込んでいるようで、音声言語での会話は大概きちんと成立した。


 もし駄目でも筆談という手もあるし、精神を繋げての会話は避けられるだろう。

 

 とりあえずの準備が整ったところで、魔王は幽霊に空間を跳躍させ、部屋へと招き入れた。

 

 現れたのは老婆だ。

 

 体が透けている上に、輪郭がいくらか曖昧であることを除けば、どこにでもいるような平凡な女だった。


 黒かった髪は白髪が多く混ざって灰色になり、毛先が落ちないように後ろで一つに纏められている。


 枯れ木のような体を薄手の緑色の着物で足元まで包み、着物よりいくらか明るい色の帯を締めていた。


 もう六十歳を越えているだろうが、背筋はぴんと伸びていて、実年齢よりいくらか若々しく見える。

 

 契約を交わしたのは四十年程前で、皺だらけの面にあの日の面影はほとんど残っていないものの、精神の有り様はそうそう変えられるものではなかった。


 まして契約まで交わした相手なら、どれ程の時を経たとしても必ずわかる。


「久し振りね」


 女はその面から驚きを消すと、ゆっくりと唇を動かして魔王にそう言ったが、その声は音声として空気を震わせることはなかった。


 伝えようという意思を、声を出すのと同じような要領で放っているだけだ。


 つまりは女が何か言う度に、女の心の一端に触れていることになるのだが、話している間ずっと精神を繋げているよりはこの方がいくらかましだった。


 魔王が懸命に不快さに耐えているとも知らず、女はにこにこと愛想良く続ける。


「いつ見てもやっぱり綺麗ね。私のこと覚えてるかしら? 随分おばあちゃんになっちゃったから、わからないかも知れないけど」

「覚えているぞ。忘れたところで一向に構わなかったがな」


 魔王は冷ややかにそう言うと、皮肉の色を濃く乗せた唇をわずかに吊り上げて見せた。


 だが女はたじろぐでもなく、ほっと胸を撫で下ろして言う。


「ああ、良かった。忘れられてたら、どうしようって思ってたのよ」


 女は視線を魔王から神へと移して尋ねた。


「こちらの方は?」

「妻だ」

 

 魔王が簡潔に紹介すると、神はその白い面に上品な笑みを浮かべて女に挨拶する。


「初めまして」

「お会いできて良かったわ。ご主人には、昔随分お世話になったのよ」

「お役に立てたようで何よりだよ」


 にこやかに言葉を交わす神を気に入ったらしく、女は上機嫌で魔王に言った。


「素敵な奥さんじゃない。何だか安心したわ。あなたでも人並みに女に惚れたりするのねえ。これだけ美人の奥さんだと、やっぱり毎晩励んでたりするの?」


 品のない質問を魔王は冷たく無視し、神は曖昧に笑ってやり過ごした。


 これだから、この女には会いたくなかったのだ。


 以前自分を招喚した時にも、「あなたくらい綺麗だと、きっと凄くモテるんでしょうねえ。これまでに何人くらい食ったの?」と平然と訊いてきた。


 この幽霊の生まれ育った国においては、力を持つ者は神の使いとして崇められていて、この女も当時神職にあったのだが、こんな女が有難がられていたとは滑稽と言う他ない。

 

 この女には他にもいくつか不愉快なことを言われたが、それでも敢えて契約したのは、女の願いが「不治の病に罹った娘を救って欲しい」というものだったからだ。


 子供は嫌いではないし、いくら気に食わない女の娘でも、いたいけな少女が死にかけているのは流石に不憫というものだった。

 

 願いを叶えてやったこと自体は後悔していないが、去りしなに一発くらい殴っておけば良かったとは思う。

 

 子供の前ということで自重してしまった、自分の良識が恨めしい。


 一刻も早く追い返そうと、魔王は早速本題に入った。

「用件は何だ?」

「実は、あなたにちょっと頼みたいことがあるのよ」


 何か用があるのだろうとは思っていたが、頼み事とは思わなかった。


 一体どういうつもりなのだろう。

 

 魔王は苛立ちを隠そうともせず、舌打ちせんばかりの口調で女に言った。


「ただ一度会っただけの我に頼み事とは、図々しい女だな」

「まあまあ、そう言わずに聞いてあげようよ。どんな頼みでも、多分お前にとっては大したことではないだろう?」


 神は小さく首を傾げて、そう魔王を促した。


 魔王はすげなく却下することも考えたが、思い直してやめておくことにする。


 ここで追い出せば、何のためにこの不愉快な女と我慢して顔を合わせたのかわからなくなるというものだ。


 とにかく頼みとやらを聞いて、さっさと追い返した方がいい。

 

 魔王は渋々女に言った。


「……話せ」

「ありがとう!」


 心底嬉しそうな女の笑顔が、妙に憎々しくて堪らなかった。

 

 魔王が湧き上がる殺意をどうにか抑えていると、女がふと真顔になって言う。


「実は、友達に手紙を届けて欲しいの」

「手紙だと?」


 魔王の問いかけに、女は浅く頷いた。


「そうよ。あなたのおかげであの子の命は助かったけど、余命幾ばくもないなんて医者に言われてた子がいきなり元気になるなんて、どう考えてもおかしいでしょ? だからあの後、誰にも知らせずに家族で遠くに引っ越したの。名前も仕事も変えてね。仕方がないことだとずっと思ってたけど、死ぬ前にせめて姉妹同然に育った友達だけには謝りたくて、何度も手紙を書こうとしたわ。でも、黙っていなくなった私のことを怒ってるかも知れない、嫌ってるかも知れないと思ったら、どうしても書けなかった。それでもやっぱりこうして死んでみると、どうしても心残りなのよ。だから、死んだ後にあの子が昔住んでた家に行ってみたの。まだ同じ家に住んでるかわからなかったけど、他に手掛かりもなかったから。そしたら、あの子はまだ元気で、そこに住んでたわ。そのままあの子と話ができれば良かったんだけど、あの子は私のことが見えないし、声も聞こえなくて……」


 魔王はようやく腑に落ちた。


 自分達のような精神体でも、配下達のように半ば肉体の縛りを脱している訳でもない人間は、基本的に幽霊のような心のみの存在を認識できない。


 人間が心を消費して力を発現させる世界でなら、力を使える者は心を扱うことに慣れているので、幽霊を見たり声を聞いたりするくらいのことは当たり前にできるが、この世界の人間達は己の持てる力を言葉によって発現させている。


 幽霊の存在を見聞きできる人間は皆無ではないにしろ、かなり少なかった。


 感覚が鋭い獣ならば、はっきり知覚できないにしても気配程度は感じられるようだが、人間の感覚はあまりに鈍過ぎる。

 

 一度死者となった者が、生者と意思の疎通を図るのはかなり難しかった。

 

 まして全く見えない人間が相手であれば、第三者の助けが必要だろう。

 

 その助けが自分である必要は全くないが。


――やはり追い返せばどうだ?


 女に聞かれると薄情だの何だのと喚かれそうだったので、魔王は精神の繋がりを介してそう神に提案したが、神はあっさり却下した。


――駄目だよ、そんな失礼なこと。

――先に礼を欠くような真似をしたのは、その女の方だろうが。

――それでも駄目。


 相変わらずの石頭だ。


 特に伝える意思はなかったのだが、今は感情と思考の一部を共有している状態なので、神にはしっかり伝わっているのがわかる。


――石頭で悪かったね。


 神は会話を打ち切ると、何事もなかったかのように優しく女に言った。


「側にいるのに、言葉を交わすどころか気付いてもらうことさえできないなんて、悲しいね」

「そうなのよ! わかってくれる!? このままじゃ、死んでも死に切れないの!」


 神の言葉に力を得たように勢い込んで言う女に、魔王は皮肉の色を一層濃くした唇で言った。


「肉体を失っている身でよく言うな。既に死に切っているだろうが」

「やめて。言っていいことと悪いことがあるよ」


 神は非難がましい眼差しを向けて魔王を黙らせると、女に眼差しを移して問いかける。


「結局、手紙を書くことはできなかったんだよね?」

「そうなの。だから、私の代わりに書いてもらえるかしら? 内容は私が考えるから」


 手紙の現物があるならまだしも、そこまで要求するか。


 この女、本当に殴ってやりたい。

 

 魔王が膨れ上がる衝動と戦っていると、女は申し訳さなそうに眉尻を下げて魔王に言った。


「これでも悪いとは思ってるのよ。ほんのちょっと関わっただけの人間にこんなこと言われたって、迷惑よね。よくわかってるわ。でも、今の私が見える人は少ないの。私はいつまでこうしていられるかわからないし、どこにいるかも、協力してくれるかどうかもわからない人を探し回るより、あなたに頼んだ方がいいと思ったのよ。これが本当に最後のお願いだから、何とか引き受けてもらえない? 郵送だと時間も掛かるし、あの子の反応も知りたいから」


 迷惑を掛けている自覚があるなら来るな。

 

 魔王がその一言をすんでのところで飲み込んでいると、神がにこやかに女に言った。


「私で良ければ、それくらいお安い御用だよ」

「本当!? ありがとう! 流石、女神様みたいな美人さんは性格も美人なのねえ!」

「そんな、褒め過ぎだよ」

 

 手放しで賞賛されてはにかむ神を、魔王は苦々しい思いで見た。


 人間は基本的に思考や感情を閉ざす術を持っていないので、女に悪意がないことはよくわかっていたが、だからと言って神は人が好過ぎる。

 

 魔王は神に言った。


「やめておけ。人間の領域は治安が悪いぞ。其方に行かせるくらいなら、我が行ってやる」

「お前はいつも心配し過ぎだよ。手紙を渡しに行くくらいのことで、そうそう危険な目には遭わない」

「其方のそういうところが危なっかしいと言うのだ。どの道、其方を見守っていれば我が出向くのと大差ないのだから、それなら我が初めから行った方がいいだろう」


 神は気が優し過ぎて、例え身を守るためであっても誰かを傷付けることが全くできない。


 神が世界の内側に出掛ける時には必ず様子を見て、何かあれば助けに入るようにしていた。


 自分達のような世界の外側の住人が世界の内側に干渉することは、存在にかなりの負荷が掛かることなので、神が行かなければならない理由がないのなら自分が行くべきだろう。


 この女を利することになるのは不本意だが、揃って苦痛を味わうこともなかった。


――過保護。


 神が不満そうに概念でそう言ったが、魔王は神を行かせる気にはなれなかった。


――何とでも言え。

――甘やかし過ぎは良くないんだよ?

――其方に対しては、これくらいで丁度いいのだ。

――どこが? 私は子供ではないよ?

――ある意味では、子供の方が其方より余程安心して放って置くことができるぞ。


 すっかり拗ねた神は、魔王との精神の繋がりを断ち切って言った。


「じゃあ、便箋を取ってくるよ。手紙は私が書くから。それくらいは構わないだろう?」

「ああ」


 魔王の返事に、神は少しばかり機嫌を直した様子でにこりと笑った。


 




 女が生まれ育ったのは、東方の国の南にある村だった。


 周囲を山に囲まれた盆地に、多くの河川が流れ込む、とても水の豊かな土地だ。


 夏の暑さも冬の寒さも厳しいが、豊かな雨が木々をよく育てることから、古くから林業で栄えている。

 

 魔王は村外れに建てられた、神を祀る社を囲む森の中に現出した。

 

 同時に存在が歪み始めるのがわかる。


 自分は本来この世界に在るべき者ではないため、この世界の内側にいるだけで、体中の関節を逆方向に曲げてもここまでの苦痛を味わうことはないだろうという程の苦痛を味わうことは避けられなかった。


 苦痛に苛まれ、力を失いながら、魔王は周囲の山並みまでの間に存在する全ての物を一瞬にして知覚する。


 万物を射るように降る夏らしい日の光、悲鳴にも似た蝉の声、湿度の高さといった人間でも知覚できるものだけなく、細胞の活動や塩基配列すら知覚できる自分にとって、得られる情報は膨大なものだ。


 しかし押し潰されることなくそれらを整理し、活用することなど造作もなかった。

 

 この国の夏は高温多湿で知られているが、中でもこの辺りは有数の酷暑だ。


 現在の気温は摂氏三十三度。


 自分のような肉体を持たない者にとっては、暑さも寒さも苦にはならないが、人の身にはかなり堪えるのだろう。


 一日の内で最も気温が上がる時間帯であることも手伝って、田畑に出ている者は少なく、川べりで涼んだり、水浴びをしたりしている者達の方が多かった。

 

 魔王は森を抜けると、神事を行う時に使われる拝殿の前に出る。


 木造の拝殿は高床式になっていて、釘を一切使わずに木を組み合わせて造られていた。


 装飾はあまりないが、屋根を支える側面の破風には精緻な彫刻が施されていて、質素ながらも品のいい美しさを感じさせる。


 この国の宗教は自然崇拝であり、水の豊かなこの地では古くから水を神として崇めているため、この社に拝殿はあっても神が住まう場はなかった。

 

 村の外れにある社に人気は全くと言っていい程なく、魔王は拝殿に背を向けると、先程過去を見て確認した女の友人の家を目指して石畳の上を歩き始める。

 

 今の姿は十歳程度の子供のそれだ。


 この辺りはあまり人の出入りがない土地なので、突然見知らぬ男が訪ねてくるより、子供の方が警戒されずに済むだろう。


 加えて言うなら、外国人より同国人の方がいい。


 この国の人間は割合平坦な顔立ちの者が多いので、目立たないように骨格から変えていた。


 ほとんど色素のない白い肌は黄みがかった白に、細長い瞳孔は丸くなり、黒かった虹彩は焦げ茶色に、黒い爪は桜色になっている。


 腰より長かった黒髪は肩にも届かない程度の長さで、襟元や袖に黒いレースをあしらった当世風の紫の着流しに黒い帯、レースで飾った黒い靴という出で立ちだった。


 女物のような意匠なので、多少奇異に思われるかも知れないが、とにかく手紙さえ渡すことができればいいのだから、どう思われようが構わないだろう。

 

 魔王は灯籠に囲まれた参道を通り、石段を下りると、俗界と神域を隔てる縄で結ばれた二本の木の間を通って、道に出た。


 強い日の光を浴びて、緑が一層鮮やかに青々とした田畑の間を、川が幾筋も枝分かれしながらゆったりと流れている。


 舗装もされていない道の端にはぽつぽつと送電線を支える柱が並んでいたが、今のところこの国の一般家庭で電気を使う物と言えば、照明くらいしかない。


 既に汽車に代わって電車も走り始めているし、いずれより多くの場面で電気が人間に活用されるようになるのだろうが。

 

 魔王はとある家の前で足を止めた。

 

 木造のさして大きくはない平屋。


 藁葺屋根に障子、縁側がある、ごくありふれた造りの家だ。


 他の多くの家と同じように農業を営んでいるらしく、家の側には牛小屋があったが、中にいる牛は怯え切って小さくなっていた。


 獣は人間とは比べ物にならない程感覚が鋭いため、こちらが異質な存在であることを感じ取って、大体こういう反応をする。


 逃げることができるなら、一目散に逃げ出した。

 

 獣が近くにいるとつい構いたくなるものの、怯え切っている牛を更に怯えさせるのも気の毒なので、魔王は敢えて牛を無視して戸を叩いた。


「御免下さい」

 

 声変わり前の、高い少年の声で魔王は言った。

 

 少しして木戸が開き、中から六十代と思しき年老いた女が顔を覗かせる。


 地味な印象ではあるが、どことなく品がある女だ。


 居場所を確認するために、あの女の過去を遡って四十年前に別れた時の姿を見ていたが、いくつもの皺が刻まれたその面にはかつての美しさの名残りがあった。


 黒かった長い髪からはすっかり色素が抜け落ちて、後ろで一つに纏められている。


 薄手の藍色の着物に、その着物より更に濃い藍色の帯を締めていて、何とも涼しげだった。


「こんにちは」


 敢えて子供らしい口調で、魔王はそう挨拶した。


 外見が子供だけに、普段通りの話し方では違和感があるだろう。


 せっかく子供の姿になったのに、不審に思われて警戒されては意味がなかった。


 狙い通り、女は特に怪訝そうな様子をするでもなく言う。


「この辺じゃ見掛けない子ね。何か御用?」

「預かり物を届けに来たんだ」


 魔王が懐から取り出した封筒を差し出すと、女は不思議そうな顔をしたが、皺だらけの手で躊躇いがちに封筒を受け取った。


 封筒を裏返して差出人の名前を見た女の唇が、小さく震えて言葉を紡ぎ出す。


「これ……私の旧いお友達の名前だわ。でも、どうしてあなたが?」

「お婆さんの友達と僕のお祖父さんに関わりがあって、この手紙を預かったんだ。それを代わりに届けに来たんだよ」


 魔王は予め用意していた嘘を、表情一つ変えずに口にした。


 完全なる嘘という訳ではないものの、真実からは程遠い言葉だったが、女は納得したようで、特に疑う素振りもなく淡く微笑んで言った。


「それはどうもありがとう。でも届けに来てくれなくても、送ってくれたら良かったのに」

 

 女の指摘は尤もだった。


 郵便制度がない時代ならともかく、今時郵便配達員でもない者が手紙を届けに来ることはかなり珍しいだろう。

 

 予想していた質問だったので、魔王は言葉に詰まることなく答えた。


「郵便だと、きちんと届かないことがあるから。大事な手紙だから、どうしてもお婆さんに直接渡して欲しいって言われたんだ」

「それでわざわざ? お家の人は? 一人で来たの?」

「もう子供じゃないから」


 魔王の言葉に女は小さく笑って、木戸を大きく開いた。


「お入りなさい。大した物はないけど、西瓜くらいなら出せるから」






 この国の一般的な家は、土間と呼ばれる地面と同じ高さの部分と、地面より高い所に木の板が敷かれた板の間の部分からなる。


 この家には部屋の仕切りがなく、一つの部屋しかなかったが、この国の人々はその時々に応じて部屋の使い方を変えるので、そもそも部屋をいくつも分ける必要がないのだった。

 

 魔王は女に招かれるまま、ゆっくりと土間に足を踏み入れる。


 入る前からわかっていたことだが、家の中には女一人しかいなかった。


 だが一人でここに住んでいる訳ではない。


 先程川で家人を見掛けたところからすると、皆涼みに行っているのだろう。


 この辺りの農家は豊富な木材を活かし、副業で下駄や漆器を作っている家が多いが、この家も例外ではないようだ。


 板の間には完成した下駄や作りかけの下駄、下駄作りの道具が無造作に転がっていた。


「ごめんなさいね、散らかってて。適当に座って」


 女が桶の水から西瓜を持ち上げながらそう言った。


 その拍子に軽く咳が出る。


 女の体の中まで見ることができる魔王にとって、女の体調を知ることなど造作もなく、女が夏風邪だということが手に取るようにわかった。


 だからこそ、女は一人で家に残っていたのだろう。


 風邪自体は大したことはないようだが、年老いた身で体調が万全ではない中、この猛暑の中を出掛けるのは結構な負担に違いない。

 

 魔王は竈を素通りして、土間の奥に張られた水へと歩み寄った。

 

 その中では数匹の魚が澄んだ水と水草を小さく揺らしている。


 ここに調理で出たごみや汚れた水を入れると、魚がごみを食べ、水草が汚れた水を綺麗にしてくれるのだ。


 昔からこの辺りではどの家でもずっとこうして魚を飼い、水草を育てている。


 水が豊かな土地なので、再利用せずとも水はいくらでも手に入るが、敢えて人間達が水を再利用し続けているのは水への感謝と深い信仰故だろう。

 

 知識として知ってはいたが、人々と共生してきた魚達をこれ程近くで見るのは初めてで、魔王は興味深く魚達に見入った。


 だが魚達は外の牛達と同じようにすっかり怯えてしまっていて、壁際に集まってじっとしているばかりだ。

 

 そっと水から離れた魔王が、靴を履いたまま板の間に腰を下ろすと、女は西瓜を切りながら言った。


「上がっていいのよ」

「ここで大丈夫。すぐに帰るから」

「そう?」


 女は切り分けた西瓜を皿に乗せ、魔王の前に置いた。


「どうぞ」

「頂きます」


 魔王は手に取った西瓜に齧り付いた。

 

 味覚がないので味わうことはできないが、成分を分析することはできるので、西瓜の糖度はわかる。


 人間なら甘いと感じるだろう。


 魔王が果肉を種ごと飲み下していると、女が訊いてきた。


「手紙、読ませてもらってもいいかしら?」

「読んでくれないと、何のために持って来たのかわからないよ」


 魔王がそう言うと、女は板の間に放り出されたままになっていた鋏を手に取った。


 封を切って手紙を取り出し、二つの目で静かに文字を追い始める。




  久し振りね。

  

  あなたはまだ私のことを覚えているかしら?

  

  あなたがこの手紙を読んでいる時、私はもうこの世にはいないでしょう。

  

  私は病気で、もう長くないの。

  

  すっかり弱ってしまってもう手紙も書けないけど、最後にあなたにどうしても伝えておきたいことがあって、知り合いに代筆してもらうことにしたのよ。


いきなりこんな手紙をもらって、きっとびっくりしているでしょうね。


  でも、四十年前に私が黙ってあなたの前から消えた理由を、ちゃんと説明しておきたいと思ったの。


  今更こんな話をしても、あなたはもう私のことを忘れていたり、嫌っていたりするのかも知れないけど、これは私なりのけじめだから、できれば最後まで読んでね。



  あなたも知っての通り、私は不思議な力が使えるの。


  その力のおかげで、神様と契約して、願いを叶えてもらうことができたわ。


  その時叶えてもらった私の願いは、「娘の病気が治ること」。


  だから、あの子は死なずに死んだのよ。


  あの時死ぬ筈だったあの子は他の子達と一緒に無事に大人になって、結婚して、子供もいるわ。


  でも、不治の病なんて言われる病気がいきなり治るなんて、みんなおかしいと思うでしょう?


  だから黙って消えるしかなかったのよ。


  ごめんなさいね。


  できればあなただけにはきちんと話しておきたかったけど、私が神様みたいな人と契約できることを話さずに辻褄の合う説明はできなかったから、結局何も言わないことにしたの。


  誤解しないでね、あなたを信じてなかった訳じゃないのよ。


  正直に話そうとも思ったの。


  だけど、もしあなたがどこかで口を滑らせて、それを人を人とも思わないような悪人に知られたら、私達はもう今までみたいに暮らせなくなるかも知れない。


  ああするのが一番いいと思ったの。

 

  私のしたことはきっとあなたを傷付けてしまったと思うけど、それでもあなたのことを思い出さない日はなかったわ。

  

  本当は、あなたとずっと友達でいたかった。

  

  大好きよ。

  

  自分から関係を断ち切っておいてこんなことを言うべきじゃないけど、これが今まで言えなかった私の気持ち。

  

  本当にごめんなさい。

  

  ありがとう。 

  

  さよなら。




 女の頬を一粒の涙が伝い落ちた。

 

 女から伝わる感情は喜びや悲しみが入り混じった複雑なものだったが、それでも喜びの方が大きい。


 この至ってまともそうな女があの女に人間的魅力を感じたというのは何とも信じ難い話だが、これだけの不義理をされたにも関わらず、かつての友情は変わらず胸にあるようだった。


 もうやり直すことはできなくても、あの女が手紙を託したのは、決して間違いではなかったのだろう。

 

 女は皺だらけの指先で、そっと涙を拭って言った。


「……何だか信じられないような話だけれど、ここに書いてあるのはきっと全部本当のことなのよね」

「多分」


 魔王は食べ終わった西瓜の皮を皿に戻しながらそう言った。


 手紙の内容は概ね事実だと断言できるが、自分が手紙の内容だけでなく、あの女の事情まであれこれ知っているとわかろうものなら、間違いなく不審がられるに違いない。


 女は深く息を吸い込むと、気持ちを落ち着けるように胸を押さえて続けた。


「きっと遠かったでしょうに、こんな所まで来てくれてありがとうね。あの子ってば家財道具もそのままで、旦那さん達と夜逃げ同然でいなくなってしまったから、何かあったんじゃないかってずっと心配していたのよ。でもあなたのおかげで、あの子がどこか遠くで幸せに暮らしてたんだってわかってほっとしたわ。お祖父さんにも「ありがとうございました」って、伝えてもらえるかしら?」

「うん」


 魔王は小さく頷くと、女に言われるままに魚達が泳ぐ水で西瓜の汁塗れになった手を清めた。


 魚達は相変わらず水の底に固まっていて、魔王はすぐに水から離れて言う。


「ご馳走様。もう行くよ」

「そう……あなたがどんな名前なのか、どこから来たのか、あなたのお祖父さんがどんな人なのか、いろいろ訊きたいことはあるけど、何も訊かない方がいいのよね。あの子が死ぬまで守り通した秘密に関わることだもの」

「そうだね」

「じゃあ、やっぱり知らないままでいいわ」


 あれこれ詮索されたら面倒だったが、女はあっさりとそう言った。


 賢明な判断ではないとわかっていても、感情や欲望を抑え切れずに過ちを犯す者は多いが、聡明な女なのだろう。


 本当にあの女とどうして気が合ったのか、不思議でならなかった。


「それじゃ」

「気を付けて。元気でね」


 魔王は女が開けた木戸から外に出た。






 魔王が来た道を辿り、社を囲む森から空間を跳躍して己の城の一室――神と女が待つ部屋に現出した途端、神と女が声を唱和させた。


「可愛いー!」


 二人の声を聞きながら、子供の姿のままの魔王は少なからず戸惑う。


 まさか神に「可愛い」と言われる日が来るとは思わなかった。

 

 頬擦りせんばかりの勢いで抱き付いてきた神のされるがままになりながら、魔王が少々複雑な心持ちになっていると、神は興奮冷めやらぬ様子で魔王を褒めちぎる。


「とにかく可愛い! とっても可愛いよ! 人形みたい!」


 神の言葉に、女が何か眩しい物でも見るかのように目を細めて相槌を打った。


「本当にねえ。流石の可愛さだわ。女の子みたいだけど、やっぱり男の子なのかしら? 触って確かめられないのが残念だわ」

「この痴女が。娘や孫が聞けば、さぞ嘆くだろうな」


 魔王は侮蔑の眼差しと言葉を女に投げ付けたが、女は特に堪えた様子もなく言う。


「あ、中身はやっぱりそのままなのね」

「当たり前だ」

「でも、そんな生意気なところがまた可愛いよ!」


 神は可愛くて堪らないとばかりに、更にきつく魔王を抱き締めた。


 人間であれば、骨が何本も折れた上に窒息しているところだ。


 自分の物言いを神は捻くれているとよく言うが、姿が少し変わっただけでここまで評価が変わるというのも面白いものだと魔王は思う。


 今度神の機嫌を損ねた時には、子供の姿で対処しようと密かに決意していると、女が問いかけてきた。


「ところで、あの子にはちゃんと会えたの?」

「ああ」

「私のこと、何か言ってた?」

「其方のことはずっと気に掛かっていたそうだ。其方がどこか遠くで幸せに暮らしていたことがわかって、ほっとしたと言っていたぞ。僅かだが、涙も零していたな」

「そう……良かったわ。本当にありがとう」


 女は満足そうに笑ってそう言うと、その姿を薄れさせ、程なくして完全に消滅した。


 友人に何も言えないまま死んだことだけが、女にとって唯一の心残りだったのだろう。


 その未練がなくなれば、死して尚留まろうという意志を保ち続けることはできなくなり、消えるしかない。


 神は魔王と精神を繋げると、魔王を抱き締めたまま少し寂しそうに概念で言った。


――行ってしまったね。なかなか面白い人間だったのに。

――あれは「面白い」ではなく、「品がない」と言うのだろう。

――表面ばかり取り繕って、内面が下品な者より余程いいと思うよ。朗らかで、話していて楽しかったし。

――何か余計なことを話さなかっただろうな?


 魔王が瞳の端で神を軽く睨むと、神は言った。


――大丈夫だよ。お前との馴れ初めとか、そんな在り来たりのことしか話していないから。まあ、夜はどうなのか訊かれたりもしたけれど、そこは適当に誤魔化しておいたし。

――あの女……やはり消滅する前に消し飛ばしておくべきだったな。


 せめて墓だけでも木っ端微塵にしてやりたい。


 魔王は時間と空間を超えて、あの女の墓の場所を調べた。


 自分のような肉体の束縛を脱している者にとっては容易いことだ。


 だが女は死んでからそれ程時間が経っていないため、まだ埋葬はされていないことがわかる。


 それならばと死体を吹き飛ばそうとしたところで、神がやんわりと止めた。


――やめておこうよ。別に悪気はなかったのだから。

――悪意さえなければ、何をしても許されるというものでもないだろうが。

――だからと言って、死者の体を吹き飛ばそうとするのはどうかと思うよ。お前が何もしなくてもいずれは消えてしまうのだから、それでいいだろう。

――自然に消えるより、己の手で消した方が溜飲が下がるというものだ。

――お前のそういうところは、私にはどうにも理解できないし、理解したくもないよ。

――だろうな。もしも理解できたなら、其方は最早其方ではないのだろう。其方はそれでいい。


 どうにも面白くなかったが、魔王は仕方なく女の死体をそのままにしておくことにした。

 

 時々本当に苛立つこともあるが、誰かを傷付けることを良しとせず、見ず知らずの者に当然のように手を差し伸べようとしたりする神だからこそ、自分はこうして側にいるし、不興を買いたくないと思うのだろう。

 

 神は白い瞳を一際優しく和ませると、静かに言った。


――ねえ、お前にとって、今回のことは不本意なことだったのだろうけれど、何だかんだと文句を言ってもお前ができるだけ私の望みを叶えてくれる優しいところは気に入っているし、感謝もしているよ。

――知っている。


 こうして心を触れ合わせれば容易くわかることだ。


 だがそれをこうして明確に伝達する意思を持って伝えられるのは、やはり嬉しい。


 神は小さく笑って言った。


――我儘ついでに、私としてはもうしばらくお前にこのままの姿でいて欲しいのだけれど。

――構わぬぞ。

――じゃあ、もう一つ我儘を聞いてくれる?

――何だ?

――「お姉ちゃん」って呼んでみて。


 少し体を離した神が期待に満ちた瞳を魔王に向けた。


 姉と呼ばれることの何がそんなに嬉しいのだろうか。


 疑問には思ったが、理由など別に知りたくもないので、敢えて思考を読むことなく、魔王は言われた通りに神を呼んだ。


――……お姉ちゃん。


 特に何の感情も篭っていない概念が伝達された筈だが、神は狂喜して魔王を抱く腕に力を込めた。


――やっぱり可愛いーっ! ねえ、少し遅くなってしまったけれど、お前に聞いてもらいたいことがたくさんあるんだ!!

――ああ、聞こう。


 魔王は神の背を抱き返してそう言った。






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