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その手に取るもの  作者: 佳景(かけい)
1/22

邂逅

目覚めると同時に、ここがどこで、自分が何者であるかを理解した。


 ここは世界の外側。


 世界の内側と薄皮一枚を隔てて繋がる、しかし同時に世界から独立した場所。


 そして自分は絶対の力であり、純粋な意志である者。


 全ての始まりと、終わりを知ることになる者。


 あらゆる存在の上位にある至高の存在だ。


 この広大な世界の外側に物質は何一つなく、ただ自分と同等の力を持った『誰か』の存在を感じるだけだった。


 この世界の外側のもう半分を構成するその存在は、目覚めたその瞬間から知覚できている。


 同時に生まれたとは限らなかったが、しかし『自分』はその『誰か』が時を同じくして生まれたことを知っていた。


 恐らく『誰か』も同じだろう。


 『誰か』は精神を繋げると、概念で語り掛けてきた。


――ええと、初めまして。こんにちは。


 触れた心は優しく穏やかで、『自分』は『誰か』を好ましく思いながら応じる。


――御機嫌よう。

――これからよろしく。

――こちらこそ。


 これが『自分』と『誰か』の始まりだった。







 それから長い、あまりにも長過ぎる時が過ぎても、『自分』と『誰か』は二人きりのままだった。


 世界の外側には相変わらず『自分』と『誰か』しかおらず、止まったように静かな時だけが積み重なっていく。


 肉体を持たない者は、成長することも老いることもない。


 ただ時が続く限り、在り続けるだけだ。


 変わることのない世界の外側の唯一の変化と言えば、『自分』が趣味で世界の内側から集めた宝石達が己の領域内に浮かぶようになったことくらいだろう。


 一方、初めは一つきりだった世界は、今や三つにまで増えている。


 最も早くにできた世界の内側には時を経る内にいくつもの銀河や星が生まれていて、中には獣から決定的に分かたれた人と人ならざる者達を育む星もあった。


 人ならざる者達は力と肉体半々で構成されていて、肉体を持たない自分達の同族ではないにしろ、近しい種族と言える。


 彼等は北の大陸から離れた、さして大きくもない島に暮らしていて、人間と接触することはなかったが、いつかは出会うことになるのだろう。


 長命な人ならざる者達が変化に乏しい時を緩やかに過ごすのとは対照的に、人間はその短い命を燃やし尽くそうとするかのように懸命に思考し、新たな発見をし、文明を発展させている。


 『誰か』は以前から人ならざる者達に高い関心を抱いていて、頻繁に世界の内側の様子を見ては楽しそうにしていたが、ある時難破した船に乗っていた人間が彼等の島に流れ着いたのを見て言った。


――ねえ、あの子達に会いに行ってみない?

――会ってどうする? 化け物扱いされて、不愉快な思いをするだけかも知れぬぞ。

――そう悪い方に考えなくてもいいのに。もしかしたら、友人になれるかもよ?

――友人なら、我がいるだろう。それでは不満か?

――そんなことはないよ。二人でいれば寂しくないし、お前がいてくれて良かったと、本当にそう思っているよ。でもあの子達を見ていたら、友人がたくさんいたら、もっと楽しいんだろうなと思うから……。


 伝わる心から、『自分』には『誰か』の思いに嘘がないことがよくわかる。


 二人きりではどこか満たされないものがあることも。


 それでも、やはり『誰か』が人ならざる者達と関わりを持つことにいい気はしなかった。


――やめておけ。我等とあの者達との間に真の友情は成立し得ない。我等はあの者達より高位の存在なのだからな。

――でも……。

――あの者達が力を重んじることは、其方もよく知っているだろう。下手に接触すれば、面倒なことになるかも知れぬぞ。


 人ならざる者達は力をとても重視していて、力の強い者程社会的地位が高い。


 彼等が異なる種族である自分達を受け入れるのか、拒絶するのかはわからないが、受け入れられた場合、彼等を遥かに凌駕する力を持つ自分達は彼等に傅かれることになるだろう。


 彼等は宗教を持たないので、神扱いされることだけはないにしても、重い責任や義務を負う羽目になりかねなかった。


――行きたいのなら、其方一人で行くことだ。

――そうするよ。


 『誰か』は少し拗ねた響きで言うと、自らの領域内に人ならざる者達に似せた姿形を創り始めた。


 円滑な意思の疎通を図るためには、彼等に近い姿をしていた方がいいだろう。


 程無くして『誰か』が創り終えたのは、すらりとした長身の女の姿だった。


 年は人間で言うなら二十代半ば程だろう。


 足元まで流れる豊かな髪。胸まで届く長い前髪は真ん中で分けられ、額が露わになっていた。


 優美な弧を描く細い眉。


 瞳孔も虹彩も同じ色の、優しく澄み切った目。


 長い睫毛。


 程良く高く、整った鼻梁。


 美しい唇。


 艷やかな肌。


 その全てがこの上もなく美しい白だ。


 彫りの深い顔立ちは肉体を持つ者には到底持ち得ない、至高の存在に相応しい美しさで、清らかさと気品に溢れている。


 細い肩の出たドレスもやはり純白で、豊満な胸元を飾る薄紅色の石と金の刺繍が施された長い飾り布が特徴的だった。


 身の丈よりも長い裾が、長く虚空に流れている。


 繋がった『誰か』の精神を介してこの姿の全てを把握しているため、『自分』にはドレスに隠れた踵の高い靴や裸身まで全て見えていて、それは『誰か』も承知していたが、特に恥じらうでもなく髪やドレスの裾を弄りながら訊いてきた。


――どう? 綺麗?

――ああ、美しいぞ。


 そう答えながら、『自分』は随分と背の高い姿にしたものだと思う。


 現在はあまり栄養状態が良くない時代であるため、人ならざる者達は概してそれ程背が高くないのだ。


 『誰か』の身長は大抵の男より頭一つ分程高く、彼等からすると相当な大女に見えることだろう。


 この身の丈なら男の姿の方が相応しいような気もしたが、精神を介して伝わってきた思考によると、女の姿の方が警戒されずに済むし、身長が高い方が服が映えていいということだったので、特に何も言うつもりはなかった。


――どこかおかしいところはない?

――特にはないが、強いて助言をするとすれば、異形の姿にしたらどうだ?


 『自分』がそう答えると、『誰か』はひどく意外そうな顔をした。


――どうして?

――黒くない瞳孔を見れば、あの者達も其方が同族でないとわかるかも知れぬが、よりはっきりと異形の姿にした方がわかり易くていいだろう。親しくなった後で同族でないとわかると、信頼を損なうぞ。下手に隠すより、不利な情報は最初に全て詳らかにしてしまった方がいい。

――確かにお前の言うことも一理あるけれど、そんな姿にしたらきっと皆怖がるよ。せっかくいい印象を持ってもらえるように、綺麗な姿になったのに……。

――異形であることを恐れて近寄って来ないなら、それはそれでいいだろう。同族でない其方を受け入れる度量がないということなのだからな。尤も、無用な揉め事を敢えて起こしたいと言うのなら話は別だが。


 『誰か』は散々悩んだ挙句に結局提案を受け入れて、背中にゆっくりと二枚の白い翼を生やした。


 鳥のそれによく似た翼は『誰か』の身長よりも大きく、美しい。


 『誰か』は二枚の翼を軽く動かしながら問いかけてくる。


――これから異形ではあっても、おどろおどろしくはないだろう?

――そうだな。

――じゃあ、行って来るね。

――気を付けてな。

――うん。


 『誰か』は万一に備えてごく薄い膜のような防壁で全身を包むと、精神の繋がりを絶った。






 『誰か』は己の領域内に世界の内側へ通じる形のない扉を開くと、そこから世界の内側へ入った。


 一瞬で目的地に転移することもできるのだが、『誰か』は一度力を発現させるだけで星一つを砕いてしまう。


 これから会いに行こうとしている者達を殺してしまっては意味がなかった。


 『自分』も『誰か』から遥か遠い洋上に己の端末を現出させたが、同時に端末から力が失われ始め、端末を介して存在を裂かれるような苦痛を覚える。


 世界の外側に生まれ落ちた者は、本来この世界の内側に在るべき者ではないため、ただいるだけでかなり消耗してしまうのだ。


 だが決して耐えられない程の苦痛ではない。


 『自分』は端末を起点に、知覚範囲を『誰か』がいる島まで広げた。


 肉体を持たないが故に感覚器官によって知覚を狭められることがないため、様々な生物が立てる音から、降り注ぐ日の光の波長、物質を構成する原子の構造すら知覚できる。


 かなり広い範囲を知覚範囲に入れているおかげで、絶え間なく流れ込んでくる情報は膨大な量だったが、これ程離れていれば人ならざる者どころか『誰か』にすら察知されることはないだろう。


 もし『誰か』が危害を加えられるようなことがあれば、助けに行くつもりだった。


 実力差から言って殺されることはまずないが、争いごとを嫌う『誰か』が上手く切り抜けられるとは限らない。


 殺されなければ何をされてもいいというものでもなかった。


 空中に出た『誰か』は人ならざる者達が住まう島へとゆっくり降りて行ったが、星に被害は出ていない。


 肉体のない体は力を使わずとも己の意志一つで好きな場所に動かせ、力を使って飛んでいる訳ではないのだ。


 島は北方に位置してはいるものの、暖流の影響で気候は割合温暖な方だった。


 大半が高原となっていて、低い山々や湖沼、いくつもの川を擁しており、一年を通じて緑豊かだ。


 今は春で、ひんやりとした風が島のあちこちで咲き始めた様々な花に口付けるように優しく吹いている。


 人ならざる者達が力を物質化して創り出した家が建ち並ぶ村は十あり、その近くにある畑では三十人程の者達が水撒きや草取りをしていたが、近付いて来る『誰か』に気付いて手を止めた。


 警戒しているのだろう。


 四方を海で囲まれていたために、これまで余所者と接する機会がなかったのだから、当然だった。


 『誰か』は地面に着地することなく、浮かんだまま人ならざる者達に愛想良く声を掛ける。


「こんにちは」


 『誰か』はその容姿に見合う、優しく美しい女の声でそう言った。


 敢えて人ならざる者達の言語を使ったのは、精神体である者にとって相手の精神に触れることは唇や肌を重ねるようなものだからだろう。


 概念を直接やり取りすれば誤解なく意思の疎通はできるが、見ず知らずの者とするのは気が進まないに違いない。


「良かったら、手伝おうか?」


 『誰か』の申し出に、その場に居合わせた者達が顔を見合わせた時、一人の男が『誰か』へと歩み寄ってきた。


 人ならざる者達の中で最も強い力を持つ者――この者達の王だ。


 力のある者は力のない者を守って戦うのが役目であるため、いざという時には自らの務めを果たすためにやって来たのだろう。


 厳しさが漂う端正な顔立ち。


 外見年齢は人間で言うなら三十代後半といったところでも、人ならざる者達は肉体が半分しかない分緩やかに老化が進むため、もう百年以上は生きていた。


 概して男女の体格差が人間程大きくなく、男でも細身の者が多いが、この男も例外ではない。


 他の者達と同じように白い肌。


 目の色は朝焼けを思わせる紫で、白いものが混じる緩く束ねた長い髪も同じ色だった。


 人間と同じような髪や目の色をした者もいるが、人ならざる者の髪と目の色は人間より色彩に富んでいて、人間との差異の一つになっている。


 体型を隠すゆったりとした長衣は裾が地面に触れるかどうかで、瞳と同じ色の紫の石に飾られていた。


 男は『誰か』の前で足を止めると、やや硬い面持ちではあったが、礼儀正しく言う。


「お初にお目に掛かります。私はこの地を治める王。よろしければ、あなたのお名前をお聞かせ願えますか?」

「名乗りたいところだけれど、私に名前はないんだ」


 『誰か』は少し申し訳さなそうにそう言った。


 二人しかいない世界の外側では、呼びかければそれは必然的に相手への呼び掛けになるため、名というものは必要ないのだ。


「許可もなく立ち入ってしまってすまないね。できれば許可をもらってから入りたかったのだけれど、許可をもらうためにはここに来ないといけなかったから」

「どちらからいらしたのでしょうか?」

「世界の外側からだよ」

「……申し訳ありませんが、何をおっしゃっているのか理解しかねます」


 男は困惑を露わにそう言ったが、無理もないだろう。


 世界の内側にいる者は、世界の外側にいる者達から働きかけない限り、その存在を知ることはない。


 突然こんな話をされてすんなり納得できる方がおかしかった。


 『誰か』は言う。


「私は見ての通りちょっと変わっているから、いろいろ訳ありなんだ。できれば、もっと詳しい話をしたいのだけれど」

「ではこちらへどうぞ。狭い所ですが」


 『誰か』は男に促されるままに、低く空を飛んで移動し始めた。 






 男の家は村の中で最も大きな建物だ。


 他の家が住人の創り出した木に似せた物質でできている中、男の家だけは石造り風の重厚な造りだった。


 同じような建物はそれぞれの村に一つずつあり、人ならざる者達の中で十指に入る実力者達がそこに住んで、村人達を守っている。


 他の村人達が木の家に住む中、石造りの家に住まうことは十位以上の者達に与えられた特権の一つだった。


 男に続いてドアをくぐった『誰か』は、ほとんど音を立てずに石の床に降り立つ。


 二階建ての建物の上階は家族の私室になっていて、寝心地の良さそうなベッドが並んでいた。


 そこから一つだけ離れた所に置かれたベッドに、助けられた人間が寝かされている。


 年は二十歳そこそこといったところだろう。衰弱してはいるが、添い寝をしている犬のおかげで冷えていた体も温まってきているし、恐らく助かる筈だ。


 その傍らには、男の妻とまだ少年である息子が付いていた。


 上階には下階に繋がる梯子や階段などはなかったが、人ならざる者は誰でも空を飛ぶくらいのことはできるので、人間のように階を行き来するための物を作る必要がない。


 下階は上階より広く、台所や居間として使われていた。


 台所の天井には煙を出すための穴があったが、煙を効率良く逃がすことはできず、間仕切りの類もないため、下階は煤だらけだ。


 今も家を暖めるために何を煮炊きする訳でもなく火が燃やされて、新たな煤を生み出していたが、それでもテーブルは鏡のように美しかったし、椅子も優美な線を描いて佇んでいる。


「帰ったぞ」


 男は上階にいる妻と息子に少し大きな声で言うと、火の番をしていた小間使いに命じた。


「お客人に何か飲み物を」

「あ、お構いなく。私は何も口にできないから」


 男は驚いた様子だったが、小間使いに出した命令を撤回すると、上階から男の妻と息子が力を使ってふわりと降りてくる。


 十位以上の者は男女を問わず五人まで伴侶を持つことができるが、『誰か』が招かれた家の中には男の妻の中で最も位の高い二位の女とその息子しかいなかった。


 他にも娘達がいる筈だが、今は出掛けているのだろう。


 男には他にも四人の妻がいるものの、同居するのは伴侶の中で最も位が高い者だけと決まっていて、他の妻達はその子供達と共に別の家に住んでいた。


 『誰か』はにこやかに女達と挨拶を交わしたが、二人の表情と声音はやや硬い。


 得体の知れない存在がいきなり家に入り込んで来たとあっては、なかなか大歓迎とは行かないだろう。


 女はその場に残ったが、息子は上で人間に付いていなければならないからと、早々に上階へ戻った。


 男が『誰か』に椅子を勧め、全員が椅子に腰を落ち着けたところで、女が切り出す。


「こちらへはどういう御用向きでいらしたの?」

「実は、あなた達と友人になりたくて……」


 揃って訝しげな顔になった二人に、『誰か』は少し慌てたように言う。


「ええと、突然こんな話をしても信じてもらえないとは思うけれど、私がこれから話すことは誓って嘘偽りではないから、それだけは心に留めておいて聞いてくれ。実は私はこの世界の住人ではなくて、世界の外側でずっと友人と二人で暮らしていたんだ。でももっと友人が増えたら楽しいだろうと思って、それでここを訪ねて来たんだよ。見ての通り私はあなた達の同族ではないけれど、近しい種族だから」


 男は短い沈黙の後に言った。


「……おっしゃる通り、俄には信じ難いお話ですが、あなたに敵意がないのは理解できます。もしもあなたが私達の敵であるなら、私達はとうに殺されていたでしょう。私達だけでなく、この島にいる全ての者が殺されていたに違いありません。あなたの力はそれ程強い」


 男の言葉に女も頷いた。


「正直なところ、まだ信じられませんけれど、私達はこの島の外のことは何も知りませんもの。この世界とは別の世界があることを否定する根拠は、何もありませんわ」


 男達が『誰か』に理解を示したことが、『自分』には少し意外だった。


 長いこと余所者と接触することなく暮らしてきた者達なので、恐らく拒否反応を示すだろうと思っていたのだが、人ならざる者達は思いの外柔軟な思考の持ち主のようだ。


 強い精神力で力を統御する彼等は、根拠のない迷信や宗教の教義に頼って生きる程愚かでも弱くもないので、偏った思考をしないからこその対応なのだろう。


 単に『誰か』の強大な力に恐れを為して、友好的に振舞っているだけかも知れないが。


 人ならざる者は心を閉ざす術を心得ているため、人間と違って内面がわかり難いのだ。


 だが『誰か』は穿った見方をするでもなく、子供のような無邪気さでその美貌を輝かせて尋ねた。


「また、ここに来ても構わないかな?」

「ええ、歓迎致しますよ」


 男の言葉に、『誰か』は本当に嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう」


 男達の真意がどこにあるのかはよくわからなかったが、ともかくも『誰か』の望みは叶いそうだ。


 それが『誰か』にとって、いいことなのかはわからない。


 だが当の本人がこれ程喜んでいるのだから、ひとまずは良かったと思っておくべきなのだろう。


 『自分』がそんなことを考えていると、『誰か』はその面からすっと笑顔を消して話題を変えた。


「ところで、この島には今、私の他にも余所からの客人が来ているだろう?」

「何故それをご存知ですの?」


 驚いて問い返してきた女に、『誰か』は穏やかに微笑みながら答えた。


「私は見ての通りちょっと変わっているから、遠くにある物もよく見えるんだよ。あの子はどうするつもりなのかな?」


 『誰か』の問いかけに、男は困惑の面持ちになった。


「どうすると言われても……まだ息があったのでとりあえず助けてはみたのですが、特に考えがある訳ではないのです。あの者が私達と異なる種族であることは力を感じないことでわかりますが、何者なのか、どこから来たのか、まるで見当が付きません。できることなら、仲間の所に帰してやりたいとは思っているのですが」

「あの子は人間という種族で、海の向こうにある大陸から来たんだ。私一人では無理だけれど、友人に手伝ってもらえれば元いた場所に送り届けることができるよ」

「何と! では、是非お願いしたいのですが」


 次第に『誰か』の突拍子もない話にも慣れてきたのか、男は特に疑うでもなくそう言った。


 男と『誰か』とではあまりにも力量に差があり過ぎて、実力を推し量ることなど到底不可能な筈なので、そういうものなのだと思っておくしかないのだろう。


「では、あの子がある程度元気になったら、送ってあげるね。実はここに来た目的の半分はそれだったんだ。役に立てるかも知れないと思って」

「お優しいのですね。それでは、どうぞよろしくお願いしますわ」


 女の言葉に、『誰か』は小さく頷いた。


「うん、任せて」


 とりあえず話は纏まったが、本当にいいのだろうかと『自分』は思う。


 あの人間を生かして帰したら、人ならざる者達に危険が及びかねない気がするのだが。


 何しろ人間の歴史は殺戮と収奪の繰り返しだ。


 島一つとはいえ、まだ人間の領土でない土地を見つけた時にそれを手に入れようとする者がいないとは言い切れなかった。


 あの人間を殺さないまでも脳細胞をいくらか破壊して、この島に関する記憶を消してしまった方が良さそうだが、しかしそんな真似をしても無意味かも知れない。


 何十年、何百年の間平和が保たれたとしても、人間はいつか再びこの島に辿り着くだろう。


 知恵と技術を積み重ねて。


 それなら、敢えて先延ばしにする必要もないのかも知れなかった。


「では、私はそろそろ帰るね。今日はどうもありがとう」


 『誰か』はそう言って席を立つと、室内に世界の外側へ繋がる扉を現出させた。


 見送ろうと立ち上がりかけた二人を制し、『誰か』は扉へと歩み寄る。


「またね」


 『誰か』は男達に軽く手を振ると、扉をくぐった。






 それから、『誰か』は人ならざる者達の島を頻繁に訪ねるようになった。


 本当は毎日でも訪れたかったのだろうが、世界の内側に入ることは苦痛を伴う上に力を失うとあってはあまり無理をする訳にも行かず、数日に一度程度に留めている。


 その代わりに一度行くと最低でも数時間、長い時には半日近く島に留まって、人ならざる者達と交流を図っていた。


 だが村という村を訪ねても、王である男とその妻である二位の女以外とは、ほとんど言葉を交わせてはいない。


 言葉を掛けて無視されることこそなかったが、返事をしてもそれだけで、会話が続かないことが多かった。


 やはり正体がよくわからない存在は気味が悪く思えるのだろう。


 それでも『誰か』は人ならざる者達に話し掛けることをやめようとはしなかった。


 ほんの一言二言言葉を交わしただけで、逃げるように去って行ってしまう者達の背中を見ながら、何度も寂しそうにしていたのに。


 そうして日々を過ごす内に、島に流れ着いた人間は外を出歩けるまで回復して、ある日『誰か』は出掛ける前に言った。


――ねえ、悪いけれど、一つ頼まれてもらってもいいかな?

――何だ?

――実は、人間を一人元いた場所に戻してあげたいんだ。私の力を抑えてもらってもいいかな?


 一度力を使うだけで星を壊す『誰か』でも、力を小さく使うことができる自分が力を同調させて制御すれば、力を適切に使うことができる。


 わざわざそんな面倒な真似をせずとも、人間を転送するくらいのことはしてやっても良かったが、せっかくあの連中に恩を売る機会なのだから出しゃばることもないだろう。


――構わぬぞ。

――ありがとう。じゃあ、悪いけれど、こちらの様子を見てもらって、頃合いを見計らって同調してもらってもいい?

――ああ。 

――助かるよ。じゃあ、よろしく。行って来るね。


 『誰か』が精神の繋がりを絶って世界の内側へと繋がる扉をくぐると、『自分』はいつものように世界の内側に端末を置いて、『誰か』の様子を見始めた。


 同時に激しい苦痛に苛まれ、力を失い始めたが、これは幾度体験しても慣れない。


 『誰か』は王である男の家の前に現出すると、ドアを叩いた。


 ドアを開けた小間使いは怯えたような顔をしたが、それでも『誰か』を中へ招き入れる。


 王である男は家にいて、『誰か』は男と手の平を軽く合わせて挨拶を交わしてから言った。


「そろそろあの子を仲間の所に送ってあげようと思うのだけれど」

「では上へどうぞ」


 『誰か』が力を使って浮き上がった男に続いて上階へと上がると、人間の男がベッドに腰を下ろしていた。


 その隣には王の息子が腰掛けている。


 随分打ち解けたらしく、二人は笑みを交わしながら楽しげに会話をしていた。


 二人の使用言語は異なるが、精神を繋げて概念をやり取りしながら会話をすれば、言語の差異は問題にはならない。


 『誰か』は優しく目を細めて言った。


「こんにちは。邪魔をしてすまないね、ちょっといいかな?」

「どうぞ」


 話をやめた息子がそう言うと、『誰か』は切り出した。


「そろそろその子を家族の元へ帰してあげようと思うから、別れを済ませてくれるかな?」

「はい」


 男は息子と精神を繋げた状態なので、通訳をせずとも息子の認識を通じて『誰か』の言葉を理解できる。


 男は息子と抱き合って別れを惜しんでから、立ち上がって『誰か』に向き直った。


「お願いします」

「うん。では準備をするから、少し待ってくれるかな?」


 『誰か』がそう言うと、『自分』は『誰か』の精神に己のそれを繋げた。


 同時に互いの苦痛を共有してしまい、覚悟していても耐え難い程のそれに襲われたが、集中だけは切らさずに力を同調させていく。


 程無くして完全に同調したところで、『誰か』は予め調べていた転送先の様子を確認した。


 障害物の類がないかきちんと確認しておかないと、大惨事になる。


 町外れの人気がない場所を転送先に定めると、『誰か』は言った。


「それでは、今から元いた場所の近くに戻してあげよう。戻る時は一瞬で、怖いことは何もないから安心していいよ。でもその前に一つ頼みがある。できればこの島のことは内密にしておいて欲しいんだ。人間に知られると、あまり良くないことになるかも知れないし」

「わかりました。そうします」


 只の口約束だったが、『誰か』は満足した様子だった。


 人間がどういう生き物か知らない訳でもないだろうに、記憶を消そうとするどころか、脅しもしないところがいかにも『誰か』らしい。


 感知できる感情からして、この男は決して悪人という訳ではないようだが。


「元気で」


 『誰か』は人間を転送した。






 一月程の時が流れた。


 人ならざる者達の暮らしは特に変わることもなく、穏やかなままだ。


 『誰か』は相変わらず数日に一度人ならざる者達の島を訪れていたが、やはり親しく話せる者はほとんどいない。


 それでも『誰か』は何度でも島に足を運び、『自分』は遠くから『誰か』を見つめ続けていた。


 同じ時をただ繰り返すかのような日々。


 それが不意に終わる時が来た。


 いつものように島に現出した『誰か』が、途端にその美貌を曇らせる。


 海に浮かぶ三百余りの舟が、人ならざる者達の島に向かって来ていた。


 軍隊というものを見たことがなくても、物々しさから不穏なものを感じ取ったらしく、村人達が断崖の辺りに集まり始めている。


 知らせは他の村にも行っているようで、島中の者達がこの場に集まりつつあった。


 皆一様に不安そうな面持ちで、あれこれ話し合っている。


「あんたのせいだ!」


 男の一人が『誰か』に食って掛かった。


 だが『誰か』の力を恐れてか、他の者達は男に同調するでもなく黙って目を逸らす。


 男はそのことにひどく苛立ったようで、ますます語気を荒げた。


「みんなも何か言ったらどうなんだ!? この女が余所者を帰したりしたからこんなことになったんだぞ!?」

「すまない、私が余計なことをしたから……」


 細い肩を落とした『誰か』に、王である男が歩み寄って言った。


「あなたに責任はありません。お願いしたのは私です」

「だけど……」


 『誰か』の言葉を遮るように、『自分』は仮初の姿をその眼前に現出させた。


 『誰か』より頭半分程背が高い男の姿。


 外見年齢は『誰か』と同じくらいで、顔立ちは『誰か』と違って少々きつめだが、見栄えは同等程度だろう。


 宝石のような美しい物を愛する者としては、仮の姿でもやはり美しさに拘らずにはいられない。


 目は爬虫類のように細い瞳孔のみならず、虹彩までも黒。


 腰よりも長く伸びた黒い垂髪は、流れるままに下ろしていた。


 白い手には鉤爪を思わせる長さの黒い爪が光っている。


 身に纏う漆黒の長衣は銀細工とそこに鏤められた青い石で飾り、長い飾り布が下がっていた。


 背中には蝙蝠に似た二枚の大きな羽。


 『誰か』以外の他者を気安く近付けたくないので、おどろおどろしくはないにせよ、心持ち恐ろしげな姿に見えるようにしてみたつもりだった。


 現出と同時に苦痛に苛まれ、力を失い始めるのが何とも煩わしかったが、『誰か』と精神を繋げた時に比べればどうということもない。


 『誰か』は恍惚にも似た面持ちで『自分』の姿に見入っていたが、我に返ると目を伏せて、はにかみながら言った。


「……とても綺麗だよ」

「呑気にこの姿を褒めている場合か?」


 仮初の姿でも褒められて悪い気はしなかったが、『自分』がやや呆れた口調で言うと、『誰か』ははっと口元を押さえた。


「そうだった。どうしてお前がここへ?」

「其方が困っているようだったのでな」

「確かに困ってはいるけれど、これは私の問題だし、お前を巻き込む訳には行かないよ」


 『誰か』はそう言ってから、会話に入れずにいる王である男に遅まきながら『自分』を紹介した。


「遅くなったけれど、これは私の友人だよ。私と同じで名無しだから、名前は教えられないけれど。以前話したことがあるだろう?」

「やはりそうでしたか」


 王である男は納得した様子で、『自分』に向き直って言った。


「私はこの者達の王を務めている者です。お会いできて良かった」

「お初にお目に掛かる。友が迷惑を掛けたようだが、我があの者達を片付ければ、ひとまず事態は収まる筈だ。尤も、人間に広く存在を知られてしまった以上、一時凌ぎにしかならぬだろうがな。ここで撃退しても、いずれまた別の人間達がやってくるだろう」

「そうですか……」


 難しい顔で考え込んだ男に代わって、『誰か』が『自分』に言った。


「気持ちは有り難いけれど、帰ってくれ。お前に酷いことはさせられないよ」

「ならば、其方に人間が殺せるのか?」


 『自分』の問いかけに、『誰か』は目を逸らすと、答えの代わりに言った。


「……私でも、上陸させないくらいのことならできるよ。お前程上手に力を使える訳ではないけれど、姿形を変えることならいくらでもできるし」

「わかっているとは思うが、其方はずっとこちら側にいられる訳ではないのだぞ? 其方が力尽きた後はどうする気だ?」

「だったら、戻って来られないくらい遠くに転移させる」


 人間達はまだ陸地が見えるところを船で進む程度が精々で、異なる大陸に飛ばしてしまえば海を越えて戻って来ることはできない。


 それでも大陸から視認できない程度に離れたこの島へ戦艦が辿り着けたのは、あの人間が星の位置から島の大まかな場所を把握できていたからだろう。


 あの人間が悪意から情報を漏らしたのか、それとも口を滑らせただけなのかはわからないが、いずれにせよ今となってはどうでもいいことだった。


「また手伝ってくれる?」

「構わぬが、それは却って悪いことになると思うぞ。連中は人間を殺すことを生業にしている者達なのだからな。宗教も言語も外見的特徴も異なる、見ず知らずの者達に対して、友好的に振る舞うとは思えない。行く先々で全くの無関係である者達に対して、殺戮と収奪を行うだろう。それよりはここである程度殺して、人ならざる者に喧嘩を売ることは得にならないと思い知らせた方がいい。元々侵略するつもりで来たのだから、ここで我に殺されたとしても文句を言える筋ではない筈だ」

「それは……お前の言う通りかも知れないけれど……でも、嫌なんだ。お前には私のせいで酷いことをして欲しくない」

「ならば、其方は結局どうしたいのだ? あれもこれも嫌だと言うばかりでは何もすることはできないし、解決もしないぞ」


 『誰か』はどうすればいいのかわからない様子で、黙って俯いた。


 これ以上話しても困らせるだけだろう。


 『誰か』には殺したくないという信条も、人ならざる者達を殺させたくないという願いも、自分に人間を殺させたくないという思いも選べそうにない。


「とにかく、其方はここにいろ」


 『自分』はそう言い残すと、その場から姿をかき消した。






 とある舟の真上に、『自分』は現出した。


 船首に獅子を象った像が設えられたその舟は、さして大きくはないながらも見るからに堅牢な造りで、三十対のオールを有している。


 マストは一本で、帆は縦帆。


 前方から吹く風を利用する、操船がし易い船だった。


 『自分』が現出したのは司令官が乗船する舟の真上だ。


 知覚範囲を自在に操って会話を聞き取ることができるため、目当ての舟と男はすぐにわかった。


 高級軍人の証である左右に刺繍を施したマントに身を包んだ司令官が、慌てて命令を発する。


「放て!」


 突然敵が目の前に現れると思っていなかった兵達は完全に虚を突かれたが、命令を受けると弾かれたように弓をつがえようとする。


 だがその前に『自分』は『誰か』が殺すところを見なくて済むように辺り一帯の知覚を遮断する細工をし、同時に軍人達の腕を切り落として、攻撃を封じた。


 作り物の体をどれだけ射られたところで死にはしないが、好き好んで射られたくもない。


 咄嗟に動けなかった者達は見逃してやったが、攻撃の意志を示すなら同じことをするだけだった。


 血を撒き散らしながらのたうち回る男達を冷ややかに見下ろしながら、『自分』は司令官が理解できるように母国語で言う。


「兵を退くがいい。損害が広がるだけだ」

「そう易々と引き下がる訳には行かない。我々は魔を滅する命を帯びてここにいるのだからな」


 司令官の顔は若干青ざめていたが、声を震わせるでもなくそう言った。


 どうやら人ならぬ者達は、人間に魔の者と認識されたらしい。


 神や魔といった存在について説いている宗教に慣れ親しんでいる者達が、人間に似た人間ではない種族が存在することを知れば、それを魔の者だと思うのも無理からぬことだった。


 しかし、純粋な正義感で人間の王が軍を動かしたとは思えない。


 大方現在のこの状況は、魔を駆逐することで他の宗教への優位性を証明しようと画策した聖職者と、その宗教を利用して自らの権威を高めようとする王の思惑が合致した結果生まれたのだろう。


 事実は多少異なるかも知れないが、そう違ってはいない気がした。


 側に控えていた高位聖職者が、自らを鼓舞するように杖を振って言う。


「我等には神の加護がある! いかに魔の者と言えど、神の力は打ち破れまい! 立ち去れ、忌まわしき者よ!」


 聖職者は祈りの言葉を唱え始めたが、只の言葉の羅列に力は宿らない。


 『自分』は聖職者の頭を吹き飛ばして、神の加護がないことを証明して見せると、司令官に問いかけた。


「まだ気は変わらないか?」

「愚問だな」

「では、気が変わるまで損害を出してやることにしよう」


 司令官がいる舟に向かって弓を射かける訳にも行かず、距離を詰めて来ていた舟の一つを、『自分』はそこに乗っていた兵ごと無慈悲に割った。


 忽ち血に塗れて沈み始める舟から関心を失くして、『自分』は次々に舟を沈めていく。


 瞬く間に半数の舟が沈んだところで、司令官がはっとして言った。


「その力、まさか貴様が魔王か……?」

「そんなところだ」


 『自分』は酷薄な笑みを浮かべてそう言った。


 人間が神だの魔王だのと呼ぶ概念に最も近い存在なのだから、あながち嘘でもないだろう。


 宗教が人間に大きな影響力を持っているこの時代なら、魔王ということにしてしまった方が勝手に怯えてくれて好都合だった。


「この舟以外の全ての舟を沈めることなど、我には造作もないことだ。命を果たせなかった上に、軍を全滅させるよりは、今大人しく退いた方が利口だと思うが?」

「……そうしよう」


 司令官が生き残っていた兵に撤退を命じると、マストに撤退を示す旗が掲げられた。






 『自分』は再び『誰か』の元に現出した。


 『自分』の力を目の当たりにした人ならざる者達の目には驚きと畏怖があり、現出した『自分』から逃げるように後退る。


 『誰か』と王である男だけはその場を動くことはなかったが。


 『自分』は特に感情を動かすことなく人ならざる者達を一瞥すると、『誰か』に言った。


「片付いたぞ。連中は撤退する」 

「ありがとう……それからすまない」


 『誰か』は見ている方が悲しくなるような面持ちでそう言った。


 きっと喜ばないだろうとは思っていたが、こういう顔をされるのはやはり辛い。 


 『自分』は『誰か』から目を逸らした。


「……我が勝手にしたことだ。其方が気に病む必要はない」


 『誰か』が何か言おうと唇を動かしかけた時、王である男が『自分』と『誰か』の前に跪いて唐突に言った。


「畏れながら、お二方にお願いがございます。どうか我等の王となり、一族の者達をお守り下さいませ」

「あなた!」


 二位の女が慌てて男を立ち上がらせようとするが、男はその手を振り払って続けた。


「今回のことでよくわかりました。私達では皆を守り切れません。あなた様方の御力が必要なのです」


 助力を求められて『誰か』は束の間ひどく嬉しそうな顔をしたが、自分の立場を思い出したらしく、すぐに喜びと戸惑いの入り混じった複雑な面持ちになった。


「……その、とても嬉しいし、有り難い申し出だけれど……私達は同族ではないし、皆は納得できないんじゃないかな」


 『誰か』は言葉を選びながら慎重にそう言った。


 人ならざる者達は互いの出方を伺うように顔を見合わせていたが、しばらくして二位の女が夫である男の隣にゆっくりと跪いた。


 それを見て、他の者達も一人、また一人と膝を折っていく。


 その様を、『誰か』は信じ難いものを見るような目で見ていた。


 程無くして全ての者がその場に跪くと、王であった男が言う。


「これが我等の意志。変わらぬ忠誠を以て、終生あなた様方にお仕えすることをお誓い申し上げます」

「では、我等もその忠誠に見合う働きをするとしよう」


 『自分』はそう言うと、『誰か』へと視線を流した。


「異存はないな?」

「うん」

 『誰か』は淡く微笑んだ。






 『自分』と『誰か』はひとまず世界の外側にあるそれぞれの領域に戻った。


 王になったと言っても世界の内側に住むことはできないし、実際これからどのように人ならざる者達と関わっていくのか、詳しい話はまた後日にすることになるだろう。


 面倒なことになったものだが、仕方がなかった。


 世界の内側で感じていた苦痛から解放されると同時に、失われた力が少しずつ回復し始めるのを感じていると、『誰か』がわざわざ領域の境界を超えて、主体である『自分』の元へやって来た。


 『自分』は『誰か』と精神を繋げると、言葉ではなく概念で問いかける。


――どうした? 用があるなら、精神を繋げて話せばいいだけのことだろう。

――そうだけれど、お前の姿を近くで鑑賞したかったから。

――そこまでこの姿が気に入ったのか? まあ、見たいと言うなら好きなだけ見て構わぬが……。

――見るだけじゃなくて、抱いてみてもいい?

――ああ。


 『誰か』はその容易く折れそうにほっそりした両腕を『自分』の背中に回すと、満足そうに笑った。


 肩に頬を寄せて尋ねる。


――……ねえ、どうして王を引き受けてくれたの? 皆に関心なんてなかった筈なのに。

――率直に言って引き受けたくはなかったが、其方がいるのだから、我は有事の際とどうしても顔を出さなければならない時以外は引き篭もっていればいいかと思ってな。其方はあの者達と親しくなりたかったのだろう?


 『自分』がそう問い返すと、『誰か』の心から答えの代わりに、喜びや悲しみが混ざり合った複雑な感情が流れ込んでくる。


 『誰か』を悲しませたい訳ではなかったが、どうしたら悲しませずに『誰か』の願いを叶えられるのか、自分にはわからなかった。


 だから、『誰か』が最も悲しまずに済むようにしただけだ。


 自分が人間を殺すことで人ならざる者達が死なずに済んで、『誰か』と共に王になることで人ならざる者達に『誰か』が受け入れられるなら、それが『誰か』にとって一番いい筈だった。


 人間を殺したところで自分には何の感慨もなかったし、王という立場の煩わしさも耐えられない程ではないだろう。


 だから、『誰か』には何も悲しんだり、負い目に感じたりして欲しくはなかった。


 そうでないと、自分が悲しくなる。


――無理だよ。


 精神を繋げることで思考の一部を共有している『誰か』が、悲痛な響きで言った。


――私はお前と自分の信条と皆と、どれか一つを選ぶことさえできなかったのに、汚いことを全部お前に押し付けて、お前を巻き込んで、ただ笑っているなんてできない。お前の気持ちはとても嬉しいけれど、できればお前の望む通りにしてあげたいけれど、駄目なんだ。できない。したくないんだ。お前のことが、大切だから。


 『自分』は『誰か』の背中をそっと抱き返した。


 儘ならないものだと思う。


 互いを大切に想い合っている筈なのに、何故こうも噛み合わないのだろう。


 『誰か』は『自分』を抱く腕に力を込めて言った。


――……すまない。

――謝るな。其方に咎がある訳ではない。

――うん。できることなら、こんなことはこれを限りに終わりにしたいね。

――そうだな。だが、恐らくそれは無理だろう。


 派兵してきた連中にも面子というものがある。


 力の差を見せ付けてはやったが、一度失敗したくらいであきらめることはない筈だ。


 あきらめさせることができたとしても、一度人間達に広く存在を知られた以上、いずれまた別の誰かが攻め込んでくる可能性は否定できなかった。


――魔王かと問われて否定しなかったことが、多少の牽制になるといいのだがな。


 『自分』がそう言うと、『誰か』は細い眉を皺めた。


――魔王というのは蔑称だろう? 神だとでも言えば良かったのに。お前の名誉に傷が付くよ。 

――あの場で否定したところで、人ならざる者達が魔の者と認識されているのだから、どの道似たような呼び方をされていたとは思うがな。我にとっては人間のつまらぬ願望が詰まった神と呼ばれるより、魔王と呼ばれる方が好ましい。

――捻くれてるね。じゃあ、お前が魔王なら、私は神になるよ。神として人間の前に姿を現して、皆に手を出さないように言ってくる。嘘を吐くのはちょっと嫌だけれど……。


 誰も傷付かない嘘を吐くことにすら抵抗を示すところが、いかにも『誰か』らしい。


 『自分』は唇に笑みを滲ませて言った。


――神が魔を庇い立てするというのは、連中も混乱するだろうな。魔の者が神の名を騙って心を惑わそうとしていると疑われるのではないか? 

――まあ、信じてもらえなくても不利益がある訳でもないし、私にとっては危険でもないし、早速行ってくるよ。

――そのままの姿でか?


 侵攻してきた国の宗教では、神は姿形を持たない者とされ、偶像崇拝は禁止されている。


 このままの姿で行けば余計に疑念を抱かれそうだったが、『誰か』は言った。


――話をするために、仮の姿を創ったことにするよ。心を繋げて話したくはないし、舌や喉を使わずに空気を震わせて会話するのはちょっと難しそうだから。まともに意思の疎通ができないと、行っても意味がないだろう?

――それでもそうだな。


 腑に落ちたところで、『自分』は言った。


――では送ってやろう。

――ありがとう。行って来るね。


 『誰か』は微笑みを残して、その場から消えた。


 

 こうして『自分』は魔王に、『誰か』は神になった。






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