二つ目の世界
ご注意下さい!!
ややグロテスクな表現が少しだけ出てきます。
大丈夫という方のみ本編へどうぞ。
世界の外側に聳える、巨大な黒水晶の城。
神はその最も奥深くに設えられた魔王の居室の前で足を止めた。
だがそこにあるのは扉ではなく、巨大な壁。
この城全てが魔王の一部である上に、魔王は空間を転移して移動できるため、わざわざ扉を創る必要がないのだ。
ましてやあまり配下達と関わりたがらない魔王にとっては、双方向から開けられる扉など尚のこと不要な物でしかなかった。
神が壁に手を付くと、こちらに気付いた魔王に空間を超越させられ、部屋の中へと招き入れられる。
現出した魔王の居室は虚ろが支配する場所だ。
自然界に存在する物質は何一つなく、空気すらもない。
ただ「何もない」という状態だけが存在していた。
この部屋を満たす虚ろもやはり魔王の一部で、そこに浮かぶ魔王は何をするでもなく、その長い足を組んで虚空に腰掛けている。
圧倒的で力強さすら感じる雄々しい美貌。
白い肌に落ちかかる、鮮やかなまでに美しい漆黒の長い髪。
髪と同じ色の怜悧さを湛えた瞳。
銀細工と紫の石に飾られた漆黒の長衣に覆われた背中には、黒く立派な二枚の羽があった。
特に辛そうな素振りは見せていないが、今魔王の力は半分程に減っている。
世界の内側に行っていたか、或いは世界の内側の様子を見ていたのだろう。
海より豊かな魔王の力がここまで減少するなど、他の要因はまず考えられない。
神は虚空を踏み締めて魔王と向き合うと、魔王と精神を繋げて概念で語り掛けた。
――ちょっといい?
――構わぬぞ。どうかしたのか?
――別に、何でもないよ。ただ顔を見に来ただけ。
神はそう言いながら白い両手でそっと魔王の頬を包み込むと、真っ向から魔王と見つめ合う。
魔王は日がな一日宝石を眺めて過ごすことも珍しくないが、自分にとってずっと眺めていたいと思えるのは魔王だった。
力を多少失ったところでその美貌に陰りが出ることはないものの、力が十全である時と比べると、やや眼差しに力がない気がする。
――ねえ、大丈夫?
――ああ。偵察を兼ねて、世界の内側に行っていただけだ。
神は表情を曇らせた。
最初に生まれた世界の内側にある魔王の領土は、これまでに幾度か人間の侵攻を受けている。
幸い人間の国とは地続きではないため、船での移動中に敵の接近を察知して撃退できているが、そうでなければ配下達に犠牲が出るのは避けられなかっただろう。
自分も魔王も世界の内側に干渉すれば力が失われてしまうため、絶えず領土を監視し続けることはできないのだ。
力の回復には世界の内側に干渉した時間以上の時間が掛かるため、交代で監視すればどうにかなるというものでもなかった。
――私だって世界の内側の様子を見るくらいのことはできるのだから、そんなに頑張らなくていいんだよ?
――だが、もし配下の者が命を落とせば、其方は悲しむだろう。
――……うん。
否定して魔王の負担を軽くしてあげたくはあったが、神は違うとは言えなかった。
嘘になってしまうし、精神を繋げた魔王には嘘など通じない。
――あまり、無理はしないでね。
――安心しろ。我はそこまで勤労意欲に溢れてはいない。
――そうだね、どちらかと言うと怠け者かも。
からかいの響きを帯びた概念に気分を害するでもなく唇に笑みを刷いた魔王に、神も瞳を笑ませる。
交わす微笑みが嬉しかった。
魔王の居室の近くに設けられた神の居室は、一人で使うには明らかに広過ぎる広さだった。
一面黒水晶でできた部屋は天井がとても高く、大立ち回りも余裕でできるだろう。
黒水晶の丸いテーブルと数脚の椅子だけはあるが、肉体がないおかげで基本的に調度品を置く必要がないため、只でさえ広い部屋が尚の事広かった。
その広い壁には、神と魔王以外には見えない、異なる世界へと繋がる扉が並んでいる。
その部屋に戻った神は椅子に腰掛けると、この世界の外側の半分を構成する自身の中に二つ目に生まれた世界へと繋がる扉を創り、己の端末を世界の内側へ差し入れた。
感覚器官による知覚の限界がないため、様々な波長の光や素粒子まで、知覚したい範囲に存在するあらゆる物の膨大な情報が流れ込んでくる。
同時に存在を引き千切られるような苦痛に苛まれ、力がかなりの速さで失われ始めた。
自分は本来世界の内側に在るべき存在ではないため、世界の内側に干渉しようとすると、どうしてもこうなってしまう。
魔王のように力を細かく使えたなら、わざわざ扉を創るなどという手間を掛けずに世界の内側の様子を知ることができるのだが、自分の場合は一度力を発現させるだけで星をも砕いてしまうので、極力力を使わないようにしていた。
神は世界の内側に差し入れた端末の知覚範囲を広げると、大陸の赤道以北に位置する、とある地域の情報を得ていく。
季節は冬。
内陸の盆地ではあるが、山脈が北からの寒気を遮り、曇天が続くために熱があまり逃げないので、霜が降りる程気温は下がらない。
辺りは一面霧に覆われていても、全ての事物を有りのままに知覚できる自分には、緑豊かな森や緩やかに流れる大きな川がはっきりと見えていた。
肉体と力半々から成る、獣であるともそうでないとも言い切れない者達の姿もだ。
彼等は獣と大差ない姿で、四つ足で歩くこともしばしばだった。
知能がそれ程発達していないので、複雑な言語は話せないし、火を使うこともできない。
ただ、獲物を狩る時に持っている力を使うことができるおかげで、割合楽に狩りができていた。
いずれ最初にできた世界の配下達と同じように知能が高くなり、彼等に近い姿になるだろうが、それまでにはかなりの時間が掛かるだろう。
一方、この世界の人間は既に獣とは異なる存在になりつつあった。
獣から脱し始めた時期は人ならざる者達とほとんど変わらなかったが、人間は代替わりが早いこともあり、人ならざる者達より早い進化を続けている。
今はまだ人間と人ならざる者達とが接触したことはないが、同じ大陸の中にいる以上、いずれ邂逅するだろう。
最初に生まれた世界で、彼等が邂逅したように。
現に、冬になって食べ物が手に入りにくくなった人間達の一部が人ならざる者達の集落の方へ移動しつつあった。
人ならざる者達は半分しか肉体がないため、肉体を維持するための食事をそれ程頻繁に摂る必要がなく、食べ物を求めて移動することはなかったが、このままだと近い内に接触するかも知れない。
そうなれば、やはり殺し合いになるのだろうか。
その時、自分はどうするだろう。
何かできるだろうか。
とてもそうは思えなかった。
最初に生まれた世界の配下達に迎え入れられてから千年余りが経っても、自分は未だに配下達を守るために魔王に人間を殺させ続けている。
そう頼んだことこそなかったが、魔王は配下達を守りたいと思いつつも人間を殺すことができない自分の代わりに人間を殺し続けているのだから、自分がやらせているも同然だった。
これ以上、魔王に頼る訳には行かない。
永遠にも等しい時を生きる中で今の配下達と触れ合っていられるのはほんの一時だけだが、これ以上欲張って他の世界の者達と深く関わるような真似はすべきではなかった。
もう様子を見るのはやめるべきだろう。
きっと辛くなるばかりだ。
神は世界の内側に差し入れた端末を、そっと引き抜いた。
数日後。
神は居室で椅子に腰掛けたまま、一人悶々としていた。
もう見ないと決めたのに、二つ目の世界に住まう人ならざる者達のことが気になって仕方がない。
あれから彼等はどうなったのだろう。
無事でいるだろうか。
確かめたかったが、しかし彼等の現状を知ることを怖いとも思った。
誰かが命を落としてしまったかも知れないし、それを知ってしまったら自分は魔王に縋ってしまうかも知れない。
それがとても怖かった。
だがどうしても気になって、ただほんの少し様子を見るだけだと自分に言い聞かせながら、神は恐る恐る世界の外側の半分を構成する自らの端末を二つ目の世界に差し入れる。
人ならざる者達は、揃って食事をしていた。
ばらばらになった死体に群がり、血を滴らせる肉を豪快に喰い千切っては咀嚼して、飲み下していく。
彼等の個体数が減っていないことに神は安堵したが、人ならざる者達が食べているものが人間であることに気付くと、ぞっとせずにはいられなかった。
死体が苦手なのは勿論だが、それ以上にあの人間達を殺したのが彼等ではないかも知れないという疑念を感じたことが恐ろしかった。
もし彼等が人間達と接敵したのであれば、誰一人として傷を負ってはいないというのはおかしいだろう。
人間は力を使えなくても、武器を使う。
最初に生まれた世界の配下達なら自分で傷を塞ぐ程度のことは誰でも出来るが、この世界の者達はまだあまり上手く力を使いこなせてはいないのだから。
肉体に縛られないおかげで時空を超えて知りたい情報を得ることができるため、その気になれば何があったかすぐに確かめることができるが、神は敢えてそうしなかった。
そうする必要性を感じない程、確信に近いものを感じていた。
とにかく魔王と話がしたい。
神は端末を世界の内側から引き抜くと席を立ち、ドレスの長い裾を波立たせながら足早に居室を後にした。
意識を研ぎ澄ませれば、魔王の居所はすぐにわかる。
この城を含めた空間全てが魔王そのものではあるが、力を司る主体たる精神のいる場所は一つしかなかった。
魔王は居室にいて、神は程無くして居室の前に差し掛かると、足を止める間も惜しんで壁に手を付いた。
魔王に部屋の中に招き入れられると、中には珍しく空気が通っている。
魔王が煙管をふかしているのだ。
蝶の銀細工に飾られた漆黒の煙管を手に、優雅に虚空に腰掛けた魔王は長い足を組んで、その形良く整った唇から煙を吐いている。
いつ見ても魔王は本当に美しかったが、今ばかりは心が浮き立つこともなく、神は魔王と精神を繋げて概念で問いかけた。
――……ねえ、二つ目の世界で、あの子達を守るために人間を殺したよね?
――ああ。
特に何の感情も篭らない魔王の答えが、神の心を深く抉った。
わかっていても、やはり心が痛い。
――どうして、そんなことを……。
――其方があの者達のことを気に掛けていたようだったからな。
あの時と同じだと、神は思った。
最初に生まれたあの世界で、魔王が皆を助けてくれたあの時と同じことを、また繰り返してしまった。
決して繰り返してはいけなかったのに。
きちんと「もう二度とあんなことはしないで欲しい」と言っておくべきだった。
だがもし言っていたとしても、魔王ならこうしたかも知れない。
魔王は優しいから。
そしてその優しさに、自分は甘えてばかりいる。
自分達はこの先もずっとこうして同じことを繰り返していくのだろうか。
いつか遠い遠い未来に滅びるその時まで、ずっと。
――……お前は、この先もずっと私の我儘に付き合ってくれるつもりなの?
――気が向く限りはな。
――でも、それではお前が……。
神の言葉を遮って、魔王は言った。
――我はただ、自分がしたいようにしているだけだ。其方が悲しんだり苦しんだりするところは、できる限り見たくないのでな。この先干渉する世界が増えて行けば、配下達を今のように守り切ることはできなくなるだろうが、できる限りのことはするつもりだ。其方が罪悪感を感じる必要はない。
そう言われても、神は心の奥底から湧き上がってくる罪悪感や悲しみをどうすることもできなかった。
魔王の優しさは、心がとても痛くなる。
魔王自身が痛みを少しも感じていないからこそ、余計に心が痛んで仕方がなかった。
自分の痛みや悲しみが魔王に伝わって、魔王の心が悲しみに沈み始めるのがわかる。
悲しませたくなどないのに。
魔王の望む通り、ただ無邪気に喜ぶことができたらどんなにいいだろう。
だがそれはできなくて、神は魔王を強く抱き締めて言った。
――……ありがとう。
申し訳ないという思いと同じくらい、魔王の優しさが嬉しかった。
嫌われてしまってもおかしくないのに、魔王は自分を嫌うどころかずっと側にいて、自分の願いを叶えてくれている。
千年前から、それ以上前からずっと変わらずに、こんな自分のことを大切に想い続けてくれていることが本当に嬉しかった。
空いている手で優しく背中を抱き返してくる魔王に、神は言う。
――後で、あの子達に会いに行ってみるよ。
――ああ、そうするといい。
――うん、本当にありがとう。
神は魔王を抱き締める腕に力を込める。
いつか、自分も魔王のために何かしてあげられたらいいと、そう思った。