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根拠を持たない根無し草たちは、明日の宿りを探し求めて頼りない日々を過ごしている。過ごすとは過つことだ。日々を過つことが過ごすことだ。だが、生命などとても長生きできそうもないこの沙漠のなかで、人は流れながら生きるしかなくなっている。確実な意味を求める余裕がなくなりつつある。こうなれば、過つもなにもない。意味が見出されることがなければ、成否も判断されることもまたないからだ。それは砂に書いた落書きが、判読されるまえに風のひと吹きで消え去ることに等しい。
だが砂上の楼閣は呑気にあぐらをかくように浮かんでいた。時間の波に揺られながら、ときには難破し、ときには暗礁に乗り上げながらも、人間の築き上げた文明、時間の結晶はそれでもなお存在を主張するように天に摩している。その足元はおぼつかず、根拠も宿りもない。だが砂の上の落書きのように、時間のなかに虚しい痕跡を残そうとする人間の努力は、それ自体が存在証明なのかもしれない。その存在証明、未来への希い、悲喜こもごもの祈りとが複雑に絡み合い、本当の最期が訪れるまで踊り続ける奇妙な舞踏会。これこそが人間の描いてきた歴史的時間という幻想の牙城の本質なのではないか?
人生を無味乾燥な夢だと嘲笑うのは容易いが、同様に人生が満遍なく意味のある実際だと言い換えることもできる。だがどちらの結論を以てしても、残酷なまでの時の流れを妨げることはできない。生きとし生けるものはいずれ死ぬのだ。しかもそれは弱肉強食という恐るべき自然界の機構によってではなく、時間という、容赦も慈悲もないものによってこそ為されるのだ。死はその分節点、砂に残された最後の足跡に過ぎぬ。
流れ行く砂の悪夢、それに反するオアシスの幻想。東京という都会は常に沙漠と海の幻想を抱いている。絶望と希望、渇きと豊穣。あらゆる物質的存在は相反する概念が相剋する鏡に過ぎない。だがある概念が表出したとき、もう一方の概念が潜んでいるのを識る人は少ない。過去という時間の一面とは、過って去ってしまったものであり、コトであった。過ぎ去ったものは思い出すより他にない。しかし、忘れ去られたものをその手に取ることはむつかしい。砂を握ろうとしても滑り落ちてしまうように、水を掬っても指のあいだから溢れ落ちてしまうように、時は形となることはないのだ。
思い出すということは、時とともに失った形を想像することだった。喪われた己れの根を調べ直すという、そのことだった。だが忘れ去られたものは還ってこない。それは涸れた沙漠の泉、朽ち果てたオアシスの残骸なのだ。少年はオアシスの幻想など持たない。しかし干涸びたオアシスの亡き骸が虚しく心の底に横たわるのを感じるだけであった。
「テルヒ……どしたの?」
肘で突かれて、少年はハッと我に返る。暑さにやられたのであろうか、渋谷の街並みがぼやけて、陽炎のように揺らめいているのが見える。
傍らを見れば、体力の漲っているような大柄の男や、恐らくは接客業をしているであろう少女、疑わしげに四辺を見回している小柄な少年などが、背後からついて来ているのが見える。みんなカレンの友人であり、友人の友人であった。今さっきテルヒをつついたのはシノハラという面倒見の良い青年であった。
そうだった。カレンが渋谷の街を案内すると言っていたのを、テルヒは思い出した。それで、シノハラをはじめとする同い年のグループを教えてくれたんだ。俺と同じ難民のヤツや、浮浪のようなヤツもいる。みんな居場所がない、と言っていたな。そして、俺にこう言ったんだ。『きっと僕らは友だちになれるさ』と。
「ほらほら、ボーっとしてないで!」
カレンが声を上げる。出会ったばかりのころの倦怠感は、まるで嘘であったかのように爽やかな様子である。彼女の調子に合わせて、少年少女は歩き出した。
そんな彼らを、沙漠の街並みはまるで無視しているかのように堂々と、相変わらず聳え立っていた。陽炎のゆれる人影、人波に揺られ、ただ目的もなく彼らは流れ、流されてゆく。
ただなんとなく、彼らは場末の閑散としたウォーターバーに入る。そして各々水やら果実やらを頼み、それが来るなり手ん手に取って食してゆく。こうして開かれた口から、彼らは家庭の愚痴やら、恋愛の勲章などといったとりたてて意味のないことを冗舌りはじめた。
「あのクソ親父……自分にだけ水買いやがって、それで文句言うと『家を支えてるのは俺だ!』とか抜かして、殴ってくんのよ、バッカみたい。」
「でさー、そのときソイツ、俺が飽きたのにも気付かずにしがみついてきてよー……」
喋れば渇きが訪れるのではあるが、それ以上に孤独という名の渇きが己れを冒してしまうのだ。その渇きを誤魔化そうと、ただひたすらに言葉を重ね、意味のない会話を繰り返し、ゆっくりと空疎な時間を消化していくことに勤しんでいる。
「なあ、」とシノハラ。「テルヒはなんでこの街に来たんだ?」
「自分でもよくわからない。ただ、なんとなく覚えてるのは……新宿で爆発に巻き込まれて、看病されて、それで、あの爺さんに連れられてきた。なんか、俺は自警団に追われてるらしい。」
「え? お前が?」シノハラは目を丸くする。
「爺さんいわく、自警団は俺が爆発の関係者だとか思ってるらしい。」
「ハハッ!」と鼻で嗤っているのか、可笑しすぎてたまらないのかわからない笑い声をあげる。「お前が? すげえな。大人ってのはときにとんでもないことを思いつくんだな。お前に罪を全部なすりつけようって腹づもりなのかな?」
「わからない。でも、逃げて正解だった。まさか新宿がああなるとは思わなかった。」
「だろうなぁ。第一あっちはなにが起きてもおかしくないっていうか、物騒なもんとか、なんでもかんでもごった煮されてる感じがするぜ。俺もたまにそっち行くけど、なんかよくわかんねえとこいっぱいあるからな。迷宮だぜ、あそこ。」
テルヒは黙った。そういうことについては、全く憶えていなかったからだ。そもそも自分が新宿の市民であったか、どうかすら定かではない。あるのは『人を殺した』という確かな感触、そして心の底にある空洞。
『本当?』
ふと声が聞こえた気がして、振り向く。砂に塗れた交差点の向こう側に、ゆらゆらと立つ影法師が見えた。いや、人型を為しているが、人ではないような、そういう印象。
『ねえ、僕のこと忘れちゃったの? 君は絶対に忘れないと言ってくれたじゃないか。』
「お、お前は……」
誰だ、と訊こうと思った。しかし舌が動かない。聞くまでもないと自分の内側で囁く声がある。そう、俺はあの影の正体を憶えている! ただ思い出せないだけなのだ。なら、どうすればいい。全ては自分のなかに隠されているというのに、その深淵へ、どうしたらそれを見出せるというのだ?
つまり、俺はいったい何者なんだ?
「テルヒ、どうした?」
肩を掴まれる。しかしその手を振り払って、テルヒは立ち上がった。交差点の方へ向かう。だが、次の瞬間、人がその影のまえを過ぎり、跡形もなく消え去ってしまった。
「あ、……」
茫然と立ち尽くすテルヒ。
その首筋に、突如刺すような、全身を酷く硬直させるような感触が当てられる。テルヒは飛び上がらんばかりに驚く。見ると、シノハラが氷の浮かんだコップを持って、にやけていた。
「日差しにやられたんだよ。これ飲んで元気だせ、な?」
差し出されたコップを、手に取る。掌からひんやりと冷たい温度が伝わってくる。グラスの壁から皮膚にひっついてくる水滴が、なんとも言えない愛おしさを感じさせた。
ゆっくりと、コップを口に持ってくる。そして傾ける。あらゆる熱を冷ます潤いが、咽喉を滑り落ちてゆく! その瞬間テルヒは、渇きが己の自覚している以上に深刻なものであることに気がついた。
シノハラは愛嬌のある笑顔で尋ねた。
「どうだ、美味いか?」
「……ああ。」
「そいつぁ良かった! ここの店主はなかなか良心的な人でさあ、俺もたまにここで働かせてもらうんだけど、その仕事の丁寧さったらないわけよ。もう、仕事一本に生きてますっ! て感じでさ。」
「……もう一杯、頼んでいいか?」
「お安い御用さ。」
シノハラは片目でウインクを飛ばすと、カウンターの方に声を掛ける。しかし、応答がない。歯のあいだから息を吸うと、シノハラは首をかしげた。
「おかしいな。なにかあったんかな。ちょっと呼んでくるわ。」
そう言って、シノハラは席を立った。
そのままぼうっと、テルヒは席に着いていると、今度はカレンがやってきた。やや真剣な面持ちであることが窺われた。
「シノっち、だいぶあんたに入れ込んでるわねえ。」やや皮肉な調子が篭ってる。
「……なにが言いたい?」
「やだ、止してよ。別にあたしはあんたを揶揄いたいわけじゃないの。ただ忠告に来ただけ。」
「忠告?」
「シノっちは良いヤツだけど信じちゃダメよ。なんていうか、こう……独り善がりなカンジして、たまに鬱陶しいの。ほどほどが大事だから、付き合いってのはね?」
「あ、ああ。」
誰であろうと信じてはならない。ふとこういう暗示がテルヒの心に浮かび上がった。親切な言葉ほど、信じちゃいけない。裏切られる。……こういう強迫観念に近いなにかが、彼のなかにはあった。だがなぜだ? シノハラはいいヤツじゃないか? ただ俺は怖いだけじゃないのか。記憶を喪うまえになにがあったか知らないが、たぶん裏切られたショックでもあったに相違ない。だがそれは過去のことじゃないか? 現在のことじゃない。
「あたしも、一時期あいつに助けられたことあるから、文句は言えないんだけど……押し付けられるのはゴメンだわ。あんた、なんとなくあたしに似ているような気がするから。これは忠告ね。信じるかどうかは、あんた次第。」
ふふ、と悪戯っぽく笑うと、カレンはまた席を離れて行った。
入れ替わりに、シノハラが店内に戻ってきた。席に着きなおす。
「やれやれ……あの店主、裏手で水瓶仕入れてたんだよ。バイトの子が無断で休んだんだって、イライラしながら言ってた。」
これだから大人は、ていう具合に肩をすくめてみせる。
「でも、もうすぐ来るさ。……あ、ホラ来た来た!」
そして水を受け取ると、テルヒは恐る恐る、しかしひと息に飲み干してしまう。
「おいおい、もったいないくらいだな。」
シノハラは笑う。こういう快活さが、徐々にテルヒに影響して、彼の口を軽くさせる。
「なあ、」
「ん?」
まぶたが少し大きく開かれる。些細なリアクション。しかし、受け答えの反応は、話し手にとって確かなる手応えとなり、喜びと自信につながる。テルヒはふと手に入った自信で、より大胆に言葉を発することができた。
「シノハラは、なんでここにいるんだ?」
「え?」
このとき、シノハラの目は見開かれた。それはいつもの和むような笑顔や余裕を持った仕草とは大きく異なる印象を与えた。
「あ、いや。シノハラのようなヤツが、どうしてこういうところで、俺や、他のヤツと話してるのか、てふと思ったんだ。シノハラなら、たぶんもう少し立派なところでも生きていけるし、その方がらしい気がする。」
「あー、」とシノハラは中空を見る。「あんまし考えたことなかったなぁ……俺、いままで生きてて楽しいなら何でもいいって思ってた。そもそも俺はこういう社会に生まれたわけだし? 夢なんか観てるヒマがないっつの。うん、沙漠で生きるのが精一杯。」
「でも、シノハラのようないいヤツが、ここにいるのは不思議だ。俺はもっと、人を利用したり、自分のことしか考えてないヤツとかしか知らなかったから……」
「おいおい、過大評価しすぎだぜ!」とはにかむように笑う。だがその瞳には、ちょっとした驚きの色が閃いていた。「俺は、ただのガキなんだ。」
なんでこんなことをしているのだろう? テルヒはふと思った。いいヤツはもっといいところに居て欲しいのだろうか? そのとき昨日観た廃墟のことを思い出す。潰された未来の可能性……ひょっとしたらあり得たかもしれない何か……そういうものがごちゃ混ぜになって放置されてしまった、時間の墓場。シノハラにはあの瓦礫のように朽ちて欲しくなかった。
だがこのとき、彼は自分が人を信頼し始めているということに気がつかなかった。