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17/7

 テルヒは自警団員に連れられて、セキ老人を難民キャンプにまで運んだ。

 そこはオアシスの一角で、街中では珍しく緑が目立つ箇所であった。旧文明ではここを公園と名付けていたようであるが、現代では一種の農場、もしくは沙漠緑化のための栽培場として機能していた。だが、今者(いま)はそのエリアの一角が難民キャンプと成っており、飯盒(はんごう)で炊かれる飯の匂いが漂っている。

 その匂いを嗅いだとき、テルヒは眩暈を覚えた。

 腹が減っているのだ。

 グラリ、と身体が重心を失って仆れる。

「おい、君!」

 自警団員が振り返り、駆け寄る。彼は最悪の事態を想像したが、あと追って鳴る腹時計の音を聞いて胸をなでおろした。

 なんだ、ろくに食べてないだけか。

 ヨロヨロと立ち上がるテルヒ。

「君、あんまり無茶しなくてもいいんだぞ……!」

「いや、まだ行ける。」

 弱味を見せてはいけない。テルヒはそう思っていた。俺は弱ってる。それはわかる。だが見ず知らずの他人に優しくされて、その通りにするわけにはいかない。他人は信じられない。背負ってる老人でさえそうだ。だがこいつには借りがあるから、返す努力をしなければいけない。それだけだ。他人は信じちゃいけない。

『でも他人はどこにでもいるよ?』

 自分のものでもない声が、耳の内側から囁いた。

『なんだ、誰だお前は?』

 彼は声にならない声で答えた。

『キミこそだあれ?』

『俺は……テルヒだ。』

『ははっ、嘘を吐かないでよ。キミは「テルヒ」じゃないよ。だって、「テルヒ」は僕だもの。』

『違う。俺の名前は……』と言いかけて、澱む。枯れた心の泉。空虚な穴。喪われた記憶。『俺は……誰なんだ?』

『他人を信じない人に名前を与えたって意味がないよ。』と笑われる。『名前は呼ばれないと意味がない。あっても呼ばれない名前は、使わない小銭とおんなじさ。ただの金属片、ただの言葉。』

『言葉がそんなに大事か? 守られない口約束のように、言葉は平気で嘘を吐く。それのどこがそんなに大事なんだ?』

『大事さ。言葉は火と水のように大事なものさ。』

『俺はそんなの信じない。』

『……キミの言葉は枯れている。潤いにも欠けた、何もかもが虚ろな、死んだ言葉だ。生粋の沙漠育ちみたいな言葉だ。

 こんな沙漠じゃ、どんな根っこも三日と経たずに枯れてしまうんだろうね。でもね、それでも植える努力をしないと。水のない世界で生きていけないように、僕たちは言葉が、他人がいないと生きていけない。だってそうじゃないか。現にキミと僕とはこうして饒舌(しゃべ)っている。信じようが信じまいが、何にも持たない人は何にもできない。』

「……み、き……」

『……黙れ。』

『キミは何もかも手放してしまった。手放して逃げてしまった。その結果はどうだい? ただ自尊心が強いだけの弱い人間じゃないか!』

『うるさい!』

「きみ、君ッ!」

 テルヒは目覚めた。

 目の前には、粥の入った碗を持つ男がいた。

「ようやく気が付いたか。脱水症状か空腹だかなんか知らんが、君はそこでぶっ倒れたんだぞ。なにかうなされていたようだが、大丈夫か?」

 お座なりではあるが、ブルーシートの上で寝ていたようだ。首を横に向けると、渇いた砂のなかに雑草がぽつぽつと生えているのが見える。

 沙漠にも植物は生えるのだ。

 ゆっくりと身体を起こす。そして碗を取ると、恐る恐る粥を食べた。

 温かい湯気が顔に当たる。

 そのとき、

「おい本当に大丈夫か。悪い夢でも見てたのかい、君?」と男は覗き込む。「泣いてるぞ。」

「えっ……?」

 咄嗟に手を眼元に遣る。すると、指先から潤いを感じた。改めて手を見る。その湿り気を見逃すまいと、すぐに砂が飛び付いた。渇きが指を覆ってゆく。だが彼はそれを惜しいとは思わなかった。むしろ言うに言われぬ気持ちが込み上げてきて、静かに泪を流し続けた。……


 一般に、沙漠には緑がないと思われがちだが、沙漠には所々に緑がある。尤も枯れ木であったり目立たない低木であったりするが、サボテンを始めとする沙漠の植物は、過酷な環境に適応し、生命のサイクルをまわしているのだ。

 そのなかに死人花という独特な植物がある。花びらは紫色で、仄かに甘い薫りがする。なぜその色なのか判然しないが、一説によると、この花は胞子を亡き骸に付着させて、その亡き骸の体内水分をもとに花を咲かせるからだと言われている。つまりこの花の紫とは、特に血を吸って表れる色なのではないかと疑われているのだ。そのためか死人花には不吉な噂が絶えない。

 だが東京沙漠において一番よく繁殖しているのはこの花であった。それは東京沙漠には屍体が整理されず、しばしば転がっていることを暗示している。社会的敗者を喰らい尽くす魔の花、怪訝(あや)しい死の誘惑を抱いた花……

「何してるの、」

 バッと背後を向き、身構える。後ろを取られていたとは、なんて気を抜いたものだろうか! 牙を抜かれた蛇のように、野生の勘を喪った砂狐のように、テルヒは自分を情けないと思った。

 目の前にいるのは、みすぼらしい身形をしている少女である。襤褸(ぼろ)程度しか纏わず、瞳はどことなく虚ろ、そして日に焼けて脱色したような茶色い長髪。全身で倦怠感を表現していたと言っていい。それを見留めた途端、彼は自分とどこか似ていると感じた。

「ねえ、何してるの……」

 少女は繰り返した。だがその言葉に意味はない。すっかり持て余した時間を、浪費する為だけの贅沢な問いかけだった。

「いや、」とテルヒはどうにかこうにか、言葉を捻り出そうと試みる。決して枯れているわけじゃないはずだ。「花を、観ていた。」

「花……」と少女は気怠げに近寄って、テルヒの傍らに咲く花を見た。

 そして、それきり黙っていた。

 堪り兼ねてテルヒが声をかける。

「お前も、難民なのか?」

「難民? ……ちょっと違うわ。帰る場所がないの。」

「それを難民って言うんじゃないのか。」

「そう、ならそうなのかもね。」と、花を指でいじる。「でも、あたしは花じゃないから……こうして根を張って生きてるわけじゃないから、何も失ってないのよね。寝る場所はなんとかなってるし。」

「……そうか。」

 またしても沈黙。

 あらかじめ意味のない言葉の遣り取りだったのだ。空疎な言葉は空虚な間しか生み出さず、そこに芽生えたつながりは、いともたやすく崩れ去る。だがその空虚が渇きと為る。渇きは痛痒となり、やがて身を蝕むのだ。

 そしてまた意味のない言葉が吐き出される。

「ねえ、あんたなんで花を見てんの……」

「なんか、綺麗だと思ったんだ。」とテルヒはしゃがんだ。そして紫色の花弁を優しく撫でる。「こんな沙漠に花が咲いてるとは、思ってなくて。」

「死人花ならどこにでも咲いてるわよ。その花は屍体の血を吸って生きてるって言われてるのよ。」

「屍体の、血……」

 少女は初めて笑った。まるで警戒すべき要素が何一つ見つからなかったので、安心するかのように。

「そんなことも知らないの。あんた、地方の生まれなの?」

「いや、なんというか……何も思い出せない。記憶喪失、て言われてる。」

「記憶喪失? へぇ、初めて見たわ。名前は言える?」

 砂を噛み締めた気分になる。

「……テルヒ。」

「あたしはカレン。よろしく。」

「……ああ。」

渋谷(しぶたに)は初めて? なら今度一緒に街を散策しない? あたしたちの仲間グループと一緒に。」

「悪くないな。」

 と、そこにセキ老人が現れた。頭に包帯を巻いているが、壮健な様子。杖も突かず、両脚でしっかりと歩いている。

「おお、テルヒ。ここに居たのか。」

「誰?」とカレン。

 テルヒは言葉に詰まる。

「保護者、とでも言おうかの、」と微笑みながらセキ老人は言った。「君は……テルヒの友だち、かな。」

「ええ、先刻(さっき)知り合ったばかりよ」とカレンは笑い返した。しかし、テルヒにはその表情(かお)が作り物のように見えた。「でもあたしは用があるから、これで。」

 カレンは陽炎のようにゆらゆらと去っていった。

 その後ろ姿を眺めながら、セキ老人はつぶやく。

「まるで居場所を探して歩き回ってるようじゃな……」

「怪我は、大丈夫なのか。」

 テルヒが訊く。

「おお、おかげさまでピンピンしとるぞ。」とやや大げさに振る舞う。「テルヒが儂を守ってくれたからじゃ、ありがとう。」

 本当は良くない。齢を重ねるごとに、身体の治りが遅くなっているのは重々承知していた。しかし……とセキ老人は思う。年長者たる自分が年少者に弱みを見せるというわけにはいくまいて。年長者はつねに年少者の模範とならねばならんのだ。近々豊かになってきたからといって子供の未来も考えずに振る舞うジジババも増えてきたかもしらんが、そんなことをしたら負の連鎖が終わらん。見てみろこの沙漠の植物を! 地面が渇ききって、根も下ろせないこの不毛な大地を! 死人花は水を求めて亡き骸に取り付いている。だがそれは所詮一時凌ぎにすぎん。緑がなければ生きて行かれん儂らは、大地の有り難みをまずわからねばならん。そしてそれは自然だけじゃなく、文化もじゃ、歴史もじゃ! 儂は確かに年寄りじゃが、死んで土になると思えば、まだまだやらねばならぬことがある。

 そのために、伝えるべきものを伝えなければ。この哀れな次の世代のためにも、持てるものを渡さねば。

「……ところで、テルヒ。ちょっと儂についてみてほしいものがあるんじゃが……」

「なんだ?」

「ほ、ほ、ほ、それはこれからのお楽しみじゃ。強いて言うなら、儂の仕事と関係がある。」

 老人は手招きをする。

 テルヒはそれがなんだかわからず、しかしあとについて行った。どうせ行くしかないのだ。それが老人の善意であろうが、恣意であろうが、少年に敢えて拒む権利はない。

 足が、大地を踏みしめる。

 オアシスの大地は、渇いた砂ではなく、ちゃんとした土であった。水を持ち、植物が根を張ることのできる、土地であった。

 都会の沙漠に疲れた人間は、必ずオアシスを探し求める。しかし不思議なことに人間は植物ではない。いくら頑張っても根を深く張ることができない。オアシスに住居を構えることはあっても、心は沙漠の向こう側を夢想してしまうのだ。これはオアシスなど自然の一過性のものに過ぎないと本能が理解しているためなのか、それともひと所にじっと留まることのできない動物としての性のためなのだろうか。

「ほれ、見てみなさい。この渋谷(しぶたに)の街並みを、」

 セキ老人が周囲(まわり)に注意を促す。そこでテルヒは周りを見回すが、そこには新宿(あらやど)同様、砂上の楼閣ばかりだ。強いて言うなら地形そのものの違いしかない。砂丘のためか、高低差のある通りが、山となり、谷となる。まるで地上に出現した立体迷路だ。

 そのなかの一つ、巨大な建物のなかにセキ老人は入る。

 あとからテルヒが入ると、砂まみれの、瓦礫の山が散乱する、だだっ広い空間に出た。その只中をセキ老人は無言で進む。ザラついた跫音だけが聴覚を刺激する。テルヒは急に胸騒ぎがして、静寂を恐ろしく感じた。

 だが取り残される恐怖よりも、ついていく不安の方がまだましだと考えた。

 静寂。

 ザラザラと渇きを促す跫音。

 そして無言。

 もう耐えきれないとテルヒが思ったとき、ようやくセキ老人は立ち止まった。

「テルヒ、」と老人は向き直る。その表情(かお)には真摯な色があった。「お前さんは、この建物をどう思ったかな?」

「どうもこうも……」とテルヒは口ごもる。予想外だった。「居心地が悪い。」

「そうか、それが本音と言ったところか。」

 老人はどこか寂しそうに微笑った。そして、四辺(あたり)を両手で指し示しながら、言葉を続けた。

「ここはな、昔者(むかし)とても大きな商いどころじゃった。当時の言葉をそのまま使うと、『でぱーと』だとか、『しょっぴんぐもーる』とか言うんじゃが、今風に言うとバザールみたいなものかな。戦争が起こる前のことじゃよ。」

 テルヒは無言だった。セキ老人はそれを確認すると、さらに続けた。

「戦争は何もかもを変えてしまった。かつてはこの建物にひっきりなしにやってきた大勢の人びとも、死んだ。やがて死は大地を殺して、何もかもを沙漠に変貌させてしまったんじゃよ。じゃが、その戦争は過去の出来事じゃない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。テルヒ、お前さんは儂のやってることに全く興味がないのは知っとった。しかし儂が何のために何をしているかは知っていてほしい。儂はな、ここで過去の遺物を拾い集めているんじゃない。」と、老人は傍に落ちていた鉄の欠片や、文字の書かれたプラスチック片などを拾って見せた。「捨てられた未来を探しているのじゃ。過去の人間が価値を認めずに捨て去った可能性、ありえたはずの未来の断片を拾って、接ぎ木を作っているんじゃよ。お前さんみたいな、自分の根っこを喪った人のために。

 テルヒ、廃墟は決して瓦礫の山じゃない。それを忘れんでくれ。お前さんの記憶は、瓦礫の山のようにゴチャゴチャしとるかもしれんが、それは意味が見出せないからじゃ。物語が見つけ出せないからじゃ。見てごらん。儂らはこの廃墟から喪われた物語を、未来を見つけ出せる。お前さんは自分の行先を自分で見出すためにも、この瓦礫の山に臨むことを怖れてはいかんのじゃよ!」

 しかし、テルヒはその言葉にあまり刺激されなかった。言うことは尤もだと感じたのだが、セキ老人の指摘は、テルヒの不安とは何か違うからである。

 だがその不安が何であるのか、彼自身にもわからない。不安なのか、それとも空虚なのか。

 だから彼は黙ったままだった。そうするより他になかったからである。

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