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その手に取るもの  作者: 佳景(かけい)
3/22

散策

 人間が治める北方のとある国には、琥珀の産地と繋がる河川の河口にあることから、琥珀を運搬する経由地の一つとして十年程前から栄えている土地があった。


 塩やワインを運ぶ街道が近くを通るようになったことも手伝って、その市場はなかなかに規模が大きく、市が立つ日には近隣のみならず遠方からも商隊が訪れるようになりつつある。

 

 質の良い品が多く集まるので、買い物をするには打って付けだろう。

 

 市の近くの森――木の陰に現出した魔王は、何食わぬ顔で森を抜けると街道に出た。

 

 流石にいつもの姿では騒ぎになるので、今は人間の姿だ。


 元々人間と似たような姿をしているので、背中の黒い羽を消し、鉤爪めいた黒い爪を短くして肌の色に馴染ませ、細い瞳孔を丸くして黒い虹彩を茶色にしさえすれば、十分人間に紛れることができる。


 ここは自身の領土からそれ程遠くない北の土地であるため、目立たないように白い肌の色を変える必要はなかったが、腰より長い黒髪はそのままという訳には行かなかった。


 色は問題ないが、些か長過ぎる。


 女はともかく男は髪を短くするのが一般的なので、今は耳も隠れない程度の長さにしていた。


 裾に銀の刺繍が施された腿丈の紫の上着と、同じ色の下衣。


 身を包む白い毛皮の外套を留めているのは、紫水晶の蝶のブローチだ。


 靴は底が平らな革靴で、普段履いている少し踵の高い長靴とは勝手が違って、幾分歩き辛かった。

 

 馬車が行き違える程の広さはあるものの、舗装もされていない街道は轍を抜きにしても平坦とは言い難く、所々雑草が生えていたりもするので尚更だ。


 もっと街道を整備すれば流通は更に盛んになるだろうが、今この国には形ばかりの王がいるだけで、あちこちの領主が各自の裁量で領地を統治し、街道を管理している。


 そのため街道をまともに整備し続けることは難しく、流通の道が変わることなどそう珍しくもない。


 つい数年前までこの街道も主立った流通に使われてはいなかったのだが、それまで使われていた街道で賊の襲撃が相次いだことで、この街道が使われるようになっていた。

 

 配下達は人間と没交渉なので、本来ならその王である自分がここまで細かい情報を得るのは難しいが、自分はこの世界の理から外れた存在だ。


 この世界の住人ではなく、無限の存在に近い自分にとって、現在と過去のあらゆる事象を瞬時に把握することなど造作もなかった。


 完全に無限の存在という訳ではないため、流石に未来の事象までは知ることはできないが。

 

 世界の外側に生まれ落ちた者がこうして世界の内側にいることは、それだけで存在が歪むような苦痛を伴い、力を失うことではあったが、一人きりで居室に篭っているよりは多少痛い思いをしてもこちらにいた方が面白かった。


 自分と神の二人で構成する世界の外側は、今でこそ配下達がいて黒水晶の城があるものの、元々は互い以外には何もない虚ろな場所なのだ。

 

 だがこちらは違う。

 

 大気が流れ、分子の間に働く力から物体が星に引かれていくそれまで多くの力に溢れ、大小様々な存在が生まれては消えて、得られる情報が目まぐるしく書き換わっていく。


 今の知覚範囲は地平線の辺りまでだが、知覚範囲内にあるどれ程微小な物でも音でも認識できる自分にとって、こちらの情報は世界の外側とは比較にならない程豊富だった。


 おかげで、いるだけで退屈しなくていい。


 こうして人間の領土を訪れるのは初めてだったが、せっかく姿形を持つようになったのだから、戯れに人間の真似事をしてみるのも悪くなかった。

 

 神は最近、配下達を構ってばかりでつまらない。

 

 魔王は埃っぽい道を、周りを歩く人々を避けながら優雅な足運びで歩いていく。


 初夏の日差しは少しきつく、人間にとっては暑いのだろう。


 袖を捲ったり、汗を拭ったりしている者が多かった。


 まだ市が開いて間もないため、徒歩の者もそうでない者も市を目指す者が大半で、逆方向に向かう者はほとんどいない。

 

 村の境界を示すために並べられている石を越えると、辺りには葡萄や麦の畑が広がっていた。


 村は大きく、木造の家が多く並んでいる。


 その中心地には『神の家』と呼び習わされる宗教施設が聳えていた。


 赤い屋根を戴いたその建物は、石造りの二階建てだ。


 窓は小さく、幅が広くて奥行きは浅い。


 建築技術がまだあまり発達していないため、取り立てて美しさは感じないが、木造の家々と比べれば遥かに立派な建物だった。

 

 その『神の家』の中では、黄色の聖職服を纏った『神の僕』達が杖を手に、水の神に対する感謝の儀を行っている最中だ。


 この土地では自然崇拝の宗教が信仰されていて、今日は水の神に感謝を捧げる日と定められている。


 近隣から多くの人間達が集まるため、定期市はこの手の儀式の日に合わせて行われるのが常であり、『神の家』が建つ広場には遍歴商人達の露店が犇めいていた。


 それらの店には琥珀は勿論、織物やワインなど様々な商品が並んでいて、商人達のはきはきとした声があちこちで飛び交っている。

 

 天気の良さも手伝って人出は多く、歩く度に誰かしらに体が触れるような有り様だったが、周囲の人間より頭一つ分は背が高い魔王はかなり目立っていた。


 すれ違った後まで追いかけてくる視線はいくつもあるものの、さして気にはならない。


 王として配下達の前に出る時と違って、移動して視線を振り切ることができる分ずっと良かった。


「なあ、あんた」


 若い男の声に呼ばれて、魔王は足を止めた。


 使ったことのない言語ではあるが、こちらに来るに当たって一般常識や言語など必要な知識は一通り揃えていたので、意味はきちんと理解できる。

 

 魔王が振り返ると、そこには十五、六歳程度の少年がいた。


 少年と言っても、現在この国の人間の平均寿命は三十歳前後なので、周囲の人間からはもう一人前の男として扱われていることだろう。

 

 鳶色の髪と瞳の、人は良さそうだがあまり物を考えたことがなさそうなその男は、質素だが決して粗末ではない膝丈まである上着と下衣とを身に着けていた。


 言葉の訛りからして、この辺りの者ではなさそうだ。


 恐らくは商隊の一員なのだろう。

 

 精神体である魔王には、同じ領域にある感情は特に意識しなくても自然と感じ取ることができる。


 男から伝わる感情はひどく高揚していて、しかも恋愛感情が混じっていた。


 用件は大体見当が付いたが、魔王がとりあえず男の言葉を待っていると、男は辺りに響き渡るような大声で言う。


「俺と結婚してくれ!」


 口説かれるくらいのことは予想していたが、流石に見ず知らずの男から突然求婚されるとは思わなかった。


 しかも周囲にこれ程多くの人間がいる場所で、大声でだ。


 余程の馬鹿か、でなければ相当な大物に違いない。

 

 魔王は集まってきた好奇の視線に些かうんざりしながら、呆れて言った。


「……この辺りでは同性同士の婚姻は認められていない上に、相手は親が決めるのが一般的だと思ったが? そもそも、我は既に妻がいる身だ」

「え!? あんた、結婚してんの!? そっかー……そうだよなー。そんだけ綺麗で色気もあるんだから、その年まで放っとかれる訳ねえよなー」


 男はうんうんと何度も頷いて、ひどく納得した様子だった。

 

 今までこの姿を「美しい」と言われたことはあったが、「色気がある」と言われたのは初めてで、魔王は自分がそんな風に見えていたことに少し驚く。


 色気という言葉が性的魅力を指すことは知識として知ってはいるが、しかし男の姿をしてはいても男ではない自分は、誰に対しても性的な魅力を感じることがない。


 自分が感じることができないものを持っていると言われても、よくわからなかった。

 

 一体どの辺に色気とやらを感じるのだろうと魔王が疑問に思っていると、男が軽い口調で言う。


「じゃあ、さっきの求婚ちょっと変えるわ。奥さん捨てて、俺と駆け落ちしてくれ」

「断る」


 魔王がにべもなく男の申し出を却下すると、男は途端に悲壮な顔付きになった。


「何の迷いもねえのかよ! 綺麗な顔して非情過ぎだろ! せめて一瞬くらい悩んでくれよ!」

「見ず知らずの相手に駆け落ちを持ち掛けられて、悩む必要がどこにある?」

「それでも悩んで欲しいんだよ! あんたを見た瞬間、何つーかこう……一生に一度しか拝めないお宝に出会ったみたいな、「こいつを逃しちゃいけねえ」って感じがすっげえしたんだ!」


 容姿が余程好みだったのか、或いは無意識にこちらが稀有な存在であることを感じ取っているのかは判然としなかったが、後者だとするなら意外と感覚は鋭いようだった。


 いずれにしろ、お世辞にも利口とは言い難い言動だが。

 

 魔王はあくまで冷ややかに言った。


「只の錯覚だろう」

「いやいやいや! そんなことねえって! あんた、間違いなく絶世の美人だぞ! 男だけど!」

「いい加減にあきらめろ。何と言われても、其方と駆け落ちするつもりはない」

「だから、あんた結論出すの早過ぎなんだって! 一度寝てみてから決めてもいいだろ!? 案外体の相性いいかも知れねえし!」


 伝わる感情から悪意がないのは理解できたが、気を許していない相手にこんなことを言われるのは不快だった。


 喧しいし、一思いに殺してしまおうかと魔王は思う。


 武器の類を使えば騒ぎになって、買い物どころではなくなるだろうが、自分にとっては体の内側を直接攻撃することなど造作もない。


 殺さなくてもいい人間を殺したとあっては、後で神がうるさいだろうが、このままこの男に付き纏われていたら満足に買い物もできそうになかった。

 

 魔王が力を発現させようとした正にその時、十歳くらいの少女が魔王と男の間に割って入ってくる。


「もう! お兄ちゃんったら、何してるの!?」


 背の半ばまで伸ばした少女の髪は男と同じ鳶色で、瞳の色は緑がかっている。


 目鼻立ちは男に似通っていて、一目で男の妹だとわかったが、男より余程利発そうに見えた。


 子供服という物は存在しないので、ベルトで裾を絞って服の長さを調節している。

 

 少女はこれでもかと怒りを込めた大きな瞳を男に向けて怒鳴った。


「お兄ちゃんの馬鹿! どうせまたしつこく付き纏ってたんでしょ! みっともないからやめてよ! そのお兄さんだって困ってるじゃない!」

「みっともないだあ!? 俺は誰にも恥じるような真似なんかしてねえぞ!」

「そういうところがみっともないって言うの! 全くもう、店番もしないで! そんなだから、お父さん達にろくでなしなんて言われるのよ!」


 兄妹の年齢差は五歳程あるようだが、会話の内容からするととてもそうは思えなかった。


 精神年齢と実年齢が見事に反比例している。


 これが実の兄では、この少女も相当苦労しているに違いない。

 

 魔王が少なからず少女に同情を覚えていると、男は大きく手を振って少女を追い払う仕草をしながら邪険に言った。


「うっせえな! あっち行ってろ! こっちは大人の話をしてんだよ!」

「子供で悪かったわね! どうせ店番もしないんだし、大人だって言うんなら一緒に遊んでよ! おいかけっこがいい!」

「何でそうなるんだよ!?」

「大人は子供の相手をするものでしょ! ほら、早くして! 早くったら!」


 少女が男の服を引っ張ってせがむと、男は露骨に嫌な顔をした。


「あーもう! 付き合ってられっかよ!」


 男は少女の手を荒っぽく振り払うと、未練がましく何度も魔王を振り返りながら退散して行った。


 もう殺す以外に引き剥がす方法はないと思っていたが、離れたなら敢えて殺す必要もないだろう。


 なかなか兄孝行な少女だった。

 

 少女は男の背中に向かって思い切り舌を出してから、再び歩き始めた魔王の隣に並ぶと、自分の身長より遥か上にある魔王の顔を見上げて少し申し訳無さそうに言った。


「ごめんね、お兄さん。ウチのお兄ちゃんが馬鹿なせいで、迷惑掛けちゃったみたいで」


 少女は少し得意げな面持ちになって続けた。


「でも上手く追い払えたでしょ? お兄ちゃん、私が遊んで欲しいって言うと、いつもああやって逃げて行っちゃうから」

「年の割に、なかなか機転が利くようだな」

「『きてんがきく』って何?」


 少女は小さく首を傾げて見せた。


 大人びた口を利いても、やはり子供は子供だ。


 魔王はくすりと笑みを漏らしてから、子供でも理解し易い言葉に言い直す。


「頭がよく回るということだ」

「つまり、褒めてくれてるのね。ありがとう。私は……」


 少女は名を名乗ろうとしたようだが、喉元まで出掛かったそれを飲み込んで言った。


「やっぱりやめておくわ。お兄さんの名前も訊かない。お兄さん、お貴族様でしょ?」

「そんなところだ」

「当たりね。お兄さん、身なりもいいし、育ちも良さそうだもん。お貴族様がお供も連れずに一人でこんな所を歩いてるなんて変だけど、きっとお忍びなんだから、本当の名前は答え辛いわよね。だから名前は言わなくていいわ。私も言わなければ、おあいこだもんね」


 この年でこんな気遣いまでできるとは、本当に気の回る少女だと、魔王は素直に感心した。


 とてもあの男の妹とは思えない。


 この少女はこれ程きちんと育っているのに、親はどうしてあの男の育て方だけあれ程深刻に誤ったのだろう。


 子育てというものは実に奥深いものだ。


「ねえ、お兄さんって恋人や奥さんはいるの?」

「ああ、最近婚礼の儀を行ったばかりだ」

「何だ、ざーんねん。お兄さん綺麗だから、私がお嫁さんになってあげたかったのに」


 どうやら少女があの男を追い払ってもまだ纏わり付いて来るのは、それが理由のようだった。


 一応兄妹だけあって、似ているのは容姿ばかりではないらしい。


 基本的に子供は嫌いではないので、付いて来たいのなら買い物を済ませる間側にいる分には構わなかったが。

 

 少女は魔王と並んで歩きながら、好奇心を隠そうともせず、子供らしい無邪気さで訊いてくる。


「奥さんってどんな人? 綺麗?」

「そうだな。非の打ち所のない美しさだぞ」

「お兄さんも綺麗だし、きっとお似合いなのね。そうじゃないと、お兄さんみたいな綺麗な旦那さんと結婚するのは不幸だわ。絶対奥さんの方が不細工呼ばわりされるもん。特に女は女に厳しいのよ」

 

 少女は幼さに似合わない重々しい調子で、最後の一言を口にした。

 

 恐らく母親の言葉を真似ているのだろうが、よく覚えているものだ。


 しかも使いどころがきちんと合っている。


 こうして見ず知らずの他人のことを詮索しようとするのも、もしかしたら母親を真似ているからなのかも知れなかった。


「奥さんとはどこでどんな風に出会ったの?」

「出会ったも何も、兄弟同然に育った幼馴染みのようなものだからな。気付いた時にはそこにいたのだ」

「ふーん。奥さんって、いい人?」

「性格は至って穏やかだぞ。厄介事に首を突っ込みたがるのは、あまり感心しないがな」

「それってお人好しってやつ? それともウチのお兄ちゃんみたいに頭が悪いの?」

「お人好しの方だ」

「何だかどっちにしろ大変そうね。お兄さんはその人のこと、ちゃんと好きなの?」

「……別段、嫌ってはいないつもりだが」


 魔王は少し考えてからそう答えた。


 今まで神が側にいるのが当たり前過ぎて、好きだの嫌いだのといったことについてほとんど考えたことはなかったが、嫌っていたらあれ程長く側にいられなかっただろう。


 嫌っていないどころか、好意を抱いていると言ってもいい筈だった。


 敢えて言葉にするのは少し抵抗があるので、言わなかったが。


「お兄さんって、心が広いのね」

「そうか?」

「そうよ。普通だったら、そんな面倒臭い人にはなかなか付き合い切れないもん。嫌いになっちゃってもおかしくないわ。奥さんはお兄さんと結婚できて、世界一幸せね」


 神が世界一幸福であるかどうかはともかく、自分が『普通』ではないからこそ神に付き合っていられるというのは事実だろうと魔王は思う。


 もしも『普通』だったなら、自分の生涯を少なからず神のために使うことは不可能ではないにしろ難しかっただろうし、配下達を一人も人間との争いで死なせたくないという神の願いを叶えることもできなかっただろう。


 その分余計な苦労を背負い込む羽目になっている訳で、自分にとって喜ばしいことなのかそうでないのかよくわからないが。

 

 これ以上考えるのはやめておこう。

 

 あまり愉快でない結論に辿り着きそうだ。

 

 魔王はこの市の中で最も質のいいワインを扱っている露店の前で足を止めた。


 地面に広げた布の上には、ワイン樽の他に林檎等の果物や木の実も並んでいる。


「最も上等な赤ワインを一樽、それと林檎を一つもらおうか」


 魔王は店の主らしき男の一人にそう声を掛けると、親指の爪程の大きさのルビーを差し出す。


 趣味で蒐集した物の一つだが、特に思い入れがある訳でもないし、手放してしまっても一向に構わなかった。

 

 貨幣自体は存在していても、広く使われる程信頼性のあるそれはまだ存在していないため、物々交換は広く行われている。


「支払いはこれで十分か?」

「失礼。拝見しますよ」


 男はルビーを受け取ると、虫眼鏡で内部を観察し、秤で重さを計ってから言った。


「本物のようですし、質もいいようですが、これ一つでは少々不足かと」


 そう答えた男は明確な悪意を垂れ流していて、魔王は男が自分を騙そうとしていることを悟った。


 否、騙すというのは語弊があるだろう。


 物々交換はそもそも何を以って等価と判断するかの明確な基準がないので、取引の成立の可否は双方が合意できるかどうかで決まる。


 だが悪意があるということは、この男にとっての対価以上の物を掠め取ろうとしているに違いなかった。

 

 少々高額な買い物をするので、不審に思われないようにそれなりの身なりで来たのだが、失敗だったかも知れない。


 大抵の貴族は自らの権威が及ぶ範囲でその身分に相応しい敬意を受けられるように、紋章を身に着けているのが常だ。


 それを身に着けていないことで、恐らく外国人と判断されたのだろう。


 たとえ貴族であろうと、外国人に対してぞんざいな扱いをする商人は多い。


 この男もそうした商人の一人のようだった。

 

 別に宝石が惜しい訳ではないが、不誠実な真似をしようとする者を利するような真似をするのも面白くない。

 

 魔王はおもむろに店に並べられていた赤い林檎を一つ手に取った。


 すっぽり手の平に収まる程度の小さなそれを握り込むと、涼しい顔で握り潰す。


 林檎をその芯だけを残して一瞬で果汁に変えた力を目の当たりにして、男達と娘の顔が引き攣った。


 魔王は手を開くと、これ見よがしに林檎の残骸を捨てながら言う。


「我としても商品に対して対価を支払うのは吝かではないのだが、それはあくまで適正と判ずる時だけだ。其方の要求は些か過大だと思うのだが」

「お、おっしゃる通りで……」

「では、今し方握り潰した林檎を含めて、ワイン一樽と林檎二つで商談成立だな」


 魔王はそう言うと、林檎を一つ拾い上げ、気に入ったワイン樽を軽々と担ぎ上げて、悠々とその場を後にした。


 少女は呆気に取られた様子で魔王の背中を見ていたが、すぐに我に返って追い付いて来る。


「びっくりしちゃった! お兄さん、とっても力持ちなのね!」

「まあな」


 その気になればダイヤモンドでも握り砕けるので、やって見せたら更に驚くこと請け合いだったが、それはやらない方がいいだろう。


 あまりに人間離れし過ぎていて、流石に誤魔化しが利かない。

 

 魔王は少し屈むと、手にした林檎を娘に差し出して言った。


「これは其方にやろう」

「え、いいの?」

「ああ、其方の兄を追い払ってくれた礼だ」

「真面目なのね、お兄さん。どうもありがとう」


 少女は小さな両手でしっかりと林檎を受け取ると、早速一口齧った。


「美味しい」


 少女がにっこり笑ってそう言った途端、上から聞き覚えのある大きな声が降ってきた。


「おい! そこの黒髪の美人のあんた!」

「え!? お兄ちゃん!?」


 ぎょっとして兄の姿を探し始める少女に、魔王は『神の家』の屋根に上がった男を真っ直ぐに指差してその居場所を教えてやる。


「あそこだ」


 屋根の上に立つ男は何やら決意漲る面持ちで、そういう顔をしていると先程より少しは賢そうに見えた。


 やっていることは馬鹿そのものだったが。

 

 男が別人に向かって呼び掛けていたらいいと魔王は思ったが、視線が見事にかち合ってしまったところからして、やはり自分に向かって話していると判断せざるを得ない。

 

 少女が男に視線を向けると同時に、男がまた大声で言った。


「あんたにもう一度言う! 俺と駆け落ちしてくれ! でなけりゃ、俺は今すぐこっから飛び降りる!」


 男の言動があまりに無茶苦茶過ぎて、魔王は全く訳がわからなかった。


 今日初めて会ったばかりの相手を自分の命を盾に脅迫しておいて、本気で好かれると思っているとしたら全く救いようがなかったが、思っていなければこんな馬鹿馬鹿しい真似はとてもできないだろう。


 つい先程袖にしたばかりだというのに。


 どうやら物覚えの悪さに加えて、理解力が致命的に低いようだ。


 体の方がまだ賢いかも知れない。


「ああ、もう嫌……何でなの……馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど、まさかここまで馬鹿だなんて……」


 少女がそれはそれは悲しそうに独りごちていると、どうやら家族や商隊の仲間らしい男達が大きな絨毯を持って慌てて『神の家』の前に駆け付けてきた。


 男が飛び降りたら受け止めるつもりらしい。

 

 男達がいそいそと絨毯を広げる中、少女は魔王に言った。


「お兄さん、あんなの無視しちゃっていいからね。もし本当にお兄ちゃんが飛び降りちゃってもお父さん達が受け止めてくれると思うし、失敗してお兄ちゃんが死んじゃってもお兄ちゃんが馬鹿なだけでお兄さんは悪くないんだから」


 たとえどれ程の愚か者であっても、身内と言うだけで切り捨てることは容易ではないだろうが、実によくできた少女だった。


 このままあの男が飛び降りて死んだ方が、この少女にとっては幸せな気がする。


 自分にはその気が全くないことであるし、もし飛び降りて死ななかったら、今度こそ殺してしまってもいいかも知れなかった。

 

 魔王がそんなことを考えていると、男がまた声を張り上げる。


「俺、本当に飛び降りるからな! 十数える間にいい返事を聞かせてくれ!」


 男は言いたいだけ言うと、ゆっくりと数を数え始める。


 そういうことを意向も訊かずに一方的に決められても甚だ迷惑なのだが、魔王は敢えて黙っていた。


 話を聞かないも同然の手合いには何を言っても無駄だろう。


 本人の望む通りにさせておくしかない。

 

 男は程無くして十まで数え終えたが、勿論魔王は沈黙を守ったままだった。


 とても付き合い切れない。


 これで男は飛び降りることになった訳だが、さて一体どうする気なのだろう。


 大勢の前で宣言してしまった手前、今更やめるとも言い出し難いとは思うが。

 

 魔王が男の出方を窺っていると、男は意を決した様子で屋根を蹴り、その身を空に踊らせた。


「きゃああああっ!」


 少女が悲痛な悲鳴を上げた。


 やはり実の兄のことは心配なようだ。


 この少女には世話になったことであるし、あまり気は進まないが、助けてやることにしよう。

 

 魔王は男が上手く絨毯の上に着地できるように、ほんの少しばかり力を使って男の落下軌道を変えた。


 屋根の高さがそれ程でない二階からなら、そのまま地面に落ちたとしても死ぬとは限らなかったが、大きな怪我はしないに越したことはないだろう。


 怪我が元で命を落とすこともある。

 

 男は狙い通り絨毯の上に落ちたが、落下の衝撃は男達が思っていたより大きかったようだ。


 男を支え切れずに一部の男の手から絨毯が離れて、男はいくらか落下の勢いを殺したものの地面に落ちたが、特に怪我はしていなかった。


「良かったぁ……」


 少女がそう安堵の声を漏らすのを聞いてから、魔王は男達に散々に説教されながら小突かれている男へと歩み寄って行った。


 迷惑を被った当事者なのだから、自分にも制裁を加える権利くらいあるだろう。

 

 魔王は人混みを抜けて男の前に立つと、問答無用でその頬を殴り飛ばした。


 きちんと手加減してはいたが、歯の数本をへし折る一撃をまともに喰らった男はあっさりひっくり返る。


「どうやら其方は頭ではなく、体に意思表示しなければ理解できないようだが、流石にこれで理解できただろう」


 ああ、清々した。


 魔王は頬を抑えて呻く男をその場に残し、何事もなかったかのように歩き始めた。






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