19/5
数日後、水売りはユィハの住まいに向かった。
だがその道中は決して楽なものではなかった。いつの間にか、拝水教徒が大手を振って通りという通りを歩き回るようになっていたからである。彼らは、いわゆる水商売の人びとを見ると目の敵のようにくどくどと説法をしたり、酷い時には暴力を振るうのだった。彼らは何がなんだかわからない神の御名を語っては貧民から恵みの水を奪うとは何ごとか、と問いただす。彼らは水売りのような水商売を主とする行商人を教義に反する「敵」と看做し、武器商人よりも卑しいものとして蔑んでいた。生活のためなら戦いをも辞さぬという姿勢を示したのである。
どういうことだ……? と水売りは緊張に包まれながら考えた。組合の力が弱まった途端、奴らがしゃしゃり出てきたぞ。まるで滅多にない雨が降ってきたあとのようだ。汚い水分を求めて乞食や野盗どもが蛆虫のように沸いてくるのとよく似ている。……だが、そこで水売りは合点した。だからあいつらは貧民や乞食にやたら人気があるのか。
裏通りを歩きながら行列を見やると、教徒たちが水を配っていた。あああ、もったいない! と水売りは思った。水瓶たっぷりの水を、惜しげも無く柄杓で掬って、のみならず無料で配るだと! 狂気の沙汰としか思えない。俺ならリットル二百五十円からやっていく。水質が良ければ五十円上げてもいい。そういう価値があるんだ。価値はちゃんとした対価を払われなけりゃならない筈だ……ふと、彼は以前料金が足らずに商売を断わった女の子の姿を発見した。そこには笑顔があった。さながら蟻地獄から助け出された旅人か。水売りはすっかり不機嫌になりながら、新宿の街並みを通り過ぎた。
ようやく水売りがユィハの住まいに辿り着いたとき、彼女は砂掻きの最中であった。
「よォ、」と水売りは声を掛けた。一瞬、ユィハは誰が話し掛けたのか分からず戸惑ったが、すぐに水売りの姿を見留めた。
「あら、誰かと思えばいつかの水売りさんじゃないの。」
ユィハは砂掻き用のスコップを、砂溜まりのなかに突き立てた。
「憶えて戴いて光栄です。ちょっと話したいことがあるんですがね……」
「ふう、こんな熱い陽射しのなかで立ち話もなんだわ。上がってください。」
ユィハは水売りを招いて、屋内へ入った。水売りもあとに続く。
彼は、ユィハの部屋の容子をちゃんと観ていたわけではない。しかしその水売りでさえ、部屋の変化がわかるほどになかは違って見えた。だいたいの家具は取り去られ、質素なテーブルと椅子だけが置かれている。さながらもぬけの殻のようであったのだ。
「おや、これは……」
「ごめんなさい。物は殆んど片付いてしまっていて……今、水を汲んでくるので、ちょっと待ってください。」
と、ユィハが歩き出したときだった。
「いや、今日は奢りますよ。」
ユィハは驚愕のあまり眼を見開いた。なんですって! この吝嗇な男が、今者奢ると言っただなんて。聞き間違いかしら? だが彼女が何か言いかけるのを無視して、ペットボトルを取り出した。そしてコップに一杯ずつ、水を注いだ。
「いやね、今日は伝言を頼まれて、それで来たんですよ。セキって言う白い髪の旦那からです。このあいだ拾った男の子の話でして……」
「彼のことがわかったんですか?」
ユィハは驚きを禁じ得なかった。まさかよりによってこの男から彼の消息を聞くなんて! 彼女は自分でも気が付かぬうちに、テーブルへ身を乗り出していた。
「ええ、ええ。落ち着いてください。その彼のことなんですが、セキという老人が引き取って、新宿を出たんですよ。自警団の冤罪だーってんで、匿って行くって聞かなくて。」
「そ、それで……彼はどこへ行ったんですか?」
「渋谷、だと聞きました。」
これを聞いて、ユィハはようやく椅子に着いた。安堵の息を吐き出して、俯くように目を伏せる。
ふと、水売りはテーブルの上にあるコップを見た。先ほどユィハが身を乗り出したため、その中味は小刻みに波を立て、顫えている。波紋だ。同心円状に広まりつつあるこの不安の波は、やがて周囲に伝播し、感染症のように感情の揺らぎを植え付けてゆく。まるでこの時代のようじゃねえか、と水売りは思った。真ん中には爆発テロ、漫然と拡がりつつある不安感、そして……
向かい側で安堵の息が溢れた。
「そう、渋谷ならまだ新宿よりましだと思うわ。あそこは綺麗な水源があるし、表通りはとても安全だと聞いてる。」
「どうでしょうかね。こんなご時世に『安全』なんか嘘っぱちでしょうに。」
「それでも漠然とした不安よりかは、『安心』の方に縋りたいものよ。あなたもそうじゃなくて?」
水売りは苦笑した。
「ははっ、相違ねえ。」
馬鹿野郎、と相槌を打ちながら、水売りは考えた。安心や安全だって? そりゃ欺瞞だ。こんな荒れ果てた沙漠の街では、そこに生きているだけが精一杯なんだぜ。そんな中に安らぎを求めるだって? オアシスにでも行けるならまだしも、そんなものはこの世に倦んだ人びとの幻想に過ぎない。夢は夢のままだ。夢に逃げ、幻想の美しさを追い求めるのもまた結構なことだ。しかし、世の中そんな戯れ言だけじゃあ生きていけねえ。沙漠には沙漠の苦しみがあり、オアシスにはオアシスなりの苦しみがある。大事なのは一つだけだ。いかに自分の価値を相手に認めさせるか、だ。この世は価値と生存競争によってでしか出来ていないのさ。楽観を俺は信じない。平和な時はバランスを保ち、乱世の時は荒れる波に乗る。それを見極めたものが、生き延びるのだ。
話題を転じようとして、水売りは適当な言葉を探した。要らぬことは饒舌る積りがないのである。
「ところで、ユィハさん。あなたどうしたんですか? どうにも、この様子はまるでこれから引っ越すみてえじゃないですか。」
「ええ、まさしくその通りよ。私、この部屋をめちゃくちゃにしちゃったから大家さんに追い出されることになったのよ。」
「めちゃくちゃ?」
「その……男の子を庇ったときに、彼が目一杯暴れて……」
あのガキ、さすがだぜ。と、水売りは腹の内側で思った。
「ははあ、それで……大変ですな。」
「いずれは帰るつもりだったのよ。親方にも新宿は危ないから帰れ、て連絡が来てるし。私もこんなに物騒な街中はごめんだわ。おまけになんだかよくわからない宗教まで跋扈し始めているし……」
彼女はまるで諦めるかのように微笑んだ。
「拝水教ってやつですね。あれには俺もほとほと困り果ててます。ここ最近現れた宗教なんでしょうかね、ありゃ。」
「ええ……いや、それはわからないわ。たぶん目立ち始めたのはここ最近のことだけれど、もとはもっと根が深いように感じる。なんというか、その、ひどく伝統的というか、格式張っている何かがあるのよ。」
「馬鹿馬鹿しい。神の話でも持ち出すんですか?」
「違う。神なんて私は信じない。居て欲しいと思ったときに居ない存在なんて、信じるだけ無駄よ。」
ユィハの瞳が鋭くなる。
この瞬間水売りはしまった、と内心で舌打ちをした。相手の禁域に触れちまったに相違ない。彼はしどろもどろになりながら、言葉を埋めようとした。
「なら、なんだって言うんですか? 俺だって神を信じちゃいねえ。そんな一文の得にもならないものを信じるくらいなら、手持ちの水をより多くの人間に売る努力を考える、そういう奴ですよ、俺は。」
「ええ、見てればわかるわ。」
水売りは表情筋を必死に怺えていた。
「でもね、違うのよ水売りさん。私もあなたも神は信じてないけど、神を信じている人を信じることはできるわ。私が言いたいのはそれなのよ。信仰。多くの人はあなたのようにお金や生存競争のなかに生きられないのよ。お金は何にでも姿を変えるけど、逆に言えば何物でもないあやふやなもの。そんなものに対してせっせと努力し、他者を蹴り落とせるほど人間は強くないわ。競争に次ぐ競争のなかで、やがて他人が信じられなくなって、疑心暗鬼になって……疑い続けるうちに、とうとう目的も自分をも見失ってしまう……それが私たちの生きている時代の悪夢なのよ。」
なんだ、と水売りは思う。それこそ馬鹿馬鹿しい。もはや戯れ言を通り越して、弱者の妄想だ。人は生まれ落ちた瞬間から動物だった。もちろん、たいそう栄えていたらしい旧文明ならばまだまだ充分に人を養う余地があっただろう。だがここは沙漠だ。明日の水や、ひいては食料すらあるかないかの絶望的な現実だけが横たわっている。俺はその点で見失ったことはない。ただ生きるのだ。生きることそれ自体が苦しい世の中で、生きる意味だとか目的だとかを考える暇はない。
だがそれを口には出さなかった。言ったところで何の解決にもならないし、そもそも本題を外れてしまうとわかっていたからだ。水売りは「へえ、」とあいまいに頷いて、先を促した。
「目的も自分も見失った人はね、何かに縋りたくなるわ。そこに『神』が現れる。神様は目的を与えるわ。そして神様は『自分』を取り戻すきっかけになる。生きる目的に向かって努力する自分が、自分の価値が、きちんと認められるときほど幸せなことはないわよ。つまり拝水教は、そういう人たちを丸々抱き込んだってわけ。」
「ははあ……なるほど。」
もはや水売りは何も言うまい、と思うのであった。
「たぶん、あの人たちはこれからもっと危険になるわよ。これは陰で囁かれていることなんだけど、例の爆発事件、拝水教の仕業じゃないか、て話もあるのよ。とてもあの子みたいな少年ができることとは思えないわ。」
「思ってるだけかもしれないですぜ。」
実際あいつは乱暴だし、野蛮な奴だった。と水売りは想い出す。
「そう……かもね。でもそんな子が、わざと組合の長を狙ってテロを起こせるのかしら? 背後に何かいると考えるのは、間違いではないと思えるけど。」
「背後に何がいるのかも、まあ大事でしょうが。……とにかく誰がやったか、てことがあれの中では大事なんですよ。犯罪は犯した人間の罪じゃないですか。それを裁くのが、自警団の役目ですわ。もしかしたら賄賂でももらってたりするかも……」
ユィハは溜め息を吐いた。そして立ち上がり、尻のあたりの砂を払う。
「まあ憶測に過ぎないわね。とにかく、これ以上私たちのあいだで冗舌っていてもキリがないわ。別にこれは私たちの問題ではないのだもの。」
「ええ、そうですな。」
水売りは自分のコップの中身を飲んだ。微妙に砂の味がする。畜生、ほっときすぎた。長話を聞いてないで、もっと早くに飲めばよかったぜ……後悔の味が水をさらに不味くさせた。やっぱり俺には無償で何かを与えることはできねえな、と改めて感じるのであった。
「じゃあ、今日は美味しいお水をどうもありがとう。本当に、お代は要らないの?」
「馬鹿にしないでください、たまには無料サービスもしますよ。」
「そう……」と、ユィハは目を細めた。しかし考えても意味がないとわかると、「じゃあ、まだ砂掻きの続きがあるから、これで。わざわざ連絡しに来てくれてありがとう。」
「いえいえ、どういたしまして。」
こうして二人は別れた。
すでに陽が傾き、黄昏の幕が降ろされようとしていた。砂塵の舞う通り沿いには、あいかわらずネオンの光が灯っている。ごった返すような人混みも昨日と大して変わりなく、さながら同じ時間を繰り返しているかのようでもあった。否、時間は繰り返されようとしていた。自滅した旧文明の面影を、過ぎた時代の栄光を追いかけ、繰り返そうとして造られた複製の都市。それこそがこの東京沙漠の本性なのであった。
だが、水売りはこの街の、特に理由のわからぬ澱んだ空気がどうにも好きになれなかった。吹きすさぶ砂塵のように人びとが行き交い、そしてすれ違うだけで終わる虚無の都市。聳え立つ、文字通りの砂上の楼閣は、人びとに渇きと飢えを促して、傲然と沙漠に居座っている。
そもそも建っているだけでも変なのだ、沙漠なのに、あんな建物が……と水売りは街並みを見ながら思う。なんて頼りない世界に生きているんだろう! 砂掻きをしなければすぐに砂に埋もれてしまうような、厳しい沙漠の現実があるにもかかわらず、俺の今者観ている現実は恐ろしく空想じみていやがる。建ち並ぶ砂上の楼閣、繰り返し続ける毎日、そして在りし日を夢見る復興の物語……これはいったいなんだ? 俺はこんなに空想のような現実に生きているのか?
ゆらり、ゆらりと人混みに流されてゆく。この人混みのなかでは、水売りも一人の砂粒であった。渇きを抱えた群衆の一人に過ぎなかった。
ああ、またしても俺は寝座に帰り、そして昨日と同じように明日を過ごすのだろうか。
と、水売りが思ったとき。
地面が顫え、耳を聾せんばかりの轟音が、聞こえた。彼は反射的に身体を緊張させ、音のした方を見遣った。
爆発が、あったのだ。
「テロだ!」
「爆発だ!」
ベルトコンベヤーのように意志を忘れたはずの人混みが、アリの子を散らすように一目散に駆け出した。この混乱には既視感があった。そして、水売りは思わず北叟笑んだのである。