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18/6

 暗闇が横たわるなかを、セキ老人は歩いていた。

 天井が崩れ落ち、足元すら覚束ぬような荒廃した通路である。彼は安全を確かめながら、瓦礫のあいだを縫うように歩いている。その背後(うしろ)を、テルヒがついて行く。カツン、カツンと靴音だけが響き回る。その反響具合は、さながらセキ老人の、早くここを通り過ぎてしまいたいという欲求が音と成って、壁から壁を駆け回ってゆくかのようであった。……

 渋谷(しぶたに)は、起伏に富んだ砂丘のあいだに佇立する街であった。この複製都市は、豊かで質の良い水源に恵まれたために文化や物資の流通拠点として、しばしば賑わう。その御蔭か組合や自警団による治安は比較的良く、法も乱れが少なく、表向きには落ち着いた街並みを有している。新宿(あらやど)のようにゴタゴタと人の欲望が行き交うことはない。

 しかし一方で、この街はうっかりするととんでもない陥穽が潜んでいる。それもひとつやふたつどころではない。メインストリートを外れさえすれば、そこは浮浪者や野童の溜まり場であり、麻薬の取引きや、不健康な輩の縄張り争いが起こっている。砂掻きもされてないような穢い路地裏では、喰い物にされた旅人や、麻薬に溺れた二度と現実に帰れない人びとなどが横たわり、都市の汚穢をさらに付け加えた。なかでも地下道の広さは新宿(あらやど)に勝るとも劣らないと言われ、かつてはトレジャーハンターや探索家によって調べ尽くされていたが、今者(いま)では野童や密売人の隠れ家のようになってしまっている。

 セキ老人はテルヒの身の上を案じて、新宿(あらやど)の地下道から渋谷(しぶたに)へと抜けて出た。かつては動いていたという鉄の箱の陰から、延々と続いている地下道を、だ。道中は決して安全ではなかったものの、粗暴な自警団に追われるよりは()()、となんとかここまで到達したのであった。

「テルヒ、大丈夫かの。」

 彼はたびたび少年の安否を尋ねた。さもなくば砂の城のように儚く消え去ってしまう、と思われてならなかったからである。

「ああ、」

 テルヒはその度に機械的な返事をする。特に興味もなく、言われたことに反応しただけのようにも感ぜられる。

 この子は……、とセキ老人は思う。果たして大丈夫なのであろうか。何が、どう、大丈夫なのかと他人に訊かれても答えられるわけではないが……なんというか、心にポッカリと穴が開いて、そこに埋めるべき何かを、置いてきてしまったかのような空虚さを感じてならない。それが何かわかりさえすれば!

 道中聞くところによると、テルヒはセキ老人と会う以前の記憶を喪っているようであった。そもそも何をしていたら怪我を負ったのかすらわからない有り様だ。だがその辺を追求しようとすると自傷行為に走ってしまうため、深追いはせず、時間(とき)の流れるままに済ませていた。

 なに、ムリに吐かせる必要はない。儂は自警団のようにこの子を裁くわけでも、罰するわけでもないのだ。この街で幾許かの仕事を手伝ってもらううちに、何か思い出すなり、心を開くなりするじゃろうて……

 そう楽観しているうちに、セキ老人は階段を見つけた。

「テルヒ、上に行ける。ようやく地上の光が拝めるぞ。」

「そうか。」

 落ち着いている、というより興味がないという響きだ。しかしそれでも少年は彼について来ている。頼りがないからなのか、それともあらゆることへの無関心のためなのか。

 階段を、登る。足元が不安定なので、慎重に足場を選びながら、歩を進めていく。

 音だけが虚ろに響き渡っていた。

 外は昼なのか、夜なのか。何にせよ、野童にも出くわさなかったことを考えると、彼らが表に出ているような時間帯なのだろうと想像がついた。しかし、一方で出口で待ち構えているとも考えられた。都会の闇のなかで、安易な発想に食いつくのは避けなければならない。たとえ、いかに咽喉(のど)の渇きを覚えていようとも、水の音で心を囃し立ててはならないのだ。なぜなら、それは願望のもたらした幻である可能性が高いからだ。

 人間は見たいものしか見ない。沙漠に屹立する高層建築物の姿を見ていると、よくもまあ見事に立っているものだと感心の声を上げるが、その一方でいかにそれらの文明の象徴が、不安定で曖昧な土台を持っているかを容易に忘れてしまう。都市の地下に広がっている虚ろな空洞を見るがいい。ここには何もない。瓦礫と廃材が砂塵を被りながら時とともに蓄積されている以外、何一つとして建設的で創造的な面影を残していない。生命や人の気配をいっさい赦さないこうした虚無の世界は、やがて街へと流出し、人びとの心へと感染(うつ)ってしまうのだ。

 セキ老人はその虚無の恐ろしさを知っていた。何一つ残らない戦争の傷痕を、歴史ではなく現実として観ていた。だからこそ、この虚無には負けてはならぬと心の底から信じていたのである。

 ようやく地上が見えた。

 暁闇である。紫色に霞む空が、ほんのりと肌を掠める水の気配が、そして静寂が、二人を出迎えてくれたのだ。沙漠に君臨する、残酷な太陽はまだ寝惚け眼で、とろみがかった光を投げかける程度であった。

「ああ、よかったのう。太陽が厳しかったらもう少し時間を置かねばならなかったのを、幸運じゃて。」

 セキ老人は歓喜のため息を吐くと、四辺(あたり)をきょろきょろと見回した。

 恐らくもとは何かの発着場であっただろう、複雑に入り組んだ建物が砂の散らばるアスファルトの道路を跨いでいる。陸に架けられた橋がどこまでも続いているのが見える。他方砂掻きを怠慢(おこた)っていない、清潔感のある街の通りがここを中心に広がっていた。

「テルヒ、ここが渋谷(しぶたに)じゃぞ。新天地じゃ。ここで何か、お前の身になるものが見つかるといいな!」

 老人は、テルヒに呼び掛けたのであった。しかし、テルヒは言葉を返さない。御蔭で老人しばしば背後(うしろ)を見なければならなかった。

 そこで彼は、少年があらぬ方向を視ていることに気が付いた。

「テルヒ、どうかしたのか……?」

 と言うや否や、老人は頭を強く殴られた。気絶はしなかった。しかし彼は身体を階段を突き落とされてしまった。幸いにも頭からではなく、横転して落ちたために死に至ることはなかったが、テルヒが咄嗟に受け止めなかったら、ひどく身体を打ったであろう。

「テルヒ、すまぬ……」

 だが少年は老人の言葉を聞かず、上を向く。先ほどまで老人が立っていたところには、砂に汚れた野童の群れが控えていた。

「おい、」

 と先頭の一人が言う。彼は腕を組み、文字通りの上から目線でものを述べた。

「てめえらどこから来やがった。俺らの縄張りに勝手に入りやがって、いったいどういうつもりなんだ!」

 もはや質問ではなかった。非難であり、威嚇である。

「どういうつもりもなにも、ただ通っただけだが。」

 テルヒが答えた。無関心が見せる、突き放したものの言い方だった。その言い方が矜持を傷つけたのであろうか、野童は音に聞こえるほどの歯軋りをした。

「ただ通った? 無料(ただ)で通らせるわけにはいかねえな、おい。てめえらいくら持ってるんだよ。」

「さあ、」

「さあじゃねえ! さっさと出すもん出して去れってことだよ!」

「テルヒ、止せ。止すんじゃ……」

 セキの言葉はテルヒの耳には入らなかった。テルヒはセキ老人を壁に寄り掛からせると、すっくと立ち上がり、階段を登った。相手の野童は腕を組んだまま待ち構える。やがてテルヒが最上段に辿り着こうかというあたりに来た。

 その瞬間(とき)、野童はテルヒの身体を突き飛ばそうとした。だがテルヒはひらりと身を(かわ)すと、突き出された腕を掴み、逆に野童を階下に投げ飛ばした。絶望的な悲鳴が束の間発せられたかと思うと、物が潰されるような音が聞こえた。セキ老人の手前で、野童の脳天が叩き潰されたのだ。

 この音が闘いの火蓋であった。背後にたむろしていた野童たちが、怒りの焔に燃えながら、テルヒを囲い込む。それをテルヒは冷ややかな軽蔑の眼で見ていた。

「なんだ。」

「てめえ、殺したな!」取り巻きの一人が威嚇するように言った。

「殺して何が悪い。殺らねば殺られた。それが沙漠の常識だろう?」

「こん畜生! 敵討ちだ!」

「サカイの仇を取れ!」

「やっちまえ!」

 この声をきっかけに、野童たちはテルヒに殴り掛かった。恰度、集団で揉み殺すと言ったところか。しかしテルヒは容易には呑み込まれない。近付いて来る野童から足払いを掛けたり、急所を的確に突いた一撃を食らわせるなどして集団を近寄らせない。おまけに、彼らはすでに頭を喪ったために感情のなすままに殴りかかるだけだった。戦略も何もあったものではない。その入り乱れたなかに散在する隙を、テルヒはかい潜り、野童を一人一人戦闘不能に陥れる。

 テルヒは何も考えていなかった。彼の内側には現在(いま)しかあり得なかった。ただひたすら、虚ろなまでの無心で、来るものを拒まず、来た力を受け流し、空いている隙を突き破る。鳩尾、股間、喉仏……狙えるところは全て狙う。運の悪いものは、血まで流した。

 そうこうしているうちに、野童は一人、また一人と路上に仆れ、砂を舐める。苦悶の汗は砂に吸い込まれ、敗北の苦味と空しいまでの渇きに呑み込まれてゆく。

「やめろ! やめろ! 自警団が来やがった!」

 と、誰かが叫ばなければ、テルヒは最後の一人まで叩き潰そうとしていたであろう。だが甲高い笛の音が鳴るのが聞こえると、一人が叫び、脱兎のごとく野童たちは逃げ去ったのである。

 セキ老人は痛む身体に鞭打って、階段を登った。ようやく最上段に出たとき、彼が見たのは血痕の散らばるなかに立つ、テルヒの姿であった。

 そして彼は自警団に取り囲まれ、何やらものを尋ねられている。

「俺たちは新宿(あらやど)から来た。」

 老人が見留めたとき、テルヒは感情のない声でそう答えていた。

新宿(あらやど)? お前は避難民なのか?」

「どういうことじゃい。」

 思わぬ方から声を掛けられ、自警団員が周章ててセキ老人に向き直る。セキは「テルヒの保護者」と名乗り、先を促した。

新宿(あらやど)ですよ。あそこ、拝水教っていう宗教に乗っ取られて、今者(いま)や一つの国みたいなもんですよ!」

 なんじゃと……! とセキ老人は目を(みは)る。つい先ほどまで彼らは街を練り歩く集団に過ぎなかったものを、都市を占拠してしまっただなぞと……!

 自警団員はなおも語り続ける。

「それで、最近新宿(あらやど)からの難民が多く入ってきてるんですよ。特に水商売の人たちですかね。教団は水を金に置き換えるのを非常に嫌っていて、もはや悪魔だのなんだのと煩かったとかで……」

 水商売人……とすると、あの水売りの男は大丈夫なのじゃろうか? あの男、もしかしたら殺されたのか……?

 老人の心のなかには疑惑の砂嵐が吹き荒れていたが、それを一先ず置いて、言った。

「ええと……すみません。ところでこれはなんの取調べなのでしょうかね?」

「あー、いえね。喧嘩騒ぎがあったと聞いたものですから。近ごろ渋谷(しぶたに)も乱れつつあります。特に若者たちの狼藉やら、喧嘩やらが絶えないんですよ。吾々自警団員の方でもしばしば問題視されつつあるんですが、どうにもこの乱れは新宿(あらやど)にいる教団の所為なのか、それとも別の原因なのか、さっぱり判りかねる。仕方ないので、見つけ次第片っぱしからしょっ引いてゆくという具合で……」

「悪いが、この子のやったのは正当防衛じゃ。情状酌量の余地がある。」

「ええ、ええ、落ち着いてください。言葉は少ないですが、だいたい彼が教えてくれました。私どもは、特に外から来た方への強制は行なわないのです。だからご安心を。」

「そうか、……そうか。」

 それだけ聞くと、無理をしたのが祟ったか、崩れ落ちるようにセキ老人は仆れた。もう疲れ切って、あるいは痛みのためで動く余力すらなくなっていたのだ。

 自警団員たちはその様子を見て周章てたが、テルヒは老人の傍らに寄り、伸びきった身体を背負った。あまり重くない。動作からは到底思いつかぬほどに身体が軽く、空疎であった。

 だがテルヒは助けよう、と思ってやったわけではなかった。老人の身を慮るというよりは、逆らい難い何かに突き動かされて行ったことであった。ふと、彼は自分の行なったことの意味を考える。しかしその答えはまだ見つからなかった。

 俺は何をしている? 俺は何のためにここにいるのだ? そして俺はなぜ()()()()()()()()()

「おい、」とテルヒは自警団員の方を向いた。「俺はどこに行けばいいんだ?」

 その問いは彼の心の底からの言葉であった。

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